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沖縄戦の記憶継承、「今」と平和な未来へ繋ぐ 那覇市立安岡中学校教諭・又吉弦貴

(2025年12月22日付掲載)

平和劇「HIMEYURI 伊原第3外科壕の奇蹟」の練習をおこなう那覇市立安岡中学校演劇部の生徒たち

演劇で繋ぐ、戦後80年「命どぅ宝」

 

 沖縄戦から80年目を迎えた「今」、教育現場では、過去の出来事として遠ざけられがちで、「伝わりにくい」と言われがちな戦史を、いかに戦後世代に「自分事」として深く根付かせ、平和への切実な願いへと繋げるかが喫緊の課題です。

 

 このたび、沖縄県教育委員会が『沖縄県史 ビジュアル版14沖縄戦』を刊行。12月6日におこなわれた刊行記念のシンポジウムで、私たち安岡中学校演劇団「月桃」が平和劇「HIMEYURI 伊原第3外科壕の奇蹟」を上演しました。この劇は、ひめゆり学徒隊を題材にしており、ストーリーは当時の学徒と現代の中学生が、無線通信装置とスマホでつながる時空を超えた交流を描いています。

 

 単なる歴史の再現や表現活動を目的としてではなく、歴史書や資料を読む「知る」学習から一歩進み、演じる生徒たちが当時の状況を五感で「体感」し、観る人々にその場にいる臨場「追体験」を促すことを目指しています。

 

心を動かす「平和学習」 肌でひめゆり学徒感じ

 

演技指導をする又吉教諭㊧

 この平和劇を創り上げる過程で、演劇団は徹底した事前学習と実証的なフィールドワークを最も重視しました。生徒たちは、教科書や文献学習に留まらず、実際に南風原の沖縄陸軍病院壕を訪れました。ひっそりとした暗闇と冷たい空気に包まれた壕内で、当時の医療の状況や、ひめゆり学徒たちを含む人々の過酷な生活空間を肌で感じ想像しました。さらに、ひめゆり平和祈念資料館では、生存者や遺族の貴重な証言を記録で深く学び、亡くなった学徒たちの写真やわずかに残された遺品を前にして、一人ひとりの存在と、その奪われた未来を真摯に受け止めました。

 

 生徒たちは、脚本の読み込み、役柄の研究、そして魂を揺さぶる実地研修を通じて、壕内の過酷な状況、人の心の揺らぎ、そして極限状態での命の尊さ、あるいは儚さを学び取りました。これは、知識の伝達に留まらない、生徒たちの内面を深く「心を動かす」平和学習です。

 

 劇の舞台となる「伊原第3外科壕」(沖縄戦末期に日本軍の野戦病院として使用された地下壕。この壕で活動中に犠牲となった、ひめゆり学徒隊の悲劇と記憶を伝える「ひめゆり平和祈念資料館」が隣接している)は、ひめゆり学徒隊の悲劇的な別れと同時に、わずかながらも多くの命が救われた「奇蹟」の場所でもあります。この場所が象徴する、絶望の淵で見出した人間の尊厳と希望、そして生き抜く力の強さを、生徒たちの真摯な演技を通して、次世代を担う若者としての力強いメッセージとして訴えかけます。

 

私の原点 祖父母の沖縄戦の経験

 

 わした島、うちなー(沖縄)は、先の大戦であまりにも大きすぎる代償を払いました。そして得たものは、けっしてゆずることのできない「命どぅ宝(命は宝)」という信条です。私が演劇活動をとおして「命どぅ宝」のバトンを未来へつなぐ活動の根底には、祖父母の沖縄戦の経験があります。

 

 沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。祖父は今年公開された映画『木の上の軍隊』の舞台となった伊江島で戦死しました。

 

 その伊江島は、かつて「東洋一」と呼ばれた旧日本軍の飛行場があり、そのため、1945年4月16日から始まったアメリカ軍の攻撃は想像を絶するほど激しく、多くの命が失われました。私の祖父が本部港(「沖縄美ら海水族館」があることで有名な本部町。「本部港」からフェリーで30分ほどで到着するのが伊江島)を兵役のため出航したのは、敵に情報が漏れないよう午前4時過ぎだったとのことです。祖母は、その出航を察し、近所から分けてもらった貴重な小麦粉と砂糖でサーターアンダギー(当時、サーターアンダギーは大変な贅沢品でした)を作り、まだ、当時5歳の母と一緒に港へお見送りに行ったそうです。しかし、あたりは暗く、出航を待つ兵隊が1000人を超していたために会うことができず、同じ区の青年たちにサーターアンダギーを配ったと、私の母から聞かされました。

