(9月20、23日付掲載)
下関市議会の一般質問で19日、村中良多議員(自民党)の「西のゴールデンルートについて」の質問の最後に、海外観光客に下関が注目してもらうための決意を求められた前田市長が、広島・長崎の被爆地を訪れることについて「お悔やみトリップ(旅行)」と発言し、これが下関市政を司るトップの表現として黙認されるのかと物議を醸している。
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西のゴールデンルートアライアンスとは、大阪万博に来た海外観光客を西側に引っ張り込もうという西日本側の自治体の集まりだ。ここに下関市も参加しているが、そのきっかけについて前田市長は、市長選で自身を応援してもらった福岡市の高島市長から直接誘われたのだと誇らしげに語っている。
村中議員の質問に対し答弁に立った前田市長は、この団体の総会(前田市長によると、蒼々たるメンバーが集まっていたという)で、「一つの町で海外にPRしてもなかなか届かない」から「複数のまちでストーリーをつくっていきましょう」と自分が提案したのだと、自慢げに語った。そして「JR四国の会長さんが来られていたが、私らはお遍路があるというから、私がいったんですよ。広島回って、長崎行って、四国でお遍路回って、お悔やみトリップじゃないけど、とかね。滞在時間が拡大するわけですよ」と発言した。要するに、みずからがネーミングしたであろう「お悔やみトリップ」などと称して広島、長崎、四国をパッケージにして海外観光客に売り込もうという発想である。
前田市長の発言は、被爆地を訪れる人すなわち観光客を「カネ」を落としていくドル箱と見なしているという特徴とともに、「お悔やみトリップ」なる言葉が軽々しく口をついて出てくるあたりには、80年前に一瞬にして家族、親族を焼き殺された人々、原爆症によって命を蝕まれてきた人たちの悲しみ、悔しさに対する思いについて、いったい政治家としてどのような認識を持ち合わせている人物なのかと疑問の声が上がっている。
「お悔やみトリップ」という言葉は、世界で唯一アメリカによって原爆を投げつけられ、無辜(むこ)の老若男女が殺戮された戦争犯罪について、現代の世界情勢と重ねて、過去の戦争と向き合い、平和を希求して海外から被爆地を訪れている人々の思い、そこにある厳粛さなど到底理解しえない軽さをともなっており、こうした態度を丸出しにして仮に「お悔やみトリップ」で瓦そばも食べていって! ふぐを食べていって! なるパッケージで海外に喧伝した場合、世界中からひんしゅくを買うことは疑いない。また、そのような提案を恥ずかしげもなく、西日本の首長たちの前で披露したわけで、少しでも政治家としてのまともな見識を持ち合わせ、言葉遣いにも気をつかった首長たちが居合わせた場合、陰で笑いものにされていてもおかしくない。前田市長は、首長たちが「“おぉ”といってくれた」といっているが、そこに居合わせた首長たちが揃いも揃ってこの「お悔やみトリップ」なるものに賛同し、苦言を呈する者が一人もいないという場合、いっそのこと自治体名及び首長名なり企業名なりを列挙して、西日本の「お悔やみトリップ」推進自治体グループとして認識しなければならない事態といえる。こうしたとりくみについて広島市長や長崎市長はどのような反応を見せるのかも注目される。
下関市政及び議会が異質なのは、この話を前田市長が得意げに議場で披露したさい、議員たちの多くが笑いながら同調していることである。「お悔やみトリップ」なるネーミングが下関市の執行部や議会の仲間内にはウケるというのは、彼らもまた、いったいどのような歴史認識を持ち合わせているのか問わなければならないものといえる。
被爆地訪れる外国人は増加
昨今の緊張高まる世界情勢も反映して、被爆地である広島・長崎を訪れる外国人は増加している。そうした訪日外国人は「お悔やみトリップ」なる感覚で来ているわけではない。また、ちょうど今、下関市内の小学6年生たちは修学旅行で長崎に行く時期で、事前学習として市内の被爆者から被爆体験を学ぶ授業が各学校でおこなわれているところだ。これらの子どもたちの修学旅行もまた「お悔やみトリップ」なのか? である。修学旅行に行く子どもたちには、教師たちを通じて「前田市長は被爆地・長崎に行くことを“お悔やみトリップ”といっています」と伝えることが望まれる。そんなのが市長をしていることについて、この街の6年生たちがどう感じるのかは委ねるべきであろう。
山口県は広島、長崎に次いで3番目に多くの被爆者が住む地であり、下関市には今も259人(2023年3月末時点の被爆者手帳保持者)の被爆者がいる。長年自身が被爆者であることを伏せて生きてきた人も多く、二度と同じ苦しみをくり返させてはならないと、子どもたちや保護者に自身の体験を必死に語り継いでいる。前田市長の発言はそうした人たちの思いをも軽んじるニュアンスを含んでおり、「失言」では片づけられないものといえる。これが県知事や国会議員、いわんや首相や大臣の発言ならたちまち問題になって然るべき性質を含んでいるが、下関市政及び議会ではウケているから異様である。少なくとも彼らにとって「笑えるネーミング」であり「笑える内容」であったことを同調する態度で示した。
