(2026年7月10日付掲載)

JR下関駅前に隣接する大丸下関店とシーモール
下関市で唯一の百貨店である大丸下関店が6月30日、2027年8月末で営業を終了することを発表した。1950年の下関大丸開業から76年。山口県内では最大都市である下関で市民とともに戦後の歴史を刻んできた百貨店が消える。近年の下関の衰退ぶり、そして下関駅前の壊滅ぶりを多くの市民が目の当たりにしてきただけに、寂寞の思いを持ちながらも、「いよいよか…」という受け止めが大半だ。下関の栄枯盛衰を象徴する大丸閉店をめぐり、その歴史も振り返りつつ記者たちで論議した。
「駅前開発」の末の「駅前壊滅」
A 大丸下関店の閉店のニュースは、これまで囁かれていたことであったとはいえ、下関市民にとっては衝撃的なニュースだった。直近の2025年度の売上は約68億円。ピーク時(1992年)の約320億円に比べると約2割まで落ち込んでいて、コロナ前の水準にも回復していないという。減収傾向に歯止めをかけることができず、この1、2年さまざまな選択肢のなかで検討を重ねてきたが、「慎重に検討した結果、営業を終了することを決定した」ということだった。従業員に閉店の決定を伝えたのも発表の直前、午後3時30分だったそうだ。
大丸によると、従業員約100人のほか、テナント従業員など800人くらいが館の中で働いているという。20年のリニューアル前後に希望退職を募って規模を縮小した記憶があるが、それでも900人規模の仕事場だったんだなと驚いた。下関では一大企業だ。従業員については基本的に雇用を継続する方針を示してはいるが、やはり雇用面での影響は出てくるだろう。また、とくに地下の食品売場になると、おせちとか弁当とかで関係する地元業者もあって不安を口にしている。
隣接のシーモール下関も来年8月に大丸が閉店することが決まった状態で、契約を更新するかどうか(最近は1年など短期契約になっている)という問題も指摘されており、雪崩を打つ可能性も懸念されている。
B 売上減少に歯止めがかからなかった―ということだが、2025年度(26年2月期)で見ると、全国9店舗のうち下関店の売上の落ち幅は7・3%とダントツだ。額で見れば須磨店(63億円)、芦屋店(43億円)と、下関店より少ない店舗はあるものの、いずれも売上は増加に転じている。トップの心斎橋店なんて1000億円ごえだし、神戸店が富裕層やインバウンドなどの消費をとりこんで19年ぶりに1000億円超をたたき出したそうだ。下関店は、24年度も5・3%減、23年度も6・5%減と、他店舗と比べて売上の落ち込みが著しいのが数字からも見てとれる。
記者会見で「消費者の年齢構成や買い物行動、働き方の変化により百貨店の主力だったファッション需要が変わるなか、自社の強みを生かした対応が十分にはできなかった」との説明がなされていた。確かに「紳士服がなくなってしまった」とか「品揃えが…」など、以前は大丸で買い物をしていた市民の声があったりするのは事実だが、この落ち込みには「大丸の努力不足」だけでない下関の事情が絡んでいることは地元民なら感じると思う。
A 大丸松坂屋の直営になったのが2020年のことだ。そのときに下関大丸から、大丸下関店へと名前も変更し、18年ぶりの全館リニューアルを実施した。人口減少、高齢化、ネット通販の台頭など、地方百貨店が淘汰されていく市場環境のなかで、「地域に恩返ししていくことを目指す」とした百貨店改革の一環で、大丸下関店は地方改革のモデル店舗とも位置づけられていた。ニトリや東急ハンズの新業態・プラグスマーケット、関門エリアの産品を扱う「KANMON U.W」などが入ったのもこの時だ。下関大丸から大丸下関店へと形態も変化するなかで、「これが最後の投資になるそうだ」と周囲の商業者のなかで囁かれたリニューアルであったとも記憶している。ただ本社直営になったとはいえ、リニューアルに当たって大丸側の熱意ある姿勢に感銘を受けたという関係者もいるので、下関大丸が刻んできた歴史をつなごうという姿勢であったようだ。
