2025年の出生数が67万人と過去最低を更新し、合計特殊出生率も1・14と統計開始以降で過去最低となったことが報じられた。毎年この時期になると前年の「過去最低の出生数」が取り沙汰され、深刻なる少子化の現実が突きつけられる。そして翌年も、また次の年も「過去最低」は変わらず、政府が子ども家庭庁をつくったところで何らの手立ても打たれず、年を追うごとに産まれてくる子どもたちの数は減り続けているのである。
出生数100万人割れが騒がれたのが10年前の2016年だった。そこから2022年には80万人割れとなり、24年には70万人割れ(68・6万人)して今日に至る。国立社会保障・人口問題研究所は当初の人口推計において、出生数70万人割れは2038年頃と予測していたが、はるかに前倒しして事は進行しており、手が付けられない減り方を見せている。人口を維持するためには出生率2・07が求められるというものの、このままでは近い将来にも1を割り込みそうな勢いで「日本人」の数は地球上から減るばかりなのである。
特にミサイル攻撃をくらったわけでもない、戦争をしているわけでもないのに、それ以上の破壊力でもって日本人が減り続けるというのは、いったいぜんたいどうしたことか。「日本を守る!」「美しい国・日本!」とか日頃からフガフガいっている為政者は、むしろこうした人口減少の酷さこそもっと真面目に捉えて向き合うべきではないかと思う。なぜか? 国の存立危機事態といっても過言ではない問題だからだ。他国から武力攻撃を受けているわけでもないのに、平時において自壊しているからである。それは国家運営の帰結であり、生みづらく育てづらい社会になっていること、夢や希望を抱きにくい閉塞した社会になっていることの反映でもある。
人口とは国力をあらわす指標であり、その国で暮らす人々が安心して子どもを産み育てられる社会であるか否かを端的に反映する。アフリカの国々で爆発的に人口が増えているように、あるいは日本社会でも戦後の貧しいなかにあってもベビーブームが起きたように、単純に貧しいから子どもが産み育てられないというわけでもない。それよりもはるかに豊かなはずの現代社会で子どもが産み育てられないというのは、資産のあるなし以上の要因が横たわっていることを突きつけている。
確かに子育てにはカネがかかる。貧しさも子どもをたくさん生みづらい一つの要因ではある。保育園や幼稚園に通わせ、小学校、中学校、高校を経てさらに大学に行かせようものなら教育ローンを借りなければならなかったり、奨学金という名の借金を何百万円も借りなければやっていけないのが現実である。出生数は67万人というのに、奨学金の返済に苦しんでいる若者の数は500万人にのぼるほどである。そうして20代の頭から30代にかけて何百万円もの借金の返済に追われ、結婚や子育てに踏み切れない等々の足かせにもなる。また夫の一馬力だけでは生活がままならず、女性が労働力として駆り出される社会に変貌したもとで、一人育てるだけでも精一杯という現実もある。余裕がないのだ。
前述したように、有事でもない平時に自壊しているのが日本社会である。為政者をして本気で国を守る気があるのなら、なんの役にも立たない子ども家庭庁に注いでいる7兆円とか、米軍需産業にたかられている十数兆円もの防衛費とかの無駄金を削り倒して、安心して子育てできる体制を社会的に強め、サポートする政策に振り向けた方がはるかに国益にかなっている。守るべき国民の生命がガタ減りしているというのは、国家運営が誤っていることを歴然と物語っているのである。出生数にあらわれるように生命力のある国にしていく営みが求められている。
武蔵坊五郎

















