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大韓航空経営者一族の傍若無人さの背景 日本航空・小佐野賢治と趙重勲にみる

 大韓航空のナッツ・リターン事件を起こした趙亮鎬・同航空会長の次女(前副社長)に続いて、その妹(前専務)が商談相手に激怒しコップの飲料水をぶちまけ、2人が「ナッツ姫」「水かけ姫」と揶揄されるなか、今度はその母親(会長夫人)である李明姫が職員・従業者にあられもない暴行を加えていたことが暴露され、逮捕される事態となっている。この過程で、趙一家が海外で購入した私物を関税を通過せず持ち込んでいた疑いも浮上している。一連の傍若無人な振る舞いを分け入りさかのぼると、彼らがどのようにして財閥を築いたのかという疑問にたどりつく。そして、韓国財閥と日本の支配層の米軍を介した闇の構図が浮かび上がってくる。

 

小佐野賢治(左)と趙重勲

 逮捕された李明姫は、取り調べに対して「覚えていない」をくり返しているという。「記憶にございません」は、日本ではモリカケにいたるさまざまな疑獄・不正事件でおなじみの逃げ口上だが、それを最初に多用したのは、ロッキード事件で国会の証人喚問を受けた日本航空の小佐野賢治であった。政商・小佐野が大韓航空で桁違いの日本人株主であったことは単なる偶然とはいえない。そこから、戦後の米軍占領と朝鮮戦争下の米日支配層の黒い癒着の構造が、韓国の財閥支配と直接結びついていたことが浮かび上がってくる。

 

 小佐野はロッキード事件で、田中角栄やCIAのエージェントである児玉誉士夫と癒着して米軍がらみのボロもうけをしたことが暴露された。そのさい、当時、社会を驚かせた金大中拉致事件の闇の解決のために裏で動いたことでも知られる。

 

 そのとき韓国側から朴正煕の代理人として対応したのが、当時の振興財閥・韓進グループの創業者・趙重勲であった。「ナッツ姫」「水かけ姫」の祖父である。趙重勲は、日本に渡るさい、入管・税関もフリーパスという特別待遇であった。

 

 その息子・趙亮鎬(大韓航空会長)は韓国の陸海空運輸・物流業界を独占支配する財閥、韓進グループの会長でもあり、大韓航空はその中軸をなしている。韓進グループの原点は、戦後米軍の特需で成り上がった「国際興業」の小佐野賢治の助けを借りて、朝鮮戦争からベトナム戦争に便乗し、米軍の輸送事業でボロもうけしたことにある。

 

 小佐野は戦争中、運輸業で軍に食い込み、佐官待遇で軍需省の民間嘱託として荒稼ぎした。それが敗戦と同時に、米軍の指定商となり鉄条網鋼柱や輸送用パレットなどの特需を受け、朝鮮戦争では朝鮮半島に進出し、米軍基地内でバスを運行させてぬれ手に粟のもうけにあずかった。さらに、ベトナム戦争のさなかの1965年、南ベトナム最大の米軍基地であるロンビン基地内で、米軍将兵輸送用バスの貸し付けとバスの修理事業で稼ぎまくったのである。

 

 一方、趙重勲は日本の植民地支配のもとで、神戸の造船所での見習工をしながら二等機関士の資格をとり、故郷の仁川でエンジンの修理工場を経営していたが、第2次世界大戦直後に、韓進商事を設立しトラック運送業に転身し、日本人の引き揚げを請け負った。

 

 そうして、朝鮮戦争では仁川港に着く米軍物資の輸送を請け負うとともに、米軍相手の売春宿を提供していたことも醜聞として伝わっている。1956年には、駐韓米軍(第八軍)から仁川港・ソウル間の物資輸送を請け負い、バス事業に乗り出そうとした。このときに、米軍払い下げの80台を購入する資金が集まらず弱っていた趙重勲に、手を差し伸べたのが小佐野であった。小佐野は、1台1万㌦で80万㌦(当時2億800万円)もの巨額の資金を韓進に注ぎ込み、それが米日韓をつなぐ政商としての腐敗の構造の端緒を開くこととなった。

 

 小佐野と韓進の関係は、趙重勲がベトナム戦争特需をもくろんだときにさらに強まった。韓進は韓国からベトナムに運ぶ米軍や韓国軍部隊の物資輸送を請け負い、それまでとはケタ違いの利益を得る目算を立てた。だが、ここでも米軍と契約するには300万㌦もの保証金を預託し、数百万㌦分の装備類を自前で整えなければならなかった。

 

 このとき小佐野は、米軍の提示した総額1000万㌦の投資額のうち7割を肩代わりし、装備700万㌦相当のクレーンやトラックを回した。小佐野は当時、日本航空の個人筆頭株主だったが、日航がベトナムに物資や兵員を直接輸送することができないため、その見返りとして、ベトナムに飛ぶ大韓航空に日航機をレンタルする形で特需をものにした。

 

 韓進は、米軍軍属並みの待遇で韓国の労働者をベトナム戦地に送り込み、多数の犠牲を強いて、1億5000万㌦を稼いだ。それは韓国全体の65年度輸出総額(1億7000万㌦)に匹敵するものであった。

 

 こうして1969年、韓進は朴正煕から当時国営航空会社であった大韓航空公社の民営化を託され、これを大韓航空として傘下に収めることができた。さらにこの年、アメリカの海運会社シーランド社とコンテナターミナルを運営する契約をかわし、それから1年もたたない1970年、釜山港にコンテナ埠頭を開業させてコンテナ業務に参入。1977年には韓進海運を設立し海運業にも市場を広げていったのである。

 

 韓進グループへの韓国民衆の怒りは、アメリカと従属した朴槿恵の国家の私物化・腐敗を暴き打倒したたたかいのうえにある。それは、米軍・CIAと結びついてクーデターによって独裁と圧政を続けた父親・朴正煕を打倒した民主化闘争と一つにつながったものでもある。

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