いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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戦争体験の記憶を学ぶ意味を考える 日本図書館協会図書館の自由委員会前委員長・西河内靖泰

 戦後80年を迎えて、あの戦争を次の世代にどう語り継ぎ伝えていくか、そのための教育のあり方があらためて問われている。実際に体験した世代が鬼籍に入っていくなかで、祖父母や祖祖父母たちの思いを引き継いでいくために本や映像などの資料を活用した教育も模索が続く。一方で「子どもたちに怖いものを見せたらトラウマになる」と悲惨なものから目をそらさせる風潮もあるなかで、本や資料を通じて子どもたちにどう伝えていくかは今からの新たな課題ともいえる。長年図書館の現場で活躍し、社会教育や学校教育などでも戦争体験の記憶と記録の継承のとりくみに携わってきた、公益社団法人日本図書館協会・図書館の自由委員会前委員長の西河内泰氏(元・滋賀県多賀町立図書館長、現・広島女学院大学非常勤講師)に話を聞いた。

 

今日の日本社会と政治について

 

西河内靖泰氏

 参議院選挙の様子とその結果をみますと、非常に複雑な思いを感じてなりません。どうみても他民族排除につながりかねないフレーズを叫び、戦争や核の存在を肯定的に語る政治的な勢力に対する社会の反応をみますと、今までとはちがった危険な風潮を感じてなりません。

 

 先の大戦の経験から、多くの日本の人たちは二度と戦争をしたくない、してはならないと思ったはずです。核兵器が再び使われることのないようにとの思いは、被害を受けた被爆者だけではなく、日本国の姿勢として示されていたと思います。これまで、この日本でも核兵器が使われる危険性を無視し、核武装を主張する者はいないわけではありませんが、いずれも社会全体としては拡がりを持つものではありませんでした。でも、この参院選で議席を伸ばした新興の政治勢力のように「この国が核を持つこと」を公然と主張するものが出てきたことに対して、それに対する世間の拒絶感が薄まっていることを感じます。

 

 広島選挙区での新興の政治勢力の女性候補は被爆二世ですが、この候補は「核武装」を主張しています。また、「核武装は安上がり」と言った新興の政治勢力の女性候補者は東京選挙区で当選しています。この候補者は「日本の核武装」を主張する元自衛隊航空幕僚長T氏の弟子だと公言しています。彼らが主張していることは、在特会やチャンネル桜、T氏などの右派勢力が言っていたこととほとんど変わりはありません。これまではこうした主張をする方々が選挙に出ても、世間の人たちはほとんど票を入れなかったし冷たい目で見ていたのですが、先の参院選ではこの政治勢力に票が集まってしまいました。そのことに不気味さを感じています。

 

筋の通らない「日本人ファースト」

 

 彼らの「日本人ファースト」というキャッチフレーズが有権者を引きつけたと言われています。確かに日本国ですから、日本国民を第一にしていこうという主張が出てくることはあり、それを「日本人ファースト」という言葉で象徴したのかもしれません。ですが、この「日本人ファースト」という主張をよく見ますと、外国人労働者や訪日外国人のことを批判のターゲットにしていますが、沖縄などの基地の米兵が日本人に対してやっている犯罪行為について批判も糾弾もしていません。「日本人ファースト」というのなら、これらの犯罪行為に対しての批判的主張があってしかるべきではないでしょうか。彼らの主張する「日本人ファースト」には、虐げられている日本の民衆そのものに対する共感と虐げるものへの怒りはみられないのです。愛国保守だというなら、日本の民衆に対する屈辱的扱いを定めている日米地位協定を問題にせずにいて、どこが「日本人ファースト」なのでしょうか。筋が通っているとは思えません。

 

 先の参院選では、ある種の排外主義・独善主義と受け取られかねない主張をする政党が伸びる一方、平和・人権・福祉を掲げている政党(公明・共産・社会民主)が票を減らしました。建前であっても、これらの政策の主張が有権者に訴えかける力を失ってきているのでしょう。それだけ、現状の社会に不満を持っている者が多いという事でもあります。

 

戦争のリアルを知らぬ恐ろしさ

 