しかし、リニューアルオープンした20年3月はコロナ禍に突入した時期と重なり、テナントとして入った店舗もかなり苦戦を強いられた。1階に入ったアインズ・トルペ(コスメ&ドラッグストア)は23年2月に撤退してしまったし、6階の「KANMON U.W」も23年末に閉店し、24年4月にはニトリも撤退してしまった。現実的に、駐車場も狭い駅前の商業施設で大型の家具を販売するのは難しかったという評価が多いのは事実だ。そんなこんなで、リニューアルで業績を好転させることができなかったことも、閉店の判断につながったのだろうと思う。
知っていた前田市長 大規模開発の公約が裏目に

大丸下関店の入口
B 駅前はほぼ放置状態だった前田市長が23年10月に突如、市長名で「下関駅前応援宣言」を発表し、プレミアム付き商品券事業やトイレなどの改修、無料送迎バスの実施、テナント誘致に関する補助金など3億2000万円の資金投入をしたのも、こうした状況を受けてのことだ。関係者が市長に陳情に行ったのだという話もあるから、もしかしたら大丸側から撤退の可能性も打診されたのかもしれない。「市長選前に大丸撤退の動きが出ることを恐れた前田市長が慌てて動いている」と見ていた市民も少なくなかった。
そして、24年4月の当初予算でニトリが撤退した5階フロアに学習スペースを設置することを発表。同年6月補正予算で、マイナンバーカードセンターも移転することが発表された。空きフロアのうちマイナンバーカードセンターで約100坪、学習スペースで約100坪の計200坪を市が借り上げて、現在も稼働している。学習スペースは中高校生がけっこう利用しているのでニーズはあったのだろうが、2つ合わせて月300万円程度の家賃を支払うくらいでは、なかなか大丸の経営改善にはつながらなかっただろう。同じ5階にある「ザ・キッズ」(子どもの遊び場)も平日はガラガラでお年寄りが座っていたりするし、6階も催しがないときは使われていない。衣料品のフロアでもテナントの跡地が休憩スペースになっていたりして、すでに侘しい雰囲気が漂っている。
C それに関していえば、前田市長が25年3月の市長選の公約で下関駅周辺エリアの開発をぶち上げたことを考えると、その後のテナント誘致は困難だったであろうことは想像に難くない。シーモール(25年当時で築48年)や人工地盤の解体も含めた大規模開発をする――みたいな構想で、しかも次の任期中の4年以内の着工、10年以内の完成を目指すという話だったから、そのタイミングで本腰入れて出店するテナントはなかなかないだろう。この公約にはシーモール関係者、周辺事業者、工事関係者、市役所関係者もびっくりだった。ちょうど駅前人工地盤では2020年度からエスカレーターを撤去して、階段とエレベーターを新設する総額11億円もの大規模工事が進んでいる真っ最中だったからだ。
大丸の閉店発表後の記者会見で前田市長が、「25年1月にトップシークレットで説明を受けたから選挙公約に駅前の大規模開発を掲げた」と説明していたが、公約の発表は24年12月であり、その時点で駅前周辺エリアリニューアルが盛り込まれている。むしろこの公約のおかげで決まりかけていたテナント誘致が破談になってしまったという話もあって、「公約がとどめを刺した」という指摘の方が事実に近い気もする。だれかの意向を受けてのことだろうが、考えなしに発言するからこうなる。
D とはいえ、閉店の判断に至った根本の要因は下関市民の購買力の低下であることは間違いない。だましだまし延命してきたのが限界を迎えたのだろう。
40代の人が「幼いころ“右側はお金持ちが行くところだから、うちは入れないからね。左側が私たちの行くところよ”とダイエーに連れて行かれていた」といっていたのを聞いて、たしかになと思った。真ん中にシーモール専門店街があって、向かって左側がダイエー、右側が大丸。「思い出といえばダイエーとシーモール」「大丸に行くのは盆正月の地下食品街くらいだった」という人も少なくない。そのように昔から下関には右側の人と左側の人が住んでいたのだが、大丸の苦境は、右側の人の層すなわち懐に余裕のある中流層がかなり薄くなってきたことのあらわれでもある。
