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パレスチナ難民が抱えてきた苦渋の体験と感情世界を描く パレスチナ人作家カナファーニーの短編

ガッサーン・カナファーニー

 イスラエルのガザ虐殺への抗議が世界を席巻するなかで、パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニー(1936~1972年)の作品に新たな関心が集まっている。カナファーニーは1948年、12歳のときにシオニストの武装組織による「デイルヤーシン村虐殺事件」に遭遇し、難民となりシリアに逃れた体験を持つ。

 

 アラブ現代文学の傑作とされる小説「太陽の男たち」や「ハイファに戻って」はいくつかの短編と合わせた単行本として70年代末ごろ、河出書房新社から翻訳出版された(訳・黒田寿郞、奴田原睦明)。今は文庫版で読むことができる。

 

 「太陽の男たち」は、職を奪われて過酷な条件でクウェートに密入国をはかった3人のパレスチナ難民が、炎天の砂漠でドラム缶のなかに身を潜めて息絶える物語。「ハイファに戻って」は、イスラエル軍にパレスチナのハイファから追い出された夫婦が、生き別れた赤ん坊の消息を尋ねて元の住まいを訪れると、息子はイスラエル人の家庭で兵士になっていたというシリアスな小説である。カナファーニーの作品は、いずれもこうしたパレスチナ難民が抱えてきた苦渋の体験と心情の機微を民衆の息づかいとともに、臨場感豊かに表現することで世界文学となった。

 

 『世界文学全集』短篇コレクションⅠ(池澤夏樹個人編集、河出書房新社)に収められた短編「ラムレの証言」(訳・岡真理)は1956年に書かれた作品だが、今につながるパレスチナの子どもたち、老若男女の魂の奥底で渦巻く感情を蘇らせて読者の胸を打つ。

 

 この短編は、1948年のパレスチナの都市・ラムレの街を舞台に、ユダヤ兵の襲撃を受けた住民が経験した屈辱を9歳の少年が肌身でとらえた場面に凝縮して描いている。武装して銃を構えるユダヤ兵の前で、女たちは両手を宙に挙げたままいるように強いられ、少年は片足で立ち続けるように命じられる。少年はそのきつさに耐えながら、心配そうに自分を見つめる母親と目を合わせては、ぼくは大丈夫だから心配しないでと伝えたい感情にかりたてられる。

 

 そんな住民の前で、ユダヤ兵の女兵が住民からもっとも親しまれ、信頼されてきた床屋で医師のオスマーン伯父さんの顎髭をもてあそびながらあざ笑い、側にいる少女が彼の末娘だと確認するや、少女の額に銃を突き付け撃ち殺す。いつも柔和な表情のオスマーンが引きつった顔で、娘の遺体を白いタオルにくるんで埋葬に行く。その様子に泣き崩れる彼の妻も、胸を撃たれて倒れた。墓地から帰ってきたオスマーンはまた白いタオルで妻の遺体を包み埋葬に向かうのだった。

 

 少年はその都度、自分の前を無表情で通りすぎた伯父さんが、妻の遺体を埋葬したあと、泥と土で汚れて喘ぎながらなにかいいたげに、裂けた唇に血の塊をつけた少年の顔をしっかり見つめる。そして、「自分の知っていることを明かす」と宣言して司令官の部屋に入っていった。その直後に大きな爆発が起こる。オスマーン伯父さんの体はバラバラになって家屋とともに飛び散ってしまった。少年はそのとき、なにが起こったかわからなかったが、後に母親から伯父さんが2人の愛する家族の亡骸を包むために家から持ち出したのは、白いタオルだけではなかったのだと知らされる。

 

 パレスチナ人を虫けら同然に見なして人間の尊厳を踏みにじる者に対する民衆の胸底深く蓄積された感情の一端を彫り深く描いたこの短編小説は、作者カナファーニー自身の少年期に肌身に焼き付けた体験に裏づけらた作品だといえよう。

 

 彼が居合わせた虐殺事件は「イスラエル建国」を前に、パレスチナ人に対する恐怖を植え付けるために仕組まれたものであった。武装組織は中立を表明していたデイルヤーシン村を襲撃し、無抵抗の254人の男女、子どもまで残虐に殺害し、生き残った者は血だらけの服のままエルサレムで「勝利の行進」をさせられたのであった。

 

 カナファーニーは1950年代半ばから小説家、ジャーナリストとしてアラブ民族運動の機関誌、新聞に執筆し、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の公式スポークスマンとなった。1972年に、自動車に仕掛けられたダイナマイトで爆殺された。36歳の若さであった。

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