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【現地ルポ】洋上風力に揺れる島を訪ねて――大規模計画が浮上する佐賀県唐津市・小川島で起きていること

島民や生活物資が行き交う小川島の渡船乗り場(佐賀県唐津市)

 佐賀県唐津市沖にある離島周辺の玄界灘海域で現在、いくつもの企業が大規模洋上風力発電建設を計画している。佐賀県が2018年度に同海域に洋上風力発電誘致の候補海域を設置し、そこに大規模開発事業がなだれ込んでいるのだ。これに対し、唐津市の離島のうちの一つである小川島で漁業者が反対の声をあげ、昨年6月には漁協の通常総会で組合員の3分の2以上の投票をもって反対の特別決議をあげている。だが、今年に入って反対を訴えていた組合長が交代し、新組合長のもとで今月6日に突然、漁協で洋上風力の「勉強会」が開催され、洋上風力発電建設を企画する事業者が6社もやってきた。漁協組合員の間では戸惑いが生まれており、「賛成」「反対」の対立から互いの関係性に亀裂が生じているのも事実だ。なぜ、佐賀県玄海沖が狙い撃ちにされているのか? 計画にはどのような問題があるのか? 実際に記者が小川島現地を訪れて島の人々の風力発電計画への思いを聞くとともに、海と共に生活してきた島の歴史についても深掘りしてみた。

 

呼子港から船で20分…

 

 小川島は、佐賀県唐津市呼子港から6㌔の玄界灘に浮かぶ周囲4㌔㍍の小さな島だ。島へは呼子港と小川島を1日5往復している渡船「そよかぜ」で渡る。呼子港を出港すると約20分で島に着く。船には島の保育園や漁協に勤める職員なども乗り込んでいるが、それ以外の多くは釣り客だ。島に着くと、港は朝から多くの人で賑わう。船の到着に合わせて自転車やバイクに乗った住民たちが次々に波止場に集まり、船で運ばれてきた荷物をとっていく。旅館の食材を仕入れるためにリヤカーを引く人の姿もある。本土側の商店に荷物を注文して船に積んでもらい、自分で港までとりに来る人も多いのだという。

 

 島には漁協の購買部と小さな個人商店が1、2軒あるが品数も品種も限られており、渡船が本土と島の住民の生活を結ぶ重要なライフラインとして機能している。

 

 島には10月1日時点で139世帯、288人が暮らしている。保育園と小・中学校があり小学生11人、中学生2人が通っている。子どもたちのほとんどが漁師の家庭だという。

 

 島の集落は南側の湾のある地に集中している。東西の山に囲まれた谷間になっており、冬場の北風を避けるように南向きの斜面に家々が立ち並んでいる。その家々の間を縫うようにして細い路地があり、住民たちが颯爽とバイクで走っていく。集落の北側はなだらかな丘陵となっており、かつては農地として活用されていたが今は雑木林や荒れ地になっている。

 

 島の産業は漁業が中心で、農業は自家消費程度しかない。漁業の中心は、イカ釣り、一本釣り、海士漁などである。島には今も約100人の漁協組合員がおり、そのうち正組合員は48人。平均年齢は約60歳となっている。

 

かつて捕鯨で栄えた島

 

 島の人々の生活は古くから海の恵みを活かした漁業とともにあった。なかでも小川島を拠点として始まった捕鯨業は、呼子地域全体の産業を語るうえで欠かせない重要な位置を占めていた。安土桃山時代末期の1594年に、当時の唐津藩主・寺沢志摩守が紀州・熊野灘から漁夫を雇って奨励した捕鯨は一大産業へと成長した。小川島でとれた鯨はシロナガスクジラ、イワシクジラ、セミクジラ、ザトウクジラ、コククジラ、ナガスクジラなど様々。明治初期まで八代にわたり鯨組を組織した中尾家は全国にもその名を知られ、藩財政を左右するほどだった。

 

島に残る「鯨見張り所」(小川島)

 当時の捕鯨を経験した漁師は現在90代近い年齢になっており、島に2~3人ほどしか残っていないという。ある年配漁師は「幼い頃の記憶だが、港で鯨の解体を見たことがある。島の湾内が鯨の血で真っ赤に染まっていた光景は、今でも印象に残っている」と話していた。鯨は、肉以外にも骨を大釜で煮て油を抽出し、燃料や田畑の防虫剤としても重宝され、余すところなく使われていた。

 

