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「戦没者への最大の慰霊は、戦争を二度とさせないこと」 沖縄戦遺骨収集ボランティア・具志堅隆松氏の講演から

(2025年12月3日付掲載)

辺野古新基地建設のために沖縄戦激戦地の土砂を採取することに反対して沖縄県庁前でハンガーストライキをおこなう具志堅隆松氏ら(右端、2021年)

 陸上自衛隊健軍駐屯地に中国沿岸部までを射程に収める長射程ミサイルの先行配備が発表されている熊本市で11月24日、「戦争だけはしちゃならん!熊本大行動」が開催された【前号既報】。高市政府が、台湾有事を煽り全国での軍拡をおし進めるなか、それに対抗する全国的な運動が高まっている。集会では、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表で沖縄・西日本ネットワーク共同代表の具志堅隆松氏が基調講演をおこない、戦争を止められなかった先の大戦の反省とともに、二度と日本を戦場にしてはならないと訴えた。以下、講演要旨を紹介する。

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具志堅隆松氏

 沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」で活動をおこなっている。ガマフヤーというのは沖縄の方言で「ガマ(洞窟)を掘る人」という意味だ。沖縄は石灰岩の島だから多くの洞窟がある。そこでは戦争のときに多くの人が亡くなった。その洞窟のなかで戦没者の遺骨を掘り出しているので、いつのまにかガマフヤーという名前を付けられた。

 

 私は自己紹介をするときに三つの肩書きをいわなければならない。遺骨収集「ガマフヤー」の具志堅、そして「ノーモア沖縄戦 命どぅ宝の会」の共同代表。この「ノーモア沖縄戦」というのは、二度と沖縄を戦場にしてはならないという団体だ。さらにもう一つ、「戦争止めよう!沖縄・西日本ネットワーク」の共同代表でもある。この三つの肩書きの移り変わりが、まさに今の沖縄、日本の状況をあらわしていると思う。

 

 遺骨収集をやっているということは、先のアジア太平洋戦争において日本国内で沖縄の戦後処理が終わっていないということなのだが、それだけでなく台湾有事など再び沖縄が戦場になる可能性が高まってきた。そのためノーモア沖縄戦という団体を立ち上げた。そして沖縄を戦場にしてはいけないと活動をしているなかではっきりしてきたのは、戦場になるのは沖縄だけではないということだ。沖縄だけでなく全国が戦争に巻き込まれ始めている。さらに巻き込まれるだけではなく戦争の準備をしていることにも気付いた。

 

 全国に130ものミサイル弾薬庫がつくられ、中国をも攻撃できる長射程ミサイルが運用されようとしている。そのなかで、各地で「ミサイルの弾薬庫がつくられたら私たちは戦争に巻き込まれてしまうのではないか」という不安が起き始めている。その不安に対して防衛省は説明会すらしない。そのためさまざまな地域で、不安から抗議、抗議から行動が起き始めている。そして、どうやらこの軍拡状況は、自分たちの地域だけではなく全国いたるところで同じようなものがつくられ、全国で同じような声が起きはじめているということがわかった。それが顕著なのが、九州、四国、関西だ。抗議の声を上げているのが自分たちだけでないのならば、他の地域とも連帯して声を上げようとつくられたのが「戦争止めよう!沖縄・西日本ネットワーク」だ。

 

殺し、殺される戦争 誉れはどこにもない

 

沖縄県南部の土を辺野古新基地建設の埋立用土砂として使用しないように、遺骨土砂を持参して政府に直接要望する具志堅隆松氏(2024年6月、東京)

 私は現在71歳だが、28歳のときから遺骨収集にかかわってきた。遺骨を掘り出しているさなかにいつも考えていたことは「どうしてこの人たちは犠牲にならなければいけなかったのだろうか」ということだ。遺骨には、兵隊だけではなく、女性、お年寄り、学生のものもある。戦争に巻き込まれてはいけない人たちも巻き込まれて犠牲になっている。どうしてそのようなことになってしまったのだろうか、戦争になることを避けることができなかったのだろうか、ということをいつも考えていた。

 

