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【寄稿コラム】未来への贈与、今に希望を灯す――脱資本主義の教育論(後編) 岡住建郎

(2025年7月30日付から連載)

6.労働力商品の教育から、真の知性の教育へ

 

「どうせボロ雑巾として一生働くしかないんですよ。」

 

 ある高校3年生が推薦入試のための将来の希望欄を書きながら吐き捨てた。学校から推薦の確約を得て、自分の希望するデータサイエンス学科に行くチャンスを手にしていた。にもかかわらず、彼は何かを諦めるように、自分にいい聞かせるように呟いたのだった。学校教育12年間を経た一人の青年に「俺は労働力商品(ボロ雑巾)になるしかない」と思わせるに至ったのであれば、皮肉にも資本主義は日本の教育を都合の良いものに改革することに成功したといえる。

 

 「労働力商品」とは人間が賃金を得る代わりに資本(企業)に提供するものである。その労働力商品によって得られる賃金(価値)は、働いて生み出す富(使用価値)よりも低くなる。この不等価交換を搾取というが、商品を購入することでしか生存できない労働者は合意の下でこれを受け入れるしかない。そして、その労働者は消費者として市場で商品を買い戻すことで、総体としての資本はさらに増殖する。こうして見ると「ボロ雑巾」という例えは、商品として絞られて、商品を吸いとって、繰り返しのなかで擦り切れていく様子を的確に表現している。

 

 「労働力商品」は資本が生産できない唯一のものであった。しかし、今、資本は教育を変容させて「労働力商品」の再生産を可能にした。アメリカの経済学者ブライアン・カプランは「教育は雇用主にとって都合よく仕事に励む、順応主義的な社員を雇うことを可能にした」と指摘する。

 

 本来の教育はこうした資本の運動の外側にあり、「精神の解放」「人間性の涵養」「集団的道徳の形成」などの役割を担っていたとフランスの歴史学者エマニュエル・トッドはのべているが、そうした理想は既に忘れられたのではないかと感じることがある。

 

 「英検を持っていれば何かとお得だと親に聞いたから英語を勉強しています」と話す小学生もいれば、「内申書に書いてもらうために好きでもない部活をしています」と嘆く中学生もいる。進学校では「人生の9割は学歴で決まる」と先生にいわれ、やがて大学生になれば「就活に備えて履歴書を充実させるためにボランティア活動をします」と恥ずかしげもなく語るようになる。

 

 資本主義社会に順応するための教育において、すべての活動の目的は「労働力商品」としての価値向上となってしまう。すべての経験は純粋な目的を失い、単なる手段となってしまう。こうした状況が子どもたちの日常となっている。周囲の大人たちも無自覚にそれを奨励してしまっている。その成れの果てが「ボロ雑巾」なのだ。

 

 このような環境において、若者が自己肯定感を持てない根本的な原因は、資本主義社会の常識の枠内でしか物事を考えられない「不自由な精神」にあるのではないか。これまで教育界では自己肯定感を高めるための方法論が研究実践されてきたが、それらは本質的な議論ではないのかもしれない。

 

 人間の知的成熟には「自由な時間」が必要だ。自分とは誰か、社会とは何か、いかに生きるべきか。人と交わり、本を読み、自問自答する。こうした思索の余裕が今の子どもたちに与えられているだろうか。それを奪い去っているのは誰だろうか。暇でなければ考えない。考えなければ使われる。「自由な時間」を持つことで、「労働力商品」ではない、人間としての感覚・感情・思考を発見する。自己肯定感なんてものは、こうした知的成熟の副産物に過ぎない。

 

 映画『ショーシャンクの空に』では、刑務所の中でも、まるで別の世界を生きているかのように悠然と過ごす主人公が描かれていた。同じ環境にありながらも、ただ順応するのではなく、別の可能性を示すことのできる人間がいる。このように社会の在り方を問い直す力が真の知性であり、その涵養こそが教育の目的だと考える。

 

7.都市の収奪への抵抗、地元で生きる教育を

 

 子どもが成人する親と話をしていると、自らの子どもが地元を離れて大学進学あるいは就職することを誇らしげに語りながらも「実は近くにいてほしかったんだけどね」と本音が漏れることがある。

 

 子どもが学問を修めると、その子どもは都市へと向かい、決して家へは帰ってこない。この種の葛藤は100年前に夏目漱石が「こころ」でも描いたものである。大学進学率が向上して、都市への人口集中が加速する現代において、より普遍的な感情となっている。

 