 小川島には今も「鯨見張り所」が県の重要有形民俗文化財として保存されている。見張り所からは玄界の海を見渡すことができ、沖に鯨の姿を発見すると、見張り所から2本のむしろ旗を上げ下げしたり、のろしを上げるなどして沖の漁船に鯨の位置を知らせていたという。

 

 その後日本各地での近海捕鯨は、明治初期に始まった南氷洋での母船式捕鯨に圧倒され、小川島の捕鯨も1961(昭和36)年で終わりを告げた。

 

戦後の食料難支えたイワシ網

 

 小川島では捕鯨の後退と入れ替わるように、戦後若者たちの復員と同時にイワシの巻き網漁が盛んになっていった。最盛期には島内の地域ごとに西組、東組、中組、大洋組、朝日組と五つの船団があり、それぞれ大小の漁船に30人ほど乗り込んで夜中に巻き網漁をおこなっていた。朝方に帰ってきて港で水揚げし、漁師たちは夜の漁に備えて睡眠をとる。とってきたイワシを煮干しにするため港に並べて干していく作業は女性や子どもたちの仕事で、港に白銀のイワシが所狭しと並べられた光景は「夏の雪化粧」とも形容されていたという。また、完成した煮干しを等級別、品種別に包装して荷造りする作業は、各組がみな共同で終了するまで加勢し合っていたという。

 

かつて小川島で活況を呈したイワシ網漁の作業風景を描いた絵

 イワシ巻き網漁には多くの人員が必要となるが島では人手が足りなかったため、熊本や長崎など各地から島にたくさんの人が出稼ぎに来ていたという。また、戦後の食料難のなかでイワシは貴重なタンパク源として需要が高く高値で取引された。当時島まで行商に来ていた商人たちに対し、島民がイワシを現金の代わりに渡していた時期もあったという。

 

 だが、イワシ巻き網漁が盛んにおこなわれた期間は約10年ほどと短かった。戦後の食料難の時期は需要があり値段も高かったが、次第に値が下がり燃料代や人件費の捻出が困難になっていったためだという。最終的には1964(昭和39)年に小川島のイワシ組は終業した。

 

 そしてこの頃から、島では「半農半漁」の産業形態から農業がなくなっていった。当時は漁船が小さかったため、多くの漁師たちは夏場に漁をして、北風が吹き波が荒れる冬は農業をしながら生計を立てていた。島の集落から北側にある平地では、昔から牛の畜産や養豚、芋や麦、にんにく、米も作っていた。

 

 現在、もとあった農地はすべて荒れ地や雑木林になっていてその面影はなくなっている。

 

イカの一本釣りで有名な豊かな漁場

 

漁港で船のいかりを修理する漁業者(小川島)

 農業をやめた漁師たちは冬場の職を求めて、関東や関西の鉄工所や造船所、飲食店、さらには佐賀県有明海の海苔漁などに出稼ぎに行くようになった。当時は高度経済成長の真っただ中だったため、半年間だけの出稼ぎでもかなりの収入になったという。そのため両親が子どもを祖父母に預けて半年間島を離れる家庭も多かったという。

 

 イワシ巻き網の衰退後のこの時期から、小川島で盛んにおこなわれるようになったのが、現在まで続くイカ釣りだ。イカ釣りについてはイワシ巻き網がおこなわれていた時期もすでに始まっており、昭和30年代なかばには漁協内に「イカ釣り研究部会」を発足させ、他地域に先駆けてイカ釣り漁法の試行錯誤を始めていた。当時はまだ小さな木船で漁をしており、イカ釣り船だけで最大220隻以上あったという。

 

 主な漁法はケンサキイカの一本釣りだ。今でこそ「呼子のイカ」が有名になり、玄界灘に面した各地の漁師たちが小川島近海でイカ釣りをおこなっているが、それ以前から小川島では春から晩秋にかけてイカ釣りがおこなわれてきた。

 

 イカの一本釣りは5月から9月末ごろまでおこなわれる。夕方から暗くなる夜や朝方にかけて、海上で電気を焚き、その光にエサとなる小魚を寄せ、集まってきたイカを魚に似せた形に針がついた「疑似餌」を使って釣り上げる。一晩で100㌔をこえるほど釣れることもあり、すべて船の生け間で活かして持ち帰って生きたまま出荷する。

 

 また、秋からはアオリイカも釣れ、その他にもサワラ、ブリなどの青物、クエなども釣れるため、年中通して様々な魚種が水揚げされるようになっていった。

 