 それを沖縄戦を生きのびた人たちに何度も聞いた。「沖縄が戦場になることを避けることはできなかったのか?」と。そしたらみな「沖縄に日本軍がやってきたのは、沖縄を守るために来たのだと思っていた。しかし戦争が始まったら、それはまったく違っているということがわかった。実際にはアメリカ兵よりも日本兵の方が怖かった」という。そしてこの戦争のさなかで、もう戦争に勝てないと思ったときに声を上げることはなかったのかと尋ねると「とんでもない。声を上げようものなら大変なことになった」という。戦争中だけでなく戦前も、戦争に反対であるとか疑問であるとか、やらないでほしいなどと口にしたら、すぐさま憲兵や特高警察に捕まって大変なことになったのだという。

 

 当時は自由にものがいえなかった。しかし今、私たちは自由にものがいえる。戦争にさせないでほしい、戦争反対、戦争の準備も反対、戦争の訓練も反対だといえる。このような集会も開催できる。これは当時とはまったく違う状況だ。当時、私たち国民はアジア太平洋戦争の開戦を止めることも、負けるとわかったときにやめさせることもできなかった。しかし今、私たちは国が決めたことに従わせられる存在ではなく、主権者だ。政府や議員、官僚でもなく、私たちが国の進む方向を決めることができる。これが私がずっと遺骨収集をしていて気がついた大事なことだ。

 

 私は沖縄の慰霊の日(6月23日)が近づくと小・中・高校で平和学習に呼ばれて講話をおこなうのだが、そこで長年遺骨収集をしていて気がついた三つの大事なことがあると話す。それは人を殺すことは間違っているということ、自分が殺されることを認めるのは間違っていること、そして自分で自分を殺すことは間違っているということだ。しかし戦争中、私たち国民は国から、この三つのことをやるようにと命じられ、受け入れてしまったのだ。

 

 「人を殺すことは間違っている」。これは人種、世代、宗教もこえてみんながそうだといってくれる。これは人間にとって真理であるといってもいいと思う。

 

 そして二番目の「自分が殺されることを認めるのは間違っている」ということ。しかし、これを否定する団体がいる。それは軍隊だ。軍隊では「死を恐れない」という教育をする。国のため、家族のために死を恐れない。しかし、これは根本的に間違っている。戦争では死ぬのではなく、殺されるのだ。殺されることと死ぬことはまったく別物だ。

 

 軍隊では、国のために死ぬのは栄誉であるという。太平洋戦争のときには、天皇のために死ぬのは栄誉であるといわれていた。そのため沖縄では、皇民化教育をしっかり学習させられた学生たちが、鉄血勤皇隊や女子学徒として戦争のなかに組み込まれていった。立っていることすらできない敵の攻撃のなかで、国家や天皇のために死ぬことは栄誉であると教えられた鉄血勤皇隊の学生たちは逃げなかった。だから学生たちの犠牲がものすごく多い。

 

 私は、戦争になることを避けるためにはどうやって声をあげたらいいだろうかということを長い間考えていた。私たち国民はどうすべきか。災害に対して自分が避難しようと決断する状況のことを「避難スイッチが入る」といういい方をする。大地震や津波など大きな被害が目前に迫ってきた場合には即座に避難スイッチが入る。しかし、大雨などが続いている場合、これは避難が必要なのか、いつ避難すればいいのかという判断が付きにくく避難スイッチが入りにくい。今の日本の状況はまさにそれだ。崖崩れが起こりうる地域で未曾有の大雨が続いている状況にもかかわらず、避難スイッチが入らない。

 

 自然災害は天災だが、戦争は政府による人災だ。人災であれば止めることはできるはずだ。私たちは国民は主権を持っているにもかかわらず、多くの人がそのことに気がついていない。さらに、ミサイルや弾薬庫を作らないでほしいと自治体の首長に訴えても、首長は「外交と防衛は国の専管事項だ」などという。自治体の首長の最大の責務は、地域住民の命と生活を守ることだ。首長は国に対し「私は地域住民の命と生活を守らないといけないから、住民のためにここを危険な状況にしないでほしい」というべきであり、住民も首長に対して釘を刺すべきだ。私たちの命がかかっているから絶対に国に戦争はさせない。一緒に頑張ろう。

 

戦後は終わっていない 遺骨が語ること

 