 カール=マルクスは資本主義の特質を「巨大なる商品集積」という言葉であらわしたが、現代の大都市の在り方は、まさに資本主義の体現であるといえる。生存に必要なものを自給できない都市において、そこに暮らす人は全面的に商品に依存せざるを得ない。都市の生活者は「労働力商品」として生きるしかない。そして、都市そのものも「労働力商品」の供給を地方に依存してきた。

 

 都市の巨大資本は、育児や教育にかかる時間や費用を外部化して、地方から労働力を集めている。「労働力市場」と「個人の職業選択の自由」を組み合わせることで、地方から人間を収奪し続けている。しかし、このシステムは持続可能なものではなかった。商品や人間を文字通り運搬して集積してきた都市。その繁栄の源泉は地方にあったが、もはや収奪の限りを尽くしつつある。

 

 人口戦略会議は消滅可能性自治体を発表して、それぞれの自治体に対応を促そうとしている。また、若年世代の所得向上や雇用条件の改善が最重要の論点だと指摘しているが、それが本質的な議論ではないことは明らかだ。地方自治体は勝手に消滅するのではなく資本主義のシステムの中で消尽されているのである。

 

 こうした理不尽な都市の収奪に対して、地方自治体は「地元で生きる教育」へと舵を切るべきだ。地域への愛着を育むといった曖昧な理念に逃げてはならない。子どもたちが実際に地域に残って豊かに暮らすための知恵が必要だ。地方に雇用がないことが人口流出の一因だといわれるが、そもそも地域の仕事を担える技能を習得していないことが課題の本質である。

 

 しかし、現実を見てみると、そうした「地元で生きる教育」は圧倒的に不足している。そればかりか、高校における普通科比率の上昇、都市部の難関大学を目指す中高一貫校の増加、農業高校など地域性の高い学科の統廃合によって、その基盤は失われつつある。

 

 サッカー界には連帯貢献金という国際ルールがある。国外クラブチームに選手が移籍した際、移籍金の最大5%が12~23歳を過ごしたクラブに支払われる制度だ。例えば、ドルトムントに移籍した香川真司が所属した地元クラブには合計5000万円ほどの連帯貢献金が支払われている。この制度によって、優秀な選手を育てたクラブは十分な対価を得て、次の世代の選手育成に還元することができる。そうしてサッカー界には好循環が生まれている。

 

 日本の労働力市場には当然こうした制度はない。地方で育った子どもが大人になって地元を離れて就職する際には、個人の自由な選択の結果として、魅力のない地域から出て行ったものと解釈される。流出元の自治体への移籍金や連帯貢献金の支払いも当然ない。

 

 消滅可能性自治体が考えるべきことは、地域の魅力創出などのマヤカシではなく、こうした都市の収奪に対抗する方策である。そのために、地域で豊かな定常状態を維持するための教育を構築するべきだ。

 

8.構想と実行の分離する社会、教室は最後の砦

 

 資本主義による生産力向上の過程では「構想と実行の分離」が生じる。「構想」を資本家や管理職が独占して担い、現場で働く労働者は「実行」のみを担うことになる。「構想と実行の分離」によって効率化が実現される。それと同時に、本来は技能が必要な労働を単純作業に変換することで労働力の価値は低下する。そればかりでなく「構想」を失った労働に喜びはない。

 

 この構想と実行の分離を教育ビジネスの領域で検討してみよう。教育ビジネスのメインストリームはフランチャイズ化であった。本社で教材を開発する「構想」と現場でプリントを配布する「実行」を分断したことで大手の教育事業は拡大してきた。例えば、有名講師の分かりやすい授業を視聴させる通信教育モデルは、教育の核である授業の「構想」と生徒を集め視聴させる「実行」の分離によって成立している。その結果、場所を問わず、平等に教育が受けられるようになった。しかし、それは、どこでも同じような画一的な教育しか受けられなくなってしまったことを意味する。そして、生徒に向き合い成長を促す役割を担うべき教育者の技能は減退した。

 

 さらに、この「構想と実行の分離」は直接的に子どもたちの学習に及びつつある。ここ数年で登場した教育ビジネスの特徴は積極的なAIの活用にある。生徒が分からない箇所や原因をAIが判別したうえで、学習に最適な筋道を計画して、それに沿った問題を提案するシステムが普及している。タブレット上で問題に答えると、その結果に応じて、次のレベルの問題に進んだり、つまずきがあれば以前の単元の問題が提示されたりする。生徒はただひたすら、問題を解くという作業に従事することになる。何が分からないのか、どうしたら分かるようになるかを、自問自答することで思考力は養われる。本来、勉強とは「構想と実行の一致」そのものであった。しかし、AIに導かれる子どもたちには、考える余地も学ぶ喜びも残されてはいない。