 イワシの巻き網漁が終わって冬場に出稼ぎに行っていた漁師も、イカ釣り漁が好調になってくると出稼ぎをやめてイカ釣りに専念するようになり、島では一時期出稼ぎに行く漁師はいなくなっていた。だが、ここ10年ほどの間でイカが不漁の年が多くなり水揚げ量も減ってきたため、再び出稼ぎに行く漁師が増えた。今でも漁師の3分の1は10月半ば頃から関西や関東へ出稼ぎに行き生計を立てている人もいる。正月には一度出稼ぎから帰ってくるがまた島を離れ、次に帰ってくるのは3月末頃。それから1カ月間は5月から始まるイカ釣り漁に向けた準備をする。

 

突然現われた風力建設計画 佐賀県が推進

 

 小川島の産業の歴史をたどると、捕鯨、イワシ巻き網、イカ釣り、その他にもサザエやアワビ、ウニをとる海士漁、サワラ釣り、クエ釣りなど、さまざまな漁法を駆使しながら漁業で生計を立ててきたことがわかる。島の人々の暮らしは、豊かな海の恩恵を受けながら数百年にもわたって代々受け継がれてきた。漁業の形態こそ変われど、その時代にとれる海産物に合わせた漁法を島全体で確立させ、常に漁業を基盤にした営みが成り立ってきた。

 

 あるベテラン漁師は「海こそが私達の生活の場だ。壱岐水道に流れ込む海流が、佐賀沖に浮かぶ島々にぶつかって複雑な流れを産み、その島影にたくさんのエサが集まる。30~50㍍の浅瀬が続き、そこは様々な生物の産卵場となり、生命を育んでいる。玄界灘でも第一級の好漁場で、こんなところは他にない」と語る。

 

 これほど重要な好漁場を、佐賀県は洋上風力誘致のための候補海域に設定してみずから売り出しており、そこをめがけていくつもの事業者が建設計画を持ち込んだのだった。唐津沖の候補海域一帯では、インフラックス(東京)が最大64基(総出力60万8500㌔㍗)の建設を計画。また、佐賀洋上風力株式会社(旧アカシア・リニューアブルズ・東京)と大阪ガスが唐津市馬渡島周辺一帯の海域を事業想定区域とし、最大75基(総出力60万㌔㍗)の建設を計画している。さらに関西電力(大阪)も最大63基(総出力67万6200㌔㍗)の建設を計画。レノバ(東京)も最大27~40に基(総出力40万㌔㍗)の建設を計画している。

 

 これらの事業者は、現時点で環境アセスの手続きに着手しているため計画が明らかになっている。だがそれ以外にも「10社以上」の事業者が洋上風力建設を企画しているともいわれている。

 

 佐賀県が進める洋上風力事業をめぐって、小川島漁協は昨年6月に通常総会を開き、風力反対の特別決議として組合員投票をおこない、3分の2以上の反対投票(反対40、賛成12)をもって、組合として反対の姿勢を持つことを決定。7月には県知事宛に反対の要望書を提出し計画の中止を訴えている。

 

 その後、同じ海域の恩恵を受け漁業を営む福岡県、長崎県との3県合同で「玄界灘洋上風力発電建設反対協議会」を立ち上げ、今年2月には3県から10の漁協組合長や関係者が佐賀県庁を訪れ、計画中止を求める署名約1万9000筆を佐賀県知事宛に提出した。

 

署名提出のため佐賀県庁に集まった3県の漁協組合長や関係者(2月)

 しかし小川島漁協では今年6月末開催の総会で任期満了にともなう組合長選挙がおこなわれ、風力反対を訴えてきた組合長(6期18年)が落選し、新しい組合長が就任。新組合長は洋上風力には賛成の姿勢をとっている。

 

 8月末には県による住民説明会が開かれたが、参加した住民は漁業者らを中心にわずか35人ほどの参加だった。また、10月に入り突如組合長が県に「洋上風力建設を計画している事業者を呼んでほしい」と依頼し、6日には事業者が島を訪れて急遽漁協で「勉強会」が開かれた。参加した事業者は自然電力、レノバ、日本風力エネルギー、関西電力、インフラックス、佐賀洋上風力発電株式会社(旧アカシア・リニューアブルズ)の6社。この勉強会の場でも新組合長は「私としては風力は前向きに検討したい」「私一人が賛成してもどうにもならない。一歩先の話ができる場にしたい」などと組合員の前でのべたという。

 

島の漁師たちに聞く 賛成反対問わず

 