 昨年末にノーベル平和賞を受賞した日本被爆者団体協議会(日本被団協)の活動は、「自分たちと同じような経験を味わわせたくない」という信条に基づいています。もっとも、被爆者のなかには「アメリカに原爆を落として恨みを晴らしたい」と言って亡くなった人もいないわけではありません(「アメリカへの恨み」はあったとしても)。心情として真っ向から二度と原爆の体験を味わわせないという運動に高めてきた日本被団協が、ノーベル平和賞をとったことには大きな意味があると思います。

 

 今、中東地域でイスラエルは「ハマス殲滅」を掲げ、ガザへの攻撃を正当化しています。その攻撃で犠牲になっているのは、子どもや女性など弱い立場に置かれた人びとです。イスラエルはナチスドイツの「ホロコースト」の体験を利用して、自国の行為を正当化しています。自己の犠牲を教訓として、他者に同じような体験をさせないとする被団協とは、真逆の姿勢です。実のところ、現在のイスラエルの政治を主導している人の多くは、ホロコーストの犠牲者とは関係ない人たちで、ホロコースト経験者の子孫たちはガザでのイスラエルの「ジェノサイド」に反対していると聞き及びます。それは「ホロコーストを二度とくり返してはいけない」というのが根底にあり、それは被爆者の感覚と同じだからでしょう。

 

 田中角栄元首相が「戦争を知らない世代が政治の中枢になった時はとても危ない」と言っていたそうですが、まさに今がそうだといえるでしょう。日本国民に戦争を知らない世代が増えてきて、「戦争」や「核」というもののリアルを感じることができなくなって、抽象化されてきています。抽象化された世界観では、ウソと虚飾で飾り立てた歴史認識が氾濫します。若い人たちがリアルな存在としての歴史を学んでいないからです。歴史教育とは何なのでしょうか。その基本は、冷静に歴史の事実を伝えていくことにあります。核なき世界を目指したはずの、この日本で「核武装」を堂々と叫ぶ勢力が台頭していることについて、しっかりと私たちは受け止めていかなければなりません。歴史をきちんと学ばなければ、同じ歴史的な悲劇がくり返される状況を許してしまいかねないのです。

 

戦争を学ぶことの意味

 

 歪められていない歴史の事実を知らなければ、人びとは何者かにたぶらかされていること、そのものに気付きません。そして、真偽不明のネット情報をみて、自分は真実を知ったのだと思い込んでしまっています。昔から人びとをだまして食い物にする存在は少なくありませんが、全く人間は進歩していないのです。無知というのは、知らないこと、知識がないことではありません。間違った知識をすり込まれるのも無知なのです。無知とは、与えられた情報の真贋を判断できないことです。判断するには物事の論理的・科学的・客観的な思考が求められます。つまり、無知とは知性がないということになります。

 

 世の中の状況が悪くなることに対抗していくには、自らが主体的に学習することしかありません。今こそ、学びの復権が大切です。学校で教えられるだけの知識だけでは、結局は権力にとって都合のいいように利用されていくためのものにしかなりません。学校教育だけで、世の中の真実を学ぶことはできないのです。自らの主体的学びで、人びとは世の中の真の姿に接することができます。現実の世の中には不条理があることを学ぶことから、その不条理にどのように対峙するかを考えていくのです。歴史は民衆にとって不条理の連続です。歴史を学ぶということは、不条理の事実をリアルなものとして学ぶことにあります。決して抽象化するものではないのです。

 

『はだしのゲン』の威力と抽象化

 

 リアルがなくなるとはどういう事なのか。『はだしのゲン』は、70年代に子どもたちが衝撃を受けた時代とは違って、その後、学校教育のなかで教えていくことにされて、歴史的事実を踏まえたリアルなものから、抽象化されていきました。学校教育で教材として教えられていては、主体的に学び取るものにはならないから表面上の理解にしかならない。学校で教えるということはそういうものであり、事実のリアルさから遠ざかっていく。知識として身に付けるのも悪いことではないが、それでは不十分なものにしかならないと思います。

 

 子どもたちは、どこからどう主体的に学ぶことができるのでしょうか。かつては俗悪文化とされていたマンガという存在なのです。『はだしのゲン』が有名になって、学校教育に取り入れられ、平和教育の教材となってくることで、そのインパクトがなくなっていると感じられるのです。その意味でマンガという存在が持つ力のことを少し考えてみたいと思います。

 

