いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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知の力を信じて ー読書の意義、図書館の役割ー 下関市立図書館長・西河内靖泰氏に聞く

 にしごうち・やすひろ 1953(昭和28)年大阪市生まれ。立正大学文学部卒業。東京都荒川区役所に勤務。荒川区内の図書館に18年間勤務し、2009年3月に荒川区を退職。その後、滋賀県愛荘町、多賀町で図書館長を務める。桃山学院大学兼任講師、広島女学院大学特任准教授、16年から広島大学司書教諭講習講師、17年から山口大学非常勤講師。18年4月から下関市立中央図書館長。

 

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 ◇ 図書館とは

 

 人間は、本という形で歴史や教訓を伝えてきました。本は、人びとを未知なるもの、知的な世界へと引き込んでくれるもっとも簡単な装置です。そのための媒介者としての役割を公的に担っている機関が図書館です。

 

 文字の発生は約5000年前ですが、文字が生まれたひとつの要因として物の物流や交換・販売などを記録する必要があったからといわれています。その文書を保管したのが、今でいう図書館の起源になります。図書館はさまざまな人間の知的生産物を集めて、現在の人だけでなく、未来の読者のために伝えていく場所です。そのため、図書館という存在は、人類が続く限り永遠でなくてはならないし、組織としてずっと存在していくものなのです。それは、人間の歴史に対して責任を持つという立場です。決して目先の成果をあげるためという考えでは運営できるものではないのです。図書館とは、みなさんの知性をみがいていくことを保障する場であり、知性はそれぞれの人生の物語をつくりあげていくものだと考えています。

 

◇ 知性をみがく

 

 パソコンやスマートフォンが急速に普及し、本や新聞を読む機会が減って「活字離れ」が進んでいると言われます。しかし、ある新聞社の調査では決して「活字離れにはなっていない」という結果が出ているそうです。それは読み取る活字の質が、変化しているということなのです。スマホを通して得る情報も、活字で書かれたものです。ただし、スマホやテレビ、インターネットから溢れる情報は玉石混淆(すぐれたもの、つまらないものが入り交じっている)であって、どれが自分たちにとって適切なのかはわかりません。ですから、私たちは、そのなかから玉と石をより分けていく力、つまり主体的に物事を考え判断する力を持つことが、以前にも増して必要になっているのです。

 

 ところが、現実には人びとは垂れ流される情報を受動的に消費するだけで、ますますものを考えない傾向が強まっています。社会は常に変化し続けています。その社会の変化を、私たちはどう受けとめ見据えていくのか。私たちが、歴史を通して未来を見据えていくには、学びが大切です。そのためには、読書が必要なのです。人類の知的活動の記録である本を通して人びとは学ぶことができるのです。ですから、できるだけ多く広いジャンルの本を読むことをおすすめします。そして、それらをただ受け入れるのではなく批判的に読むことも大切です。読んだ本の量は、人生を裏切りません。本を読まないでいると、知性は確実に衰えていくのです。「活字離れ」「読書離れ」ということを危惧するのは、そういうわけなのです。国というものを支えるのは、知性と教養に裏づけられた文化なのです。

 

 知性の劣化

 

 今日の知性の衰退の状況は深刻です。例えば、少し前に韓国の音楽ユニットBTS(防弾少年団)のメンバーのひとりが原爆投下直後のキノコ雲の写真(長崎)と、朝鮮半島が日本の支配から解放された写真を並列したプリントTシャツを着ていたことが物議をかもしました。この行動自体に対する批判は別にして、私が感じたことはそんなことをすれば、どのような反応があるのかについて想像力を働かせていない、何も考えずにおこなったのではないかということでした。

 

 ネットやマスコミでは、Tシャツを着ていたことが批判の的になっていましたが、どのような影響を招くのか考えずに行動していることの方がより深刻な問題だと捉えています。何の悪質な意図もなく無意識のうちに、そのようなことを行動、発言することの危うさを感じます。ものを考えないということは、マスメディアや権力を持つ者に煽動されたり流されやすいということです。かつての戦争のときがそうでした。だから恐ろしいのです。

 

 知性をみがかなければ、結局はお互いへの感情的な批判と不満が積み重なっていくだけです。いわゆる「ネトウヨ」の人たちもそうです。インターネット上で感情のおもむくままに、差別的発言を続けたり、罵倒の声を投げつける。それは勢いがあるように見えますが、そうした言葉を発信すればするほど、自らのボキャブラリーの少なさや知性の浅さを露呈していくだけです。自分が感じていることが、絶対正義だと、頭の中が凝り固まっている。なぜそうなるかといえば、学ぶことをしないからです。そもそもすべての物事は変化し続けており、永遠に絶対に正しいということは、神様でもない人間がわかるはずはないのです。

 

 社会的地位にある人が、心ない発言をして批判をされたときに、「そんなつもりはなかった」といって弁解するケースがあります。この国の政治家をみてもそういう人物が出てきていることを残念に思います。ここには知性の劣化があらわれている。そのことが深刻な問題ではないでしょうか。

 

 無意識に発言されるくらいなら、極端なことを言えば、歴史的事実や評価を充分に知った上で、自分の意見として差別発言をする人の方が、まだましなのではないかと思うほどです。

 

◇ 教養が大事―人が賢くなるとは

 

 本来、日本は、教養を大切にする国でした。長州藩が明治維新の主体になりえたのは、学ぶことの大切さを認識していたからです。吉田松陰や高杉晋作を輩出した長州藩は、外国の状況を学び、先を見通す力を持ったからこそ、時代の動きに対処できたのです。

 