 

 ちなみに、私自身こうしたフランチャイズビジネスの勧誘をよく受けるが、その売り文句は「先生は教える手間が省けます」だ。教えたいことがあるから先生になるはずなのに、これでは本末転倒だ。そのシステムの名前がショウイン式だったりするが、吉田松陰先生が見たら何というだろう。このように「構想」を放棄させるような教育ビジネスが跋扈するような状況を見ると事態は深刻である。

 

 最近はGIGAスクール構想によって、学校においても生徒1台のタブレット端末の携行が実現された。本来は手段であるICT活用が目的化され、週3回は使うようにという数値目標がある学校もある。また、夏休みの宿題を先述のAIドリルにした学校もある。現場で教える先生たちのなかには、こうした変化に違和感を抱いている方も多いだろう。

 

 資本による「構想と実行の分離」への抵抗は難しくない。それぞれが大事だと思うことを伝えればいい。それが生徒の知的成熟を促す。その価値判断こそが教師の「構想」である。教えたいことがある人間は誰でも立派な先生だと私は思う。学校の外は資本主義の遍く世界となった。教室は最後の砦だ。

 

9.切実な感情に向き合う、子どもたちの生きる深い世界

 

 同世代の旧友と集まって話していたら、その中の一人が「部下が自殺した」と職場の悲惨さを訴えた。それを聞いた別の友人は「そんなこといったって、忙しいのはあたりまえだろ。そんなのは何の自慢にもならない」と一蹴した。2人とも努力して掴みとった学歴を武器に就職希望ランキング調査で上位を占める大企業に就職した、世にいわれる「ハイクラス人材」なのだが、果たして人間としてはどうだろうか。

 

 人を殺しても給料が高ければ優良企業と称される歪んだ社会、それを知りながらも抜け出せないほどに深まる資本への依存、他の痛みばかりか自らをも大切にできない非人間性。作家の辺見庸は「資本主義とは人々を病むべく導きながら、健やかにと命じるシステム」であるとのべた。シニカルでニヒルに、無責任に無作為であることが、あたりまえに許される社会になってしまった。

 

 教育もそうした資本主義社会の在り方に似てきている。とある中学校の校長は「最近は人間を育てている気がしない」と吐露した。それなりに裁量のある校長自身がいうのだから、その通りになってしまっているのかもしれない。

 

 しかし、希望は子どもたちの中にある。彼らの日常はとても人間的で、感情の起伏にあふれている。浅薄な大人が気にするテストの点数や内申書の言葉なんかよりも、子どもたちの方がよっぽど深い世界を生きている。塾の生徒から受ける相談は、どれも簡単に答えられるものではない。

 

 「友人が自宅に遊びに来るたびに、お金がなくなる。どうしたらいいですか」
 「進学指導担当の先生が大学に行かず就職する自分を目の敵にしてくるのが辛い」
 「宗教2世の友人が親子関係に困っているのだけど、どう声をかけたらいいですか」

 

 こうした模範解答のない切実な問いに対して、さまざまな視点を投げ掛けながら共に考える。盗みを働く友人への対応については、以下のような質問をもとに対話を重ねた。

 

 「なぜ、友だちはお金を盗るのだろうか」
 「実は何かに困っているのではないか」
 「その友だちは盗みをして幸せだと思うか」
 「日本の貧困率とヤングケアラーについては知っているか」

 

 結論として「僕は君と友だちでいたい」という手紙をあらかじめ財布に忍ばせておくというアイデアが得られた。満面の笑顔だった。ちなみに、ChatGPTの答えは「信頼関係が壊れた相手と無理に関係を続ける必要はありません」だった。資本主義社会の模範解答だが、それで子どもは納得しないし、それで社会は豊かにはならない。

 

 周囲の人間と関わり、自他の感情に向き合い、悩み考える経験が、やがて人生の方位磁針となる。そのようにしてアイデンティティを形成するための猶予期間が本来の思春期だったはずだ。

 

 しかし、現代の子どもたちはそんな時間を十分に与えられていない。特に中学受験の過熱には見るに堪えない。某大手進学塾の適性試験対策テキストを見たが、その内容は悲しくなるほどに虚しかった。「テレワークのメリットについて述べよ」なんて、子どもにとって全く切実でない問題について考えさせることに、どれほどの意味があるのだろう。そうして身に付ける思考力や思考態度は付け焼刃に過ぎず、人生や社会を豊かにするうえで役に立つものにはならない。まさに、子どもたちを病むべく導きながら、健やかにと命じているような状況だ。

 

