(2026年4月17日付掲載)

世界遺産のシャイフ・ サフィー・アッディーン廟。イラン北部アルダビール市にあるこの廟は1334年に建設された。廟内にはサファヴィー朝の前身サファヴィー教団の教祖が眠る
米大統領トランプがイランに対して「今夜、一つの文明が滅び、二度と復活しないだろう」と発言したことは、それが広島、長崎に次ぐ原爆投下をほのめかしたものとして世界の憤激を買うとともに、イランが世界でもっとも古い文明の一つを生みだした文明発祥の地であることを思い起こさせている。その数千年にわたる国の歴史の重厚さは、建国250年のアメリカ大統領の軽薄でヤクザまがいの物言いとは対照的な、イラン大統領の格調高い書簡にもあらわれている。イランとは、どんな歴史を持った国なのか。そこでどんな文明が築かれたのか。今から9000年前の文明の揺籃期にさかのぼり、その実像を紐解いてみたい。(掲載写真はイラン・イスラム共和国大使館の提供)
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今から約9000年前(紀元前7000年)、メソポタミア―シリア―パレスチナを結ぶ肥沃な三日月地帯で、人類最初の農耕が始まった。
さらに下って紀元前4000年頃、世界最古の文明といわれるメソポタミア文明が、現在のイラクに当たるティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野で発展した。北部のアッシリア、南部のバビロニアに、シュメール人が都市国家を築いたのだ。
メソポタミア文明は、青銅器を持ち、楔(くさび)形文字を使い、神殿(ジッグラット)を中心とする都市文明を生みだした。六十進法や太陰暦の文化が生まれた。
イランの南西部にあり、イラクと国境を接するフーゼスターン州は、そのメソポタミア文明に匹敵するエラム文明が誕生した地であり、人類の文明発祥の地といわれる。
フーゼスターン州には、ユネスコの世界遺産にも登録されているチョガーミーシュ遺跡がある。この遺跡には、今から約8800年前、紀元前6800年頃に初期の農民が定住した大きな集落跡がある。
さらに紀元前4000年頃には、ここに都市国家が建設されていたことが、発掘された粘土版に刻まれた多数の陰影からわかっている。その都市国家は、建物がひしめきあい、行政区画・生活区画・作業区画が分けられ、下水道が敷設されていた。粘土版からは、建築学上の革新がおこなわれていたことがうかがえる。文字が発明され、冶金と幾何学が発展した。美しいデザインの陶器も出土している。
紀元前4000年といえば、ヨーロッパ大陸は新石器時代で、金属器の使用が始まった頃であり、日本は稲作伝来前の縄文時代中期だった。つまり世界がまだ先史時代だった頃、メソポタミアとイランは有史時代に踏み出していたのだ。
紀元前1200~1300年頃になると、エラム王国のウンターシュ・ナタリーシャ王が、フーゼスターン州に聖都ドゥル・ウンターシュを建設した。それがチョガーザンビール遺跡(世界遺産)となって現存している。
聖都の中心にはジッグラット(神殿)が建てられたが、それは五層からなる面積100平方㍍、高さ50㍍の建物で、そこで司祭が儀式をおこなった。メソポタミア以外でジッグラットが良好な状態で残っているのは数少なく、世界的にも貴重な遺跡といわれている。
このエラム王国の首都スーサ(フーゼスターン州)も、世界遺産に登録されている。そこには紀元前4000年頃からの遺構が広がっており、後に見るアケメネス朝ペルシャのダレイオス1世の宮殿跡もある。この遺跡から、ハムラビ法典の石碑が見つかったことでも有名だ。
紀元前1000年以上前から存在する技術でつくられたカナート(地下水を重力で運ぶ灌漑システム)も、世界遺産に登録されている。乾燥地帯であるイランでは、日々の飲料水や農業用水のために水が不可欠だが、紀元前のイランの人々は水源地である山麓の地下水をトンネルを掘って居住地まで運んでいた。イラン中央部ヤズド州にあるカナートは全長80㌔もあり、当時の土木技術の高さがうかがえる。
奴隷解放の人権宣言 2500年前に

