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沖縄戦から80年「15歳で死線を生き延びて」 当時・沖縄県立第一高等女学校学徒 翁長安子氏の体験から

(2025年5月14日付掲載)

地獄の前線を生き延び、傷の手当てをする少年と少女。動員された学徒隊とみられる(沖縄戦)

 1945年4月の米軍上陸から本格化し、県民12万人を含む20万人以上もの人々が犠牲になった沖縄戦から80年を迎えた。沖縄には現在も広大な米軍基地が盤踞し、近年は南西諸島にも自衛隊ミサイル部隊の配備が進むなど急速に軍事化が進んでいる。自民党政府が強化を謳う「日米安保」は、ふたたび沖縄をはじめとする日本列島を米軍覇権維持の捨て石として差し出すものであることが切実に実感されている。日本の敗戦が決定的だった当時、膨大な犠牲を出した沖縄戦とは何だったのか――。当時、沖縄県立第一高等女学校の動員学徒として沖縄戦に従軍した那覇市在住の翁長安子氏(現在95歳)から2018年に聞きとった体験談を改めて掲載する。

 

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翁長安子氏

 私は沖縄戦当時、15歳で那覇市真和志にあった県立第一高等女学校2年生だった。ひめゆり部隊は同校の寄宿舎生たちで編成された看護隊だが、それ以外の生徒たちも沖縄戦でみんなひどい目にあった。

 

 沖縄本島への米軍の攻撃は、1944年10月10日の那覇への空襲(十・十空襲)を皮切りに始まり、翌45年4月1日に読谷村から上陸した米軍は、沖縄本島を南北に分断し、沖縄守備軍司令部があった首里に向けて猛攻を仕掛けた。私も含めて皆、この戦は1、2週間で終わるものと思っており、まさか3カ月間も続くとは思ってもいなかった。

 

 米軍は、昼間は雨のように砲弾を撃ち込むが、午後六時になったら砲撃をやめる。シュガー・ローフ(現在の那覇新都心)の戦闘でも、夕方になると艦砲、野戦砲、機銃、戦車砲もピタッと止まる。それだけ余裕があった。日が暮れて、米軍が夕食をとって寝る用意に入るとき、日本兵は戦う武器がないから爆雷を抱えて「斬り込み(体当たりの自爆攻撃)」だ。米軍は空からも陸からも海からも攻撃するが、日本軍の武器は洞穴に仕掛けた爆雷や小銃くらいのものだった。それは戦争とはいえない一方的なものだった。

 

 天久(那覇市北東部)の陣地は、使わないうちに米軍に潰されて砲台ごと占拠された。嘉手納基地も、伊江島、読谷、那覇の空港も日本軍がつくった滑走路は、ことごとく後から米軍が使うために準備したようなものだった。高射砲も敵機を撃ち落とす前に米軍の艦砲で叩かれた。なぜなら沖縄を米軍の艦船がとり巻いているのだ。識名(首里の南側)の高台から海を見ると、どこに島があったかわからないほど、渡嘉敷島から糸満の沖までズラーッと米軍艦船がとり巻いていた。

 

 そこに友軍(日本軍)の特攻機が飛んでくると、すべての艦船が一斉にサーチライトで空を明るく照らし、逃げ場を与えないくらいに高射砲や機銃で集中砲火する。特攻機はまるで蜘蛛の巣にかかるように撃ち落とされていった。私は兄が特攻隊に行っていたので「ひょっとしたら…」と胸が潰れる思いで見ていた。片道燃料、死出の旅だ。知覧(鹿児島県)から飛び立ち、ほとんどが軍艦に突っ込む前にやられた。軍の上層部がどんな考えでやったかわからないが、あんなに優秀で体格も立派なお兄ちゃんたちを予科練や特攻隊で養成して、死出の旅に送り出したのだ。

 

 沖縄に到着する前に不時着して島に流れ着いた特攻兵たちは、戦争の実態を暴露しないために、2年間は「口を開くことができなかった」という。非国民――この意識が当時の教育では徹底されていた。軍国少女だった私も親の反対を押し切って従軍看護要員として志願し、一緒に北部へ避難しようという父親に「断りもなく配属された部隊から抜けるわけにはいかない。部隊の許可を得てから戻る」と答え、父親を諦めさせた。「ほしがりません勝つまでは」といわれ、お国のために働くことがすべてだった。疎開するにも「国賊」「非国民」となる覚悟が必要だった。

 

軍司令部は南部に撤退 「郷土部隊は首里死守せよ」

 

 だが、戦時下の沖縄では、沖縄の人間というだけで、立派な人たちが次々に日本軍に睨まれて闇討ちされた。これは沖縄人には耐えられないものだ。御真影(天皇の肖像)を守る勤めを果たすため山中に避難していた校長先生を「スパイだ」といって殺したり、日本軍部隊が駐屯するときにも地域のリーダーをスパイ視して殺した。私も方言を使ったことで日本兵からスパイの疑いをかけられたが、そのようなことがあちこちで起きた。一生懸命国のために尽くしてきた人間を人間として見なさない。「軍は住民を守らない」というのが、沖縄県民が体験した真実だ。なかにはいい兵隊さんもいたが、日本軍は全体としてそのような組織ではなかった。

