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「私が生まれた頃 日本は戦争をしていた」――次世代に伝える朝鮮からの引き揚げ体験 名古屋市・富田祥子

(2026年3月4日付掲載)

大勢の日本人を乗せて博多港に着いた釜山からの引揚げ船(1945年10月)

 名古屋市在住の富田祥子氏(83歳)から北朝鮮からの引き揚げ体験を聞いた。当時3歳だが、引き揚げの途中の出来事は鮮明に記憶に残っている(体の中に入っている)という。富田氏はこれからの日本を背負う子どもたちが自分と同じような異常な体験をしなくてもよい平和な世の中になることを願い、長年にわたり子どもたちや学生らに体験を語ることを続けてきた。しかし「今回の衆議院選の結果を見ると小さいことをしていたら間に合わない。このままでは日本は戦争をする国になってしまう」と怖くなってきたという。「それでも一人一人の力は小さくても集まれば大きな力になることを信じ、可能な限り語れることは語る」と思いも新たにしている。富田氏は10年ほど前にみずからの記憶を書き留めておこうと長文のメモ「私が生まれた頃日本は戦争をしていた」を作った。以下、このメモをもとに本紙が聞きとった引き揚げ体験を紹介する。

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富田祥子氏

 私は中国との国境近くの北朝鮮の茂山という所で生まれた。父は北朝鮮で発電所関係の仕事をしていた。朝鮮にいる時は社宅住まいで結構いい暮らしをしていたようだ。茂山の冬は氷点下30度近く下がったそうだが、オンドルで家の中は暖かかったそうだ。「そうだ」というのは私は1945年8月15日以前の事は全く記憶がないからで、その日までの私は何も知らない平凡な暮らしをしていた普通の幼児だった。

 

私の記憶はあの日から始まる

 

 多くの大人たちが鍋などをくくりつけたリュックを背負い、広場に集まっていた。社宅にいた人たちの逃亡のような引き揚げが始まった。父はその数カ月前に現地召集されていた。わが家は体の弱い祖母と母、1歳半の妹と6月に3歳になったばかりの私の4人。母は妹をおんぶ用の紐で胸にくくりつけ、背中にリュックをしょっていた。その日は終戦の日から多分2日位後だったようだ。日本が戦争に負けて、現地にいた日本人が引き揚げると分かった途端に、まだ家人が家にいるのに、現地の人が家に入って来て目ぼしい物を全て持って行ったそうだ。

 

8月13日には分かっていた

 

 母が8月13日(終戦の2日前)、いつも行く歯医者さんから「ソ連が攻めて来た。もうすぐ日本は負けて戦争は終わるので、病院を閉めて日本に帰る。治療は途中なので今日までの診察代はいただかない。あなた達も早く引き揚げた方がいいよ」といわれたそうだが、母はその時の事を後に「偉い人やお金持ちはどこからか早めに情報が入り、戦争が終わる事を知っていて、汽車などの乗り物に自由に乗れる時に引き揚げてしまった」と話していた。

 

 戦前、日本人は、新しい土地を求めて朝鮮半島や満州に出て行った。私達家族もその一員だった。多くの日本人は現地の人の土地や大切な物を取り上げるなど非道な事を沢山、沢山してきた。日本が戦争に負けた途端に立場が逆転、日本人は着の身着のままで引き揚げを始めた。現地の人に見つかると何をされるかわからない。殺されるかも……と山の中を逃げ隠れしながらの逃避行が始まった。

 

暗闇から動物の目がキラリ

 

 北朝鮮の夜の山の中は冷える。身につけている物以外に着る物はない。さらに、あちらこちらで動物の鳴き声や遠吠えのような不気味な声が聞こえ、暗闇の中で動物の目が光っている。一晩中火を燃やして暖を取りながら動物を近づけないようにする。火が消える事はその動物に襲われる事を意味しているから。来る日も来る日も山の中を歩き、夜になったら草を探して食べ、動物除けに火を絶やさないように焚き火をしながら野宿をして朝を待つ。次の日もまた次の日も同じだ。

 

山の吊り橋

 