紀元前6世紀に建設されたペルセポリス(アケメネス朝)。ゲートに設けられた人頭有翼獅子像は宮殿の守護を司る
史上初の世界帝国が生まれたのも、この地からだった。
紀元前559年、キュロス2世はペルシア王となり、その後、メディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼした。こうしてメソポタミア、イラン高原から中央アジア、小アジアは、アケメネス朝ペルシアの領土に編入された。
キュロス2世は、紀元前539年のバビロン征服後、抑圧されていた諸民族に自由を与える「世界最古の人権宣言」を発布した。それは、「奴隷の解放」「信教の自由」「人種と民族の平等」を認めた勅令で、ユダヤ人をバビロンの虜囚から解放し、故郷パレスチナに帰したといわれる。それは、ペルシャ帝国の「寛容な統治」を示すものだった。
その史実を示すキュロス・シリンダーと呼ばれる遺物が、1879年に現在のイラクにある古代バビロンの神殿跡から出土し、現在、大英博物館に所蔵されている。円筒状の粘土の表面に、人類初の画期的な人権宣言の内容が楔形文字で刻まれている。
キュロス2世は、アケメネス朝の首都としてパサルガダエを建設し(パサルガダエ考古遺跡として世界遺産登録)、その中に王立公園をつくったが、それがペルシャ式庭園の原型といわれる。ペルシャ式庭園とは、水路や噴水、豊かな植物によって地上の楽園を表現した庭園様式で、水路で庭を四分割する「チャハル・バーグ」という幾何学的な構造が特徴だ。それは、インドのタージマハル、スペインのアルハンブラ宮殿など、世界の庭園デザインに大きな影響を与えた。イラン国内の9つの庭園が世界遺産に登録されている。

ペルセポリスにあるダイオレス1世の宮殿のレリーフ
アケメネス朝ペルシャの第三代皇帝、ダレイオス1世(紀元前522~486年)は、ペルシア高原やメソポタミアを中心に、エジプトからバルカン半島、インダス川流域に及ぶ世界帝国を建設した。
ダレイオス1世は、領土を20の州に分け、その土地の有力者を知事に任命し、経済力に応じた税金を住民からとり立てて国に納めることを義務づけた。
また、エジプトで地中海からナイル川をさかのぼって紅海につながる運河を開き、スエズ運河の原型をつくった。全長2400㌔に及ぶ「王の道」と呼ばれる高速道路網と郵便システムを整備した。ダリックという金貨を発行し、度量衡を統一して、商業取引を活性化した。
ダレイオス1世は、紀元前520年から50年余りの年月をかけて宮殿を建設した。これが、イラン南部ファールス州にあるペルセポリスで、高さ20㍍もの列柱や精緻な彫像やレリーフなど、およそ紀元前のものとは思えないほどの建築・装飾技術がうかがえる。その壁画からは、全土の23民族が貢納していたことがわかる。これも世界遺産に登録されている。
文明の交差路として シルクロードを支配