 人間として成熟することは、資本主義とは相容れない部分がある。多くの人が生きる意味を真剣に考えてしまえば、下らない労働に従事する人間は減ってしまう。多くの人が助け合えば、余分なサービス業はなくなってしまう。多くの人が既にある豊かさに満足すれば、欠乏感を埋めるための消費はなくなってしまう。つまり、脱資本主義の鍵は人間としての成熟にある。そして、その鍵は子どもたちの感情の深くにある。ゆっくりと子どもと話すことで見えてくる世界がある。

 

10.継承する使命を果たそう

 

 便利屋をやっている知人から聞いた話だが、相続した実家の廃品整理の依頼が増えているそうだ。ある現場に行ってみると、故人が生活していた当時の状況のままで、何一つ片づけられた形跡がない。依頼主は恥ずかしげもなく「土足でどうぞ」と家の中をズカズカと案内して、挙句の果てには「通帳や権利証は持って行ったので後はお好きにどうぞ」という始末。生家への感謝、両親への敬意を感じない態度に呆れ果てる。こんなことが日常茶飯事だという。

 

 どの時代にも、どの地域にも、その中にある個人の世界認識を規定する「時代のヴェール」と呼ぶべきものがある。そして、現代においては「資本主義のヴェール」が商品ではないものの価値を覆い隠してしまっている。すべてを貨幣価値に換算して評価する一方で、貨幣に換算できないものの価値を認識する能力を失いつつある。人間としていかに生きるか考えるよりも、労働者としてどれだけ稼ぐかに憑りつかれ、消費者として何を買うかばかり気にしている。その結果、自らの生みの親さえも大切にできないほどに、自らの過去の領域に属するものを軽んじているように思う。

 

 教育が抱える諸問題も、究極的には「資本主義のヴェール」に起因している。子どもたちに与えられる知識も単なる商品のようになっている。それを贈り物として受け渡す大人がいなければ、それを価値あるものとして受けとる子どももいなくなるだろう。

 

 夏目漱石の「こころ」には、こんな一説がある。「先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私には殆んど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足は出来ないのです。」

 

 中学生と歴史の教科書を一緒に読んでいた時のこと。第二次世界大戦について学ぶときには、祖父母の戦争体験を伝えた。冷戦については、私がベトナムを旅した時にかつての戦場で大学生のボランティアが語り継いでいた話を伝えた。また、アメリカ同時多発テロ事件については、当時高校生だった私が感じたことや、それが進路選択にどんな影響をもたらしたかを伝えた。それを聞いた彼女は「何で教科書はこんなに薄っぺらいんですか」と怒気を含んだ調子でいった。それから、彼女は歴史に興味を持つようになり、教科書のみならず映画や書籍を通じて多くを学ぶようになった。それだけではない。彼女から怒りの感情を受けとった私は、過去に由来する力の存在を実感し、次の世代に伝えるべきことが何かを改めて考えるようになった。

 

 それは単なる知識ではなく、それに付随する固有の感情や経験の総体だ。交換可能な商品である知識を特別なものに変えられるのは、こうした「贈与」と呼ぶべき互恵的な行為である。

 

 何かを受けとることなしに、与えることはできない。だから、過去を継承することで現在を満たしていくことが大切だ。あらゆる可能性のなかの一つの結実として現在があることを知れば、すべてのものが尊くかけがえのない重みを持つようになる。生命・文化・自然などの生まれながらにして与えられるものに感謝することで、「資本主義のヴェール」なき世界を見ることができる。また、経験・感情・思索などの生きていくなかで与えられるものを享受することで、資本主義とは異なる価値を持つ世界を生きることができる。

 

 そして、「過去からの継承」は必然的に「未来への贈与」へと向かう。時は常に一方向へと流れ、どんなに感謝しようとも、それを伝えるべき相手はすでにいない。双方向的な「商品交換」が片方に富を蓄積させるのに対して、不可逆的な「継承と贈与」は双方に意義を生じさせるというのは何と美しい逆説だろう。だからこそ、過去と未来の結節点としての現在において「継承と贈与」という使命を果たす人間像を思い描くことができれば、私たちは今この世界に希望を灯すことができる。そんなことを考えて生きていこうと思う。

 

※前編はこちら

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おかずみ・たけろう 個別指導塾フェイブスクール代表。下関市出身。37歳。慶應義塾大学法学部政治学科卒。住宅会社、広告代理店での勤務を経て、2017年にカリフォルニア大学へ留学。そこで資本主義の最先端に見切りをつけてUターン起業。『学び続ける文化を創る』を理念に、個別指導と教養講座を組み合わせた学習塾で自ら指導に当たる。教育関連の講演や地域交流のイベントも企画。

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