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〈戦後80年〉山口県の空襲の記録 残された資料や証言にみる 終戦直前の無差別殺戮

(2025年8月22日付掲載)

 戦後80年の節目を迎えた今年、山口県内では空襲の被害や戦争体験を語り継ぐイベントが各地で開催された。当時を知る体験者が年々高齢化していくなかで、今後は生の言葉で体験を受け継いでいくことは難しくなっていく。いかにして戦争の体験を後世に伝えていくかは重要な課題だ。過去の戦争において、山口県内では瀬戸内海側の都市部で米軍による空襲が計100回以上おこなわれ、軍施設や工場のみならず、多くの民間人が犠牲になっている。こうした被害の実態は、県内各市の図書館等に所蔵されている書籍のなかに、郷土の歴史として詳しく残されている。それらの資料をもとに、改めて山口県内の空襲の実態について調べた。

 

 米軍が日本本土に対する本格的な空襲を開始したのは、1944年6月15日のサイパン島への上陸以後だ。米軍は同日深夜、中国四川省成都を基地に、B29による北九州の八幡製鉄所を目標にした空襲を実施した。これが米軍による最初の日本本土空襲となった。

 

 その後、米軍は、出撃拠点を日本の「絶対国防圏」であったマリアナ諸島(グアム、テニアン、サイパン等)へと移す。これにより、日本本土すべてが米軍のB29部隊の射程圏内となった。マリアナのB29部隊は、1944年11月24日に東京を初空襲すると、そこから終戦日である翌年8月15日までの間、連日連夜、全国の都市を徹底的に焼き尽くしていった。

 

 マリアナからの日本本土空襲は、初期は高高度から工場や軍施設を狙ったものだった。だが、その後は東京大空襲に代表されるように、低高度から大都市部の市街地に対する大規模な焼夷空襲が中心となり、これが終戦の年の6月中旬まで続く。その後、終戦までの約2カ月間は、中小都市への徹底的な空襲をくり返すことで日本の全都市に被害を蓄積させるとともに、日本経済を疲弊させていった。

 

 このさい、日本の中小都市空襲の目標を選定するために米軍は180の都市をリスト化した。そのなかでは山口県の9都市が目標に設定されており、下関は19番目の都市として、宇部市は46番目、防府は85番目、岩国は99番目、その他、小野田、徳山、山口、下松、萩がリストにあげられている。

 

 『アメリカが記録した山口県の空襲』(工藤洋三著)では、米軍が日本の街を焼き尽くすための「焼夷空襲理論」にもとづいて本土空襲を計画していたことが記載されている。1943年10月に発行された米軍の焼夷弾リポート「日本―焼夷空襲資料」では、日本の20の都市を選定し、配置と構造を調べたうえで、日本の都市が全般的に焼夷攻撃に適していることが示されている。また、同リポートでは、焼夷攻撃に必要な焼夷弾量の試算までおこなっており、組織された消防隊などによる地上の消火能力を上回る数の火災を十分な量発生させて、制御不能な大火を発生させることで都市を焼き払うことができると想定し、綿密な計画のうえで爆撃をおこなっていたことも明らかにしている。

 

 山口県内でおこなわれた主な空襲は、終戦間際の5~8月に集中している。米軍は日本の敗戦が決定的な戦局であるにもかかわらず、容赦なく軍施設や周辺市街地を標的にし、舐めるように徹底的に焼き尽くした。3月27日におこなわれた関門海峡への機雷投下以降、岩国、光、徳山、下松、宇部、下関など、陸海軍の燃料廠や石油精製工場が多数点在していた瀬戸内の軍需工場地域への空襲が増えていった。

 

模擬原爆の投下実験も 宇部空襲

 

 県下第一の工業都市であった宇部市は、1945年4月26日から8月5日までの約3カ月間で計8回の空襲を受けた。総務省の集計によると、被害は死者254人、負傷者557人、行方不明者68人、罹災者2万5424人、罹災家屋6232戸、市街地焼失面積約65万坪におよんだ。

 