アルゲ・バム遺跡(ケルマーン州)。サーサーン朝で建設が始まった。2003年の地震で損傷

サーサーン朝アルダシール1世即位式のレリーフ。ナクシュ・ロスタム岩壁に刻まれている
その後、3世紀にサーサーン朝ペルシアが成立し、アルダシール1世が即位して、イランで長い歴史を持つゾロアスター教を国教にした。
サーサーン朝(224~651年)の時代になってもペルシャ帝国の領土は広大で、古代のアジアとヨーロッパおよび北アフリカを結ぶ交易路・シルクロードの大半を支配した。したがって当時のイランは、文明の交差路として機能し、ここを通って古代ペルシアの文化や芸術作品が世界の隅々に運ばれた。また、ペルシャ商人は、中国と欧州間の貿易を独占した。それはマルコ・ポーロが中国に滞在する数世紀前のことだ。
シルクロードの東の起点である中国の古都・長安は、唐の時代の7~8世紀になると、人口100万人以上の世界最大の都市に成長した。そして唐の時代には、その長安にペルシア人を含む西域の人々が住む家が1万戸あったといわれている。
また、日本の飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」とも呼ばれ、奈良県の東大寺・正倉院には中国製やペルシア製の宝物が数多く収蔵されている。正倉院にある白瑠璃碗(はくるりのわん)は、今から1500年前の飛鳥時代、ペルシア帝国からもたらされた。
法隆寺に伝来し、皇室に献納された「法隆寺献納宝物」の中にも、飛鳥時代におけるシルクロードを介したペルシアと日本との文化交流を示す遺品が残っている。獅子狩文様は、元々ペルシアで発生した文様で、騎馬の人物が弓を引き獅子を撃つ情景をあらわしたものだが、法隆寺に伝来した獅子狩文様錦は7世紀前半に中国で製作され、日本にもたらされたものだと考えられている。また、法隆寺の伎楽面(ぎがくめん)は、飛鳥時代に中国から伝わった仮面舞踊劇「伎楽」で使われた現存最古の木造仮面だが、顔の相貌などからペルシアや西域から伝わったものだといわれている。
サーサーン朝ペルシアをしのばせる遺跡としては、イラン南東部ケルマーン州にあるアルゲ・バムがある。世界最古の大規模な日干し煉瓦造りの要塞都市遺跡で、砂漠に浮かぶ壮大な景観で有名だ。2003年の大地震で倒壊したが、その後修復作業がおこなわれている。これも世界遺産に登録されている。
アルダシール一世が築いた都フィールーザーバードには、アルダシール宮殿遺跡がある。そこでは、ドーム建築の発展を見ることができる。宮殿の遺跡から、円形ドームを方形台座に据える設計方法を完成させていたことがわかる。ドーム建築は、サーサーン朝時代のイランに始まり、その後イスラム世界に広がったことを意味するものだ。
バザールと国際的商都 イスファハーン

イマーム広場(王の広場)とシャイフ・ルトゥフッラー・モスク。イマーム広場の外壁の一部を形成するこのモスクは、1619年に建設されたサファヴィー朝時代のイスラーム建築の傑作の一つ(イスファハーン)

シァイフ・ルトゥフッラー・モスクの内壁。精緻なアラベスク模様とアラビア文字による美しい調和が形成されている(イスファハーン)
さて、時代は下り、サファヴィー朝(1501~1721年)時代のイランは、その首都イスファハーンが「世界の半分」といわれるほど繁栄した。
サファヴィー朝のアッバース1世は、敵対していたオスマン帝国との戦争に勝利してアゼルバイジャンやコーカサス地方をとり戻し、オスマン帝国と敵対するイギリスやフランスなどと友好関係を築いた。ホルムズ海峡にも進出して、ペルシア湾に面するバンダル・アッバース港を建設し、インド洋貿易の拠点とした。
イラン高原につくられた新首都イスファハーンには、世界各地から学者や学生が集まった。バザール(市場)が開かれて、地方の地主たちがつくる繊細な絨毯や織物、またインドやヨーロッパからの物品が売買された。イスファハーン周辺の道路も整備され、各地にキャラバンサライ(隊商宿)がつくられた。こうしてイスファハーンの人口は急増し、世界屈指の人口を誇る国際的商業都市として発展した。
この時代の面影を残すイスファハーンのイマーム広場は、青を基調とした精密なアラベスク模様のタイルで覆われたモスクや宮殿があり、これも世界遺産に登録されている。
近代科学の基礎つくる 代数学や医学