 

 首里(司令部)が陥落したときに降伏しておけば、残りの12万人は死なずに済んだはずだった。

 

女学校入学時の翁長安子氏

 学徒だった私は、沖縄特設警備隊第二二三中隊(通称・永岡隊)に看護要員として従軍していたが、首里が陥落して司令部が撤退した後も首里にいた。なぜなら日本軍の主力が南部に撤退するさい、「お前たちは郷土部隊だから、最後まで首里を死守せよ」という命令が軍上層部から出ていたからだ。この部隊は、沖縄県内の学校の先生や県庁の職員など、地元で防衛召集された予備役で構成され、隊長は首里安國寺の永岡敬淳住職(大尉)だった。武器はほとんど持っていなかった。

 

 「首里を死守せよ」との軍令を部隊に伝えに来たのが、私の担任だった糸数用武(ようたけ)先生だった。糸数先生はそれを伝えた後、砲弾が雨あられのように降る外へ出て行かれた。「先生、なぜ出て行くんですか!」と問う私に「私には私の役割がある」といい残して。それが先生との今生の別れだった。

 

 永岡隊は三二軍司令部がある首里防衛の最前線に配置され、そこで炊事や水汲みなどを担わされていた。戦況が悪化すると、永岡隊も夜襲攻撃をおこなうようになった。手榴弾を束にして抱え、夜間に米兵の寝込みを襲うのだ。そのような攻撃で5、6人が出撃して、生きて帰ってくるのは1、2名だった。

 

 米軍の猛爆撃のなかで生きのびた兵隊たちが玉陵(琉球王統の陵墓)まで上がってきたときに爆弾が落ち、17人のうち6人が即死した。そのうち残った5、6人が壕に駆け込んできた。暗い壕の中にどれくらいいたのかはわからないが、永岡隊は第1~3小隊まであった。5月18日の晩、生き延びた人たちは隊長と一緒に首里城近くの安國寺の壕へ移動した。「郷土部隊として首里を死守せよ」という命令が来たのは、日本軍司令部が首里から撤退する5月27日のことだった。

 

火炎砲で焼き殺す米軍 馬乗り攻撃で壕は潰され

 

日本兵や住民が隠れている壕に爆雷を投げ込む米軍部隊

 5月29日、朝5時半ごろ、壕の外に出て3人で水汲みをしていると、「トンボ(米軍の偵察機)が来たぞー!」と監視兵から連絡が来た。バケツをもって壕内に逃げ込んだかと思うと、戦車砲がボーンッと1発撃ち込まれた。私の目の前で2人が即死した。

 

 今度は「戦車が来た」という。すでに外ではゴトゴトと戦車の音が聞こえる。どうしていいかわからず、隊長が「戦闘準備!」といったかいわずか、その言葉も聞かないうちに今度は火炎砲が飛んできた。前の晩に生き延びて壕の入口付近にある簡易の二段ベッドに横になっていた負傷兵たちは、それはもうヤギのように焼き殺された。

 

 次に飛んできたのはガス弾だ。壕の中では、みんな「アァー」と騒いでいる。煙とガスと火で錯乱状態だ。私は十・十空襲で焼けた裁判所が大事な書類を保管するためにこの壕に移転していた大きな金庫(書棚)の後ろにいたため、戦車砲もガス弾も免れた。厚さが20㌢もある観音開きの立派な書棚だった。防毒マスクをしていたからガスも吸わずに済んだ。

 

 しばらくすると壕の上の方で「ギリ、ギリ、ギリッ…」と穴を開ける音がした。米軍が爆雷を埋め込む音だ。隊長が「馬乗りされたな…」と一言いった。その直後、バ、バーンッ! と爆発音がして、それからの記憶はない。馬乗り攻撃で壕全体が潰されたのだ。

 

 気付いたときには、もう何が何だかわからず、とにかく苦しかった。私が暴れたらしく、誰かが私の手を押さえて「静かにしろ!」といった。もがいて防毒マスクをとろうとすると「とるな!」と隣の兵隊からいわれた。あちこちから「隊長殿」「隊長殿ぉ…」と悲鳴が聞こえる。隊長は「ご苦労だった。僕もすぐ逝くから」とばかりいわれていた。

 

 「隊長殿、お世話になりました…〇〇です」と名乗る人もいるが聞きとれない。私を知るおじさんが、私の声に気づき「安子さん、生きていたか。私はもうダメだ…」とおっしゃった。「お世話になりました」「先に逝きます」などの声だけのやりとりがしばらく続き、やがて静寂になった。

 

 その後、「生きている者は隣同士で合図をしなさい」という隊長の命令で、生存が確認できたのは9人だった。不思議にも大きな書棚が落盤した大きな岩を支え、反対側の岩もそこに倒れ込み、私たち9人は岩と書棚の空間にいたため下敷きにならずに済んでいた。