 風力発電計画をめぐって、小川島では短い期間で漁協の反対決議や署名提出、組合長交代、その後続けざまに説明会や勉強会が開催されており、漁師や住民たちの間ではなんともいえない空気が漂っている。そして、島という限られた環境のなかで古くから形成されてきたコミュニティにも亀裂が入っている。親戚関係の繋がりも強いなかで、なかなか思うように個人の意見を公にしにくい部分もあるのだという。

 

 そんな島で今、漁師や住民たちはどんな思いでいるのか、実際に現地を歩いて話を聞いてみた。

 

 賛成反対を問わず島の漁師たちに話を聞いてみてまず感じたことは、「風力が建てば、必ず漁業に影響がある」という認識はみな一致しているということだ。事業者はいつも「漁業協調型」といって地元の漁業との共存をアピールするが、長年自然と対峙してきた漁業者はそのような机上の空論はまるで相手にしていない。

 

 ある漁師は「自分は風力発電に賛成だ」と語る。イカの値段は上がったが、水揚げ量は「良いときの3分の1(本人の体感)」に減っており、昨年は好漁だったが、今年は不漁だったためこの先が不安だという。しかし一方で「他の漁師が一生懸命に反対する理由もよく分かる。計画海域はこの一帯では一番良い漁場で、昔から魚釣りにしろイカ釣りにしろ、そこに行けば必ずいい水揚げがあった。1日ごとに潮が変わり、複雑な地形や瀬があるからだ。どれだけの被害が出るかは未知数だが必ず影響はある。また、玄界灘における佐賀県の範囲はとても狭い。“海を売った”ことで隣の福岡や長崎の漁業者からも反発はあるだろう」と話していた。

 

 賛成側の意見としては、水揚げが少なくなっているなかで、風力建設のためにいくつもの事業者が調査をおこなうため、その警戒船の日当6万円が収入になるという主張がある。だが、玄海地区には他にもたくさんの漁協があり所属している組合員も多いなかで月に何回順番が回ってくるのか、実際にどれだけの収入になるのかなど何も分かっていない。調査が何年も続くわけでもない。

 

 風力発電建設に反対する若手漁師は「小川島の漁協は昨年に特別決議をあげ、組合組織として風力反対の姿勢を決めた。それを新組合長一人の意見で簡単に覆すことは許されないはずだ。しかし覆そうという力が働いているのも確かだ。この漁場は夏場のイカだけでなく、サワラやクエ釣りなど1年中何かしらの漁をしながら十分生活していける。自分はこれからも漁師一本でここで漁を続けていくしかない」と話していた。

 

 別の漁師は、「風車が海で1㌔間隔で立ち並び、各風車ごとに立ち入り禁止区域がもうけられる。何隻もの船が集まる漁場で船を操縦しながら海中で仕掛けを流し、風車をよけながら漁をするなど無理な話だ。絶対に風力発電が建った海域では事故の危険が高まる。年に数回はエンジントラブルが起きるが、その間は制御が効かず海上を漂流するしかない。そのときに風車の支柱に衝突したり事故が起きる危険性もある」と指摘していた。

 

 ベテラン漁師は「漁師の仕事場を奪われてどうやって生きていくのか。佐賀の海は佐賀の漁師が守るしかない。警戒船の仕事なんて漁師でなくても誰にでもできることだ。船を沖に出して金をもらうのは漁師の仕事ではない。まだ見ない金の事を考えても仕方がない。このままでは佐賀県は日本で一番自然を大事にしない県だといわれてしまう。有明海も国の諫早干拓で漁業被害が出ているし、狭い玄界灘の漁場までも洋上風力の候補海域に差し出してしまっていいのか。これまでに玄海原発や海底の砂取りなども問題になってきたが、今回の洋上風力を許せば、漁場を失うことになる。“国策だから”といって開けて通すわけにはいかない。小川島海域の洋上風力建設を許してしまうと、そこを突破口に長崎県の壱岐や対馬での大規模な計画までドミノ倒しのように進んでしまう。小川島だけでなく、玄海地域一帯の海を守るためにもここで阻止しないといけない」と話していた。

 

 いろいろな漁師に話を聞くなかで、小川島ではイカの水揚げが減っているため、賛成の理由として「警戒船の日当6万円」をあてにする意見が多い。そして「何かしら雇用が生まれる」「何か新しい振興策を」「どんな見返りがあるのか?」という漠然とした“期待”が何となく広がっているような雰囲気だった。

 