 7月29日の空襲では、長崎に投下されたプルトニウム原爆「ファットマン」と同型の模擬原爆(4・5㌧、形と色からパンプキンと呼ばれた)3発が投下された。日本では、29の都市で49個の模擬原爆が投下されている。この爆弾は核は搭載されていないもののTNN火薬を詰めた超大型爆弾だ。この空襲は、原爆投下の前に米軍第509混成群団が日本各地でおこなった原爆投下訓練によるもので、原爆目標都市への攻撃は避けつつ、それらの都市周辺で実施するよう計画されていた。宇部でパンプキンを投下した第509混成群団は、この空襲の約1週間後に広島、長崎で実際に原爆投下をおこなった部隊である。

 

 戦後まもなくしてアメリカの戦略爆撃調査団が来日し、その効力について調べている。宇部市が原爆投下の練習台として使われた事実は「宇部市の空襲を記録する会」の調査により1990年代になってようやく明らかにされた。

 

 こうした空襲の状況は『宇部警察署沿革誌』に残されている。宇部では5月上旬から8月上旬にかけて毎夜のごとく機雷攻撃がおこなわれ、本山岬沖、宇部港沖、亀浦燈台沖等、本船航路に推定2500個以上が投下された。

 

 7月2日深夜の大空襲では、推定90機のB29が約1分~1分半の間隔で、1、2機連続的に波状に来襲し、約1時間半にわたって大型小型油脂焼夷弾の攻撃を反覆した。市街の中心部、新川座通り以東芝中通りにおよぶ繁華街はほとんど灰燼(じん)に帰し、多数の死者を出し大混乱に陥った模様が克明に記されている。

 

 また『歴史の宇部』には、7月2日の市街地空襲の様子が次のように記されている。「この空襲で、沖ノ山国民学校、見初国民学校、恩田国民学校は全焼した。岬国民学校では、焼夷弾の不発弾が7月4日になって爆発し、児童3名が死亡、17名の負傷者を出した。松浜町の県立工業学校も、海軍工廠も全焼して瓦礫が残るだけであった」「市街地は旧市内のほとんど、常盤通り錦橋通り、新町などの中心街を東西に貫いて、3分の2の戸数を焦土としてしまった。警察署、市役所、ちまきや百貨店なども焼けてしまって、山口銀行の建物だけが悄然と焼け跡に佇んでいた。狼藉の限りをつくして帰った敵機は、帰りぎわになって東岐波の農村地区にまで焼夷弾を落として行った。宇部に落とし忘れた荷物を捨てて帰るような攻撃であった。静かで平安だった農村はこのため一部落の大半を焼失するという惨事になったのである」

 

 また、7月15日と23日の空襲では工場群が爆撃にあった。標的は、石油資源を持たない国の命運をかけた大事業として、石炭を油化して液体燃料を作るために建設中の工場だった。工場は、1億3000万円(現在の600億円相当)の巨費を投じて建設が進められたが、完成寸前で粉々に吹き飛ばされた。さらに機上から機銃で狙い撃ちされたことなどが記録されている。

 

 8月5日の夜10時から翌朝2時にかけておこなわれた空襲では、「宇部市の土を灰にして生き物の棲息を許さないとでも言いたげな爆撃が始まった」と記され、空襲によって市内の学校は9校被災し、うち6校が全焼。多くの子どもや市民が犠牲になったことが記されている。

 

 宇部市常盤町に住んでいた厚見昭二氏は2001年、宇部大空襲の様子を次のように証言している。

 

 1945年7月2日未明、マリアナ諸島のテニアン島を発した米空軍ボーイングB29爆撃機が宇部市を来襲した。まず、高性能のレーダーを備えた先導機九機が照明弾を落とし、それを目標に91機の本隊が焼夷弾を落下した。

 

 目標となったのは工場地帯ではなく市民の住む市街地だった。当時はほとんど木造建築であったから、たちまち大火災となり、上昇気流が起こって台風なみの風が吹き、いっそう火の手をあおった。

 

 空襲は1時間42分におよんだ。人々は火の海の中を逃げまどい、あるいは防空壕のなかで焼死し、あるいは郊外まで逃れながら焼夷弾の直撃を受けて死亡した者もいた。夜明けとともに家族や知人の安否を尋ねる人々の群れの中を、筵(むしろ)の担架に乗せられた負傷者が、県立医学専門学校(現在の山口大学医学部で、宇部工業高校のところにあった)へと運ばれた。

