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金子みすゞ 『話の関門』を探し出そう 昭和12年、本紙・福田正義主幹が評論  全部の遺稿読み、詩と人生を紹介

 山口県が生んだすぐれた詩人・金子みすゞ。彼女が薄幸で倒れた1930年から長いあいだ、彼女の作品はおおやけになることができなかったが、最近になって人人に知られはじめるや、その詩への深い感動が広がっている。

 

 母親や教師は子どもたちにみすゞの詩を読み聞かせ、子どもたちはその詩に心を動かされ、愛唱してやまない。そして、みすゞの詩を愛する人人は、みすゞを金もうけの道具にし独占しようとするマスコミの商業主義への批判も口口に語っている。こうしたなかで、みすゞの詩と人生を正当に評価しなければならない。金子みすゞの残した遺稿集や遺書をふくむ全詩業について目をとおし、そのうえでみすゞの人生と芸術についてはじめて世に知らしめたのは、本紙の福田正義主幹であり、それが1937(昭和12)年発行の雑誌『話の関門』に掲載された。同誌は下関の空襲によって多くが焼失しているが、それを現在発掘することはきわめて有意義であり、下関、北九州をはじめすべての人人にそれを見つけ出すことを訴えるものである。


 1930年代に下関市で文学雑誌『展望』を若い仲間とともに発行していた本紙の福田正義主幹は、当時上山文英堂に出入りしており、金子堅助(金子みすゞの兄)、花井正(みすゞのいとこにあたり、のちの花井書店店主)の両氏とひじょうに懇意な関係にあった。


 金子みすゞがもっとも仲がよかったのがこの兄の堅助氏で、仙崎でもそれが評判になるほどだった。福田主幹が金子みすゞの詩を見つけ出し、その詩がきわめてすぐれたものであるので、みすゞについて調べようとして、彼女が堅助氏の実の妹であることがわかった。 


 しかしそのときには、金子みすゞは何年かまえに自殺していた。そしてその死を、当時の商業新聞は「金持ちの娘の自由気ままな恋愛の破産」などと、軽薄な文学少女の死のようにでかでかと書いた。


 このことをみすゞの母親はいたくなげいており、それゆえみすゞの遺稿や遺書などをいっさいだれにも見せなかったという。そして、金子堅助氏や花井正氏をつうじて、商業新聞が書いたようなそういう娘ではないということを書いてほしいという依頼を、福田主幹は受けた。こうして福田主幹ははじめて、母親から、みすゞの作品や遺書、娘ふさえが発語した内容をたんねんに書きつけた日記などを全部見せてもらった」という。

遺族の本当の願いを代表


 みすゞの作品は、上山文英堂が配っていた日記帳の見本の3冊にびっしりと書かれてあった。福田主幹は「わたしはその作品を見て驚いた。りっぱな作品をたくさん書いており、すぐれた詩人である。その詩はわかりやすく、弱いものへのいたわりが全作品に深く息づいている」とのべている。また「金子みすゞというのは、売名的でなく、作品をコツコツと書きつづけており、ひかえめな、日本的婦人の特徴を示している」と語っている。


 こうした経過のなかで、当時下関にいる新聞記者が集まって発行していた雑誌『話の関門』(月刊・タブロイド判)の1937年(昭和12年)の号に、福田主幹が2~3回にわけて、金子みすゞの人生とその作品についてかなり大きく、連続して書いた。それを見て、みすゞの母親をはじめその一家がひじょうに喜び、安心したという。


 そして、みすゞの自殺は、当時実の姉と知らなかった弟の正祐氏が恋愛感情を持っているとして、それを切り離そうということで、周囲がみすゞと上山文英堂の番頭(宮本啓喜)とを結婚させた。この亭主が放蕩もので、みすゞにひどい性病をうつしたうえ、作品の執筆も禁止した。それがみすゞが自殺にいたるおもな原因であった。


 金子みすゞの作品については、こうした経過のなかで、金子堅助、花井正氏など遺族や関係者が、それを世に出し、正当に評価されるために努力しつづけたものであった。
 『話の関門』に福田主幹が書いたのちに、みすゞの遺族は東京にいた正祐氏に遺稿集を送った。それは、かれが文芸春秋社に勤めていたので、そこでみすゞの詩が正当に評価されることを期待してのことであった。しかしこれは、抑えつけられてしまったのである。
 1982年に花井氏のところに矢崎節夫氏があらわれたので、花井氏は金子みすゞの弟の正祐氏を紹介した。そこでみすゞの3冊の遺稿集を渡したのも、それは矢崎氏をとおしてみすゞを正しく顕彰してほしいという、遺族や関係者のせつなる願いであり、その仕事を矢崎氏に託したのである。
 花井正氏は亡くなる少しまえ、人生のなかでの大きな喜びとして語っていたのが、一つは、1930年代にソビエトのエイゼンシュテイン監督の『全線』やドイツの前衛映画『カリガリ博士』などを下関でいちばん大きな映画館を借り切って、3階建ての巨大な館内を立錐(りっすい)の余地がないほど超満員にしたことであり、もう一つが金子みすゞを顕彰したことであった。みすゞを正しく顕彰することは、花井氏の生涯の願いであった。

 商業新聞の ねじまげを批判


 矢崎氏が金子みすゞの第一発見者といって、自分の大きなもうけのために、みすゞの詩を独占し、ほかのものがその詩を自由に鑑賞したり研究したりすることまでも抑圧していることは、まったく許しがたいことである。それは、みすゞやその母親、金子堅助氏、花井正氏ら関係者に対する冒涜(とく)だといってもよい。


 金子みすゞの人生と芸術をゆがめるのではなく、正当に評価するために、みすゞの人生と芸術をはじめて明らかにした雑誌『話の関門』を探し出すことを広く訴えたい

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