もちろん、スマホ一つで買い物ができる時代になったことも大きいし、無秩序な市街地開発ともかかわって、ゆめグループを筆頭に郊外にスーパーやドラッグストアなどが進出し、少し車で走れば北九州側のアウトレット、博多天神などに足を伸ばして買い物するという流れもある。縮小していく商圏が飽和状態になっていることもあるが、それに負けてしまったのは、大丸で買い物をする層の市民が減ったからだ。
C 思い返せば、10年ほど前までは、毎日のように大丸に行って「今日はこのスカーフを見つけたの」といってプレゼントして下さる方もいた。そういう人たちが高齢化で世代的にもいなくなり、忙しい奥様たちが増えてきた。そして残っている右側派の奥様たちは、ひいきのブランドがなくなったのをきっかけに、大丸を通り越して小倉井筒屋に行くようになったりしている。
B 近所の商店主がいっていたが、昔は小倉井筒屋で買い物をした人は、下関駅まで帰ってきたら大丸の紙袋に入れ替えていたそうだ。地元を裏切るような後ろめたさがあったのかもしれない。だが最近はみんな堂々と井筒屋の紙袋を下げて帰ってくる光景を見ていると、「下関は寂れたなと思う」といっていた。
「長靴で闊歩する百貨店」 水産業で栄えた下関

1956年に下関駅西口に移転した大丸店舗(旧館)(下関市立図書館所蔵『下関大丸五〇年史』より)
C 40年前に下関に嫁いで来たという女性が話していたが、大丸があることで下関は県内他市町と比べると明らかに格上感があったそうだ。当時は親戚も「大丸があるから」といって遊びに来ていたそうで、「丸い大丸のマークと紙袋、あれがステータスだった。お歳暮とお中元は必ず大丸に行って贈る。あの紙袋が大事でね…。なくなってしまったら本当に寂しい」といっていた。でも、下関の急速な寂れ方を目にしてきて「40年でここまで寂れるのか…」というのが実感だそうだ。「バスも運転手がいなくなって、病院もなくなって、百貨店が残るはずがないよね」と。
B 古い人たちは「下関大丸は長靴を履いた人たちが闊歩する百貨店だった」とだれもがいう。水産業で日本一とも東洋一ともいわれる水揚げを誇った下関ならではの光景だ。それだけ水産業が経済の中心だったし、下関大丸も大洋漁業がそもそもの母体だ。90代の人が話していたが、以西底引き船が入っていたころは、そこから新地方面まで、鮮魚を売る長門市場があり、飲み屋や遊郭などもあり、漁港周辺はすごい活気だったという。下関の先帝祭と小倉の祇園は、「雨が降らなければカネが降る」といわれたくらい賑わっていたそうだ。最盛期には以西底引き船だけで60社・386隻あり、漁港に横付けできないから縦づけで係留されていたという。昔の写真など見ていたらいかに現在が寂れているかがわかる。
D 林兼産業の魚肉ソーセージ工場で働いていた人が話していたが、昭和40年代に入社したころは、魚肉ソーセージが全国でものすごい売れて儲かっていたそうだ。社員が1200人くらいいて、うち800人が女性。夜飲みに出るとだれかに見つかって、翌日の社員食堂(数百人入る食堂だったそうだ)で話題にされるから、管理職は北九州に飲みに行っていたという笑い話もしていた。
そのころは境港や鹿児島など全国の水産高校から研修に来て、そのまま次の年は新入社員になっていたそうだ。儲けがすごかったから、林兼産業で船をつくり、それを大洋漁業に貸したりしていたという。ちょうど下関漁港が水揚げ日本一の頃だ。「あの頃は下関駅を下りて歩いて会社に通っていたが、下関漁港は活況だった。今はほとんど魚がいなくなった。大丸がなくなるのは寂しいけど、そういう歴史も思い出す」と話していた。
近年は足が遠ざかっていた人が多いとはいえ、やっぱり「大丸閉店」というニュースは市民にとって衝撃だ。「私の命は大丸とともになくなるの」と冗談ながらにいう人もいたというが、大丸の歴史といったとき、それは同時に下関の戦後からこの方の歴史であり、一人一人の人生でもあるという感じだ。ちょっと大げさかもしれないが、そのくらい思い入れが格別だ。
全国4番目の出店 大洋漁業の隆盛背景に
