1982年7月、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会・準備会」が発足し、9月に東京の荒川河川敷で初めて遺骨の試掘をおこなったとき、著者は大学4年生で、河川敷を試掘の雑用で走り回っていたという。この会の結成を呼びかけたのは、足立区の小学校教員だった故・絹田幸恵氏だ。絹田氏は、荒川放水路の墨田区八広のあたりで、関東大震災直後に多くの朝鮮人が殺され、その遺骨が今も河川敷に埋められたままになっているという目撃証言を聞いて、放っておくことができなくなったのだ。
遺骨は見つからなかったものの、会はその後、墨田区で多くの人々の聞きとりを進め、韓国で調査もおこない、2009年には河川敷に「関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」を建立し、毎年九月に追悼式をおこなってきた。
そのなかで、遺骨が見つからなかったのは、政府の「速やかにその遺骨を不明の程度に始末すること」という方針のもと、大震災のあった年の11月、警察によって密かに遺骨が発掘・移送されたからだということもわかった。政府による歴史の隠蔽である。
この本は、このように日本政府によって徹底的に隠蔽されてきた朝鮮人虐殺事件が、東京全体ではどのようだったのかを明らかにするものだ。100年以上経っているので生きた証言を集めるのは無理だが、都内の図書館をめぐり自伝・日記・郷土資料などから拾い出した証言をまとめた。
関東大震災をめぐり、「朝鮮人たちは暴徒となって日本人を襲った」という事実無根のヘイトスピーチがおこなわれ、小池都知事がそれを肯定するかのように追悼文送付をかたくなに拒否するなか、後世に真実を残そうとこの本を出版した。
警察が密かに隠滅した河川敷の遺骨
歴史研究者は、関東大震災直後の朝鮮人虐殺の根本的な原因を、日本の朝鮮半島に対する植民地支配にあると見ている。1910年の韓国併合で「朝鮮人は劣等民族」という偏見が助長され、同年の大逆事件を経て、政府・官憲は社会主義者と朝鮮人を弾圧対象と見なした。1919年に朝鮮で三・一独立運動が始まると日本は軍隊を出動させ、朝鮮人の死者は約7000人にのぼった。「不逞(ふてい)鮮人」という言葉が使われるのはこの頃からだ。
この政治が、大震災という自然災害のなかでも貫かれた。1923年9月1日午前11時38分に東京でマグニチュード7・9と推定される大地震が起こると、天皇制政府は2日、戒厳令を東京市と周辺五郡に施行。3日には東京府全域および神奈川県に、4日には千葉・埼玉県に拡大した。行政・司法権は停止し、軍の支配下に置いたわけだ。戒厳令布告の推進者が内務大臣の水野錬太郎と警視総監の赤池濃であり、彼らは三・一独立運動弾圧の当事者だった。
続いて内務省警保局が3日、各地方長官(現在の知事)に宛てて「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。…鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」という電報を流した。つまり、このときの「流言飛語」は国家権力の側から流された。
この本にも多くの証言がある。
「1日の夕方、五時か六時ころ、その原っぱに通っている東武線の踏切のところに憲兵隊が3人ぐらいやってきた。憲兵隊は蓮田の中にピストルをドカンドカンと撃ち込んで“朝鮮人が井戸の中に薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ”と避難民に命令しました。一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。これは私がはっきりこの目で見て知ってます」「自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。憲兵は軍が後にどうのこうのといわれないように、事がすんだら、2、3日のうちにぱあっと消えてなくなりました」(墨田区・内田)
「四ツ木駅のそばで、逃げる朝鮮人に鳶口を打ち込むのを見た。軍隊が殺したけど、いっていいのかどうか…。綾瀬川の河原でね、12、3人ぐらいの朝鮮人を後ろ手に縛って数珠つなぎにし、川の方に向けて立たせて、こちらの土手の上から機関銃で撃ちましたね。まだ死なない人には興奮した兵隊が刀で切りかかったんですよ。軍隊が先に立って殺しておいて、その後10日も経ったころ、“誰が殺したか”って調べにきましたけど、誰がやったのかわからなくなっていたんだね」(葛飾区・横田)
「小松川なんかあれですよ。向こうから、朝鮮と思われるようなのをまとめて追い出し、こっちから機関銃ならべて撃ったんですよ。橋の上で、もうみんな、それが川の中へバタバタ落っこっちゃったわけですねえ」(江戸川区・会沢泰、習志野騎兵連隊本部書記)
9月4~5日にかけて、江東区亀戸警察署内で朝鮮人86人以上を惨殺し、平沢計七や川合義虎ら社会主義者10人を殺したのも習志野騎兵連隊だった。警察は国際赤十字の調査団が来ると聞くと、その前に死体を荒川のたもとでガソリンをかけて焼き払い、証拠隠滅をはかったという証言もある。
煽動に流されず朝鮮人を守った雇用主
軍や警察に煽動された一般市民の常軌を逸した行動についての証言もある。「町内の人たちは、みんな竹ヤリで武装して、20~30人ずつ道路の角に立って尋問しました。“山”といえば“川”、“花”といえば“月”っていうように警察のお達しがあって、言葉に少しでも濁りがあれば、“出たぞーっ”てどなる。すると巡査がすぐに連れて行って、夜になるとまとめて、この先の田んぼのあたりで銃殺したんです」「中には身寄りを案じて地方から上京してきて、暗号を知らないために殺された日本人の死体も、ずいぶん混じっていたようでした」(江東区・小林勝子)
「朝鮮人暴動のデマは、早くも2日に流布され、関東一円で10日程度も続く根強いものであった。暴動の警戒に、日暮里の寺では、中学4年の兄までが駆り出されたし、“朝鮮人の女は、妊娠を装って腹に爆弾を隠しているから気をつけろ”などの微に入った指令までが伝達された。日本人と朝鮮人の識別に、10まで数えさせ、つかえると朝鮮人にされてしまった。これで殺してしまうのだから無茶な話だ」(北区・村田富二郎)
しかし他方で、雇っていた朝鮮人や中国人を「この人たちは決して悪い人ではない」といって自警団と押し問答し、命がけで彼らを守った雇用主が、東京中に数多くいたことがわかる。ある事業所では、雇用主の心意気に打たれた朝鮮人や中国人が、その後も長く交流を続けたそうだ。それは、不安や恐怖を煽るフェイクニュースにだまされることなく、真実を見極める力をつけることの重要性を教えている。
関東大震災直後に虐殺された朝鮮人の数は、内閣府中央防災会議報告書によると、約1000人から最大約9000人だとされるが、いまだに正確な実数はわかっていない。それどころか政府は当時、軍の関与を隠蔽し、虐殺に関わった自警団員の一部を逮捕したものの、ほとんどは実刑を免れ、執行猶予となった。責任者は誰も処罰されず、殺された朝鮮人や中国人の多くが、殺された場所・名前・人数・遺骨の行方など大切なことがわからないままだ。遺族は今も、行方不明になった身内のことを思っているに違いない。
歴史の事実に向き合い、詳細な調査と謝罪、慰霊を尽くして、二度と悲劇をくり返さぬよう近隣諸国との平和と友好に尽くすことが求められている。
(現代書館発行、四六判・494ページ、定価2500円+税)





















