いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『君たちはどう生きるか』を読む 80年の時を経て現代に響くのはなぜか

 戦前からの児童文学者であり、戦後は月刊誌『世界』の初代編集長となった吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が全国の書店で売れ行きを伸ばし、話題になっている。この作品は80年前の1937(昭和12)年7月に発表された。同じ7月には天皇制政府が盧溝橋事件を引き起こして中国に対する全面的な侵略戦争を開始し、以後8年間にわたる無謀なる戦争によって320万人の国民が生命を奪われ、日本列島は焦土と化した。まさに戦争に突入していく間際に発行された本書は、当時の知識人の良心や弾圧下での限界性もともなった抵抗を示すもので、日本の次代を担う少年少女たちに、偏狭な国粋主義や反動的な思想をこえた、社会科学的なものの見方や考え方、人間としての倫理、ヒューマニズムに貫かれた世界観を伝えようとしてつくられたことは、内容からも疑いないものだ。太平洋戦争で刊行は一旦途絶えるが、戦後再び刊行されて戦後民主主義を代表する教育読本として読み継がれ、そして時代が一巡りした今、再びブームになっている。なぜこの本が今注目されるのか、どんな内容が今に響くのかを記者座談会で論議してみた。

 

  『君たちはどう生きるか』は、マガジンハウスが漫画版を8月24日に発売し、短期間で50万部をこえて売れているという。同社から同時発売の単行本(復刻版)も14万部が売れている。祖父母が孫に読ませるために買ったり、若者が表紙を見て興味を持ったりと、幅広い層が手にとっているようだ。まず、どんな内容なのか?

 

  主人公は東京郊外の学校に通う中学2年生のコペル君、本名は本田潤一。背丈は小さいが成績はよく、かといって点取り虫ではなく遊ぶことが人一倍好きで、よくいたずらをしては先生に叱られる。父は大銀行の重役だったが2年前に亡くなり、その後は母とこじんまりした家に住んでいる。そこに母の弟で、大学を出たばかりの法学士の叔父さんがちょくちょく訪ねてくる。本の中では、コペル君が毎日体験する出来事が綴られるとともに、それに対して叔父さんが1冊のノートを通じてさまざまなメッセージを伝えるという構成になっている。

 

 ある霧雨の降る午後、コペル君と叔父さんは銀座のデパートの屋上から、下の道路を通る無数の人間を乗せた無数の自動車の列が、まるでカブトムシの群のように行き交うのを眺めていた。潮の干満のように、昼間は郊外から都心へ押し寄せ、夜になると一斉に引き上げていく大東京の人の流れ。この不思議な体験についてコペル君は「人間って分子みたいなものだね」という。叔父さんは、地球が宇宙の中心だと考える古いキリスト教会の教えを脱して、自分たちの地球が広い宇宙の中の天体の一つとして動いているという地動説を唱えたコペルニクスのことをノートに記す。それは自分中心の考え方で判断し行動すれば必ず失敗するという、生き方の問題にも発展する。

 

 別のある日、叔父さんはニュートンが、リンゴは3㍍の高さから落ちてくるが、なぜ月は落ちてこないのかと疑問を持ち、地球上の物体に働く重力と天体の間に働く引力が同じ性質のものだと実証したと話してくれた。コペル君はニュートンがリンゴの落ちる高さをどこまでも延ばしていったように、家にある粉ミルクの成り立ちをどこまでも延ばしていき、オーストラリアの牛、牛を世話し乳を搾る人、工場で粉ミルクにする人、日本まで運ぶ人……と無数の人人の手をへていることを発見する。叔父さんは分業・交換・商品生産の発展によって世界中が一つの網の目のように結びついていること、しかしその繋がりが真に人間的なものになっていないので争いや戦争がなくならないのだとノートに記した。

 

 コペル君のクラスには浦川君がいる。彼は体育はからっきしできないし、教室でも居眠りばかり。弁当のおかずが油揚げばかりなのを意地悪な山口たちがはやしたて、いじめの対象だ。みかねたガッチン(北見君)が山口の胸ぐらをつかんでボコボコと殴るが、そのガッチンに抱きついて止めようとしたのは浦川君だった。

 

 その浦川君が学校を5日間も欠席した。心配したコペル君が小石川の狭い通りの商店街にある豆腐屋を訪ねると、エプロン掛けの浦川君が馴れた手つきで油揚げを揚げている。父が借金の工面に出かけ、若い衆がカゼで寝込んでいるなか、浦川君がたくましい母親を支えながら店を切り盛りしていたのだ。「働く人たちこそ、この世の中全体を、がっしりとその肩に担いでいる人たちなんだ」「浦川君の洋服に油揚げのにおいが染みこんでいることは、浦川君の誇りにはなっても、決して恥になることじゃあない」と叔父さんは力説する。