 

米軍の攻撃を受ける伊江島(1945年4月、沖縄県平和祈念資料館所蔵)

 伊江島での戦闘は、わずか6日間で住民の約4割にあたる1500人、兵士を含めるとおよそ3500人もの命が失われる、まさに「沖縄戦の縮図」とまで言われるほどの悲惨さでありました。私の祖父(当時満29歳)もその苛烈な戦闘で命を落としました。私の母は当時5歳、戦火を避けるため山へと逃げ、避難生活を送りました。当時の沖縄では、激しい戦闘の最中、住民への正確な情報が届くことはほとんどなかったそうです。山の中で「戦争は終わったらしい」という噂を耳にしながらも、それが真実だと確信できるまでには、長い月日を要したそうです。さらに、当時の軍国教育により、「アメリカ兵に捕まればひどいことをされる」という恐怖が深く刷り込まれていた。そのため、終戦の噂を聞いてもすぐに山を下りることはできず、不安と恐怖の中で身を隠し続けていたというのは、想像を絶する経験だったと思います。

 

 結局、母が住んでいた家に戻ることができたのは、終戦から3カ月も経った11月頃だったとのこと。沖縄本島北部は、通信手段も乏しいなかで、情報が錯綜し、何が真実か見極めるのがいかに困難だったかと話してくれました。

 

伊江島で戦死した祖父の遺品

 

 終戦から数カ月後、伊江島の激戦を生き延びた故郷の戦友が、母たちのもとを訪ねてきました。彼が家族に手渡したのは、祖父が戦死したであろう場所に落ちていた一つの“石”でした。当時の家族には、戦地の詳しい状況は何も知らされず、ただ「戦死した」という情報だけが伝えられたなかで、その石は唯一の遺品となりました。今も大切に骨壺に納められているその石は、言葉では語り尽くせない祖父の最期、そして戦争が残した深い傷を物語っています。

 

 この話を、実際に母から聞いたのは戦後50年以上も経ってからだったと記憶しています。その石には、戦争がいかに深く、そして長くいつまでも癒えることのない心の傷を残したかという、痛みが込められています。

 

 今年、『木の上の軍隊』に関連するテレビや新聞記事で、伊江島のロケ現場から遺骨が発見されたという報道を目にしました。その時、「まさか。でも、もしかしたら祖父のものかもしれない」という思いが頭をよぎりました。その報道の後、妹から連絡がありました。2年前に他界した母の抜歯した歯を偶然持っているという連絡でした。親子なら、DNAの判別もかなり高いと考えられます。今後、発見された遺骨は戦没者遺骨収集情報センターに収容されると聞きました。この母の歯を使い、DNA鑑定を申し込むことも考えています。

 

 祖母は90歳を超えたときに、今まで行かなかった糸満市の平和祈念公園内にある「平和の礎(いしじ)」に足を運びました。20代のときに祖父と別れてから約70年。祖母は祖父の刻まれた名前を見たときに、「やっとで来れたさあ 今まで来れなくてごめんねえ」とその名前をなでていました。そして2時間ぐらい礎の前で座りっぱなしだったことを記憶しています。長きにわたる歳月を経て、「平和の礎」に刻まれた名前を見つけられた瞬間は、たんなる名前の確認ではなく、亡き夫との特別な再会だったのでしょう。悲しみを乗り越えて強く生きてきた祖母の人生が、この再会の瞬間に凝縮されているように感じました。

 

沖縄戦遺構の沖縄陸軍病院南風原壕群20号を訪れた中学生たち

託されたバトン未来へ

 

 「世界平和」や「国際貢献」といった大きな議論に惑わされることなく、私は目の前の「現場」に立ち、生徒一人ひとりと真摯に向き合いたい。平和の尊さは机上の理論ではなく、生徒たちが舞台の上でさらけ出す生きた葛藤を通じてこそ、初めて心に根付くものだから。私はこれからも、この小さな演劇団という場所で「命どぅ宝」(命は宝)の精神を育み、身の回りに灯る小さな光を地道に守り育てていきます。

 

 教員である前に人として、その時の最善を尽くし、もがき続けることが、祖父母から託されたバトンを次へと繋ぐ唯一の道だと信じています。それは、歴史の濁流に飲み込まれそうな「個人の生きた証」を、決して見失わないという誓いでもあります。

 

 29歳で時を止められた祖父。5歳で暗い山中を彷徨った母。彼らが生きるはずだった、そして見たかったはずの「穏やかな日常」を、生徒たちと舞台の上で再構築していくこと。その営みの先にこそ、本当の平和が宿ると確信しています。

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