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ウクライナ問題と生きたメディアリテラシー 子どもたちと今、何を考えるか 日本図書館協会図書館の自由委員会委員長・西河内靖泰氏に聞く

 ロシアとの戦闘が続くウクライナをめぐるメディア報道が連日くり返されるなかで、「ウクライナ頑張れ」「プーチンつぶせ」と叫ぶ以外に別の意見を持てないような雰囲気がつくられている。インターネットやSNSを通じた情報が溢れるなかで大学や教育現場の教員たちが、子どもたちや学生たちとウクライナ紛争について、どのように向き合い、考えればいいだろうかという意見が寄せられた。そこで、図書館の果たす役割から、どう考えればいいのかについて、長年図書館現場に関わり、いくつかの自治体の図書館長を務めてきた公益社団法人日本図書館協会・図書館の自由委員会委員長の西河内泰氏(元・滋賀県多賀町立図書館長、現・山口大学人文学部非常勤講師)に話を聞いた。

 

◇          ◇

 

  今、ロシアに関連するものを排斥する動きが見られますが、この事態をどう見ておられますか?

 

西河内氏

 ――ロシアのウクライナ侵攻以降、この国ではロシア語講座の中止やロシア民謡などロシア文化、ロシアに関する学問などを排斥する動きが見られます。ロシア料理店が、ネットでの誹謗中傷や店の看板を壊されるなどの嫌がらせを受ける事件も起きています。そうした嫌がらせを受けた東京や神戸のロシア料理店のオーナーが、ウクライナ人だったというから、本当に何をくだらないことをしているのかといいたくなります。また、ロシアの指導者が核兵器使用の可能性を公言すると、非核三原則を国是としている日本をアメリカと核共有すべきだとか、専守防衛の自衛隊が「中枢攻撃能力を持つべきだ」という論議まで起きています。日本国憲法の第九条では「国際紛争を解決する手段として戦争(武力による威嚇、また武力の行使)をやってはいけない(永久に放棄)」とあるはずです。

 

 今、本当にウクライナの人びとに心を寄せて連帯しようとするのであれば、まずはウクライナの歴史や文化をきちんと学ぶべきです。そして、あわせてロシアの歴史や文化、ウクライナとロシアの関係についても学ぶ必要があるのです。ロシアとウクライナの関係は、歴史的に複雑に入り組んでいて、そう簡単ではありません。単純な敵対関係で理解するわけにはいきません。個人の家族でも、父親はウクライナ人で母親はロシア人であったり、その逆もあったりすることは決して少なくありません。そうした現実を踏まえるなら、簡単に白とか黒とか決めつけてバッサリ切れるものではないのです。関わる国々の歴史や文化、実情を十分に知らないにもかかわらず、テレビやSNSなどで流れてくる一方的な情報だけで判断して、短絡的にロシアに関するものを排斥するような行動をおこなうことはまことに愚かなことといえます。日本にいてテレビの映像を見て、「ウクライナがかわいそう」と思うのでしたら、今こそ、ロシアについて、ウクライナについて、学ぶ必要があると思います。パニックや恐怖の感情に囚われていては、結局は差別と偏見を生んでしまう。それを克服する道は、多くの人びとが偏見なく正しい知識を持つことしかないのです。

 

 そのために図書館は存在しているのですから、今こそ図書館はその役割を果たさなければなりません。図書館はいつでも、どんな本に対しても、否定しないし、排除もしないという立場をとっています。そのことが、図書館を利用する人たちの知る権利を守るからです。その姿勢を支えているのが、日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」です。

 

 宣言では、次のとおり示しています。
 「図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由を持つ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。この任務を果たすため、図書館は次のことを確認し実践する
 第一 図書館は資料収集の自由を有する
 第二 図書館は資料提供の自由を有する
 第三 図書館は利用者の秘密を守る
 第四 図書館はすべての検閲に反対する
 図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る」

 

 この原則を踏まえるならば、今こそ図書館でウクライナ、そしてロシアという国の歴史や文化を含めて、関係する幅の広い資料を公開し、多くの人びとに学ぶ機会を提供することは、図書館に携わる者の使命であるといっていいでしょう。ウクライナについても、ロシアについても、一人一人が主体的に学ぶことがないと、様々な情報に流されるままに間違った判断をする危険があることを自覚しないといけません。図書館もそうですが、人びとが学ぶことのできる環境を積極的に提供することにもっと皆さんが貢献してほしいと思います。知らないことを自覚して、より知る努力、学ぶ努力をし続けることは、人類に課せられた義務なのです。

 

 Q 学校の現場で、教師たちが子どもたちとどのように語りあっていくのか悩むという声を聞きます。子どもたちが「ウクライナかわいそう」「早く平和になってほしい」といってくるのですが、教師が自分の思いを話すのがはばかられるような雰囲気があるようです。教育の現場で、この問題を放置することは不自然ではないでしょうか?