 

 罹災者はその日から衣食住に困ったが、当時は日本中が非常時であるから、何の援助も受けられず、親戚、知人を頼り、または残った防空壕の中など野宿同然の状態で過ごし、やがて終戦を迎えた。

 

 宇部市はこのほか7回の空襲を受け、その都度大きな被害を出した。なかでも、7月29日の空襲は、広島に落とす原子爆弾の投下訓練で、巨大な模擬弾を3個投下した。3日後、祖父と一緒に現場の一つである東海岸通りへ行ってみたが、径10㍍にわたる巨大なすり鉢状の穴があき、底に地下水が溜まっていた。このような訓練の積み重ねが、やがて8月6日、広島の原爆投下となった。大空襲による戦災を受けた宇部市は、今では“緑と彫刻のまち”になったが、かつてこのような大惨事があったことを宇部市民は忘れてはならないと思う。

 

市街地焼失し遺体の列 徳山空襲

 

 徳山(現周南市)には徳山海軍燃料廠があり、当時日本でもっとも大きな海軍燃料廠で、3番目に大きな石油精製所だった。要港である徳山を防衛するため太華山、永源山、戸田の昇仙峰、大道理の大高新山など燃料廠を取り囲むように高射砲やサーチライトが設置されていた。

 

 1945年5月10日に徳山の燃料廠は米軍による大規模な空襲を受ける。同年4月に沖縄に上陸した米軍は、九州各地から出撃してくる特攻機の燃料を供給しているのが徳山および岩国の石油基地であるとし、ここを叩くため徳山の海軍燃料廠と岩国・大竹の陸軍燃料廠を空襲した。

 

 この日の徳山燃料廠は、117機のB29に襲われた。体験者の多くが「上空が真っ黒になるほどのB29の編隊が低空飛行で襲ってきた」と証言している。

 

 この空襲により燃料廠は壊滅的な被害を受け、廠内だけで297人が死亡した。そのなかには学徒動員として従事していた徳山中学校(現在の徳山高校)の生徒4人が含まれている。また廠外の市民も大きな被害を受けており、それらを加えると死者は500人以上、負傷者は1000人以上にのぼる。

 

 戦後40年目に発行された『街を焼かれて 戦災40周年 徳山空襲の証言』(徳山の空襲を語り継ぐ会)に残る当時の証言には、次のようなものがある。
 「間もなくして、壕は爆弾の直撃を受けた。その一瞬、私の体は浮き上がって、気がついた時は同僚が私の股の中に頭を突っ込んで、逆立ちになって即死していた。そして、もげた上司の腕が私の首にかかっていた。コンクリートの下敷きになった者のうめき声がして、そのうめき声も次第に消え、私一人だけが“助けてくれ”と必死になって救いを求めていた。だが爆撃が続いているため、救援隊は来ない。生き埋めの私の頭の上に爆弾の破片が飛んで来て、鉄カブトに当たり“カチ、カチ”と音をたてる。逃れることも出来ない私は、爆弾の落ちる、あのヒュー、ヒューと鳴る音を聞きながら、ただ死を待つばかりだった。そして2、3時間後、私の叫び声を聞いて救援隊がやってきた。私を助けるために、その上で死んでいる4、5人を掘り出し、やっと救出された。壕から掘り出されてみれば、もう一人の同僚は首、両手も爆風で吹き飛ばされて死んでいた。(中略)私たちのいた壕で助かったのは2人だけで、25人ぐらいが亡くなった」(宮本武章、当時17歳)

 

 7月27日の市街地空襲では午前0時22分から1時35分の間に、現在の市役所前交差点付近を中心として、半径3㌔に焼夷弾5416発(718・1㌧)が投下された。市街地の9割が焼け野原となり、死亡者は482人、負傷者は469人にのぼった。負傷者は徳山小学校に運びこまれ市内の医者たちが治療にあたったものの、まともな治療はできず、旧国道2号線には遺体がずらりと並べられた。

 

 生残者たちは凄惨な体験を綴っている。

 