 私は40年余り遺骨収集をやっているが、これからお見せする写真は那覇市内で大がかりな遺骨収集をおこなったときの様子だ。普段は1人か2、3人でジャングルのなか、あるいは防空壕やガマのなかに入って遺骨を探している。

 

 場所は那覇市内の真嘉比(まかび)だ。小さな丘だが街の真ん中にあり、上空から見ると半月状に見えるため米軍は「ハーフ・ムーン・ヒル」と呼んでいた。アメリカ軍はこの場所を「沖縄戦を通じて最大の激戦地であった」といっている。すぐ側に「シュガー・ローフ・ヒル」という場所があるが、この二つは首里城の地下にあった日本軍の本部を守るための西側の要衝であり、1945年5月12~18日までの約1週間でアメリカ軍が2000人くらい死んでいる。日本軍の犠牲はもっと多い。独立混成第15連隊という関東の部隊だが、ほぼ全滅したといわれている。

 

 ここでの遺骨収集をやるにあたり、私たちは緊急雇用創出事業(失業対策事業)として2009年の10月9日~12月10日の約2カ月間おこなった。参加してくれた方は55人のホームレス及び失業者の方だ。掘った面積は7000平方㍍。そこから出てきた遺骨が172体あった。普段は写真を撮らないのだが、このときは国からの失業対策(委託事業)だったので記録を残している。

 

【写真①】那覇市真嘉比でおこなわれた遺骨収集作業(具志堅隆松氏提供)

 この写真は丘の頂上付近から掘り始めているときの様子だ【写真①】。掘るときの道具は片手鍬で、遺骨が見つかると竹串や金串、ペンキを塗る刷毛を使い、遺骨を浮かび上がらせるような掘り方をする。掘る深さは1㍍とした。激戦地だから不発弾がたくさん出てくる。事前に磁気探査の業者に不発弾を取り除いてもらったうえでのぞんだ。それでも手榴弾のような小さいものは検査から漏れることもあるため、私たちも独自に磁気探査の機械を購入して調べながら進めていった。

 

 出てきた小銃弾を数えてみると、10月末までの約20日間でアメリカ軍の物が511発あった。それに対し日本の小銃弾はたった5発だ。100対1の数だ。沖縄戦の体験者は「アメリカ軍に1発撃つと、すぐさま100発くらい撃ち返される」という。それを大げさだと思っていたが本当に100対1だった。それから砲弾の破片も2・5㍍×6㍍の面積で、230個あった。沖縄戦のことを鉄の暴風雨という言い方をするが、これも決して大げさではない。

 

【写真②】沖縄戦で使用されたアメリカ軍の艦砲や迫撃砲の弾(具志堅隆松氏提供)

 この写真【写真②】は、アメリカ軍の砲弾の5㌅艦砲弾の弾帯だ。そして60㍉迫撃砲。これはアメリカ軍の歩兵が進撃して日本軍とぶつかったときに味方の頭上を飛び越し、前方にいる日本軍に対して落としたロケット弾だ。これが出てくると私たちは慎重に掘るようにしている。なぜならこの場所でアメリカ軍と日本軍の歩兵同士の衝突があったことがわかるからだ。そうするとだいたい日本軍の遺骨が出てくる。そして、アメリカ軍の手榴弾の安全ピンを引き抜くときのリングだ。

 

 この写真1枚からいえることは、海に浮かんでいる戦艦から5㌅艦砲弾の攻撃があり、歩兵が進撃する場所をあらかじめ徹底的に叩く150㍉榴弾砲による陸上からの予備攻撃があり、そして日本軍とぶつかったときに60㍉迫撃砲による近距離攻撃があり、小銃による撃ち合い、そして手榴弾を投げて届く距離での超接近戦があったということがわかる。これだけのものが2㍍四方ほどの範囲から出てくる。だいたい日本兵がいる場所はこのような状況だった。

 

 私は個人的に日本の手榴弾に思い入れがある。というのも、日本軍の手榴弾の50%は自殺の道具として使われたからだ。沖縄で徴兵された若者たちが3カ月間の訓練を受けて、武器の支給を受けるとき、手榴弾を2個渡され、「1個はアメリカ兵を殺すため、もう1個は自分が捕虜になりそうになったら自分を殺すために使え」といわれる。日本軍の教科書というべき戦陣訓でこれを学習する。戦陣訓には「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」と書かれている。