 

 またある日、親友・水谷君の豪邸に招かれたコペル君は、水谷君の姉のかつ子さんからナポレオンの素晴らしさを聞かされる。かつ子さんは「人間は英雄的精神に燃えれば、戦争の恐さも忘れてしまえるんだわ」「苦しみが大きければ大きいほど、それを乗り越えてゆく喜びも大きいの。だから、もう死ぬことも恐ろしくはないのよ」と心酔しきっている。この場面では、ナポレオンというフランス革命の産物でもある偉人が貧乏将校から皇帝にまでなっていった過程を追いながら、彼が封建制を打倒する民衆のたたかいのなかで登場した必然性や、その後はなぜロシア遠征に失敗したのか、1人の英雄の正反両面について捉え、人間の偉大さとは何なのかを叔父さんがノートを通じて教えている。

 

 ある雪の日の放課後、コペル君たちは誤って上級生たちがつくった雪だるまを壊してしまった。柔道部の黒川を中心に5、6人の上級生が日頃から生意気だと目を付けていたガッチンをとり囲み、殴ろうとすごんでいる。水谷君や浦川君はガッチンを守ろうと抵抗する。黒川は「北見の仲間はみんな出て来いっ!」というが、そのときコペル君は思わず下を向き、動くことができない。実は4人は、上級生がガッチンに制裁を加えようとしたらみんなで守ろうと固い約束を交わしていたのだ。しかし、浦川君や水谷君は身体を張ってガッチンを守っているのに、コペル君には勇気がなかった。卑怯にも友人を裏切ってしまった後悔の念にさいなまれ、この事件を契機にコペル君は学校に行かなくなってしまう。そこでコペル君はどうしたかが、この物語の最大の山場になっている。

 

 多感な思春期に自分は何者なのか悩み考えながら、エゴアイデンティティーを確立していく1人の少年の葛藤や成長を描いていると同時に、そんなコペル君に立派な人間になってほしいと願い、「どう生きるのか」を問い導いていく叔父さんの姿勢が、読むものに考えさせる。そんな1冊だ。漫画の方が売れているが、随分と印象が異なるので原作を読んだ方がいい。

 

身につまされる現代の堕落

 

 C 『君たちはどう生きるか』は、戦前に発行されたときは山本有三編纂の『日本少国民文庫』全16巻の最後の配本で、16巻のなかでもとくに編集者の根本の考え方を伝えるべき1冊だったと、吉野源三郎自身がのべている。『日本少国民文庫』自体、山本有三のような自由主義の立場にあった作家すら自由な執筆が困難になるなか、「少年少女に訴える余地はまだ残っている」「今日の少年少女こそ次の時代を背負うべき大切な人たちである」「この人々には、偏狭な国粋主義や反動的思想をこえた、自由で豊かな文化のあることを、なんとかして伝えておかねばならないし、人類の進歩についての信念を今のうちに養っておかねばならない」ということで刊行が始まった。

 

盧溝橋を進軍する日本軍(1937年)

 1941年に太平洋戦争が始まるとこの本は刊行できなくなるが、戦争が終わると再び刊行され、むしろ戦後の方が広く読まれるようになった。そこには、教育勅語を中心とする戦前の教育が、人間性にもとづかず、科学的な真理性を持たず、国を惨めな敗戦に導くような、野蛮で好戦的で偏狭な排外主義に犯された国民をつくりあげてきたことへの反省があったし、その反省のうえに立って、真に創造的な新しい民主主義教育をつくりあげようとする人人の奮闘があったと思う。児童画や綴り方教育の分野で、形を整えようとする傾向や大人の常識に迎合しようとする傾向をとり払って、子どもたちの精神を解放し、自由で個性的な創造性を延ばそうとしたのもそうだった。

 

 それから70年以上たって、民主主義もモラルも倫理も地に墜ち、戦争のきな臭ささえ漂うなかで、この本が改めて見直されている。今の時代の一つの特徴をあらわしていると思う。一過性のブームではなく、読み深めて広めたい内容がある。

 

作者の吉野源三郎

 D いわゆる「すぐに役立つハウツー本」の類ではない。そもそも「どう生きるか」という問題自体、すぐに答えの出るものでもない。人生のなかでさまざまな勉強もし、さまざまな困難や挫折にぶつかりながら、自分で深く考え、一生かけて確信に変えていくものだ。本書も読者自身に考えさせ、成長を促す内容になっている。

