ウクライナやパレスチナ・ガザでの戦争が世界不安定化の事象として取り沙汰されるなか、日本でも政府やメディアは日常的に「わが国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増し…」「東アジアの不安定化」という言説をくり返し、その脅威から身を守る手段として、日米同盟強化や軍備拡大を当然のことと見なす世論を醸成している。
「新たな敵が現れた」「その敵は卑劣で残忍だ」「世界の秩序やわが国の主権を脅かそうとしている」――日頃から敵視している国や地域で不穏な動きが起きると、メディアなどあらゆる手段を通じて恐怖と敵愾心が煽られ、相手を徹底的に「悪魔化」する。
「民主主義を否定する独裁者」「大量破壊兵器を保持している」「予測不能なテロリスト」などの言説、果ては人種や宗教の違いを引き合いに出して「交渉不可能」な相手と見なし、国内では福利厚生の予算を削ってでも軍備を増強し、最新兵器を買い、戦力を認めていない憲法まで変えてしまおうという動きがかまびすしさを増す。今まさに欧米諸国や日本で起きている現象だ。
大国が仕掛ける「安全保障化」の罠
本書は、国際NGOや国連の職員としてアフリカ、東ティモール、アフガニスタンなど世界の紛争地帯で停戦調停や武装解除の実務を担ってきた著者が、戦争前夜に必ず起きるこの「安全保障化」(セキュリタイゼーション)――一般大衆に敵の「恐怖」を植え付け、集団ヒステリア化させる――という現象と、そのために不可欠なメディア力を誇る米国の言説に囚われやすい「緩衝国家」――大国の狭間にあり、武力紛争において緩衝材として機能する国家――でありながらその自覚が乏しい日本の問題を焦点に、現在進行中の戦争と日本の危機をいかに解決するかについて論じている。
本書で扱われているテーマは、現在進行中のウクライナやガザでの戦争、また筆者が直接経験したアフガニスタン戦争など多岐にわたるが、停戦実務家としての著者の立場は一貫している。「永久に続く戦争などない。いつか終わる。ならば、それを一日でも早く」というものだ。対立する「正義」のどちらかに加担して、一方を否定する(犠牲が出ても「あっちが悪い」というだけ)というものではなく、あくまでもそこに生きる無辜の人々をいかに救うかを模索する。いくら「人権が」「正義が」と悲憤慷慨したところで、戦闘を止めることなしにその回復は為し得ないからだ。
ところが現在、直接の紛争当事国でもなく、国連や国際人道法による秩序を謳ってきたはずの欧米諸国は、停戦仲介には踏み出さず、ロシアには経済制裁、ウクライナには軍事支援一辺倒、そしてイスラエルのパレスチナ人大量虐殺に対しては制裁を科すどころかこれを擁護している。著者はこれを「国際法の理念の基盤を脅かす、今までにない脅威」と厳しく断罪している。
憲法9条を持つ日本でも、普段からの排外主義勢力だけでなく、「戦争反対」「平和主義」を唱えてきたはずのリベラル政党や護憲団体までが「ロシアと戦うウクライナとの連帯」を主張し、即時停戦を主張する著者らに「プーチンを利する親露派」のレッテルを張るという奇妙な現象が生まれた。国会ではロシア国民全体への集団懲罰であるロシア制裁決議が与野党の賛成で可決し、集団懲罰に対する寛容な空気が日本を含む欧米諸国に蔓延するなかで、イスラエルによるガザ大量虐殺が始まった。
そこでも10・7のハマスによる「テロ」が「いきなり突然起きた」という言説が前提とされ、ウクライナ戦争をめぐる論議でその淵源であるドンバス内戦を無視したように、ハマスの「奇襲」を生んだイスラエルの80年余続く違法な土地収奪とパレスチナ人迫害は無視される。イスラエルの非道性を訴える側も、前置きとして「ハマスによるテロ」を糾弾し、イスラエルの「自衛権の行使」を許容するという具合である。
「悪魔叩き」の言説だけが肥大化し、停戦を実現する営みが阻止され、その下で夥しい犠牲者が生まれるという構図は同じなのだ。
「専守防衛」という概念の危うさ
著者はこのことを日本の改憲派・護憲派のなかにある「専守防衛」(日本特有の概念)とつなげて問題を提起している。