 川があり、そこに架かっている吊り橋は揺れるし、足元に敷いてある板の間から下の方を流れている濁流が見える。縦一列になって恐る恐る渡り始めたが、私は途中で動けなくなり這いつくばってしまった。間隔が広い敷板と敷板の間から、顔の真下に濁流が見えてますます怖くなる。そうなると最高の恐怖で1㌢たりとも動けない。祖母は母に手を引かれながら渡っていた。母から「早く渡りなさい」と怒鳴られるばかりだが、動けないものは動けない。今も時々夢に見る。濁流の川と向かいあって、揺れる吊り橋の真ん中で動けなくなって這いつくばって苦しんでいる。その夢を見て目覚めると、いつもすごく体が疲れている。きっと体に力を入れているのだと思う。

 

山の中に2人残されて

 

 ある日の夕方、みんな休憩をしていたが、祖母が隊から遅れていたので、私と妹をそこに置いて母は祖母を迎えに行った。しばらくして休憩していた人たちは私たちをそこに残したまま出発していった。私と妹は山の中に取り残され、日が暮れて暗くなってきた。暗くなって不安だった妹は大声で泣いていた。どれくらい時間が経過したか全くわからないが、母が戻ってきた。暗い山道を母と祖母は妹の泣き声を頼りに戻って来たと、後になっていっていた。「あの子が泣いていなかったら、知らない所で真っ暗な夜の山道に迷って戻って来られなかった」といっていた。私は泣かなかった。もうその時は泣かない子(泣く事が出来ない子)になっていたのだと思う。

 

泳がせてあげる

 

 引き揚げていた人たちの中には私たちと同じような子どもが何人もいた。食べる物もなくなり、寝るところもなく、先が見えないまま山の中をさまよい歩く日が続くと人は普通ではなくなる。自分が生きる事しか考えられなくなるのか、さっきまでいた小学校低学年くらいの男の子の姿が見えない。母に尋ねると、その子の親が、川で泳がせてあげるといって川に誘い、頭を押さえつけて水に沈めて殺したといった。その時の母は大変な事があったとは思えないような普通の話し方だった。その行為を止める人もいなかったのだろう。そして数日後はまた別の子が……。

 

叔父から布団をもらう

 

 茂山を出て何カ月経過したのか全くわからないが、北朝鮮の咸興という町に着いた。季節は冬になっていた。北朝鮮の冬は冷えた。そこで母の兄に会った。その叔父から私たちは布団を一組もらった。その夜から私たち4人は一組の布団で寒さをしのぐ事ができた。母と妹が寝て、その反対の足元の方から祖母と私が潜り込んで寝ていた。

 

「150円で売って!!」

 

 町で現地の人に会うと子どもを150円で買うから売って欲しいといわれた。当時の150円がどれくらいの価値かは今でも分からない。食べる物もなく、足手まといの子どもたちの何人もが150円で売られた。食料と交換された子もいた。このような事が起きるのは市場などがあり日本人(引き揚げ者)も朝鮮人も多い町だった。

 

生きるための本能

 

 3歳だった私は殺されるという事がよく理解できなかったが、さっきまでいた子が突然いなくなり、戻ってこないので、大変な事が起きているのだろうと何となく感じていた。私は150円で売られたくなかったし、食べ物とも交換されたくなかった。そしてこの人(母)を困らせないようにしないと自分も同じ目に合うと思うようになった。そして私は「疲れた」「歩けない」「お腹がすいた」「喉が渇いた」「イヤ」など母が困る事はいっさいいわないことにした。泣いた記憶もなく、いつの間にか泣く事さえ封印していたのだと思う。常に、この人(母)を困らせないようにとの思いを抱えて毎日歩き続けた。そのような事は、普通は3歳の子どもの考える事ではないはずだが、何もできない3歳児だったからこそ身に着けたワザ!! いや「生きるための本能」だったのだと思う。日本に引き揚げてからも母を怒らせた記憶がない。とにかく母にとって愉快ではないと思う事は一切いわず「いい子」をしていた。小学校の頃も周囲(特に母親)の顔色をうかがって暮らす、実に可愛くない子どもだった。

 

泥棒にリンゴをもらう

 

