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沖縄戦・南部激戦地の土砂を辺野古埋立用に採取 死者眠る土で米軍基地造るな 遺骨収集者らがハンスト

 沖縄県名護市で防衛省が進める米軍辺野古新基地建設計画をめぐり、埋立用の土砂を県南部地域から採取することに沖縄県民から強い抗議の声が上がっている。同地域は75年前の沖縄戦で最後の激戦地となり、戦後住民の手によって数万体もの戦没者の遺骨が収集され、今も無数の骨が眠っている。沖縄県民にとって一帯が「聖地」であり「墓所」でもある地から土砂を採取し、新たな米軍基地建設の埋立に利用するという暴挙に怒りは強く、沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」(具志堅隆松代表)が一日から、土砂採取計画の断念と知事による事業中止命令を求めて県庁前でハンガーストライキを開始した。

 

土砂採取の中止を求めてハンガーストライキをおこなう具志堅隆松氏(右端、1日、沖縄県庁前)

 昨年4月、沖縄防衛局が県に提出した辺野古新基地建設工事の設計変更申請では、県南部の糸満市や八重瀬町などから県内土砂調達可能量の7割に当たる約3200万立方㍍を調達するとしている。糸満市米須の採掘現場は、「魂魄の塔」(1946年2月に地元住民や遺族が沖縄戦戦没者の遺骨約3万5000体を納めて建立)付近にあり、この地では昨年11月にも遺骨収集ボランティアによって新たな戦没者の遺骨が発掘された。だが、現地には業者によって「立ち入り禁止」の看板が立てられ、森林は伐採され、遺骨収集すら困難な状態におかれている。

 

 手つかずの自然が残る県南部地域は、沖縄戦跡国定公園に指定され、自然公園法で開発が規制されている。だが、糸満市米須では土砂採掘業者が同法に基づく開発の届け出を出さないまま土砂採掘に着手。県から指導を受けて、業者は今年1月に届け出を提出しており、県が受理すれば工事が再開される。

 

 県庁前でハンストを開始したガマフヤー代表の具志堅隆松氏(67)は、約40年間、沖縄戦戦没者の遺骨収集をおこない、住民の避難場所となったため戦死者が多いガマ(自然壕)などに埋もれた遺骨や遺品を発掘し、遺族の元に返す活動を続けてきた。ガマフヤーとは「ガマを掘る人」を意味する。糸満市の土砂採掘現場付近では昨年、岩の下から大腿骨の一部や歯がついた下あごの骨、手の骨など複数の遺骨が見つかり、米軍の爆弾の破片やのこぎりなど、75年前の惨状を今に伝える品も多く発掘された。

 

 具志堅氏は「遺骨が残った土を埋立に利用することは、基地に賛成か反対かという以前に人道上の問題。人間の体は210の骨で成り立っており、いくら収集しても取り残しがあり、一部は土になっている。そのような場所が住民が米軍に追い詰められた県南部全域にある。沖縄戦で殺されたうえに、その遺骨を含む土砂を埋立に使うというのは二度殺されるのに等しい。地下からの“助けて!”という叫びが聞こえる。彼らの尊厳を守らなければならない。遺骨収集現場の多い南部から埋立土砂を調達することに危惧を感じていたが、昨年11月から業者が土地を囲い込み、森林が伐採され、立ち入りも制限された。この地に眠る骨は住民だけではなく、多くの旧日本兵も含む。親兄弟の骨が眠り、血が染みついた土を、殺戮した側の米軍の基地建設のために使うことは戦没者へのこのうえない冒涜だ」と訴えている。

 

 有志とともに6日まで水分以外をとらず抗議の意を示し、防衛局に計画中止を求めるとともに、開発届け出の受理後30日以内に知事が事業中止を命じることができると定めた自然公園法に則り、玉城知事に措置を講じることを求めている。

 

沖縄戦体験者 死者を丁重に弔う事を

 

 この問題に沖縄戦体験者も声を上げている。

 

 当時15歳の女学生で看護要員として沖縄戦に従軍し、戦火の中を首里から糸満まで逃避行した経験を持つ那覇市在住の女性(91)は、魂魄の塔を建立するさいの遺骨収集にも携わった。

 

 「防衛省が土砂を採取しようとしている糸満市米須一帯は、沖縄戦で追い詰められた軍人や民間人が混在し、米軍から最後の集中砲火を受けた場所だ。外では艦砲が雨のように降り注ぎ、小さなガマやアダンの陰に身を隠していた人たちも火炎放射器で焼き殺された。同級生の看護学徒たちも砲撃の最中に軍から解散命令が発せられ、行く場所は米須一帯しかなかったため、ここで多く亡くなっている。私たちもガマの中で岩をしゃぶり、水滴をすすりながら耐えていたが、亡くなった隊長の“生きて帰り、後世に伝えてくれ”という言葉で投降し、生きながらえてきた」と語る。

 

 「戦後、村長の呼びかけで遺骨収集作業が始まった。野ざらしになった遺骨があちこちに重なり合っていたり、道ばたや岩陰、屋敷の軒、ガジュマルの樹の下などに家族ぐるみで座ったままの亡骸、まだ衣服を着たままのなまなましい遺骨も素手で拾った。誰が誰かもわからない何万というおびただしい遺骨を“ごめんね…みんな同じ所に納めるからね…”と手を合わせながら何日も拾い集めた。直撃弾を受けて粉々になった骨もあったし、拾い切れていない骨や、拾われずに朽ちた骨も多いはずだ。14、5歳の少女たちが何もわからないまま戦場に駆り出され、死んだ後も軍事基地のために海の底に沈められることを思うとたまらない。国がやるべきことは、このような犠牲者を二度と生まないためにも、死者を丁重に弔うことではないか。死者が眠る地を掘り起こして埋立土砂に使用するなど、人としてやっていいことではない」と声を詰まらせながら語った。

 

 沖縄戦で家族を失って6歳で孤児となった那覇市の女性(84)は、「沖縄戦の最中、両親や兄弟8人、祖父母など家族13人とも生き別れ、その後、どこで亡くなったのかもわからない。誰一人遺骨もないし、目撃情報もない。75年たった今も家族のことを考えるし、遺骨収集の現場にも出かけ、なにか手がかりになるものはないかと探してきた。糸満市の南部は私の実家があった場所でもあり、生活用品でも瓦の破片でも、発掘された一つ一つが肉親の形見ではないかと思っている。具志堅さんも“死者を二度殺すことになる”といわれていたが、私たちからすれば肉親の墓を掘り返されているようなものだ。眠っている骨を収集しなければ亡くなった人たちは浮かばれない。孫たちも含めて、家族みんながいても立ってもおられない気持ちでいる」と胸の内を話した。

 

砲撃を逃れ南部へと避難する年寄りや子どもら

米軍の砲弾に倒れた子どもの遺体

住民が逃げ込んだ壕は米軍の火炎放射器で焼き払われた

艦砲射撃で蜂の巣のように穴が開いた首里

終戦後の遺骨収集(昭和28年頃、糸満市)

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