日本では戦力の保持を認めない憲法9条を持ちながらも「専守防衛」「個別的自衛権」を是として軍拡が進められたが、ジェノサイド条約に批准しておらず、戦争犯罪を裁く法体系がない。そのため100年前の関東大震災で起きた朝鮮人虐殺のような集団暴行や殺害事件が発生したときに、それを煽動したり命じた「上官責任」が問われない。また、日本の自衛隊が海外で戦争犯罪を犯した場合にも、現在の自衛隊法には「抗命罪」、つまり上官の命令に背いた末端の自衛官を罰する法しかない。まさに「ヤクザの親分と鉄砲玉」の関係のまま、世界屈指の軍事力を有する国になっているのだ。
国際法が規定する戦争犯罪に「先に手を出したのはお前だろうが」という言い訳は通用しない。こちら側がいくら正当防衛のつもりで撃っても民間人を殺してしまうこともある。そのような当然起こりうる戦争犯罪すら想定もしない「目眩がするような“法の空白”の状態」で、ひたすら隣国の脅威を叫び、「敵基地攻撃能力」などという戯れ言が政局化する日本の異常さである。
そのことは現在、戦争犯罪を無視してパレスチナ人を虫けらのように殺戮するイスラエルの「自衛権の行使」と重なると著者は指摘する。国際法を遵守する意識を放棄すれば、みずからも国際法に守られない。いくら後ろ盾に超大国米国の存在があるとしても、その米国は国の威信をかけて20年戦ったアフガニスタンでタリバンに完敗し、全面撤退を余儀なくされた。イスラエルの極右政府もいまや全世界(イスラエル国内も含む)の世論から包囲され、近隣国へのテロ行為をくり返し、果ては核兵器の使用までちらつかせて自滅の度を深めている。
同じ米国の「同盟国」であっても、日本の場合は、たとえば休戦中の朝鮮戦争において朝鮮国連軍(実質は在韓米軍)と地位協定(在日米軍基地が後方司令部となる)を結んでおり、朝鮮有事のさいには、日本はみずからの意志にかかわらず自動的な参戦国になる。つまり、自衛隊が何もしなくても国際法上正当な攻撃対象になるのだ。米国が仕掛ける戦争において、協議も合意もなく、否応なしに戦場となり焦土にされる関係――それを「日本人がみずから進んで受け入れる」ように煽るのが「安全保障化」であり、脇目も振らず米国と「一体化」することに「国家の主権」の発露を置き換える日本特有の悲劇的姿があると著者は訴えている。
「新しい戦前」に抗うために
著者は停戦実務家として、むしろ米軍やNATO軍と行動をともにしてきた。「超大国が国連憲章を悪用することによって生まれた現場」で「その悪用が生んだ『敵』に命を狙われる立場での任務」だ。だからこそ紛争現場でその内実をつぶさに目撃し、軍人の本音にも触れ、NATOも米軍も、ロシア、北朝鮮、中国との武力行使に一時的感情にまかせて突き進めるほど一枚岩でないことも肌身を通じて体感している。
また、停戦実務家は、その実現のために戦争犯罪などの追及を一時棚上げにする冷徹さが必要となるため、常に人権団体からも「悪魔に寛容」「不処罰の文化を流布する」として非難を受ける。そして戦闘が長期化すればするほど、停戦交渉者はこれまで犠牲を払って戦ってきた大義との関係で「敵に弱みを見せた」「脅しに屈した」などの批判に晒され、ときに背後の味方から命を狙われることもあるという。同調圧力が支配する紛争当事国であれば十分に想定されることだ。
だが現在、少なくとも外部の「安全地帯」にいる私たち、かつて侵略戦争に国民を駆り立て、破滅的局面に追い詰められても「一億玉砕」を叫び、東京大空襲、沖縄戦、そして広島・長崎の原爆投下を経験した日本人、そして平和憲法を持つ国だからこそ、戦争において気分感情や「国家の大義」に身を委ねることの愚かさを自覚し、大国が煽る「安全保障化」に囚われぬ民族融和の道を探る使命があると著者は強調する。
「力による現状変更を許さない」という論調だけが肥大化し、その「備え」としての軍備拡大や、相手との対話を拒む同調圧力が支配するなかで、改憲勢力が勢いづくだけでなく、その真逆にいるはずの反戦勢力までも「平和を自衛する」ために仮想敵国の絶対悪魔化に加担する――本書は、このような文化がはびこる「新しい戦前」の空気のなかで、21世紀の「対テロ戦争」を現場の視点から総括し、戦後のリベラル・平和運動に一石を投じるものでもある。表題で「14歳から」と銘打っているように、次世代への提言としても有益な内容が詰まっている。
(ビジネス社、228ページ、1700円+税)