 さらに、戦争のことをきちんと理解していくためのさまざまなジャンルや媒体についても触れていきたいと思います。

 

子供に戦争の実相どう伝えるか

 

 広島の原爆資料館もそうですが、近年は戦争のなまなましい描写はできるだけ避けて、特に子どもたちの眼に触れさせないようとする傾向がみられます。確かに、子どもにあまりにグロテスクなものを何の配慮もなしに見せることがいいことだとは、私も思いません。

 

 でも、事実を伝えようとする側は、受けとめる対象を考えて、それなりに配慮して発信しているのです。広島の原爆被爆者である中沢啓治さんが描いた自伝的作品である原爆マンガのロングセラー『はだしのゲン』は最初の掲載誌が少年誌(『少年ジャンプ』)ですので、そのまま自分の被爆体験をストレートに表現するのではなく、子どもの状況や反応に配慮しながらギリギリのところを描いたと中沢さんは話されています。

 

 マンガ『はだしのゲン』の絵は確かにきれいではなく、むしろ泥臭い表現ですから、誰もが好意をもって受けとめられるものではありません。原爆を告発するテーマなのに、体験者としてはメルヘンチックには描けないでしょう。読んだ子どもたちに衝撃を与え、時にはトラウマになったという『はだしのゲン』ですが、あの表現でなければ、これだけの影響を世の中に与えることはなかったでしょう。

 

 戦争体験を記録し、後世の人に伝えていく手法にはさまざまあります。文章で伝えることがもっとも多く、本や資料を人びとに提供する図書館の一員であった自分としては、その重要性と意義を認識しています。でも、一方で私自身としては、本当に戦争の恐ろしさや悲惨さを人びとにストレートに訴えかけることができるのは、絵による表現が一番ではないかと思っています。戦争の恐ろしさや悲惨さを描いた映画は多くありますが、やはり表現しきれない部分もあり難しいことは確かだからです。

 

 そこでは、マンガという表現が持つインパクトは大きいのです。

 

 私の高校時代には『月刊少年マガジン』誌上で、戦争の悲劇を表現した読み切りシリーズ「禁じられた戦史」(千田夏光/原作、青柳裕介/脚色・劇画、いけうち誠一/劇画)が掲載されており(1986年、ほるぷ出版から「ほるぷ平和漫画シリーズ」の第一巻として刊行、2012年8月、講談社から『戦争とコミック~禁じられた戦史』として刊行)、私はそれらを読みました。

 

 『週刊少年マガジン』に連載されていた「ある惑星の悲劇~在東京・広島に於ける一被爆者の記録」(旭丘光志・劇画、草河達夫・手記)(1969年12月、講談社から単行本で刊行)も、私は読んでいます。元は文章で書かれたものですが、マンガという視覚へ訴えた表現には確かに迫力はありました。

 

 ただ、絵はその戦争の直接の体験者ではない世代の方が書かれているので、どこかまだ、もの足りなさを感じていました。

 

 戦争のことを表現するとき、体験者は必ずしもその体験をすべて表現するものではありません。本人としては抑えながら表現しているのです。それでもそれが持つ迫力はやはり体験した者にしか表現できないものなのです。その意味で、水木しげるの戦記マンガ『総員玉砕せよ!』(講談社、1973年8月)は戦争そのものの現実を表現した「戦争マンガ」の最高傑作であると思います。もちろん「原爆マンガ」の最高傑作は『はだしのゲン』ですが。

 

被爆した市民が描いた絵の力

 

「市民が描いた原爆の絵」の一枚。黒い雨が降る中を衣服を剥がされた女学生たちが、先生に連れられて己斐国民学校の方向へ避難しようとしていた。(広島市・名柄規四郎氏、当時40歳)

 今日、子どもたちに原爆のもたらした被害を見せるものとして、私が大切な資料だと思っているのは、被爆した市民が自ら描いた絵(「市民が描いた原爆の絵」)です(広島平和記念資料館の平和データベースで公開されており、検索可能です)。これらの絵は、被爆者一人ひとりの被爆体験を描いたものですが、これはユネスコの「世界の記憶」(「記憶遺産」)に値するものだと思います(まだ、絵が増え続けて更新されているので、現在は申請する資格がありませんが)。

 

