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『風と共に去りぬ』巡って アメリカ映画にみる黒人差別と抵抗の歴史

 アメリカで黒人男性が白人警官に殺害されたことをきっかけに全米、全世界で奴隷制と人種差別への抗議行動が広がるなか、映画『風と共に去りぬ』が人種差別的だという理由で配信停止になり、解説動画付きで配信再開となった。この問題をめぐってアメリカ映画と人種差別について考えてみた。

 

 『風と共に去りぬ』(監督ヴィクター・フレミング)は1939年にアメリカで公開された。舞台は南北戦争前後の、米国アトランタ州タラ。主人公スカーレット・オハラは、多数の黒人奴隷を抱える綿花プランテーション経営者の娘で、わがままで勝ち気で薄情なお嬢様である。

 

 映画は、「騎士道精神と綿花栽培に象徴される古き良き南部で、主人と奴隷の世界が終わろうとしていた」というナレーションから始まる。スカーレットは南北戦争で若い友人を次々に軍隊にとられ、北軍によって家も土地も荒らされるが、命からがら生き延びる。そして北軍がすべてを奪ったという恨みと、みじめで貧乏な暮らしから抜け出したいという願望からカネを得るために妹のフィアンセを奪って結婚し、製材所を始めると安い囚人労働を使ってのしあがる。今度は商売で北軍に勝とうというのだ。

 

 この映画は、奴隷制の「美しき南部」が戦争とともに消えてしまった、戦争さえなければ幸せに暮らしていたのに……という、古い時代への奴隷主の郷愁が全編を貫くテーマである。スカーレットに仕える黒人奴隷たちは、皆主人に従順な召使いで、主人のために身を投げだす者、また無能で嘘つきな者として描かれる。奴隷が物として売買され、鎖につながれ鞭打たれ、そのなかで逃亡や暴動がくり返されてきた歴史は描かれない。

 

 アカデミー賞を独占したからといって「不朽の名作」ということにはならない。映画は時代を映す鏡であるとともに、なにを称揚しなにを否定するかというところに制作者の立場があらわれる。この映画は、ハリウッドがいかに人種差別的であったかの歴史的証言者ともいえる。

 

 ちなみにこの映画の背景となる南北戦争だが、北部の経済を牛耳る工業ブルジョアジーや銀行家が自由な労働力を求め、南部の大農園主と対立して始まったもので、北部・連邦軍の指導者リンカーンは南部一一州の南部連合に勝つために「奴隷解放」を掲げたにすぎない。「奴隷制廃止」によって連邦軍は黒人を軍隊に加え、奴隷の徴兵を拒否した南部連合に勝利した。そして奴隷解放は宣言されたが、黒人は最下層の賃金労働者になったにすぎず、人種差別はなくならなかった。

 

 現在のアメリカの抗議行動で、南部連合の将軍だけでなく、リンカーンの銅像も引き倒す標的になっているのは、そうした歴史があるからだ。

 

映画の一場面

 

『ミシシッピー・バーニング』

 

 

 一方、奴隷制と人種差別を根絶するために奮闘した人々を描いた良心的な映画も、米国映画史のなかでは幾つもつくられてきた。アラン・パーカー監督の『ミシシッピー・バーニング』(1988年公開)は、1964年にミシシッピ州で実際に起こった公民権運動活動家の殺害事件をモデルにしている。

 

 この映画は、いずれも20代の白人2人、黒人1人の3人の公民権運動活動家が、1964年6月21日の夜、車を運転している場面から始まる。3人はこの日、同州で起こった黒人教会の火災について調査に出掛け、地元警察に交通違反で逮捕され、その夜留置場から釈放された後、行方不明になった。

 

 当時、人口の45%を黒人が占め、その割合が南部のどの州よりも高かったミシシッピ州では、黒人に対する殴打やリンチ、家の焼き討ち、黒人教会への爆弾の投げ込みなどが横行していた。公民権運動が全米で発展し、ボランティアの青年たちが黒人の選挙権獲得のための活動を活発化させるなか、一部の白人がより過激になり、KKKを復活させていたのだ。しかもKKKには地元警察官や保安官なども入っており、襲った相手が暴徒なのか、警官なのか、州政府なのか、区別することは不可能だった。

 

 FBIが捜査を始めるが、住民の誰もがお互いをよく知っている田舎町では、捜査に協力しただけで襲撃の対象になる。だから黒人たちのなかでは沈黙とあきらめが支配していた。しかし、先住民チョクトー族が湿地帯の藪のなかで行方不明になった車を発見。やがて3人の遺体も見つかり、保安官代理と彼の仲間であるKKKのメンバーが犯人だと判明した。

 

 映画の後半、黒人たちが「法の下の平等とは何だ? 国民の自由と正義とは何だ? 殺されたのは黒人だが、流されたのは皆と同じ赤い血だ」とデモ行進を始める場面は、彼らの深い怒りと悲しみをあらわしている。

 

 ただ、この映画の弱点は、司法長官ロバート・ケネディに派遣されたFBI捜査官が黒人の救世主のように描かれていることだ。米国の歴史家ハワード・ジンは、当時、南部で黒人や公民権運動活動家たちが受けていた暴力や不当逮捕を司法省に何度通告してもFBIが捜査することはなく、この映画の3人の行方不明のときもそうだった、政府が何らかの動きを見せるのは黒人問題が世界に報道され「民主主義アメリカ」のインチキが剥がれそうになるときだけだったと指摘している。

 

映画『ミシシッピー・バーニング』より

 

 

