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TPP「大筋合意」のまやかしと際限なき国益の差出し 東京大学大学院教授・鈴木宣弘

 

 本当に合意したのか?

 

鈴木宣弘・東京大学教授

 難航したTPP交渉は、2015年10月に、ついに「大筋合意」に達したと発表され、日本では「歴史的快挙」のように報道された。しかし、今回の大筋合意は、決裂しなかったと装うための見切り発車の「大筋」合意であり、医薬品の問題などは幅を持たせて「玉虫色」にした。日本の交渉関係者は、今回のアトランタ閣僚会合の前に、決着できない部分はどちらともとれる表現で、火種を残したままで、とにかく合意した形は作れると話していた。

 困難な議会承認


 このままでは、米国議会がTPA(オバマ大統領への交渉権限付与)承認にあたり、TPAの中に記したTPPで米国が獲得すべき条件を満たしておらず、貪欲なグローバル企業の巨額献金に依存する米国議会が反発し、簡単に批准できるとは思えないし、追加要求を出してくるであろう。案の定、すでに、米国の通商政策を統括する上院財政委員会のハッチ委員長(共和党)は五日の声明で、TPP合意は「残念ながら痛ましいほど不十分だ」と表明している。ハッチ氏は巨大製薬会社などから巨額の献金を受けている。
 豪州、ニュージーランド、カナダなどでも紛糾が予想され、このままで批准される見込みは薄いと考えられる。日本政府だけが前のめりに、米国の追加要求に応えつつ、批准に向けた国内手続きを急ぐのは愚かである。農業関係者も、あきらめモードに入るべきではない。

 際限なき譲歩


 医薬品の特許の保護期間の長期化を米国製薬会社が執拗に求めて難航したことに、「人の命よりも巨大企業の利益を増やすためのルールを押し付ける」TPPの本質が見事に露呈している。このような「時代錯誤」的な協定を、日本政府は、国民を欺いて、米国の要請に必死に対応してまとめようとした。日本の唯一の利益といわれた自動車の利益は厳しい原産地規則と関税撤廃の延期(米国の自動車関税は15年後から削減して25年後に撤廃)で大幅に縮小され一方で、国会決議を確信犯的に反故にした農産物市場開放を1年以上前から受け入れていたことは国辱的である。農産物だけではない。自民党の決議と国会決議で守るべき国益とされた項目が、「自主的」な措置の名目で、すべて米国に差し出されてしまった。農産物以外も含めた国会決議との整合性について国民にまっとうな説明ができるのか。


 他の国は国益をかけて米国と最後まで戦っているのに、それを「最後まで粘る国」がいると批判し、日本だけは早々と盲目的・従属的な日米合意を済ませ、国益を次々と差し出して、他国に早く決めろと言うだけだった。これは対等な独立国の交渉ではない。アベノミクスの失敗を覆い隠すため、TPP合意発表で明るい未来があるかのように見せかけようとしたり、自身の政治的地位を少しでも長く維持するために、安保法制に続き、国民を犠牲にする行為をこれ以上続けるべきではない(戦争する国を宣言してしまったため、海外で日本人が殺戮の標的にされる事態が確実に起き始めた)。

 国民の食料が守れない


 今回のTPP合意による農林水産物の生産減少額は3000億円弱と政府は見込んでいるが、過少と思われる。輸入牛肉価格は2割程度下落し、乳雄牛肉はもちろん、和牛肉も価格差は残るが、価格水準は平行的に下がるだろう。豚肉は四割程度の価格下落が見込まれる。牛肉・豚肉ともに生産コストを市場価格が下回った場合の赤字の八割を政府と農家の拠出金から補填する仕組みがあるが、農家の拠出割合を軽減しつつ、補填額は増やす必要が生じるのに、関税収入が1000億円近く減少するため、財源がない。


 コメと酪農は輸入枠の設定だが、それが在庫に回ると、我々の試算では、コメ在庫1万トンの増加につき41円/60kgのコメ価格低下、バター在庫10%の増加につき2・6%のバター価格低下につながる。政府は抜本的対策を採らない方針だが、コメも酪農も市場価格が生産コストを下回ったときの差額補填システムがないまま、生産縮小を避けられそうにない。さらには、ナチュラルチーズの関税(29・8%)の撤廃で国産チーズ向け生乳60万トンが行き場を失う可能性がある。


 このほか小麦の関税に相当する徴収額も400億円減り、国内麦振興策の財源が厳しくなる。これらの「重要品目」以外は、大半の品目が関税撤廃される。中でも、果汁の関税撤廃の影響は大きい。小麦粉、米菓、ハム・ソーセージなどの加工品、砂糖やバターなどを使用した調製品などの輸入増も、国産原料農産物に大きな影響があるだろう。


 政府は、全面的関税撤廃の場合の3兆円の推定被害額に比べて1/10程度の損失に縮小したし、国会決議を守ったと言えるだけの「再生産可能な」国内対策も準備したと言うが、生産減少総額の見込みも過少であり、現在準備されている国内対策で、それが十分に打ち消せるとは到底思われない。「重要品目」の除外という国会決議はどう見ても守られたとは言えない。


 TPP交渉決着以前の時点でTPP不安の蓄積も影響して、農村現場の疲弊は進んでいるが、日本では、欧米のような直接支払いによる農業所得のセーフティネットの形成について、コメや酪農に象徴されるように、抜本的な対策は必要ないとの姿勢が崩されていない。過去五年の平均で収入変動をならすだけでは、最低限確保されるべき所得が確保できる保証がなく、生産者は将来見通しを持って、投資計画を立てることができない。このままでは、国民への基礎食料の供給がままならない事態が起こりうる。


 ウルグアイラウンド決着時の6兆100億円のような無駄な政治的「つかみ金」は繰り返してはならない。食料は安全保障の要である。国民が自らの基礎食料の確保のために、国内農家が農業所得に最低限の目安を持って投資計画が立てられるように、どういう場合にどれだけの政策的補填が発動されるかが予見可能なシステムを農家保護政策でなく、国家安全保障政策として、今こそ確立すべきである。関係者が目先の条件闘争に安易に陥ると、我が国の食料・農業の未来を崩壊させてしまう。国会決議の「再生産可能」の実現方法の提示を徹底的に求める必要がある。

 戦いはこれから


 国民の暮らしと食と農を守るためにTPPに反対してきた者として、大筋合意という事態に至ったことは残念であり、深くお詫びしたい。しかし、戦いはこれからである。我々自身が強い気持ちを持って、我々の暮らしの未来を切り開いていく覚悟を新たにしたい。

 すずき・のぶひろ 1958年三重県生まれ。1982年東京大学農学部卒業。農林水産省、九州大学教授を経て、2006年より現職。専門は農業経済学。

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