A 下関大丸が開業したのは1950(昭和25)年、終戦から5年後のまだ敗戦による混乱が残るなかでのことだ。下関は終戦間際の1945(昭和20)年の6月29日と7月2日、二度にわたるB29の空襲で焼け野原になった。中国地方では原爆を投下された広島に次ぐ被害だ。公式記録では犠牲になった市民は324人となっているが、被害の全容は明らかではない。しかし、4万人をこえる人々が家を失い、上水道、ガス、電車電線などすべてが破壊され、都市機能が停止する壊滅的な被害を受けた。
『下関市史』には「市政は一転して、衣・食・住のすべてにわたる復興から、着手されなければならなかった。そして、市民生活に明るさを取り戻すのに、およそ10年間を要した」と記述されている。NHKのラジオ番組「話の泉」で「日本中で一番復興の遅れている都市5つ」のなかに下関が入るほど戦後復興は遅れ、細江町の旧駅周辺も、戦後3年目を迎えても焼け野原のまま家を建てる人がほとんどいない状況だったそうだ。山陽通りあたりの問屋筋の復興が遅れたことで、下関の商取引は目に見えて不活発になったとか。
それは、敗戦で植民地朝鮮との交易が断絶し、関門鉄道トンネルの通過客が増えて下関の投宿者が激減するなど、交通の要衝としての繁栄、大陸の玄関口つまり侵略の基地であったがゆえの繁栄が失われたこととも関係している。
B 『大丸五〇年史』にはそんななか、「復興の息吹は『港』と『水産』を拠り所に起こった」と記されていた。もともと下関は明治から大正期にかけてトロール漁業の基地として発展しており、大正期にはすでに下関の鮮魚市場は世界第2位といわれるほど活況を呈していたそうだ。しかし、戦時下の「水産統制」で、下関漁港を基地にするトロール漁船は徴用され、終戦直後は七隻まで減少していた。そのほかの以西底引き網漁業や旋網漁業も漁船数が減少して老朽化もめだっていたなかで、一気に漁船の建造が始まった。
昭和22年11月13日付の『朝日新聞』に、「終戦直後の全国の漁船数は百数十隻、十月末現在約九百隻にのぼり、そのうち下関港を根拠地とする漁船は、トロール三三隻、機船底引き三二七隻、きん着漁船四九隻、運搬船一二六隻で、全国の半数以上を占めており、ますます増船する傾向がある(略)」という記述があるのを見ると、いかに下関が全国有数の水産基地として急回復したかがわかる。それは林兼商店が戦後に発足させた「大洋漁業株式会社」(現在のマルハニチロ)がGHQの格別の庇護を受けて急成長したことともかかわっているのだが。昭和22年中のGHQの漁船建造許可数の3割を大洋漁業が占めていたというからすごい。それで戦前以上の馬力で漁場に乗り出し、その後の以西漁場を完全に支配することができた関係だ。
C 市民の復興意欲を奮起させるために1947(昭和22)年に開催されたのが「下関復興港祭」(後のみなと祭)だったことも、町の中心が水産業だったことをあらわしている。そんななか大洋漁業の中部兼市社長が「戦災からの復興をめざす下関のために」と、大阪の大丸百貨店と話し合いを重ねた末に共同出資によって創設したのが下関大丸だった。まだ露天商やヤミ市が盛んだった時代だ。
当時は山口県内や九州各県にある百貨店は地場資本のもので、全国的に知られた老舗「大丸」の名を冠した「下関大丸」の誕生は、下関が近代都市として一つのステータスを得た感があったという。大丸としても地方への進出を考えていたときで、高知や鳥取に続き下関は全国4番目の創業だったそうだ。
近代化の軸として 従業員のストライキも

戦後5年目に貿易ビルで開業した下関大丸(1954年、『下関大丸五〇年史』より)
A 最初は、水産業界が出資して建設中だった港ビル(貿易ビル)で開業したのだが、開業にあたって秘密裏におこなった調査で調査員がもっとも驚いたのが下関の物価の高さだったそうだ(下関は戦後のインフレの影響がとくにひどかったという)。「下関の物価は高い」というイメージからとかく小倉方面に流れる客足をいかに止めるかがけっこうな期間課題だったという記録を見ると、昔から下関の人は小倉に買い物に行っていたのか…なんて思ったりする。開業と同じ年には9年ぶりに魚市場が復活して、下関魚市場、中央魚市場が開業し、市民館が開館し、人口が20万人を突破するといった状況のなかで下関大丸も好調のうちに発進した。もちろん同年に勃発した朝鮮戦争の特需もあった。