 また、きちんと伝えるべきだと思うのは、原爆の被害だけではなく太平洋戦争下における米軍による日本各地の空襲記録です。ある博物館での空襲被害の写真展で、鹿児島空襲の写真を前に「どこの写真」と聞かれた子どもたちが、広島の写真と答えたということもありました。ほとんど建物がなくなって、徹底的に破壊された都市は、広島のものと見間違えるほどに凄かったのです。米軍による空襲は、敵国の戦争遂行の意欲を喪失させるためとの名目で、国際法で禁止されている非戦闘員であるはずの市民を徹底的に殺戮することを目的にしたものです(この姿勢がきちんと国際的に問われることがなかったことが、以後の戦乱や戦争で大量の非戦闘員を殺戮しても恥じない論理につながっているものと思います)。破壊しつくされた都市の写真とその体験記録から学ぶことは多いのです。そうした全国各地の空襲の末に、広島と長崎という都市に対する原爆攻撃があったのです。そうしたことをきちんと位置付けて学ぶことが大切だと思っています。

 

 そして、日本の民衆が体験したことだけでなく、中国で、フィリピンで、インドネシアで、日本軍が何をしたのかもきちんと伝えなければなりません。私たちが、戦争の問題について考えたり論じたりするときには、そのための大前提があります。それは「戦争で誰がもっとも犠牲になるのか」、その立場からものを見てほしいということです。戦争で犠牲になるのは、戦場に駆り出される兵士以上に、子どもたちであり、女性たちであり、老人や障害者など、圧倒的に弱い立場に置かれた人たちなのです。

 

民話や昔話の役割とはなにか

 

 民話とは、国家などの公的な歴史記述ではなく、民衆の間に口頭で伝えられてきた散文形態の口頭伝承や口頭文芸のことを意味します。民話の場で「昔~で」語るのが本格的な「昔話」です。民話や昔話は、子どもたちに何らかの教訓を伝えるものとして使われてきました。“世の中は決して甘くないこと”すなわち、世の中の理不尽を教えるものだったのです。

 

 民話は民衆のものですから、決して「きれいなもの(ストーリー)」ではありません。むしろ「泥臭いもの」です。民話、昔話というものは、虐げられた民衆たちの世の中の現実を子どもたちに教えるリアルな教材だったのです。

 

 テレビアニメの『まんが日本昔ばなし』(1975~1994年レギュラー放送、毎日放送ほか)の6割は実に救いようがない話で占められているといいます。この放送を私の娘は怖がっていました。けっして楽しい話ではないのです。世の中は残酷で理不尽です。でも、それに負けることなく理不尽さと闘いつづけるのも民衆なのです。

 

 『はだしのゲン』で描かれていることは、子どもたちがトラウマになるくらいの厳しさです。それに対する非難は元から結構ありました。でも、ここでの表現は「きれい事」であったらだめなのです。中沢啓治が味わった現実はもっと悲惨であったのです。「泥臭い」表現をする「現代の民話」として、これでも彼にとっては児童向け出版物で、原爆の凄惨な状況を伝えるためにいわばぎりぎりの表現で出されたものなのです。だからこそ、原爆の問題を伝える代表的なものとなったのです。『はだしのゲン』の表現を「残酷だ」と攻撃することは、真実を隠そうとする意図があるのではないでしょうか。むしろ、その言葉は、まぎれもなく原爆のもたらすものが「残酷なもの」であることの証左ということになります。

 

 現実の社会はドロドロであり、正義が勝つのではなく悪が栄えることが多いのです。それが世の中というものと認識されてきたのではないでしょうか。私の理解が必ずしもあっているかはわかりませんが、その理不尽さを教えているのが宗教ではないかと思っています。私の家は、浄土真宗本願寺派の門徒ですが、お寺でよく「地獄絵図」を見ることがありました。非常にグロテスクなもので刺激が強いもののはずですが、子どもの時から普通に見せられていました。浄土への往生を願う浄土教の教えを広げるには、その対極にある地獄の姿を描いたのですが、その地獄とは、実は煩悩に汚染されている衆生が住む苦しみに満ちた世の中の姿の比喩なのです。『はだしのゲン』は、安芸門徒の地で描かれた現代の「地獄絵図」なのでしょう。子どもたちは、民話や昔話、マンガなどで人間の非道さや理不尽を学んできているのです。