 

 何時間か後、当番兵の石原兵長が「隊長、脱出するからそのつもりで」といった。隊長は「ここ(安國寺)が永岡隊の最期の場だと決めてある。仏様と一緒にここを守る義務がある。君たちだけ脱出しなさい」という。だが石原兵長も「隊長なしの部隊などありません。一緒に脱出してください」と譲らない。衛生兵たちも「隊長殿、一緒に脱出してください。南部では先発隊が待っていますから」といって押し問答が続き、最後は隊長が根負けして一緒に脱出することになった。

 

 日が暮れて、「どうやって脱出するか」となり、暗闇を四つん這いで行くと壕の裏側は米軍に破壊されて空洞になっていることがわかった。そこを見ると、ちぎれた首や胴体や手足がみんな壕の壁面に貼り付いていた。死体はみな内臓まで破裂している。

 

 米軍が打ちあげる照明弾の光ですべてが浮かび上がる。「あれは高良軍曹だ」「あれは〇〇だ」とわかる顔がちぎれて壁に貼り付いている。

 

 脱出するにも、足元に転がっている死体を踏みつけないと壕からは出られない。石原兵長が先発し、衛生兵の後に隊長が続いた。隊長が私に「安子さん、私のベルトをつかみなさい」という。私は「はい」と返事をして、隊長の帯剣をぶら下げるベルトをつかんで歩いたが、足元は岩なのか死体なのか、照明弾の明かりでも判別がつかない。

 

 あたりは血の海で内臓も散乱している。雨も降っていたこともあり、3、4歩ほど歩いたとき、岩だと思って踏んだ死体に足をとられ、その拍子に隊長のベルトから手を離してしまった。私はそのまま数㍍ある崖の斜面を転げ落ちた。そのとき上で、バラバラバラッ…と自動小銃を乱射する音が聞こえた。米軍が掃討作戦のために、そこら中で待ち伏せしていたのだ。

 

 その弾が私の背負っていたリュックを貫通して背中をえぐった。何時間気を失ったかわからないが、目が覚めたら周りはすべて死体。生きている人はいない。「どうしよう…」とじっとしていたが、ようやく死体の中から這い出した。現在の「一中健児之塔」のあたりまで這い出していくと、下から米兵5、6人が掃討作戦で日本兵狩りに来ていたので、また死体と一緒に死んだふりをした。

 

 幸いにも米兵が素通りしていったので、それを見計らって寒川の道まで出た。喉が渇いてしょうがなかったので、仲之川の井戸まで100㍍ほど這っていくと、井戸の中には死体が2体浮いていた。木切れで死体をかき寄せて、顔を突っ込んで水を飲んだ。すると背中が裂けるように痛い。触ると血でベトベトだった。ケガをして水を飲むと出血量が増す。「あぁ、私もやられていたのか…」とはじめて自覚した。

 

 「ここで死ぬわけにはいかない」と一念発起し、腰に巻いていた三角巾を外し、止血するつもりで傷口を縛った。

 

 金城町の石畳まで出ると、ここも死体の山。すべて軍人の死体だった。首里防衛のために戦ったときか、南部に移動するときにやられたものか。

 

 四つん這いになって寒川まで降りると、空からギラギラ光る銀色のものが降ってきた。黄燐(おうりん)弾だったのではないかと思う。これに触れたら火傷すると衛生兵がいっていたことを思い出し、新垣という赤瓦の門の酒屋に逃げた。

 

 繁多川の坂道に渡ろうとしたら橋がない。「ここで死ぬのか…」と悟り、ここで初めて「お父さん、お母さん! どこにいるのー、私はここにいるよ。迎えに来て!」と大きな声を出して子ども泣きに泣いた。橋の欄干にかけてあった丸太に気づき、それに飛び乗って対岸の繁多川に渡ると、また死体の山。ここからは民間人の死体だった。浦添や宜野湾方面から安里鉄道(軽便鉄道)の道沿いに歩いて来た人たちだ。

 

 軍服ではない人たちの死体ばかりで、毛布やトタンを被せられている死体もあった。ずっと雨が降っているからウジや蝿が流されていて、異臭も和らいでいた。そこから識名園まで行ったが、こんな姿の私に「女学生さん、助けてください」と声がかかった。「溝の中にいるが、右足と右手がない。助けてくれ」という。…

 

(つづく)     

 

米軍の無差別爆撃で蜂の巣となった首里周辺。沖縄戦では畳1枚に1発の割合であらゆる砲弾が撃ち込まれ、県民の4人に1人がなくなったとされる(1945年5月)

 

【後半のタイトル】

米軍の無差別爆撃の下 生存者にまたも出撃命令

・隊長の言葉で投降 「生きて伝えてくれ」

・遺骨収集と魂魄の塔 沖縄の戦後出発

・平和な沖縄とり戻す ウチナーの魂伝える

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