 

 実際に防空壕やガマの奥で亡くなっている日本兵は自決しているケースが多い。手榴弾だけでなく小銃で自決しているケースもある。小銃で自決するときは、銃口を自分の顎の下に突き立てて、引き金に手が届かないので靴を脱いで足の親指で引いている。手榴弾で自決する場合、日本軍の手榴弾は、安全ピンを引き抜いて信管の部分を固いものに叩きつける。そうすると4~5秒後に爆発する。叩きつけた手榴弾を胸の前に抱いて爆発させているケースがほとんどだ。そうすると遺骨の特徴として、背骨に肋骨が10㌢くらいしか残っていない。体の前半分がなくなっている状況なのだ。

 

 私は日本軍が「生きて虜囚の辱めを受けず」といって兵士に自決を強要していたことについて、国に対して、この教えが間違っていたということをどうしても確認をとりたいと思っている。自決した人たちは自殺したのではなく自殺させられたのだ。

 

 日本の手榴弾には陶器製のものもある。日本中のいろんな窯元でこれがつくられていた。直径12㌢ほどのものだ。日本は戦争が始まって金属が足りなくなり、焼き物でも手榴弾をつくるようになった。正式な名称は四式陶製手榴弾という。沖縄では、海軍の人たちがこれを持っていた。海軍の兵士たちは制海権を奪われると、海に船を浮かべることができなくなり、陸上の戦闘に参加するようになる。これを海軍陸戦隊と呼んでいるが、陸上の戦闘のための武器を持っていないため、支給されたのは小銃でも古い三八式、手榴弾も陶器製だった。

 

 「淡黄」と書かれた木箱に入っている爆薬も出てきた。ランドセルくらいの大きさの木箱で、それを背負って敵の戦車の下に飛び込んで爆発する。そんな自爆攻撃をやらされていたのは正規の日本兵ではなく、学生たちだったといわれている。実際に私たちが遺骨収集をしていた場所からは、アメリカ軍の戦車のキャタピラと一緒に中学生の学生服のボタンも出ており、中学生も参加していたことが確認できる。

 

 この地域の遺骨の特徴として、バラバラになった骨が多かった。膝から下しか残されていない遺骨が近い距離から二つ出てきた。これは2人の日本兵が立っている側に砲弾が落ちてきて爆発し、2人とも膝から上を吹き飛ばされてしまっていることをあらわしている。

 

【写真③】日本兵のものと思われる遺骨(具志堅隆松氏提供)

 この人は、蛸(たこ)壺のなかで亡くなっていた【写真③】。蛸壺は直径70㌢、深さ1㍍10㌢の縦穴で、そのなかで鉄砲を持って潜み、敵が近づいたら顔と鉄砲だけを出して撃つ。この方は、穴が狭いため壁に寄りかかるようにして亡くなっている。足下にあるのは小銃弾の薬莢(やっきょう)で、おそらく狙撃兵だったのだろう。そして頭蓋骨に穴が開いている。鉄兜にも穴が開いていた。頭蓋骨の中にアメリカ軍の150㍉榴弾の破片が残っており、床の部分からもこの砲弾の弾帯が出てきた。これはタイマーをセットして空中で爆発するタイプがある。地面に落ちる0・1秒前に爆発するようにセットして爆発させる。これはウクライナなどで今でも使われているが、人間は人間を殺すためにいろんなことを考える。

 

 遺骨と一緒に5銭玉硬貨も見つかった。五銭玉は当時、「4銭(死線)をこえて帰って来られるように」という思いを込めたお守りとして使われていた。3銭玉があるということは、千人針を持っていたということだ。真嘉比では千人針を持っていた遺骨が4名も出た。これは4人の方が壕のなかで亡くなっていた写真だ【写真④】。

 

【写真④】壕のなかでは横並びの状態で出土する遺骨もある(具志堅隆松氏提供)

 11人の日本兵が横一列になって靴を脱いで正座し、自爆した現場もあった。そのなかの1人の手榴弾は不発だったが、隣の爆発に巻き込まれて亡くなっている。手榴弾の破片が仙骨に食い込んだもの、割れた頭蓋骨の内側に手榴弾の破片が食い込んでいたものもあった。胸の前で爆発させた手榴弾が、下あごを割って頭蓋骨の内側で止まっている状況だ。11人のうち1人は骨がまだ完成していない子どもだった。おそらく16、17歳の中学生くらいだと思う。他の部隊のように「ここでわれわれが全滅したことを伝えてくれ」と伝令に出す手もあっただろう。そうすれば、もしかしたら助かったかもしれないのにと思う。

 

「戦争止めるのは国ではなく主権者」 質疑応答より

 

 質問 話のなかで日本兵の遺骨は出てきたが、歩兵同士でたたかったときのアメリカ兵の遺骨なども出てきたのか?