 

 地動説か天動説か、唯物論か観念論かという問題にしても、粉ミルクを出発点にして、まるで『資本論』入門かと思えるほど資本主義の生産関係の説明に発展するところにしても、結論を覚えさせるというものではなく、あくまでコペル君のごく身近に転がっているありふれた事物の観察や経験から出発し、そのなかにいかに複雑な社会の法則があらわれているかを14歳の少年に納得させるように進んでいく。叔父さんが「まず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う」「ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ」といっているのもそのことだ。この本のなかでは「どう生きるか」という問題について、あくまでコペル君に即して、世の中を社会科学的に正しく見るということと、それと切り離せない形で人間としてどんな倫理観を身につけてまっとうに生きていくのかを問うている。そこがユニークだと思う。

 

  親世代や教育者であれば、子どもをどう教育していくのかという立場からも読み深めることができる。いや、現代を生きているわれわれは、叔父さんほどの関わりを少年少女たちに対してできているのか? というのが正直なところだ。友だちとの関わりについても、学校では何の取り得もないように見える浦川君が、家に行くとよく揚がった油揚げを長い竹箸の先につまみあげ、ちょいと振って油を切ってから、そばの金網の上へポイと放り上げている。まるで「ベテラン投手のような」馴れた手つきにコペル君は驚いて、叔父さんに報告した。すると叔父さんは「君のように何の妨げもなく勉強できるのは少数なんだ」「もし君が貧しい人を見下げるような心を起こしたら、それこそ君は人間として肝心なことがわからない馬鹿者になってしまうのだ」という。そして浦川君より貧しい人は世の中にたくさんいるが、そうした勤労人民が世の中を支えており、浦川君は同い年でも生産する側の人間に立派に入っているのだから、浦川君に尊敬の気持ちを持つべきだと語っている。

 

 グループの中でコペル君や水谷君は上流家庭であり、浦川君は貧しい豆腐屋だが、それよりも貧しい労働者階級がたくさん存在したし、農村地方となればなおさらだった。でもこうした貧困の問題は昔に限ったことではない。現代社会のなかでも、片親で母親がいくつも仕事を抱えている家はたくさんあるし、満足に3食食べられない家庭も珍しくない。一方で「金さえあれば何でもできる」というような風潮もあるなか、何を尊いこととして教えるのか。今に響く内容がある。生産人民こそが世の中を動かす原動力であり、尊いのだという価値観を教えている。1%だけが強欲に利潤をむさぼる社会ではなく、99%も人間らしく生きていける社会こそがすばらしいではないか、人類社会の進歩ではないかという響きにもつながる。

 

  水谷君のお姉さん、かつ子さんの影響でコペル君がナポレオン崇拝者になった場面では、ある人間やある事件を評価するさいにどんな見方をするべきかを学ぶことができると思う。ナポレオンはわずか20年の間に、顧みる人のいなかった貧乏将校からヨーロッパ全体の皇帝に登り詰め、そして真っ逆さまに転落して、最後はアフリカの離れ小島セント・ヘレナに囚人同様に監禁されて死んでいく。確かに、その湧き出るような活動力と天才的な判断力は人人を引きつけてやまない。だが、猿から人間に発展してきた歴史の進歩というところから見ると、少なくとも皇帝になるまでのナポレオンは封建制度をうち倒し自由なフランスを守るために役立ったが、その絶頂期には全欧州にイギリスとの通商を禁止したり、ロシア遠征で60万の軍隊を壊滅させるという過ちを犯し、歴史の進歩の障害になって必然的に没落した。事物を一面的に見るのではなく、矛盾の両側面を見るし、一切の事物が生成―発展―消滅の変化発展する過程にあると見る弁証法的な見方をそこから学ぶことができる。好き嫌いや一面的な見方をするのではなく、歴史的、社会的な過程のなかで客観視し、あるがままに真実を捉えることの大切さだ。

 

