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“日米合作”の原爆投下を告発 関連書籍・資料にみる

 原爆投下知り握り潰した大本営 予告聞いた被爆市民の経験



 藤原章生(ジャーナリスト)の近著『湯川博士、原爆投下を知っていたのですか』(新潮社)は湯川秀樹の「最後の弟子」で、「原子力ムラ内の批判派」といわれた故・森一久の半生をたどっている。森は広島で被爆しておりそれを知る湯川秀樹から生活上の配慮、世話を受けていた。著者は、森自身がその背景に湯川が戦時中に広島に原爆が投下されることを知っていたことがあるのではないかとの思いをめぐらせていた事情を明らかにしている。


 それによると、今も現役の水田泰次・大阪合金工業所会長が、京大工学部冶金教室に入学したばかりの1945年5月、西村秀雄主任教授から広島市内に住居がある学生として呼び出され、アメリカの原爆開発について情報を得たことを、森と同じ旧制・広島高校の同窓会誌に書いていた。



 第1回現地テストを広島で 米国学会から知らせ 



 水田青年はそこで、「米国の学会から秘密裡にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさい」といわれたこと、それを受けて「早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も云わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させた」と証言していた。


 森が水田と直接会って確かめるなかで、「そのとき湯川博士が同席していた」ことを知らされ、大きな衝撃を受けたという。


 本書では、森がこの問題に自問自答しつつ結局解明されないまま他界したことを明らかにしつつ、著者自身もそのことの真相に迫れないままもどかしさを残して終えている。


 本書では明らかにされていないが、湯川博士とアメリカの原爆製造計画(マンハッタン計画)に携わった科学者との間で、戦前から学術的な連携関係があったことは事実である。また、アメリカでは原爆が投下される半年前に、「原爆使用反対」の声や「日本の都市に落とす前に警告を発すべきだ」などの要請が、原爆開発に携わった科学者の間から出されていた。湯川博士が、その中心となったシカゴ大学冶金研究所のコンプトン所長と親しい関係にあったことも知られている。


 だが、この問題はあらためて、広島、長崎への原爆投下について一部の人は事前に知らされており、さらに疎開して助かった者がいたことを考える機会を与えることになった。この種の証言はこれまでもいくつか活字でもなされてきた。



 敵国の放送聞いてはならぬ 市民の情報遮断し 



 たとえば、織井青吾著『原子爆弾は語り続ける―ヒロシマ六〇年』(2005年、社会評論社)は、当時14歳の織井氏が原爆投下の直前、陸軍通信隊(当時広島文理大に駐留)の兵士から次のような話を聞いたことを明らかにしている。


 「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している……それを知らせてあげようと思ってね……」「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る」
 これは、「日本児童文学者協会・日本子どもを守る会」編『続・語りつぐ戦争体験一ーー原爆予告をきいた』(1983年、草土文化)に掲載された宮本広三氏の体験と重なるものである。宮本氏は当時25歳で、広島逓信局の監督課無線係として勤務していた。8月1日、受信調整をおこなうとき、サイパンから流されるアメリカの日本向けラジオ放送(「ボイス・オブ・アメリカ」)が「8月5日に、特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げて行きなさい」と数回くり返したのを聞いた。


 宮本氏は、「敵国の放送は聞いてはならない」と厳命を受けていた。しかし、これまでときおり聞こえたこの放送局からのニュースや空爆の予告が、実際に起こった空爆と合致していたことから係長にこのことを報告する。だが、「敵性放送を聞くとはなにごとだ、デマをもらしてはいけんから、おまえは家に帰さん!」と叱り飛ばされた。


 5日には何事もなかったかのように見えたが、翌朝、警戒警報が解除されて係長が出勤し「やっぱりなにもなかったじゃないか」と話したときに、原爆の直撃を受けた。


 黒木雄司著『原爆投下は予告されていた!』(1992年、光文社)も著者が中国戦線の航空情報連隊情報室に勤務していたとき、インドのニューディリー放送による広島・長崎への原爆投下の予告を傍受した体験を克明に記録したものである。


 著者はその「まえがき」で次のように書いている。「このニューディリー放送では原爆に関連して、まず昭和20年6月1日、スチムソン委員会が全会一致で日本に原子爆弾投下を米国大統領に勧告したこと。次に7月15日、世界で初めての原子爆弾爆発の実験成功のこと。さらに8月三3日、原子爆弾第1号として8月6日広島に投下することが決定し、投下後どうなるか詳しい予告を3日はもちろん、4日も5日も毎日続けて朝と昼と晩の3回延べ9回の予告放送をし、長崎原爆投下も2日前から同様に毎日3回ずつ原爆投下とその影響などを予告してきた」


 「この一連のニューディリー放送にもとづいて第5航空情報連隊情報室長・芦田大尉は第5航空情報連隊長に6月1日以降そのつど、詳細に報告され、連隊長もさらに上部に上部にと報告されていた模様だったが、どうも大本営まで報告されていなかったのではないだろうか。どこかのところで握りつぶされたのだろう。だれが握りつぶしたのか腹が立ってならぬ」