本池涼子市議が議場で市長に苦言
この前田市長の発言について20日、一般質問に立った本池涼子市議(本紙記者)は、通告の質問に先立ち、次のように苦言を呈した。
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私は昨日の村中議員がおこなった「西のゴールデンルート」についての質疑のなかで、前田市長が発言された、被爆地である広島や長崎を訪れる訪日外国人を西日本の各地に誘うことを意味した「お悔やみトリップ」という表現について、一言苦言を申したい。
「あの閃光が忘れえようか/瞬時に街頭の三万は消え/圧(お)しつぶされた暗闇の底で/五万の悲鳴は絶え/渦巻くきいろい煙がうすれると/ビルディングは裂け、橋は崩れ/満員電車はそのまま焦げ/涯(はて)しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島」…
この詩は、広島で被爆した詩人・峠三吉が「八月六日」という表題でうたった詩の一部だ。
みなさん、厳粛って、向きあったことがあるだろうか。私も市長も、確かに当時を知りえない「戦争を知らない子供たち」なわけだが、私は少なくとも、被爆地である広島や長崎を訪れることについて「お悔やみトリップ」なる表現を用いる神経を持ち合わせていない。
無辜(むこ)の老若男女を殺戮した原爆投下という許し難い歴史的事実について、あまりにも軽々しい表現で、「お悔やみトリップ」なる表現が、果たして社会的に認められるのかどうか、知りたいくらいだ。これが総理大臣なり大臣なら大問題になるのだろうが、下関市議会では笑って済まされるんだな、その程度なんだなと思う。
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議場は静まりかえったが、前田市長の発言をめぐっては、議会発言を聞いていた職員のなかでも「あの発言はどうなのかと思っていた」「広島、長崎から抗議を受けてもおかしくない」などと話題になっている。市内でも話題になっており、とくに学校関係者などの怒りが強い。ある学校関係者は「広島、長崎に行くことをお悔やみに行くという発想すらない。品性がない。失礼だ。広島・長崎の人たちに謝らなければならない問題だ。下関市の子どもたちは必ず修学旅行で広島、長崎を訪れる。市長はこれをお悔やみに行っていると思っているのだろうか。そうではない。行く以上は戦争の悲惨さや二度と戦争をしてはいけないと伝えているし、厳粛な気持ちでとりくんでいる。なぜ執行部や市議会で問題にならなかったのか」と語っていた。ある職員は、「広島・長崎を訪れる外国人は問題意識が違う。その国際的な感覚も前田市長には理解できないのだろう」と語っていた。
市議らが謝罪と撤回求め申し入れ
本池市議の一般質問ののち、市議会でも前田市長の発言を問題視する動きがあり、発言撤回と謝罪を求めて7人の市議が市長室に出向き抗議をおこなった。抗議したのは、共産党市議団の3人(片山、桂、桧垣)と、市民連合の3人(山下、濵岡、秋山)、無所属の本池の7人。面会した島崎副市長は「市長に伝える」としているが、20日現在までに撤回・謝罪の動きはない。なお、市議らの抗議にれいわ新選組の竹村市議は加わらなかった。世界平和を掲げる公明党も「保守」の自民党市議などからも、市長発言に対する怒りがないのか、抗議はない。
前田市長と同じような感覚で違和感すら感じなくなっているのか、ただの忖度なのかはわからないが、このような議会の多数を占める者たちのぬるい態度が弛緩した議場を形成し、その土壌のなかで前田市長から「お悔やみトリップ」なる被爆地を嘲笑するような軽率極まりない発言が飛び出してきたともいえる。
またしても不適切発言。「桜を見る会」に関して安倍氏を擁護するとんでもコメントで政治のルールへの無知をさらしたが、今回は社会の常識を大きく欠いた発言であり、また公人としても許される発言ではない。政治家としても社会人としても、見識を欠いた人物であることは明らか。このレベルの人間が行政のトップであることに、一市民として怒りを超えて、恐怖すら感じる。マスコミの追求に対して、裏で何があったのか知らないが、一日で謝罪撤回。本人は「政治家として許されないことだと思う。非常に深く反省している」「自分の能力の低さを反省している」と。発言内容は正しいが、これまでの言動を見ても、本人の行動変容があるとは思えず、監視役の市議会も一部議員をのぞいて、内紛に明け暮れるばかりで、まったく機能しておらず、相変わらずの体たらく。引き続き長周新聞の筆誅と市政へのメスを要望します。