 ある住民は「イカの不漁が続き、風力発電が何か振興策になるのならそれでいいのではないかと思う。ただ、唐津沖には7つの島々があり、それぞれの地域に漁協があり漁師や住民がいる。そんななかで風力発電を建設して、新たな雇用がどれだけ生まれるか。県や市にどれだけのお金が入って、それをどう分けるのかなど具体的なものは事業者も県もいわず何も分かっていない。まだ“何かあるのだろう”というイメージしかない」と話していた。

 

避けられぬ玄界灘全体への影響

 

 洋上風力建設計画が進むことによって、同じ玄海地域で漁業を営んでいる福岡県や長崎県の漁師との関係性に影響が及ぶことを心配する声が多い。佐賀県で玄界灘に接しているのは、唐津市と玄海町、伊万里市の沿岸部だけだ【図1】。佐賀県の海域はそこから北側に広がっているが、その沖には長崎県の壱岐があるため、非常に狭い海域に限られている。佐賀県はその大部分を埋め尽くすように風力誘致のための候補海域を設定しているため、これまで通りに漁師が漁業を営むことができる海域は「皆無に等しい」といわれるほど極端に狭まる。

 

 では、仮に洋上風力が建設され、イカ釣りの好漁場で漁ができなくなったからといって、佐賀の漁師がこれまで通り福岡や長崎の海域まで入って漁ができるのか?

 

 ある漁師は「佐賀県や唐津市は“入れなくなるということはありえない”という。たしかに法律で制限することはできないのかもしれないが、漁師の感情としてそんな都合のいい話が通るわけがない」と懸念を示す。この海域は、長崎県平戸市の名産品であるトビウオや、それを追うシイラやブリなどの大型魚の魚道となっており、風車が建設されれば平戸の漁業にも大きな影響が及ぶことは必至だ。

 

 また、福岡県糸島市の漁師たちもこの海域付近で漁をしている。風力建設は対馬海流に乗って北上してくるマダイやサワラ、ブリ等の回遊魚の妨げとなるため「水産資源の枯渇を招き漁家経営のみならず漁協経営にも大打撃をうけ、漁業者をはじめ水産関係に従事する方々の死活問題になる」として糸島漁協は洋上風力建設反対を決議している。そして「佐賀県北部海域での建設に影響を受け、地元で漁業をできなくなった佐賀県内漁船による福岡県海域流入が予想され、漁船間のトラブルが懸念される。毎年おこなわれる3県会議(長崎・佐賀・福岡)の場で、佐賀県漁業者にはより厳しい対応となることは必至である」と懸念を示すとともに“警告”している。

 

 ある漁師は「洋上風力が建って稼働するのは2030年くらいとして、それから30年間稼働すれば、もう自分たちはこの世にはいない。だが自分が死んでから玄海地区の若い漁師たちから“先輩たちのせいで漁場を失った”とはいわれたくない。自分たちが良ければいいという考え方ではだめだ。これまでも福岡や長崎の漁師たちが“小川島の漁師が反対するなら3県一緒に協力して反対しよう”と手をさしのべてくれた思いまでも裏切ることになる」と話していた。

 

 小川島漁協が昨年6月に、漁協として洋上風力反対を特別決議した事実は、簡単に揺らぐものではない。しかし島のなかで、「賛成」「反対」が生まれ、その結果漁師たちの間でもぎくしゃくした空気が漂っていることも事実だ。ある漁師は「小川島は風力で壊れてしまった」と話していた。島のなかで親族の繋がりも強いため、「賛成」にしろ「反対」にしろ容易に口に出しにくくなり、若い者ほど周囲の顔色や意見を伺い、波風を立てないように振る舞う場合が少なくないという。そうして漁師同士であっても本音がいいにくくなったり、派閥のようなものができあがり互いによそよそしくなっているのだという。

 

 洋上風力発電計画は、「CO2削減」の大義名分のもと突如として田舎の町に計画が持ち込まれ、金や利権で地域の住民を分断し、産業も自然環境も破壊する罪作りな「国策」の実体を映し出している。恵まれた自然環境とともに長い歴史を紡いできた島の人々の暮らしや産業、コミュニティまでも歪に変えていく事業のどこが「クリーン」なのか? と疑問を抱かずにはいられない。「SDGs」(持続可能性)といいながら、自然や人間世界のコミュニティーの持続可能性については平然と踏みにじっていく姿だけが浮き彫りになっている。

 

【関連記事】 唐津市沖洋上風力中止せよ 佐賀・長崎・福岡の漁業者が1万9000筆の署名提出(2022年2月15日

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