 「当時家族は、徳山国民学校の教師だった私と一人娘の幸子、その子供の紀子(五つ)、紘一郎(三つ)、5月3日に生まれたばかりの栄子の5人。(中略)西辻のわが家は、中心部から少し外れているので“まさか”と思ってましたが、帰ってみるとどうでしょう。家は焼けてなくなり、娘母子も姿が見えません。竹重さんの奥さんが“幸子さんが少しけがしてたですよ”“三田川の方におってですよ”と教えてくれました。(中略)行くと川の中にみんなつかっています。その中に幸子もいました。しかし全身やけどをし“これが私の子だろうか”と思うと声も出ませんでした。“お母さん栄子は大丈夫でしょうか”と幸子はわが子の身を案じて私に息も絶えだえに聞きます。(中略)栄子は無事でした。幸子は、戸板で徳山国民学校に運ばれました。(中略)」

 

 「奥田先生に“先生どうでしょうか”と必死で尋ねました。すると、“80%も焼いていてはどうにもなりません”との返事でした。先生は幸子に“幸ちゃん生きたいかね”と声をかけられ、幸子は“どうしても生きたい”と苦しそうに答えていました。しかし、27日の午後3時半ごろ息を引き取りました。幸子たちと一緒にいた孫の紀子と紘一郎は家の焼け跡から骨になって見つかりました。私の家族は、私と娘夫婦、その子供3人の計6人だったのが、娘婿は戦死、娘と孫2人が空襲で死に、結局残ったのは、私と末の孫の栄子だけでした」(『街を焼かれて』野村うめ、当時45歳)

 

 「院長から“戦災者の救護に行ってくれ”と言われ、看護婦2人を連れて徳山小学校へ行った。(中略)中は満員で、血まみれの患者と家族たちがいた。私が最初に会ったのは、玄関入り口の部屋で全身やけどの子供だった。子供はうめき、家族も付き添っているが、何か注射したぐらいで治療のしようがなかった。負傷者で混雑した中に背中に子供をおぶった母親がいて“大津島に帰るから道を教えて下さい”と私に言う。よく見ると背中の子供には頭蓋がない。焼夷弾の直撃でやられたらしいが、何とも慰めようがなかった。出征した友人宅を訪ねると奥さんが、防空ずきんをつけたままで直撃で亡くなっていた」(『街を焼かれて』登坂清、当時37歳)

 

終戦前日に学徒らが犠牲に 光空襲

 

終戦前日の空襲で壊滅した光海軍工廠

 終戦前日の8月14日におこなわれた光海軍工廠の空襲では、工廠内で738人、廠外でも一般市民や子どもたち10人の合計748人が死亡したとされる。

 

 午前10時頃、空襲警報が発せられたもののB29の編隊は岩国へと向かい、約2時間後に警報は解除となった。多くの工員が昼食をとろうとしたとき、再びB29の編隊が姿をあらわし攻撃が始まった。157機のB29が5回にわたる波状攻撃をしかけ、885㌧もの爆弾を投下して海軍工廠は壊滅的な被害を受けた。

 

 当時は、戦局の悪化にともない男子の労働力が不足し、1944年8月に発令された学徒勤労令によって多くの学徒が軍需工場に動員されていた。光海軍工廠には、中等学校では光、岩国、徳山、山口、宇部、大津、萩、萩工業、岩国工業、柳井、柳井商業、高等女学校では室積、久賀、柳井、柳井女子商業、熊毛、徳山、防府、三田尻、中村、萩、修善、野田、高松、丸亀、明美から多くの学徒たちが動員されていた。国民学校高等科では光井、島田、浅江、室積、三井、さらに山口師範学校女子部付属国民学校、山口師範学校の男子部と女子部からも学徒動員として生徒たちが送られていた。その数は6523人(1945年2月時点)にもなり、全就労人員の21%にも及んでいた。学徒動員の死亡者は133~136人といわれ、多くの若者が10代の若さで命を失った。

 

 柳井高女の女学生は「どのくらいの時がたったのであろうか。隧道(すいどう・トンネルのこと)の入口の方で、大声で男の人が叫んだ。“ここにおっても生き埋めになるぞ! はやく折りをみて廠外の隧道に逃げ出せ!”と。間もなく私は親友と手を繋いで洞内から走り出た。あたりの様子は一変していた。血を滴らせながら走っている者、うめきながらうずくまっている者、しきりに聞こえる爆発の音、異臭の漂う中を、走りに走った」