 ある日、叔父の所に行った夜、数人のソ連兵(母はロシア兵といっていた)の泥棒が入った。当時はソ連兵の泥棒は珍しくなく、従弟たち6人と私と妹の子どもだけでも八人いた。叔父はソ連兵の泥棒に、子どもがこんなに沢山いるので、何もないと身振り手振りを交えた片言のロシア語でいったそうだ。泥棒は何もとらず、逆に持っていたリンゴを置いて行った。そのリンゴも何処かで取って来たのだと思うけど、あまりにも沢山子どもがいたので、可愛そうになって置いて行ったのだろうと大人たちは話していた。

 

 ソ連兵は泥棒だけではなかった。若い女の人を見ると連れて行った。毎晩のように女の人の叫び声が聞こえた。女の人は全員丸坊主になって男性のような恰好で母も丸坊主だった。

 

興南から船が出るという噂が…

 

 咸興の近く(地図で見ると近くだが実際の距離はわからない)の日本海側に興南という町がある。ここから日本へ帰れる船が出るという話を聞き、興南に移動した。しかしソ連が攻めてくるという事で私たちは南へ移動する事になった。どこに行くか分からない汽車に乗り、どこかわからない所で下され、また別の汽車に乗り、乗ったかと思ったらすぐ止まり、長い間動かず、ようやく動き始めたと思ったらどこか分からない所で下された。私は子どもだったから、どこに行く汽車か分からなかったのだろうと思っていたが、誰も分かっている人はいなかったと母はいっていた。

 

知らないおじさんからリンゴを貰う

 

 咸興なのか興南なのか分からないが、人通りも多く割に大きい町で私が1人でいた時、知らないおじさんが私にリンゴを持たせてくれた。その人は日本人なのかそれとも朝鮮の人なのか分からない。いずれにしても当時のリンゴは大切な物だったはずだ。それを見ず知らずの私にくれるなんて……いったいどんな人だったのか。もしかしたら私と同じくらいの年の子を亡くした人だったのではないか。その子と私がダブって大切なリンゴを私に下さったのでは? と今でも思う。今でもリンゴを見ると毎日、その時の風景が頭に広がる。あのおじさんは誰だったんだろう?

 

38度線ってどんな線

 

 避難の途中に、大人たちは「38度線をこしたら楽になる。食べ物もあり寝る所もある」と1日に何回もいっていた。3歳の私はそこに行くと線が引いてあり、その線を渡るのだと思っていた。その線を飛びこすのだろうか、あるいはまたぐだけで通れるのだろうか?何色の線なのかな? どれくらいの太さの線なのかな? と38度線という言葉を聞くたびに想像していた。

 

死んだら三角山に捨てられる

 

 来る日も来る日も人が死んでいった。死んでも葬る所がない。死んだ人は、お腹の辺りにコモを巻き、その上から2~3カ所縄で結ぶ。その縄の所に長い棒を通して2人の男性に担がれて行く。顔と足は出たままで。そして三角山に捨てるのだと大人たちはいっていた。捨てられた遺体は次の日は動物に食べられているとも話していた。昨日担いでいた人が、今日は担がれて三角山に捨てられに行く。夕べ体がくっつく位近くに寝ていたオジサンが、朝起きた時は死んで担がれて行く。1日に何回もそのような光景を見ているので、人が死んでも悲しいとか、寂しいとかは感じない。これが普通になるのだ。私はまた死んだ人が捨てられる……と思っていた。

 

 今でも私は人が亡くなった時に涙を流す感情がない。お葬式で涙を流した事は1回もない。私は大人になっても、その時の事を話す時、平気で「死んだ人を捨てたの」といっていた。ある時、広島と長崎に行き、被爆者の方とお話をした。その時お会いした方全員が「原爆で亡くなった多くの方を葬りました」という言葉を使われた。私はその時ハッとした。人が亡くなった時は「葬る」が正しくて「死んだから捨てたの」と平気でいっていた自分の異常さに気づいた。

 

いつ38度線を越したの?