 爆心地に市民集め大虐殺 天皇、支配層の延命条件に



 これらのアメリカからの情報が、大本営、天皇とその周辺に伝わっていたことはいうまでもない。『広島原爆戦災誌 第一巻』(広島市役所編)によると、すでに8月3日には大本営から「8月4日から7日にかけて、アメリカ空軍の特殊攻撃がある。十分注意を怠らず。対戦処置をとるべし」という暗号電報が広島の各部隊に入っていたのである。だが、それは箝口令のもと、広島市民にはまったく知らされなかった。そればかりか、原爆搭載機の侵入を手助けする形で警戒警報を解除し、広島市民がもっとも街頭で活動する午前8時15分、アメリカが史上もっとも残虐な兵器を投下できるよう犬馬の労をとったのである。それは長崎でも同じであった。


 大本営は広島市内に、警戒を発した8月3日から連日、学校関係者が口をそろえて危険な作業に極力反対したにもかかわらず、広島市内に義勇隊約3万人、女子学生・中学生の学徒隊1万5000人を動員させた。こうして、「小銃を渡すこともない編制中の玉砕予定部隊の老兵」「竹槍の女子挺身隊員」「女子学生や中学1、2年生」ら、中学生以上の市民を爆心地周辺に集めて被害を拡大させることまでやってのけた。


 古川愛哲著『原爆投下は予告されていたーー 国民を見殺しにした帝国陸海軍の犯罪』(2011年、講談社)は、「本土防衛を任務」とすることを掲げて広島に置かれた第2総軍司令部が、原爆が投下されることを知りながら市民に緊急警報や退避命令を出さなかったこと、それどころか箝口令を敷いて、原爆で広島市街が焼かれるのを待ったことを怒りを込めて暴露している。


 この著者も、アメリカが短波、中波のラジオ放送を使って原爆投下の日時、目標地を日本の支配層に向けて知らせていたこと、日本の支配層もそれを傍受して対応していたこと、アメリカ政府や軍の通信の傍受、空からまかれた宣伝ビラ(伝単)、さらに捕虜の供述などから大本営はもとより一般市民の間でも原爆が投下されることはささやかれる状況にあったことを浮き彫りにしている。
 第2総軍司令部は広島、長崎に向かうB29原爆投下機の動向については当日も、レーダーや無線ではっきりととらえ追跡していた。だが広島では高射砲でエノラゲイに照準を合わせていながら、「撃て」の命令は出されなかった。長崎でも、大村航空隊で迎撃の態勢をとっていたにもかかわらず、出撃命令が出されなかった。


 著者は、このような異常な状況が生まれた根拠、その背景について、海軍の極秘裏の敗戦工作、とくにアメリカとの「国体」の護持をめぐる取引がからんでいたことを強調している。


 広島、長崎への原爆投下はイギリスと情報を共有して進められた。チャーチルはすでに45年7月24日、原爆実験の成功を聞いた直後に「8月5日に爆弾が投下され、15日に日本は降伏するだろう」と語っていた。著者はそこから、「広島と長崎の原爆投下の日付をOWI(米戦時情報局)のボイス・オブ・アメリカがアメリカ標準時の日付で放送する。ただし、日本海軍は原爆投下の妨害をしない」という取引がなされたと、推測している。


 とくに、ライシャワー(戦後の駐日大使)の具申によって、VOA(ボイス・オブ・アメリカ)や中国からの短波放送、日本の支配層や日本語に通じたザカリアス大佐による中波のサイパン放送などを通して、グルー国務長官(元駐日大使)やザカリアスと公私とも親密な関係にあった米内光政・海相らに働きかけ、日本側のアメリカ向け短波の逆発信によるやりとりがあったことについてくわしく論じている。


 また、原爆投下がなされたのちも、被爆市民に原子爆弾とは知らせずに、「新型爆弾」「調査中」という情報隠ぺいによって、放射能被曝に意図的にさらし、ますます市民を被爆させたことを糾弾している。


 著者は長崎についてもアメリカのドキュメンタリー映画が、原爆投下直後の1945年8月9日、連合軍捕虜を救出するために米軍が空母機動部隊による救出作戦で長崎に上陸したことを描いている事実を明らかにしている。そのとき、小舟で長崎に上陸したが、その水先案内を日本側が務めたという証言がやられていた。日米共同の救出作戦が秘密裡におこなわれていたというものである。


 当時長崎市内では「米軍が上陸してくる」という噂が流れ、多くの市民が山の方に避難したという幾多の証言にふれて、また捕虜収容所の被爆や避難状況、捕虜収容数の記録のあいまいさ、被爆市民が見た捕虜の様子などから、その「噂」は根拠がないものではなかったと見ている。


 著者は、諸外国と比べて「日本国内では政治家や官僚、高級軍人の多くが生き残った」という第2次世界大戦の異様さへの疑問からこのテーマに挑んだこと、そこで判明した厳然たる事実は「近代的な軍の本土防衛とは、本土の国民を守ること」だとされる常識は成り立たず、「国体護持」つまり天皇の支配の延命のために、国民の生命を差し出し見殺しにしたことを告発している。


 アメリカの広島、長崎への原爆投下でとった日本の支配層の対応は、東京をはじめとする都市空襲、沖縄戦、さらには外地で320万人もの国民を無惨に殺りくした戦争全般に通じるものである。被爆70年の現実は、それが、アメリカが日本を単独占領し戦犯をそのまま支配層につけて属国支配する必要から、国民がみずから主人公となる社会を築く力をはく奪するためのものであったことを教えている。

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