いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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体験者が語る東京大空襲の真実 首都圏制圧の為の皆殺し  原爆投下や沖縄戦に匹敵

 戦争末期、昭和20年3月10日の大空襲で2時間余りに10万人を超える人々が殺され、総計25万人を超える死傷者・行方不明者を出した東京都は、戦後、マッカーサー率いる米占領軍によって制圧された。その経験は広島、長崎の原爆投下や一八万人を虐殺した沖縄戦に匹敵するものでありながら、戦後はGHQがかき消してきた。まさに首都圏制圧のためのみな殺しであった。主要政党の本部がありながら、アメリカの残虐性を訴える者がおらず、不可能なまでに隠蔽され、現在でも対米従属問題を語ることははばかられるというように尾を引いている。あれから70年を経た今日、自衛隊を名実ともに米軍の下請け軍隊とし、日本本土をアメリカ防衛の盾にする「日米安保」体制の法制化を急ぐ安倍政府の姿は、日本政府は米国の代理人であり、国民を米軍の戦争に動員し、国土はふたたびアメリカのため焦土にさせる位置づけであることを浮き彫りにしている。原爆展キャラバン隊(後援/長周新聞社)は、「原爆と戦争展」の参観者や東京都民から聞いた当時の体験と資料から、大空襲から今日まで続く首都圏におけるアメリカ支配の構図を描いてみた。
 
 温存された支配機構で占領加担

 空襲体験者から強調されるのは、東京大空襲は一般市民を狙った米軍の卑劣な皆殺し作戦であることと、同時に、首都圏の主要な地域を米軍が要塞として今でも占拠し、いつでも軍事転用できる状態におかれている実態である。
 首都の大半が焼き払われた大空襲のなかでも明確に攻撃対象から外された施設がある。その意味で東京空襲は「無差別」などでなく、緻密に計算され、区別された爆撃であった。
 終戦翌年に作成された『戦災焼失区域表示・帝都近傍図』を見ると、爆撃による都心の焼失区域は、東は荒川から西は中野周辺、北は王子、南は川崎に続く蒲田まで広範囲に及んでいるが焦土になった都心部の中に焼失を免れた施設・地域がいくつか島のように点在している。それら攻撃目標から外された施設から米軍の狙いと、戦後支配の根幹が見えてくる。
 その代表格が東京都の中心部に広大な面積をもつ皇居だ。10万人を超える都民を「焼き焦がし、熱湯につけ、焼死させた」(ルメイ米司令官)一方で、開戦の勅諭を発し、国の統帥権を掌握した天皇を無傷で残したことはこの戦争における日米支配層の関係を如実に物語っており、この大殺戮が「戦争の早期終結」を目的としたものではないことを示している。さらに、皇居北側の近衛師団司令部、皇居に隣接する英国大使館も手つかずだった。赤坂離宮(現・迎賓館)、浜離宮、青山御所、近衛歩兵第四連隊、新宿御苑、上野公園などの皇室所有地や皇族住居はことごとく攻撃の対象外だった。
 東京駅は焼かれたが丸の内の各省庁、内閣府、日銀、三井銀行(三井本館)、関東配電(東京電力)、警察協会、さらに三菱本社、三菱銀行、三菱商事など三菱財閥のビル群、日本興業銀行、東京銀行、第一銀行,勧業銀行、銀行協会、日本工業倶楽部、帝国生命館、明治生命、郵船ビル、明治ビル、帝国ホテル、中央郵便局の一角だけはみごとに目標から外されている。永田町の山王ホテル、兜町の東京証券取引所、味の素ビル(宝町)、日本航空機工業(大手町)、軍人会館(九段)、海軍経理学校、偕行社(陸軍士官の親睦団体)、主婦の友社、放送会館(NHK)、時事通信社も残った。霞ヶ関では農林省は焼かれたが、国会議事堂や警視庁、内務省、大蔵省、海軍省、華族会館は攻撃されず、市ヶ谷の陸軍士官学校(現在の防衛省、航空自衛隊市ヶ谷基地)も切り抜かれたように攻撃されていない。議員官舎、陸軍戸山学校、同射撃場、近衛騎兵連隊もまるごと残された。