 

 ある日、大人たちが38度線をこしたと話していた。私は線を飛びこした記憶がなく不思議でしかたなかった。38度線をこえる時に居眠りでもしながら歩いて気付かなかったのかな? と真剣に考えた。38度線の意味を知ったのはそれから随分たって小学校の高学年になった頃だ。

 

 私たちは避難民の収容所に入れられた。収容所といっても数えきれない程の人が建物の中に入れられ、寝る時も足を伸ばす事さえ出来ない狭さ。

 

 それでも野宿をしなくてもいいし雨露をしのぐ屋根があるだけマシだった。毎晩、暗闇の中で光る動物の目や、鳴き声などに怯える事もなくなった。しかし、みな何カ月もお風呂に入る事もできず、シラミやノミがわいていた。それが原因で多くの人は発疹チフスに罹り、栄養失調、寒さで多くの人が亡くなった。私たち家族4人とも発疹チフスに罹り、高熱を出したが、なぜか私たち4人は生き残った。母は「私たちは命縁があったのだ」といっていた。

 

乗船する北朝鮮からの引揚者たち(1945年)

親を亡くした子が沢山いた

 

 引き揚げる途中に飢えと寒さ、疲労、病気などで親を亡くした小さい子どもも沢山いた。それでも数日は隊の後ろの方を着いて来ていたが、いつの間にか姿が見えなくなる。体力もなくなり、ついて来る事さえ出来なくなったのだと思う。収容所では暗くなると毎晩、子どもの泣き声が聞こえていた。数日するとその声は聞こえなくなった。親が死んでしまい、1人残されて毎晩泣いていたが食べる物もなくて、その子も死んでしまったのだと母が話してくれた。私はそんな話は日常的になっているので、フ~ンという感じで特に何も思わなかったように記憶している。母は後に「今考えると本当に可愛そうだけど、あの時はどうする事もできなかった。みんな自分の食べる物もなく、体も衰弱しきっていて動くことも出来ないくらいだった。自分の事だけで精いっぱいだったから……」といっていた。

 

多くの人に助けられ

 

 咸興で叔父に会わなかったら私たちは寒い朝鮮の冬を乗り切る事はできなかった。一組の布団を貰ったからこそ凍死せずに済んだ。茂山を出発して避難を始めた私たちを探してお金を届けてくださった方がいた。父と同じ会社で働いていた現地の方で、会社から預かった父への退職金だった。「あのお金があったから私たちは日本に帰国できたのよ」と母はいっていた。父が兵隊に行った数日後にも父と同じ会社で仕事をしていたという若い現地の方が、我が家を尋ねて来て「戦争が終わり、兵隊から戻ってきたら、また一緒に酒を飲みましょうと伝えてください」と涙を流しながらいわれたそうだ。この話は父がこの世を去ってから母から聞いた。それまでは私たち家族も朝鮮という国に土足で踏み込み、現地の多くの人たちの人生を狂わせた一員だと思うと辛くてしかたなかった。「生れは何処?」と尋ねられても、私は「北朝鮮です」とは答えられなかった。でもその若い人の話を聞いた時、少なくとも父は現地の人に嫌われるような事はしてなかったのだろうと思い、それからは気持ちが幾分軽くなった。

 

私は4歳に

 

 歩いて歩いてまた歩いての3歳児だった私も4歳になり、南朝鮮(韓国)の安山という町に着いた。安山は黄海側の仁川の南側で、ここから日本に帰る船が出る。その頃は祖母の体は衰弱してしまい、1人で歩く事さえ出来なくなっていた。そして明日船に乗るという日に祖母は亡くなった。68歳だった。きっと安心してしまい、張りつめていた心の糸が切れたのだろう。翌朝暗いうちに私は目を覚ましたが、母はいなかった。知らないおじさんが「お母さんはおばあちゃんのお骨を拾いに行ったよ」と教えてくれた。しかし、その時の私は「お骨」が何なのか全く分からなかった。空はすごくきれいな星がいっぱいだった事を妙に覚えている。後に母は南朝鮮(韓国)だったからおばあちゃんを火葬にして、日本にお骨を持って帰ることができたけど、もし38度線をこす前だったら、おばあちゃんはそのまま置いて来なくてはいけなかった。38度線をこしていて良かったといっていた。