B おそらく貿易ビル時代を知る人は少なくなっている。今の市民の思い出で一番出てくるのが1959(昭和34)年に下関駅西口にオープンした2店舗目の時代ではないか。70代の人が子どもの頃、西口にあった大丸に初めて行って、エスカレーターに初めて乗り、階段が動くことに度肝を抜かれた思い出を話していた。下関にまだエスカレーターがなかった時代。「階段が動くっちゃどういうことか」と思って、最後に階段が吸い込まれていくのが恐ろしくて仕方なく、必死で飛び越えたそうだ。
C 下関商業を卒業して18歳で入社したという女性も、西口に建て替わった新品の建物で働き、接客、電話の取り方、包装、人との関わりなどいろんなことを学んだそうだ。従業員食堂でお昼ご飯を食べるときに同期の友人が「お湯を入れたらラーメンができるんよ」といってチキンラーメンを持ってきて初めて食べた思い出や、組合に入って中電やサンデンの人たちと一緒に賃上げや労働条件の改善を求めて運動し、ストライキで座り込みしたり、山登りやキャンプ、課ごとの旅行などもあって楽しかったと話していた。
D 2店目の店舗は、商業地として一等地でもあった下関駅西口の公有地に建設された。曲折の末、福田泰三市長の強い意向もあって公有地の払い下げが決まったのだが、そのときに不正が発覚して市民の糾弾を浴びる出来事もあったという。下関の街は、林兼造船、林兼産業をはじめ、漁網やロープ、ペイントなどの造船関連、日新タンカーなどの燃油運搬、さらには大洋商船、長門運送など運搬業、大洋住宅、林兼病院、厚生病院、メイフラワーホテル、東貿易から高利貸しや料亭、大洋ホエールズ(現在の横浜ベイスターズ)まで、よくも悪くも「大洋の街」として活況を呈していたのだ。
下関初のエレベーターとか、婦人サロン、画廊といった文化的な施設、屋上遊園地などを備え、当時の地方都市の商業施設としては先端を行く機軸数多く盛り込まれた新店舗で、開店日には待ち構えていた1000人がどっと雪崩れ込んだというから、当時の百貨店の存在感がうかがえる。今、下関で開店と同時に人が雪崩れ込むのは野菜の100円市場とかだ。
A 大丸の新店舗建設が一つの契機になって、それまでまとまりのなさが指摘されていた市内の商店街およそ550軒の小売店が、協同組合形式で一本にまとまって団結することが決まったとかで、そういう意味で下関の近代化の軸になってきたこともわかる。
B 近代化という意味では、労働者の問題も一つの歴史だ。下関でも戦後の民主主義要求などの高まりのなかで、物資不足や物価高騰による生活不安を打開するという現実的な問題や、労働者の地位向上を目指して三菱下関造船所を皮切りに労働組合ができていき、下関大丸でも昭和28年に労働組合が結成された。そして、昭和30年には「一律1000円プラス・アルファ」と労働条件の改善を求めて24時間ストに突入し、「労組は約160人の女性従業員が主体となってピケで店舗をとりまき、会社側は屋上から『本日臨時休業』という大垂れ幕を下げるといった事態となり、百貨店のストとしては世間の注目を集めた」(『大丸五〇年史』)という。当時の本紙の記事を見ると、このときストライキなどを動かした中心メンバーの平均年齢は22歳と書いてあった。そういう意味でも活気を感じるし、一つの歴史だと思う。
C 下関漁港の水揚げが日本一の約28万5000㌧を記録したのが昭和41年のことだ。この年、下関大丸も年商30億円を突破。昭和47年には年商80億円を、翌49年には100億円を突破するなど、ひたすら上昇をたどっている。しかし、日本一になったわずか6年後には以西底引き船の減船が始まり、二度のオイルショックや昭和52年の二〇〇カイリ規制などをへて下関の水産基地としての栄光も次第に薄れていき、衰退の道をたどっていった。とくに遠洋漁業のほとんどは他国の二〇〇カイリ内で漁獲していたものだから大打撃だ。以西底引き船は減船が続いて平成4年に消滅。今春には最後の巻き網船団が廃業した。水産都市の「最後の砦」となっている以東底引きも6カ統(12隻)と寂しい限りとなっている。