 また後に進駐軍のキャンプ場となった代々木練兵場、その南側の近輜大隊、輜一大隊官舎、広大な駒場練兵場や野砲隊の官舎群も無傷。後楽園に隣接する陸軍造兵廠、陸軍砲兵工科学校、赤羽の陸軍火薬庫、工兵大隊、陸軍被服本廠、兵器支廠、東京第一陸軍造兵廠十条工場を含む東京兵器補給廠などの軍需施設が、周囲が焦土になるなかでまるでハサミで切り抜かれたように無傷のまま残された。
 工業施設でも、汐留貨物駅から芝公園、東芝本社、港沿いの芝浦工業団地から品川駅や海岸通りの港湾施設も攻撃されなかった。居住区が全滅した深川区に隣接する石川島造船所はまったくの無傷。下町地域でも鐘淵紡績会社工場(カネボウ)、大日本紡績工場(ユニチカ)、富士製紙工場(後に王子製紙に合併)、千住製繊所などの工業施設がほぼ残り、豊洲では、食料を保管していた陸軍糧秣本廠や農林省米穀事務所は焼かれたが隣接する帝大航空研究所は残された。南部工業地帯の蒲田では、蒲田駅を中心にした中心市街地が徹底的に焼き尽くされたが、国際飛行場(現・羽田空港)や、軍需工場として加工技術を波及させていた日本特殊鋼、東京ガス大森製作所など東京湾に面した工業地帯は無傷で残されている。そもそも「米軍作戦任務報告書」に記された壊滅及び損害を与える工業的目標はわずか二二カ所に過ぎない。築地市場や中央卸売市場、神田青果市場、江東市場など軍需工場とはいえないものも含んでいる。
 また、戦後の官僚養成機関となった東京大学は本郷も駒場校舎もほとんど攻撃を受けなかった。また、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)、ミッション系の上智大学、聖路加病院、YMCAなどが残されている。
 東京大空襲に始まる絨毯爆撃を発明し、指揮を執ったカーチス・ルメイ米少将(のちに昭和天皇から勲一等旭日章を受勲)は、本土空襲で「日本の兵器産業と大企業が支配する場所」を狙ったと豪語し、「われわれは民間人を殺したのではない。日本の民家は、ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。民家はすべて武器工場だった。これを攻撃して何が悪い」と東京下町の爆撃を正当化した。だが現実には、米軍にとって軍需施設や工場地帯、さらに戦争を遂行する政府中枢や財閥ではなく、戦争政治によって苦しめられていた国民こそが皆殺しのターゲットであった。それは、日本単独占領のため国民の反抗の芽を摘むこと、天皇や財閥を手なずけてアメリカに従順な支配機構に生まれ変わらせるためであったといえる。

 飢餓状態に追込み支配

 米軍による日本占領は、戦争終結から2週間後の8月28日の米太平洋軍第八軍の厚木進駐から始まった。東京に占領軍が到着したのは9月8日で、その日のうちに第一ホテルを占領軍宿舎として、米国大使館、月島四号埋立地(飛行場)、東京湾、深川7号埋立地(物資集積場)、代々木練兵場(軍宿舎用地)、帝国ホテル(将校宿舎)などを矢継ぎ早に接収。丸の内の第一生命ビルがGHQ(連合軍最高司令部)本部になった。上陸に先立ち、「3万人分の宿舎を用意せよ」などを日本政府に命じており、東京および近郊のめぼしい建物は日本政府の手によって片っ端から問答無用で接収された。それでも将校住宅は不足したため、米軍は焼け残った民間住宅をしらみつぶしに調査して接収したといわれる。終戦の年の連合軍の進駐状況を見ると、東日本占領を管轄した第八軍司令部の置かれた横浜を含む神奈川が8万5037人とダントツに多く、東京は3万3890人で、佐世保基地を抱える長崎に次ぐ3番目の規模であった。