 

引き揚げ船の中で赤痢が

 

 引き揚げ船に乗り、ようやく日本の博多に向かった。船に乗ってから何日経っても陸に着かない。日本はすごく遠い所にあるのだと思っていたが、大人になって母から聞いた話では船の中で赤痢患者が出たので、博多沖に1週間停泊していたという。その船は窓はなく、恐らく輸送船(貨物船)だった。トイレもなく空き缶をトイレがわりに使い、汚物は海に捨てていた。赤痢患者が出るのは当然なほどの非衛生な状態だった。1日に2回だったと思うが「メシアゲ~」という大声と共に粗末で僅かな食事(コウリャン)と、何やら硬くてやたら繊維の多いものが少し入ってすごくしょっぱいお汁が配られた。繊維の多い物は竹の子の根っ子の部分で、お汁は海水をそのまま使っていたようだと母は後にいっていた。

 

掃海艇で朝鮮から博多港に着いた引き揚げ者(20年10月19日)

博多に上陸した

 

 母と妹と私の3人は、母の実家がある延岡(宮崎県北部にある城下町)に向かった。延岡は何も残らない程の空襲で丸焼けになっていた。実家も空襲で丸焼け、近くにバラックを建てて住んでいた。現地召集された父は南方に行く前に終戦になり、私たちよりも早く復員していた。北朝鮮から引き揚げを始めてから10カ月がたっていた。

 

北朝鮮にも残留孤児が

 

 中国は国交が回復してから政府が残留孤児の調査を始めた。両親や家族が見つかったり、手がかりが見つかった人もいる。しかし、北朝鮮にも多くの日本人孤児がいたはずだ。その人たちは調査さえされずに放置されている。夫が母によくいっていた。「お母さんの様な当時の事を知っている人が声を上げなくてはいけないのではないですか?」と。

 

 しかし、母は当時の事を抱えたまま93歳で永眠した。母は高齢になって見る夢の事を話した事がある。引き揚げる時の夢で、高い山をこえたと思ったらまた高い山がある。山をこえてもこえても山がある。その夢の中ではいつも重い荷物をしょっているという。そして「私は一生重い荷物を下ろせないのかね?」といった事がある。母は母なりに苦しんでいるのか? とその話を聞いた時に思った。

 

 私は中学生のころ母に「なぜ戦争に反対しなかったの?」と尋ねたことがある。そんな話になると必ず「反対できなかったのよ」と怒鳴りつけられた。怒鳴りつけられるとそれ以上は聞けない。戦争の話になると必ず母に怒鳴られ、そこでおしまいになった。

 

進駐軍の監視の下、博多港から駅に向かう朝鮮からの引揚げ者(1945年10月18日)

戦争は絶対にやってはいけない

 

 1945年8月に終戦を迎えるまでに、多くの犠牲者が出た。戦争が終わって朝鮮や中国から引き揚げる途中にも多くの方が亡くなった。その多くが弱者である子どもたちだった。私は息子が2人いる。息子が小さい時に飼っていた金魚が死んだといって穴を掘って埋め、手を合わせていた。その姿を見てこれが本当の子どもの姿なのだと思った。私が体験した事(毎日毎日人が死に、葬られる事もなく三角山に捨てられたり親に殺される事)は普通じゃなかった事に気づいた。ましてや、子どもが親に売られたり、食料と交換されるなんて通常ではあり得ない。そしてそれを見たり聞いたりしても何も感じないような神経になってしまう事も普通ではない。戦争になったらまた同じような事が起きるのだと思うようになった。この子たちのためにも戦争を繰り返してはならない……どんな事があっても戦争が起きない世の中にしなくては! と思うようになった。今度は私が子どもたち(今は孫)から「どうして反対しなかったの?」といわれないようにする事が今の私の役割だと思っている。

 

(※編集部注)この時期、朝鮮半島は日本による植民地支配から連合国による占領統治となり、38度線で南北に分断され、アメリカ軍が南側を、ソ連軍が北側を占領した。朝鮮北部から民間人の引揚者数は30万人、南部からは42万人にのぼる。

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