 

ハッピーエンドは真実を覆い隠す

 

 ハッピーエンドのお話は、真実を覆い隠すものでしかないように思われるのです。有名な『桃太郎』という物語は、桃から生まれた桃太郎が、鬼ヶ島の鬼を退治するためにきびだんごを与え、お供に連れて行ったイヌ、サル、キジとともに鬼退治をする話です。基本的に鬼は悪、桃太郎は善として描かれていますが、本当のところは鬼を皆殺しにして宝物を奪ってくる話です。有名な永井豪の漫画がありますが、桃太郎とお供の連中が争う場面をマンガにしていますが、「桃太郎の形相はさながら鬼であった」と描いています。人間の本質はそちらなのです。

 

 でも、ある子ども向けの絵本では『桃太郎』という話を、宝物を奪ってくる話から、かどわかされていたお姫様を助け出して幸せに暮らすというハッピーエンドの物語にしてしまっています。本来は、現実には正義の味方ではない、ただの略奪者でしかない「桃太郎」を「正義の味方」にしてしまった。それが、今図書館で提供される「桃太郎」物語のポピュラーなものとなっているのです。日本の昔話を「きれい事」に変質させて、その結果がどうなっているのでしょうか。この「桃太郎」をどのような存在に仮託していますか。

 

 子ども向けに残酷な表現を避けて、ハッピーエンドで終わらせるというのは、児童文学における考え方のひとつです。その考え方を否定するわけではありませんが、人の世の中って、そんなに良い結果になるものではないというのが現実ですね。文学は人間の現実の姿を浮き彫りにしていくもので、それは子ども相手でも同じではないでしょうか。

 

今の教育をどう変えていくか

 

 今の教育を考えたときに、学校の中で教えられる内容が建前は立派であっても、現実には学校の中で子どもたちは抑圧されています。世の中の理不尽さを教えずに、子どもたちは表面的なことしか教わらない。でも、現実の学校では理不尽さがまかり通っています。そのギャップが子どもたちを苦しめているのです。理不尽さがあるのに、ないように振舞うのはもう止めにしませんか。考え方を変えてみることです。

 

 理不尽さがあるからこそ、その理不尽さの源(みなもと)を学ぶことで、抑圧に対する解放のエネルギーが出るのです。そこから真っ当な喜びや怒りも育っていきます。だからこそ、為政者は良い世界(“天国”“幸せ”などという幻想)を与えて、子どもたちを抑圧していくのです。理不尽さを正直に知ってしまうと、それに対する抵抗の気持ちが芽生えてくるからです。

 

 正しさは幻想でしかありません。世の中の本質は、抑圧の構造そのものです。人間は弱い存在であり、常に恐怖を感じながら生きています。だから、他人を攻撃するのです。そのことに何らの正当性はありません。戦争という理不尽さに黙って従おうとすると、その被害者を抑圧することにつながるのです。人は、思いやりよりは排除に容易に向かうのです。

 

 『はだしのゲン』は、その現実を明らかにしました。人びとは戦争の被害者にけっして同情などしないのです。むしろ、同じ目にあいたくないから、彼らを目の前から排除しようとします。その歴史と現実とをまず理解していくことから、教育が変わっていくことと思います。

 

記録を未来に繋ぐ図書館の役割

 

 この日本で、先の戦争の体験者は、いずれ亡くなっていきます。それらの人たちのリアルな体験の語りに接する機会は確実に無くなっていく方向に向かっています。彼らのなかに残る記憶を記録して残していくことが、より一層大切になっているのです。

 

 先の戦争の体験者の歴史の事実を、未体験者の未来の人びとに伝えていくにはどうすればいいのか。ひと頃は、戦争や被爆の「体験の継承」と言われていましたが、個人の体験そのものを継承することなどできません。そこで、最近は「記憶の継承」と言われるようになりました。だが「記憶の継承」といっても、「記憶」は記録されて、はじめて「継承」できる存在になります。

 

 「記憶」は、映像や絵、文章として民衆の聞き書きという記録として残されて、継承されるものになります。

 

 その意味で、記録されたものを保存して、未来の読者に伝える図書館の役割が重要なのです。図書館員を経験した、一人の被爆二世として、心底そう思います。

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