シーラーズ市にあるエラム庭園。19世紀のガージャール朝期に建設された。世界遺産となった「ペルシャ式庭園」の一つ
イランについて特筆すべきことの一つに、日本ではあまり知られていないが、西洋の医学や数学の土台をつくったことがあげられる。それは9世紀から12世紀にかけてのことである。
アル・ラーズィー(865~925年)はペルシャ人の医師で化学者、哲学者であり、医学の基礎をつくることに貢献した。彼は古代ギリシャやインドの医学にも精通しており、観測や発見によって後の医学の進歩に多大な貢献をした。
彼はエタノールの分離精製者として有名で、エタノールを消毒など医療に用いることを始めた人だ。また、麻疹(はしか)と天然痘について記述した本を出版した。脳神経外科学と眼科学の開拓者でもあった。「小児医学の父」といわれ、小児の医学書を初めて著した医師としても知られている。
イブン・スィーナー(980年頃~1037年)はペルシャ人の哲学者・医学者で、医学・薬学と哲学で世界をリードした。彼の主著『医学典範』は、ギリシャ、ローマ、インド医学を体系的に集大成したもので、英語圏でもっとも歴史の古いイギリスのオックスフォード大学や、フランス最古の医学部を擁するモンペリエ大学など、ヨーロッパ各地の大学で一七世紀後半まで医学の教科書として使われていた。
この分野に詳しいドイツの研究者は、「当時、教会は研究活動を禁止しており、欧州では科学が抑圧されていた。そのときイスラーム学者のさまざまな研究成果が、翻訳されて欧州にもたらされた。そこから欧州で科学が発展し始めた。欧州に科学を伝えたのはイスラーム学者だ」と語っている。
数学の面の貢献も見逃せない。
アル=フワーリズミー(780~850年)は、9世紀前半に活躍したイスラーム化学者で、数学と天文学の分野で偉大な足跡を残した。彼は「代数学の父」と称され、現代数学やコンピューターの基礎を築いた。インド起源のゼロの概念や、ローマ数字にかわってインド・アラビア数字(0、1、2、3…)を用いた十進法を体系化し、それをヨーロッパに伝えた。われわれが使っている「アルゴリズム」という言葉は、彼の名前のラテン語訳が語源とされる。
オマル・ハイヤーム(1048~1131年)は、ペルシャの学者で詩人でもあり、数学と天文学の発展に貢献した。彼は三次方程式の正の解を求める方法を確立した。
アル=ビールーニー(973~1050年頃)は、数学、天文学、医学などの自然科学だけでなく、地理学や歴史学にも業績があり、たくさんの著書を残している。彼は地動説を唱え、地球の周囲の計測法を確立した。彼が算出した測定値は、現在の天文学の測定値とほぼ一致しているという。
ちなみに、イタリア人のガリレオ・ガリレイが地動説を発表したことで教会の異端審問にかけられ、地動説の放棄を強制されたのは、1633年のことだった。
世界に名を馳せる詩人たち 人々の生活とともに
最後に、イランの文化芸術のなかで根幹ともいえる詩についてふれてみたい。

ジャラール・ウッディーン・ルーミーの像(トルコ)
詩人ルーミー(1207~1273年)は、ペルシャ文学史上でもっとも偉大な詩人といわれ、神への愛と神秘主義をテーマに7万編以上の詩を詠んだ。イスラム教徒だけでなくキリスト教徒やユダヤ教徒、仏教徒の支持者も多いといわれている。
詩人サアデイー(1210~1291年)は、モンゴル征服下のシーラーズに生まれ、諸国を旅した後、詩人となった。代表的な詩の中に「情けは人のためならず(他人に対する善行は、めぐりめぐって自分に返ってくる)」というものがある。17世紀にはアジアの詩人として初めて、ヨーロッパで翻訳が出版された。
詩人ハーフェズ(1326~1390年頃)は、ペルシャ抒情詩人の代表といわれ、利己主義の束縛からの解放をうたった。ドイツの文豪ゲーテは、ハーフェスの詩に感銘を受け、彼を「精神的な双子」と呼び、そこから東洋と西洋の融合を詠んだ『西東詩集』を(1819年)を綴ったという。
東京にあるイラン・イスラム共和国大使館の前文化参事官ホセイン・ディヴサーラール氏は、日・イラン外交関係樹立90周年芸術作品集『美がつなぐ4700マイル』のなかで次のように語っている。
「ペルシャ語の文化において、詩はその根幹というべき存在であり、イランの人々は詩とともに暮らしてきた。それは人々の生活そのものであり、詩がイラン人という存在をつくりあげたとさえいえる。美しいものを認識する感性を養い、一方で詩を通じて他者の心に呼びかけるという役割を持っている。そして詩を教育に活用することで、多くの人々に楽しみを見出すことを広げてきた。過去の哲学者や数学者など、当時の学問の頂点にある多才な人々は、また偉大な詩人でもあり、彼らの詩には人生の指針などのさまざまな意味が込められている。私が思うに、日本の方々もわれわれに似た文学への姿勢を持っているのではないか。俳句、短歌などの短い詩に対する美的な感覚がそれに近いといえるだろう」
イランの人々が数千年にわたる歴史のなかで培ってきた文化は、日本のなかでもっと知られてよい。





