 

 ――私はいくつかの大学で教鞭をとってきましたし、図書館で子どもたちの質問に答えてきました。その私が、今学生に「ウクライナの問題」について質問されれば、「まずはテレビや新聞だけを見て判断することをせずに、いろいろな立場や見方でとりあげられた多くの資料を集めて、それを批判的に見て、主体的に自らで学びなさい」といいます。戦争とは、虚実入り混じった情報のプロパガンダ合戦であり、「どちらの情報もフェイクの可能性がある」ことを知っていれば、情報の見え方も違ってきます。ただ、両方の情報を並べただけでは、学ぶべきこちら側に判断すべき拠って立つところがなければ、どちらのフェイクを信用するかにしかなりません。

 

 いろいろな立場の人たちが、様々な考えを持って情報発信しています。立場によって見方が違います。だから、情報を常に比較しておかなければ、情報に振り回されてしまいます。さまざまな言説を比較して見ていると、それぞれの情報に齟齬が出る、矛盾が出てくることがわかります。どこが、どう矛盾しているのかということを追及していくと、どれが事実なのか、真実により近いのかが見えてくるようになります。自分の確かな見解を持つためには、できるだけ多様な情報をとりあげている新聞や本をたくさん読んでほしいのです。

 

 そこで、戦争について見ていくための大前提があります。それは「戦争で誰がもっとも犠牲になるのか、その立場からものを見てほしい」ということです。「自ら犠牲にならない人たちが、威勢のいいことをいっていますが、それは必ず疑ってかかりなさい」と先生たちや子どもたちには伝えたいと思います。また、それぞれの国の指導者層の人たちが犠牲になるのでしょうか? まず戦争で犠牲になるのは、戦場に駆り出される兵士以上に、子どもたちであり、女性たちであり、老人や障害者など弱い立場に置かれた人たちなのです。

 

 一番被害を受け、犠牲になる人たちの立場から、その人たちが置かれた状況のなかで私たちは何ができるかを真剣に考えることを誠実に追求していってほしいと思います。

 

 古来より、全ての戦争は略奪や虐殺をともなうものです。歴史的に見れば、戦争になると、敵とみなせば相手が兵士であろうがなかろうが関係なく虐殺し、略奪していきました。戦争はそんなもんだと決めつけてはいけません。世界は、その歴史を教訓としたとりくみをしてきたはずです。戦争犠牲者の保護全般に関する条約であるジュネーヴ諸条約(ジュネーヴ四条約)では、戦闘行為に参加しない人びとや傷病者などを保護することを決めています。戦争は戦闘員同士でおこなうものとしているのですが、現実には非軍事施設や住宅地、一般市民を攻撃対象にした戦争や紛争は絶えることはありませんでした。今また、その悲劇がくり返されているのです。

 

 現実の戦争は、誰が被害を受け、犠牲になっているのか。それを正しく理解してほしいのです。そこから、ものを考えていってください。

 

問われる情報リテラシー教育

 

 今まさに、生きたメディアリテラシー(メディアを主体的に読み解く能力)が必要とされます。その能力を身につける情報リテラシー教育が問われているのではないでしょうか。世の中に流れているさまざまな情報をどう見るかという教育です。教育で知識を増やすことより、まずは情報の見方、分析の仕方、比較の仕方を教えた方がいいと思うし、今はそれしかできないと思います。公教育の現場では「政治的なことには触れるな」という空気もあるかもしれませんが、情報リテラシー教育のことは学習指導要領にも書いてあります。もし何か圧力があるようでしたら、先生方は学習指導要領に基づいてメディアリテラシーを身につけさせているのだと突っぱればよい、それで跳ね返せます。

 

 私は、先生方の初任者研修で話をする機会がよくありますが、そのときには「あなた方の身を守るためにも、いろんなことに潰されないためにも、常に本を読んで欲しい」といっています。スポーツ選手が練習量は自分を裏切らないといいますが、読書も同じで、本は読んだ数だけ何かが残る、決して読者を裏切ることはありません。だからたとえ10分でも15分でもいい、本を読んで欲しいといってきました。本は、実は生きるうえで大切なものなのです。そのことを、先生方は身をもって子どもたちに教えて欲しいものです。今、タブレットを使った授業が小学生から普通におこなわれるようになりました。そうした状況のもとで「情報リテラシー教育」がいわれていますが、正しく理解されていないように思います。ネットで情報検索する技術を身につけることが主体ではありません。検索した情報が本当に的確なものなのかを判断するには、そのための基礎を学んでおかなければならないのです。それには、多様な本をできるだけ多く読んでおくことしかありません。