 大蔵省はそのままGHQ広報部と職員の施設となり、敷地は占領軍の乗用車サービスのモータープールにされた。東京宝塚劇場はアーニーパイル劇場(占領軍専用)となり、日比谷帝国生命館(後の朝日生命)がMP大隊本部となった。明治生命ビルはGHQ対日理事会が使用し、新宿の伊勢丹は第64工兵地誌大隊が3階から7階までを接収。2階は米軍ダンスホールとなりデパートは一階のみでの営業となった。銀座の服部時計店(セイコー)は第八軍専用のPX(酒保)となり、日比谷公園はムーンライトガーデンとして占領軍専用の保養施設となった。
 また、内幸町の放送会館(NHK)は、CIE(民間情報教育局)とCCD(民間検閲局)ラジオ課が入居。広島、長崎と同様に東京大空襲に関する一切の報道を「プレスコード」によって禁止して放送内容を検閲するとともに、占領軍向け放送も同居させた。
 日本政府の各施策はすべて、総司令部(GHQ)にお伺いを立てることになり、各省官吏はこぞって「GHQ参り」をし、米軍少佐クラスにまで各大臣が呼びつけられた。形式的には占領政策の最終決定権は極東委員会(戦勝国11カ国で構成)であったが、実際はマッカーサーが「新たな天皇」として振る舞い、GHQ参り幹部には知日派や日系2世を送り込んで日本人を刺激しない巧妙な対応を徹底させている。
 この時期、都民を襲ったのは深刻な食料不足だった。米占領軍は米を強制供出させ、米の配給は2合1勺。しかも遅配や欠配が続いて国民を栄養失調に追い込み、極限状態にしたうえで「救世主」のように米軍物資を配給したといわれる。
 6歳のときに終戦を迎えたという台東区の男性は「戦後はとにかく食べるものがなかった。9人もの子どもを抱えて両親は必死に働き、走り回って食料を確保してくれた。そのなかで、戦争で身内を失った若い女性は“パンパン(売春婦)”になって米兵に体を売っていた。食料も仕事もないあの時代にはそれしか生きる方法がなかった。私たちは着る物もボロで、食べる物もなかったのに、米兵と女の人は綺麗な服を着て、真っ赤な口紅をひき、立派な車に乗って楽しそうに走りまわっていた。子ども心にも、なぜ米兵などと…と思っていたが、そうするしか生きる道がなかったのだ」と悔しさを込めて語った。
 浅草在住で洋服屋を営んできた八二歳の男性は、大空襲で小学校の同級生30人が犠牲になったことを明かし、「言問橋を渡って墨田区の側に逃げたが、風に煽られた炎と熱風で次次に焼け死んだ。少し後ろを消防車が渡ってきたが途中で炎に飲まれ、その後、運転手はハンドルを握ったまま白骨化していた。周囲には100人、200人じゃない。2000人、3000人が実験の標本のように真っ黒になってゴロゴロ転がっていた」と怒りをこめた。
 さらに「戦後アメリカは、飢餓状態をつくったうえでエサで操って支配した。区を通じてよく米軍支給品のコンビーフなどを配給した。犬と同じだ。でも食べなければ死んでしまうから、みんな列を作って並んだ。財閥解体というが、アメリカに従順についていくものに首をすげかえて使った。ラジオもアメリカに都合の悪いものは放送しなかった。アメリカは日本人など虫けらぐらいにしか思っていない。それなのに、日本の偉いやつらはそのアメリカに従っていく。今の安保法案もアメリカのために死ねということだ。あのとき、超低空飛行で爆撃してきたパイロットが笑った顔を忘れるわけがない」と強調した。
 赤坂見附に家があったという84歳の婦人は、祖母が地下鉄のシャッターに挟まれ、父親が助け出すことができず和服の袖を引きちぎって泣く泣く逃げてきたことを明かし、「赤坂には戦時中も米国大使館があり、在日アメリカ人が収容されていた。一般人が近づくことは禁じられ、周囲は私服警官が監視していた。叔父が大使館に関わる仕事をしていたので一度連れられて中に入ったが、戦争中だというのに中庭でゴルフをしていて、お土産にゴルフボールをもらったのを覚えている。母には“そんな物をもっていたら捕まえられる!”と怒られたが、アメリカ人はもう戦争に勝ったような余裕のある顔つきをしていたのが忘れられない」と話した。