『アラバマ物語』

 

 アラン・パーカー監督の『アラバマ物語』(1962年公開)は、自伝的小説が原作で、1930年世界大恐慌の時代の南部アラバマ州を舞台に、白人女性への強姦容疑で逮捕された黒人青年と、その事件を担当した弁護士アティカス・フィンチをめぐる物語だ。それを、当時小学生だった彼の娘スカウトの目から描いている。

 

 黒人青年トム・ロビンソンに被せられた罪は、まったくの冤罪だった。だが彼が裁判所の法廷に入ると、弁護士、裁判官、陪審員、傍聴者のすべてが白人で、黒人たちは二階の傍聴席に押し込められていた。証言が始まる前から、裁判官も陪審員も、「黒人は皆嘘つきで、不道徳で、白人女性に近づけてはならない」ということを無条件の前提にしている。そしてトムは、犯人は左利きなのにトムは左手が不自由だという決定的な証拠があるにもかかわらず、有罪となる。

 

 映画は、罪なき黒人を罪人に陥れることを許さず、自身や家族が身の危険にさらされようと真実を貫くアティカス弁護士という存在をそれに対置して、当時のアメリカの現状を問うている。

 

 裁判の前、トムを殺してしまおうと銃を持った住民数十人が家に押しかけるが、そこにいたアティカスに止められ、押し問答となる。その場にいあわせたスカウトが住民の一人に「カニングハムおじさん、私のこと忘れたの? 息子さんは同じクラスよ。不景気で作物が売れないのね」と問いかけ、カニングハムの合図で皆が引き揚げる場面。学校に弁当を持って来れないその息子を夕飯に誘ったのは、スカウトの兄だった。差別は黒人と貧乏な白人とを分断支配しようとする為政者の政策なのだと、見る者に問いかけている。

 

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この記事へのコメント

  1. つい先日、改めて本作を観た。戦前のあの時代に、よくぞこれ程の大作を作ったものだと、素直に感心した。上映時間が長いので忍耐が必要だが、作品は非常に共感できる内容で、普遍性があり、それでいてとても力強い印象を受けた。それにしても、スカーレットのビビアン・リーはやはり当たり役だ。彼女は、この役を演じるために生まれてきたと言っても過言ではないほど、俳優としての全ての魅力を爆発させていると感じた。もしかしたら、スカーレットがビビアンなのではなく、ビビアン・リーがスカーレット・オハラなのかも知れないと、ふと思ったりもした。
    ところで記事の中に、
    >この映画は、奴隷制の「美しき南部」が戦争とともに消えてしまった、戦争さえなければ幸せに暮らしていたのに……という、古い時代への奴隷主の郷愁が全編を貫くテーマである。スカーレットに仕える黒人奴隷たちは、皆主人に従順な召使いで、主人のために身を投げだす者、また無能で嘘つきな者として描かれる。奴隷が物として売買され、鎖につながれ鞭打たれ、そのなかで逃亡や暴動がくり返されてきた歴史は描かれない。
    という下りがあったが、これは解せない。奴隷はなにも、抵抗や反乱ばかりやってきたわけではない。また、
    >皆主人に従順な召使いで、主人のために身を投げだす者、また無能で嘘つきな者として描かれる。
    という認識は、全く正確性を欠いている。
    この時代、奴隷というのは単なる労働力ではなかった。古代ローマの時代とは明らかに異なる扱いを受けていたし、結婚もできた。もちろんその土地に縛り付けておくためという狙いもあったが、それでも人間的な生活を送っていたという点で、主要メンバーではないにせよ、家族の一部であったのは間違いない。少なくともこの映画を観ていて、いわゆる〝奴隷〟という言葉が放つ、非人間的で過酷で、機械的な印象は受けなかった。むしろこの映画の作り手は、奴隷とはそういう面ばかりではなく、もっと家族と親しい関係にあったということを伝えたかったのかも知れないし、さらに言えば、とてもよい役どころだった教育係の〝マミー〟をはじめ、多くの使用人や奴隷たちが、家族にとって、またオハラ家の再興において、絶対的に欠かせない存在だったということを、我々に示しているように感じた。
    私は奴隷制を肯定しない。しかし単に奴隷といっても、国や時代によってその扱われ方は決して一様ではなかったということには、言及するべきだと考えている。その歴史的変遷に眼を向けることが、昨今の黒人差別問題に一石を投じ、真に良識ある議論に我々を回帰させてくれるきっかけになるのではないだろうか。それが、時代背景や作者の意図を完全に無視し、単に現代の感覚だけで、本作を〝差別的だ〟と批判して憚らない無学な者たちに、本当の歴史というものを認識させるよい機会になるはずだ。多かれ少なかれ、文学や芸術には、現代から見れば差別的な内容や言葉が多分に含まれている。むしろそこに気づくことが、当時を生きた市井の人びとの苦労を知ったり、作者の深い意図を汲み取ったりする手掛かりになる。文学や芸術は、その時代を様々な手段で写しとり、再構築し、後世に語り継ぐ使命を担っている。それが不可能になれば、歴史修正主義が罷り通る世界に逆行してしまうだろう。それは歴史の退行を意味する。それでよいはずがない。差別的な表現には、予め断りを入れて告知しておけばよい。編集して無かったことにするのは愚行であるし、祖先に対する尊厳と礼儀を欠いている。過去の映画や文学に対する我々の立場を、改めて議論する時期に来ているのではないだろうか。それはまた、学術的、文化的な正確さと、歴史に対する畏敬の念をもって論じられるべきである。

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