本書は、昨年3月に国際刑事裁判所(ICC)の所長に就任した赤根智子氏が語りおろしたものである。現在、ICCが直面している最大の問題は、ICCがガザでの戦争犯罪などの容疑でイスラエル首相ネタニヤフらに逮捕状を発付した(昨年11月)ことに対して、米大統領トランプがICCへの制裁をおこなう大統領令に署名したことだ。制裁が拡大されるなら、ICCは活動の継続が不可能になる。赤根氏はこの局面で、被爆国であり平和憲法を持つ日本政府が、ICCを全力で守ると世界に向けて力強く発信してほしい、そのために国内世論を大きなものにしてほしいと強く訴えている。
ネタニヤフの逮捕状を発布
2月6日、米大統領トランプは、ICCへの制裁を可能にする大統領令に署名した。大統領令は、約1000人いるICCの全職員に対して、アメリカ国内の資産凍結、アメリカへの渡航禁止、アメリカ企業との取引禁止を科すことができるだけでなく、近親者、代理人、ICCの捜査に協力した者、制裁対象者に商品やサービスを提供した者にまでなんらかの制裁を加えることを視野に入れている。
大統領令はまた、いつでも一方的に対象範囲を拡大することが可能な規定になっており、ICCそれ自体さえ制裁対象にしうる。もしそうなれば、世界中の銀行や企業がICCとの取引をストップさせる可能性があり、職員に給与が払えなくなったり、ウクライナやアフリカに設置している事務所に送金できなくなるなど、組織のあらゆる機能がマヒしてしまう。電子データの保管にも問題が生じ、武装組織などから危害が加えられないようICCで保護している被害者や証人たちの個人情報がもれ、その安全が確保できなくなる心配もある。
トランプがこの大統領令に署名した翌日、赤根氏は所長として声明を発表した。声明は、ICCは過去に戦争や迫害などによって人々に与えられた計り知れない苦しみが生んだ遺産ともいえる存在であるとし、大統領令はICCの独立性と公平性を損ない、残虐行為の被害者となった数百万もの罪のない人々から正義と希望を奪うものであると強い遺憾の意を表明した。そして、私たちは司法機能を政治化しようとするいかなる試みも拒否するとし、世界中のすべての国に対してICCを擁護するために団結してほしいと訴えた。
この本の中でも赤根氏は、「大国が思うがままに行動し、ICCを潰すことを許してしまえば、国際社会における“法の支配”は崩壊し、“力の支配”へと逆行してしまう」「政治に左右されないICCの存在が、最終的に世界の平和にもつながる」「私たちの活動には、戦争の惨禍などに苦しむ世界中の被害者たちの希望が託されていることを忘れないでほしい」とくり返し訴えている。
ICCとは 戦争犯罪の処罰が使命
この本では、ICCがどんな組織で、どんな活動をしているのかを詳しく知ることができる。
国際司法裁判所(ICJ)が国連の機関であり、国家間の紛争を国際法にもとづいて裁くことを使命とするが、ICCはそれと違って国連の機関ではなく、法的には独立した国際機関だ。
ICCは、戦争犯罪や人道に対する犯罪などをおこなった個人を、国際条約「ローマ規程」にもとづいて訴追・処罰することを使命とする裁判所である。設立は2002年で、オランダのハーグに本部があり、現在125カ国が締約国となっている。日本は2007年にメンバーに入ったが、アメリカ、イスラエル、ロシア、中国は締約国ではない。
ICCが対象とする犯罪として、「ローマ規程」は四つの中核犯罪を定めている。
第一がジェノサイド犯罪で、「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもっておこなう行為」を指す。
第二に人道に対する犯罪で、文民たる住民に対して広範または組織的におこなわれる殺人、絶滅させる行為、奴隷化すること、追放または強制移送、拘禁や身体的自由の剥奪、拷問、強姦・性的奴隷などを指す。
第三に戦争犯罪で、戦争が起きている状況下で一般市民や非戦闘員に対しておこなわれる殺人、拷問、不法な追放、人質をとること、軍事目標以外への攻撃などだ。
第四に侵略犯罪で、国家の指導的位置にある者による「国連憲章の明白な違反を構成する侵略行為の計画、準備、着手、実行」(他の国の主権、領土保全または政治的独立に反する武力の行使など)を指す。
この中核犯罪という概念のルーツをたどると、第二次大戦終結直後、ナチス・ドイツの平和に対する犯罪、戦争犯罪、人道に対する犯罪を裁いたニュルンベルク裁判に行き着く。それが再びクローズアップされたのが米ソ冷戦構造崩壊後の1990年代で、凄惨な民族紛争や部族紛争を解決するためにユーゴスラビアとルワンダで国際刑事法廷が設けられた。そのなかで国際条約にもとづく常設の裁判所をつくり、共通のルールで戦争犯罪などを裁こうという国際世論が高まり、ICCの創設となって結実した。人類の長きにわたる努力を無にするな、という山根氏の訴えは重い。
ジェノサイド条約非加盟の日本
この本を読んでとくに印象に残るのが、国際社会における日本の役割だ。
2017年12月、ICCの18人の裁判官を選ぶ締約国の投票で、赤根氏は有効票109票のうち88票を獲得してトップ当選となった。彼女は今、ICCの所長だが、今年3月、ICJの所長にも日本人の岩澤雄司氏が就任した。赤根氏はここに世界の日本に対する信頼があらわれており、それに応えて日本が平和構築のために世界の先頭に立つべきだと強調している。
ところが今年2月、ICCの締約国のうち79の国が、トランプの大統領令を批判する共同声明を出したとき、日本政府はこれに加わらなかった。核兵器禁止条約への対応もそうだが、その対米従属の姿勢は内外から批判されている。
そして最後に、今後とりくみたいこととして、ICCの広報の拠点を東京に設置し、アジアで締約国を増やすことと、日本政府が早急にジェノサイド条約に加わるよう世論を高めることをあげている。ジェノサイド条約締約国は、ジェノサイド犯罪を国内法で定め、これを適切に処罰するとともに、防止する義務を課せられる。こうした法整備を進めるなら、「中核犯罪をおこなった人間を日本は処罰する」というメッセージを世界に発信することになる。G7が「専制主義」として非難するロシア、中国、北朝鮮、ミャンマーを含む153カ国がジェノサイド条約を締約しているが、日本はアメリカにならって批准しておらず、それにともなう国内法の整備もしていない希有な国であることはあまり知られていない。
そのほかこの本には、赤根氏の歩んできた道も記されている。それを含めて、今を生きる私たちに対する重要な問題提起と受け止めた。
(文春新書、224㌻、定価950円+税)





