 

 教育というのは、戦争は「いけない」ということを前提にしたうえで、人びとが学ぶことで世界を変えていけるのだということを教えることなのだと思っています。学びもしないで、他人を非難したり批判したりすることは実に愚かなことではないでしょうか。自分が幅広く学んで、「こう思う」と意見を持つことが教育で最も大事なことなのです。でも、なぜかこの国では、多くの場合、誰かの意見に同調して無難な意見を探しているような傾向が見えます。歴史や文化などを広く学んだうえで、ロシアのやっていることが理不尽だという意見を持っていいし、対抗する欧米にもおかしいことがあると思えばそれをいうことは決してはばかられることではないと思います。

 
世の言説を、そのまま受け入れない姿勢も大事

 

 ウクライナへの侵攻が始まってから、国会や各地の地方議会が一斉に「ロシアへの非難」決議をあげました。テレビのワイドショーでは、それまでのコロナ一色報道から、今度はウクライナ情報が前面に出てくるようになり、悲惨な映像が流され続け、この国でもあたかも戦時下体制のような空気がつくられているように感じてきました。世の中全体が一方的な方向に流れるとき、それをあたりまえに受け止めていいのでしょうか。私は、学生時代に社会学を学びましたが、その「あたりまえ」を疑う目を持つのが社会学です。学生時代に先生にいわれたのは「自分が積み重ねていいと思ったことすら疑うのが社会学だ。学ぶということは自分自身の考えも疑うことだ」と教わりました。社会学的な立場からは、今日の事態に関しても、国際政治や軍事の専門家のいうことやそれぞれの国家や政治家、指導者のいうことをそのまま信じるものではないのです。

 

 こんな解説をすると怒られるかもしれませんが、誤解を恐れずにいえば、今回の事態について、今の状況をありのままに見たとき、卑近ないい方になってしまいますが、まるで「ヤクザの縄張り争い」という受けとり方が一番わかりやすいでしょう。ロシアとNATO(及びアメリカ)が自分たちの縄張りを確定するために、チキンレースをやっていたところ、本当に抗争(戦争)に突入したということになります。その舞台(戦場)になっているのがウクライナであるということです。「ヤクザの抗争」に何も関係のない一般市民が巻き添えを食らっている現実をどう私たちは見るべきなのでしょうか。この度のウクライナ紛争についてとるべき姿勢は、発信される情報をそのまま受け入れるのではなく、一番犠牲になる人たちの立場からコミットメントし情報の整理をしていかなくてはいけないのです。それが私の学んだ社会学としての姿勢です。

 

 
知性を磨く学びを本を通して得てください

 

 最後になりますが、子どもたちや若い世代の知的好奇心はすごいと思います。本来は、様々な知識に触れることを嫌がってはいないし、世の中の動きに無関心ではないのです。学校の勉強だけでなく、それ以外に新聞や雑誌、多様な本を読むことでいろんなことに興味が出てきます。そのためには、図書館をおおいに活用してほしいと思います。ロシアのウクライナ侵攻を批判するためにも、この機会にウクライナやロシアの歴史・文化、文学や民話にも触れてほしい。ロシア文学やロシア民謡を忌避するなどということをやってはいけないのです。しっかり学んでください。

 

 学ぶことで人の魂は救われる、知性をみがくことによってよき感情が生まれ、人間性をとり戻すことができるのです。それが真理です。それを実証したのは、山口県が生んだ偉大な先達である吉田松陰であります。

 

 活字離れといわれながらも、日本では毎年約8万点の本が出版されます。本は多様な思想や考え方、主張をまとめたものです。それは多様性を象徴する文化だと思います。そのことを、もっと大切にしなければいけない。絶対的な存在を掲げることより、いろいろなものを相対的に見ながら、お互いを尊重していく。何事も一方的な価値観を押し付けるのではなく、柔軟に対応することが大切ではないでしょうか。

 

 情報が溢れて入り乱れる現代社会のなかで、多様な本や資料を通じて学びつづけることは、この先の未来を前向きに生きるうえでとても大事な姿勢ではないでしょうか。

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