 戦後、赤坂のとなりの信濃町に父親がバラックを建てたが、「橋の欄干には米兵が列になって座り、日本人女性が通ると足を引っかけて転がす。なかには金をせびってくる米兵もいて一人では危険で歩けない。プロ(売春婦)もたくさんいて米兵と腕を組んで歩いていた。警察に米兵の取り締まりを訴えてもなにも聞き入れられない。米兵の金遣いは荒かったので、金がなくなると強姦や強盗も起きていて、そのたびに敗戦の悔しさを噛みしめた」と話した。
 東京大空襲で兄、姉、妹、そして母親を亡くした男性は「空襲で家も財産も家族も失って都外に出たが、1945年の12月には東京にバラックを建て、大空襲から1年後の3月9日に掘っ建て小屋のわが家が完成した。そのころは、近所に住んでいる人はほとんどおらず、終戦後1年、2年後に同じような境遇の人たちがぼつぼつと帰ってくるようになった」と話した。空襲によって焼き尽くし、殺し尽くしたうえに、人が生きていけないほどの飢餓状態をつくり出して占領していった経験を多くの人人が語っている。

 首都圏に盤踞する米軍

 東京都内の米軍専用施設は、面積は約1603㌶(東京ドーム約340個分の広さ)におよび、沖縄、青森、神奈川に次いで全国四位に位置することは意外に知られていない。空襲で攻撃対象から外された軍事施設は、ほぼ例外なく米軍基地や自衛隊施設へ変わり、日米ガイドラインと安保法案によって、名実ともにアジアにおける米軍の前線基地となろうとしている。
 東京都には在日米軍司令部がある横田基地が、日本全土の米軍と自衛隊なども統括する指揮所としておかれている。神奈川県には、在日米陸軍司令部、第一軍団前方司令部などがおかれ陸軍の司令塔となっているキャンプ座間や、原子力空母が母港としている海軍の指揮所・横須賀基地が盤踞。この米軍基地を中心に通信施設、燃料貯蔵施設、弾薬庫、住宅地、演習場、娯楽施設が点在し、まさに日本を支配する中枢司令部がひしめいている。
 「横田幕府」と呼ばれる横田基地は、米軍にとって韓国、グアム、ミクロネシア、タイなども結ぶアジアの最重要拠点である。3350㍍の巨大滑走路を持ち、米軍人数は約3400人、国防総省文官200人、米軍家族含め約1万4000人が占拠している。横田基地は相模総合補給廠と横浜ノースドックで「3点セット」と呼ばれ、JR横浜線と国道16号線で結ばれている。米本土やハワイ、グアムなどから相模総合補給廠に米軍物資や兵器を備蓄し、戦時になると横浜ノースドックを使って海から搬出し、空輸ルートとして横田基地から搬出する体制をとっている。それは西太平洋・東アジアの米軍を支える兵站補給拠点として、米本土やグアム、ハワイの米軍基地に代わって、横田基地をミサイル攻撃の盾にするという意味を持っている。
 さらに東京都港区の六本木ヒルズがある都内中心部には赤坂プレスセンター(ハーディバラックス)が置かれ、内部には日本の最新科学技術情報を集める陸軍研究事務所と、海軍アジア室、米軍の機関紙的役割をしている星条旗新聞社、第500軍事情報群の保全連絡分遣隊、座間基地第78航空隊、独身将校宿舎、麻布米軍ヘリ基地がある。米軍や政府高官が横田基地に直行し、待機するヘリに乗り替え10分でこの麻布ヘリ基地に到着すれば、車で五分あればアメリカ大使館、日本政府中枢へ駆けつけられる。ここへは米政府関係者は入国審査もなくダイレクトで入国でき、どんな人間が来日したかは機密扱いであり、近隣には日本の警備スタッフが目を光らせ、一般人が立ち止まって眺めることも規制されている。