1977年のシーモール下関の開業時。開店を待つ長蛇の列(『下関大丸五〇年史』より)

開店と同時に大丸に入店する人々(1977年、『下関大丸五〇年史』より)
開発急ぐ前田市政 軽薄な発想に批判の声
A 危機感のなかで地元商業界や経済界が主導して大丸やダイエーと一緒に開業したのがシーモール下関だったが、それも開業当時の賑わいはどこへやら、下関駅前は惨憺たる状況になっている。10年前は下関の年間人口減少が2000人だと問題になっていたが、今は年間3400人減のレベルになっていて、どんどん減少幅が増加している。若い世代が少ないのに加えて高齢者が亡くなっていくからだ。市民のだれもが「これだけ寂れて百貨店が撤退するのは仕方がない」と思うほど、下関は人口減少・高齢化が著しい。
山口県全体も同じような状態だ。2013年2月に近鉄松下百貨店(周南市)が閉店、2018年12月に宇部井筒屋(宇部市)が閉店して、来年大丸下関店が閉店すれば、残る百貨店は山口井筒屋(山口市)だけになる。山形、岐阜、島根、徳島に続いて百貨店ゼロ県の仲間入りを果たすのも遠い未来ではないかもしれない。
B ところで、大丸撤退をいい口実に、前田市長が急いで駅前開発をするとかいっている。今のところ山口銀行が本社を建て替えることを公表しているだけで、まだ表向き計画は未定だが、すでに実施計画とロードマップの案を作成する業務を「セントラルコンサルタント・日本総合研究所設計共同体」に約2800万円で発注しており、来年3月末までに計画案を作成することになっている。また、今年中に周辺の地権者である山口銀行、大丸、下関商業開発、日本セレモニー、JR、下関市の六者を中心に官民連携協議会を立ち上げて検討を進めるほか、デベロッパーの発掘も進めるそうだ。公約に掲げていた「4年以内の着工、10年完成」のスケジュールで進んでいる。
しかし、駅前の惨状を嘆く声は多いとはいえ、10年ばかり前に総額150億円かけて「にぎわいプロジェクト」をやったばかり。市民から「今度はどれだけ使うのか」という視線が注がれるのは当然だ。いくらカネをかけて「駅前開発」をしたところで「駅前壊滅」にしかなっていないのだ。
A いったいどれだけカネを使えば気が済むのだろうかという意見もあるが、それよりも「前田晋太郎がやって大丈夫なのか」という声が多い。市立大学に料理学部だかフードビジネス学科だかをつくるといってスペインに行き、「ピンチョスで街おこし」などといっているという話だ。たとえば大丸下関店で働く人たちにとって、その撤退は人生が変わるような重たいできごとだ。それに対して「ピンチョスとバルで街おこし」みたいな思いつきや軽さでは、下関の立て直しは無理だろう。現実が何も見えていない。
下関大丸の歴史を見てもわかるように、商業や観光分野の発展は、足元の産業あってのことだ。そうして市民の懐に余裕があってのことなのだ。歴代下関市長が「観光、観光」とやってきたけど、街全体はひどく衰退してきたのがそれを証明している。解体されるビルや建物が増え、市街地も歯抜けのようになり、「下関終わってるよね…」「10年後、20年後が想像できない…」と話題にもなる。大丸下関の栄枯盛衰が、下関の栄枯盛衰を象徴しているのだ。
C もう火の山に90億円とか、ジップラインとか観光とか、遊び半分のような事業にバンバン市財政が投じられることにみんな辟易している。それより築60~70年の小中学校の校舎の建て替え、水道料金の抑制、産業基盤の立て直しなど、行政が市民の暮らしの方に目を向けるべきだという声は日に日に強まっている。
下関という地方都市にとって、その存亡ともかかわって行政が機能しなければならない重要な局面だが、道楽趣味みたいなことばかりしていたのでは話にならない。駅前開発といって再び商業施設をつくったところでリピエのようになるのは目に見えているし、結局のところ銀行なんかも関わった建物利権にしかならない。現在の下関にとって本当に必要な駅前にすることが求められているし、それは大急ぎでなにがしかの事業をとってつけるというのでは必ず失敗する。地に足つけて大丸撤退以後の駅前の在り方を模索するべきだろう。





