 山口県内には、かつていたるところに図書館がありました。明治期に下関(豊浦郡を含む)には、村ごとの私立文庫や村立図書館が次々と創立されています。それほど学ぶことへの意識が高かったのでしょう。維新150年の顕彰の意義は、主体的に学ぶことの意義を捉えることだと思います。吉田松陰は、義務で学ぶのではなく主体的に学ぶように繰り返し言っています。この吉田松陰が体現した学ぶ姿勢こそ、現代に継承すべきものでしょう。

 

 吉田松陰は野山獄に囚われても、希望を捨てることなく本を読み勉強し学びつづけました。その学ぶ姿勢は、長年囚われの身であった重罪人でさえも信服させました。吉田松陰は、知性の力によって人の魂は救われる、知性をみがくことによって、よき感情が生まれ、人間性を取り戻すことができることを実証した、真の教育者だと思います。

 

 人が賢くなるというのは、物事を変えること、変わっていくことを確信することができるか、そこに希望を持つことができるかだと思います。人間の知性を信じることができるかどうかです。その意味で、私は教育者に、もっととことん本を読んでいただきたい。本を読まなければ、次世代の教育に責任を持つことはできません。

 

 私は学生時代に、社会学を専攻していました。社会学講読という授業がありましたが、一回ごとに社会学の基本的な本を読んで、毎回レポートを書くことが当たり前でした。文献をきちんと読み解き、理解し、さらには研究方法などを学ぶ学習です。あまり勉強しなかった大学生でも結構本は読んでいました。本を読むことで、自分たちが意識しないうちに知性はみがかれていたのです。

 

◇ 子どもにすすめたい本

 

 そして、教育者には子どもたちに「いろんな本を読んでみて」とぜひすすめてほしいと思います。特定の本を読めとすすめたり、「あの本はいけない」「この本はいけない」と言うのではなく、学校図書館に並ぶいろんな本を、自分で選んで読んでみるように、すすめてほしいと思います。

 

 子どもの時期は、たくさんの本に接するとともに、自分が気に入った本をしっかり読むということも大事です。そこで私が大事だと思っているのは図鑑です。図書館には、最新の質の高い図鑑を入れるように盛んに促してきました。子どもの「理科離れ」といいますが、子どもは本来自然に対する好奇心が高いものです。その好奇心に応え、さらにかきたててくれるのが図鑑です。幼い頃から図鑑を読んでいる子どもは、そのなかから勝手に字や物事を覚えていくと言われています。

 

 さらに大事なことは中学、高校時代にしっかり本を読んでおく必要があるということです。成長過程で一番効果があると思うジャンルの本は、推理小説とSF(サイエンス・フィクション)小説です。意外に思われるかもしれませんが、普通の小説などは多少つじつまが合わなくても物語が破綻をしないのですが、このジャンルの小説はつじつまが合わないと成立しない構造になっています。こうした本を中・高校生のときにしっかり読むことは、論理的に物事を考える思考を育てます。

 

 ともすれば大人のなかには「犯罪や殺人がからむから」という理由で、推理小説などを嫌われる方がおられます。ですが、推理小説というものは、本を読みながら知的ゲームができる。たしかにあまりグロテスクなものは、どうかとは思いますが、江戸川乱歩やアルセーヌ・ルパン、シャーロック・ホームズなどの古典などは図書館では定番ですね。

 

◇ 文学の読み方

 

 ここで、文学についても触れておきたいと思います。人の本の読み取り方は、一様ではありません。ジャンルによって違いますが、文学はじっくり読むものです。文学は、作者の考え方や思いなどがすべて出てくるものです。「文学に触れる」「文学を読む」という行為は、作者と読む人とで精神的なキャッチボールをするということなのです。ですから文学にきちんと触れていくことは、確実に自分の感覚、知性をみがいていきます。作者に共感できる部分もあれば、自分の物の見方や考え方と違うなと感じることもあるでしょう。自分の考えとの違いを感じること、そのような批判的精神があることによって、実は感性や知性がみがかれていくのです。

 

◇ 本の力、図書館の可能性

 

 最後に図書館について再度ふれたいと思います。図書館とは、人間が自らの歴史・文化を持続発展させていくためには、欠かすことのできない存在なのです。図書館が、提供しているのは単なる情報ではありません。人と本の世界との出会いの場として、図書館はあります。その本の魅力を伝えるのが図書館の仕事です。そのためには、図書館自身が魅力的であることだと思っています。

 

 図書館はたくさんの可能性と多様性をもった世界です。多様性こそが図書館の前提なのです。「図書館には100の正義の主張があれば、それとは反対のものを含めて200の本がある」のです。私たち図書館にかかわる者は、単に求められた情報を提供するだけでなく、人びとの生活、人びとの息づかい、人びとの悩み苦しみなどに共感する感性をみがかなければ本を選ぶことはできません。図書館司書は、そのような大切な役割を持っており、さまざまな経験を積みながら鍛えていくものです。ですが現状では、この日本の図書館司書の多くが非常勤という待遇です。この人たちがしっかり腰を据えて仕事にとりくめる環境が保障されていく必要があると思います。

 

 学んだことは、蓄積され確実に身についていきます。ですから、学ぶことは大切なのです。そのためにはもっと本を読んでほしい。私は、インターネットの世界を否定するのではありません。インターネットからは、さまざまな学術論文や外国の論文など貴重な資料を簡単に手に入れることができます。ただ情報としてつまみ食いするのではなく、きちんと刷り出し読み取ることは、本を読むこととなんら変わりません。これほど世の中が困難をかかえる時代になってくればくるほど、私たちはもっと能動的に学び、さらに積極的に多様な本を読み未来を見据えることが必要となっていると思います。(文責・編集部)

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