  一番身につまされたのは最後の場面だった。上級生に殴られるなら一緒に…とあれだけ固い約束をしていたのに、水谷君と浦川君は身を投げ出して実行したのに、コペル君だけは勇気が出ず、何一つ助けようとしなかった。ガッチンを抱きかかえて水谷君と浦川君が去っていき、コペル君は1人だけ雪の中にしょんぼりとり残される。次の日からは学校を休み、後悔してもとり返しのつかない思いにくり返しさいなまれ、夜も眠ることができない。コペル君は逡巡をくり返したあげく、とうとう叔父さんに相談した。泣きながら、卑怯なことをしたとうち明けた。叔父さんは「今すぐ手紙を書いて北見君に謝れ」という。「でも叔父さん、そうすれば北見君たちは機嫌を直してくれるかしら…」「それはわからないさ」「じゃあ、僕、嫌だ」。すると叔父さんは「なぜ自分のしたことに対し、どこまでも責任を負おうとしないんだ」「どんなに辛いことでも、自分のしたことから生じた結果なら、男らしく耐え忍ぶ覚悟をしなくっちゃいけない」と激しい調子で叱った。「その後どうなるかは、君の考えることではないんだ」といって。

 

 今だったら、そのまま登校拒否になるか、なんなら自殺でもしかねない。人権派と呼ばれている人ほど「そのままの君でいいんだよ」「子どもがかわいそう」と考えて囲い込んでしまいがちだ。そうやって腫れ物に触るように寄り添って、したいようにさせて放っておくかもしれない。でもその結果、その子の将来はどうなるか等々、考えさせるものがある。

 

 叔父さんは自分でケジメをつけるように厳しく教えた。そして叔父さんのノートには「君が死んでしまいたいほど自分を責めるのは、君が正しい生き方を強く求めているからだ」と書かれてあった。苦しんだ先にこそ成長がある。コペル君は勇気を出して正直に真情を吐露する手紙を書き、こうして4人は仲直りするが、ここの大人たちのかかわりが重要だと思った。子どもに苦労をさせることは親や大人として耐えがたいことではなく、むしろ苦労させ、自分の頭のなかでしっかりと善悪を考えたり、悩むべきは悩ませ、正しく対人関係を切り結んでいくようにさせていくことや、過ちは正すことが人間としてのまっとうな生き方なのだと教えている。それは子どもに限らないことだ。

 

 E 叔父さんのコペル君に対するかかわりは学ぶことが多いし、ぜひ教育者に読んでほしい本でもある。子どもの全精神生活に立ち入って人間として成長させるという点でヒントも多いと思う。以前は中学生になると、とくに国語の教員が推奨していたものだが、子どもだけが読む本でもない。「君たちはどう生きるか」という永遠のテーマは一般の読者が読んでも考える内容が多い。

 

  『君たちはどう生きるか』が売れているのは、一つの注目すべきできごとだと思う。世界と日本が歴史的な転換期にさしかかるなかで、人間としてどう生きていくかの根本にある「ものの見方、考え方」、そのような哲学的に深い内容が求められているということではないか。「ベストセラーになった」「良かったね」で終わりになるのでは、出版社が稼いだだけになってしまう。

 

 思うのは、80年前にこのような作品が生み出されたのと比較して、また社会のなかで是とされていたであろうモラルや人間としてのあり方への希求やその姿勢と比較して、あまりにも現代が乱れているし、身につまされる思いがする。「人を殺してみたかった」とかの猟奇殺人が後を絶たず、警官や教師の破廉恥事件があたりまえみたいに頻発したり、国会議員が「朝日新聞、死ね」とか「アホ」などと叫んでいる時代だ。モリ&カケ疑惑にしても、かつてなら考えられないようなケジメのない汚れ政治が跋扈(ばっこ)している。モラルとか社会的規範など崩壊しきっている。これはいったいどうしたものかという現実について考えないといけない。より豊かで人間性が解放されていく社会ではなく、逆方向に後退している。

 

 「今だけ、カネだけ、自分だけ」という表現もあるが、資本主義社会が腐朽衰退していくなかで、身も蓋もないような露骨な個人主義イデオロギーが浸透している。こうした新自由主義イデオロギーに犯されるのではなく、先進的な知識人や文壇は正面から対抗していかないといけない。社会を評論して適当に飯を食っているとか、知識や知性をひけらかして満足しているというようなものではなく、世の中にとって実となる作品であったり、鋭い視点や洞察によって人人の有用性に応えうる作品がもっと出てこないといけない。亡くなった吉野源三郎にすがりついているとか、あの世代の知識人をこえられないというのでは、戦前・戦中を生き抜いてバトンをつないできた人人からお叱りの言葉が飛んでくるかもしれない。

 

 それこそ、極限のなかで必死になって抗っているのか、生ぬるい状況下で資本主義とともに没落し、くたびれてはいないか、進歩的と称する人人も自己を律してみる必要があるのではないか。より人間として豊かに生きていける社会にするために、「君たちはどう生きるか」が問われているような気がしてならない。

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