 この横田基地を中心にした通信を担うため、府中、由木、大和田、硫黄島の通信施設が機能している。そのほか日米合同委員会をおこなう宿泊施設であるニューサンノー米軍センター、米軍家族専用の娯楽施設である多摩サービス補助施設(ゴルフ場、キャンプ場、野外スポーツ施設等)が配備されている。米軍占領直後208カ所あった米軍施設は住民の頑強なたたかいで「返還」されたが、実質どの施設もいつでも使える体制にある。朝鮮戦争の出撃基地となった立川飛行場は基地拡張が砂川斗争で頓挫し「返還」したものの、航空自衛隊基地は米軍との共同使用であり、広大な国営公園、広域防災基地、道路、運動場として当時の施設はそっくりそのまま残されている。
 立川市に住む70代の元自衛隊員の男性は、「マッカーサーと天皇の駆け引きで戦後の日本はアメリカの属国になった。終戦後の立川は、昭和記念公園から市役所に続くメイン道路は米軍の滑走路になっていた。米軍に接収された昭和飛行場は日本に返還されたが、いつでも軍事基地にできるように国営公園として残してある。道路もいつでも滑走路に転用できるように周辺には高い建物はなく、民家は建てられず撤去される。マスコミも政治家も新聞も評論家もみんな知っているのにだんまりだ。八王子から富士山まで米軍が基地として接収したエリアはすべて平地で高い山がない。富士山麓には日米共同演習場があり、その先は太平洋。制空権は大月から八王子、北は新潟、山形まで米軍占有エリアがある。このあたりでは東大和市から西部立川まで広大な区域を基地と見なしている。ひとたび戦争になれば国権の発動で一気に軍事基地に様変わりするはずだ」と話した。
 同じく、昭和40年代に返還となったキャンプ王子、羽村学校地区、武蔵野住宅地、府中空軍施設などどれも公園や道路、学校施設として普段は軍事施設と無縁の姿を装っているが、すぐに軍事施設として復活できる状態で維持している。
 首都圏の上空には、横田ラプコンと呼ばれる1都8県(東京都、栃木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、新潟県、山梨県、長野県、静岡県)に及ぶ広大な米軍専用空域があり、高度約7000㍍に及ぶ立ち入り禁止空域で、米軍の許可なしにはいっさい進入できない。近くには羽田空港や成田空港があり、本来はなだらかな上昇線をたどって目的地に向かえるはずだが、目の前に山のような禁止飛行空域が設置されているため、急激に高く上昇してラプコン部分を飛びこえたり、大回りしなければならない。しかも首都圏の過密空域であるため、離着陸時の事故、ニアミス事故が絶えない。首都の上空を飛行するのに米軍の許可がなければならない国は他にはない。相模総合補給廠も、日本政府は立ち入り調査すらできず、周辺居住区を巻き込む爆発事故が起きても、消防が立ち入ることさえできなかった。
 また防衛省の中央指揮所(市ヶ谷)は、米軍幹部が常駐する実質の米軍出先機関となっている。自衛隊施設はすべて米軍指揮下に入っており、米空軍横田基地は自衛隊航空総隊司令部と一体化し、キャンプ座間には陸上自衛隊中央即応集団司令部が、2013年に朝霞駐屯地から移転した。米軍横須賀基地には自衛艦隊司令部があり、陸・海・空自衛隊施設はすべて米軍が自由に使用できる施設と化している。
 戦時中、日本軍が兵器輸送に使用しているといって国際法で禁じられている赤十字マークの入った病院船を片っ端から沈めたのも、日本軍が隠れているといってマニラ市街や中国の長沙を住民もろとも空爆で焼き払ったのも米軍であった。「後方支援は安全である」「日本だけで自国防衛はできない」といいながら、首都を米軍中枢の前線基地とし、ふたたびアメリカの戦争の盾として焼き払われる現実を直視しないわけにはいかない。
 安保法案は、まさに大空襲から続くアメリカによる日本民族絶滅作戦の一環といえる。

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