 

 具志堅 これはまったくない。アメリカ兵も犠牲となっており、220名くらいはまだ行方不明の状態だ。しかし、アメリカ軍は「戦死者は必ず国に連れて帰る」といい切っている。日本は探せば見つかるところですら探さない。アメリカは海に落ちた飛行機を探すことまでやっているし、ジャングルに落ちた飛行機を探すのに現地でフットボール場二つ分くらいの広さを全部ふるいにかけるという気の遠くなるようなことをやっている。

 

 質問 子どもが写っている写真があったが、あれはどういう場面だったのか?

 

 具志堅 那覇の小学校が平和学習の一環で私たちの遺骨収集の現場を訪れたときの様子だ。体験発掘もやってもらった。子どもたちに人骨を見せるのはトラウマにならないだろうかとも考えたが、現場を見てもらった。「私たちは、ここで眠ったままになっている人たちを家族のもとに返そうと活動しており、国が返すようにと運動を続けている。君たちはその目で事実を確認したのだから、大人になったときに“真嘉比は戦場だったらしい”ではなく、“戦場だった”と伝えることができる」と話した。

 

 質問 遺骨を発掘するときにホームレスや失業者の方が参加したということだったが、その方たちが発掘調査で思われたことなどは聞かれたか?

 

 具志堅 ホームレスの方々の半分は本土から来た人だった。そのなかには自殺をするために沖縄に来た人などもいたが、遺骨収集に参加するなかで「見つかった遺骨をどうにかして家族の元に返してやりたい。そして自分も帰ってやり直す」といわれた。死を決意した人が死者と向き合っていくなかで感じることがあるのだと思う。

 

 質問 アメリカ軍は米兵を必ず自分の国に持ち帰るといっていたが、先日、新聞で日本人の遺骨を米兵が埋葬したというのを見た。今後そういったところの発掘、遺骨収集は計画されているのか?

 

 具志堅 結論からいうとその計画はある。アメリカ軍の記録のなかで、沖縄戦でわかっているだけでも177カ所に日本兵及び住民の遺体を埋めたとある。この記録を厚生労働省も入手しており、だいたいの場所もわかっているが、その範囲が30㍍四方ほどの広さがあるうえに、ほとんどの地域が開発されて残っていない。18カ所くらいは試掘してみたがなかったという。遺骨を探索するには、腐葉土をどけて当時の地層からさらに1㍍下まで掘らないといけない。30㍍四方を1㍍掘り下げるというのは、かなり大がかりなとりくみが必要になる。国がやると「やってみましたが見つかりませんでした」というアリバイ的なやり方しかしない。見つかっても見つからなくても戦死者に近づこうとする慰霊の事業なのだというスタンスでのとりくみが必要だ。

 

 質問 この数十年にわたって具志堅さん自身の行動や生き方を突き動かしてきたものはどんなものだったのか?

 

 具志堅 なぜ遺骨収集をやるのかというと、二度と戦争をさせないためだ。私は戦没者に対する最大の慰霊は、二度と戦争をさせないことだと思っている。このままでは熊本県民は戦没者になってしまう。冗談ではなくなっている。もっと怒り狂わないといけない状態だ。

 

 国策の犠牲者を家族のもとに返すことは、本来国がやるべきことだが、国がやらないからといって私たちは見て見ぬふりはしない。やれることはやる。それと同時に、この原因は私たちが戦争を止めることができなかったことにもある。当時は戦争を止めるどころか、国にものをいうことすらできなかった。そのことを反省して私たちは今主権者として、国に対して戦争をするな! 戦争の準備もするな! 戦争の訓練もするな! と声を上げていかなければならない。

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