 

 「(中略)翌、15日も定刻に出勤し、焼け爛れた工場で、私たちは後片付け(といっても、それは先ず、死体運搬作業の手伝い)に精を出した。島田川の橋を渡ってのがれようとしていた人たちの上にも焼夷弾は落とされていた。一昼夜、水に浸かっていた遺体は、その顔も、ぶよぶよにふくれ上がり、見る影もなく、言うべき言葉もなかった。〈無残にもぎ取られた手!〉〈ちぎれて紫色に変色した足!〉私たちは、心の中で手を合わせながら、それらを寄せ集めるようにして、戸板のような物に乗せ、むしろを掛けては運んで行った。〈累々と横たわる死体!〉という表現を、文学の世界でなく、この世のものとして目の前に見たのは、その時であった。光会館に所狭しと並べられた遺体!(中略)その中に、私たちより一級上の、大島から通っておられた田原昌子さんの遺体が静かに横たわっていた」と綴っている。(『回想の譜・光海軍工廠』より) 

 

米軍基地奪うため猛爆撃 岩国空襲

 

終戦間際の大空襲で壊滅的な被害を受けた岩国駅周辺(1945年8月14日)

 岩国では、9回にわたって米軍による大小の爆撃がくり返された。岩国市には海軍航空隊や陸軍燃料廠があり、その他にも帝人工場の製機部は航空機部品の生産をおこなっていた。その他、興亜石油の麻里布製油所も、航空揮発油の生産を目的に建設され操業していた。

 

 岩国で最初に大きな被害をもたらしたのは、5月10日の空襲だ。旧岩国陸軍燃料廠と興亜石油麻里布製油所が爆撃され、333人が死亡した。B29数十機が編隊を組んで襲来し、約1時間、のべ240機が6回にわたって波状攻撃をかけ、250㌔爆弾約2000発を投下。当時陸燃には軍人、軍属、動員学徒約4000人、興亜石油には2000人が働いており、犠牲者のなかには岩国高女11人、安下庄中9人、岩国中1人、岩国工業7人の動員学徒も含まれていた。

 

 7月24日には、柱島群島の黒島、端島、柱島が狙われ、子ども28人が殺されている。なかでも黒島の空襲は悲惨で、防空壕に避難していた下級小学生を見つけたグラマンが壕を直爆し、大人と子ども19人が生き埋めとなって死亡した。当時、黒島町内会の戸数は20戸だったことから見ても、あまりにも大きな犠牲だった。

 

 また、長崎に原爆が投下された8月9日、岩国では川下地区で空襲があった。このときに爆撃をおこなったのは、これまでマリアナから出撃していたB29部隊ではなく、沖縄に基地を構えた極東航空軍によるものだった。沖縄戦終結後、6月下旬から7月上旬にかけて沖縄に本格的な進駐を始めた米軍は、基地整備を急いだ。そして本土侵攻のための戦術爆撃を主な任務とする極東航空軍が最初に攻撃態勢を整えた。主な目的は、南九州上陸作戦(オリンピック作戦)を準備することだった。

 

 川下空襲では、川下にあった海軍航空隊基地が艦載機グラマンによる爆撃を受けた。攻撃の的となったのは、航空機を爆撃から守る掩体壕や民家だった。兵士たちは掩体壕に避難したが、米軍機はこれを直撃弾で破壊し、多くの整備兵が圧殺された。

 

 さらに米軍は、周辺民家を爆弾と機銃掃射で狙い撃ちした。この空襲により、兵士や飛行場の徴用工、勤務動員の女性など、住民97人が死亡している。また、死体収容などにあたった市職員の証言では「240人死者があった」との記録も残っている。

 

 一方で、この空襲では滑走路だけは一部に流れ弾が当たり穴が開いただけで、他はまったくの無傷だったといわれている。そして終戦後、基地はそのまま連合軍基地となり、その後、在日米軍基地となった。米軍は戦後の進駐を見越して周到に攻撃をおこなっていたことがわかる。

 

 そして、すでに日本の無条件降伏が決定していた8月14日、米軍は岩国駅周辺一帯に対して無差別絨毯爆撃をおこなった。空爆は昼前から約30分間にわたっておこなわれ、その密度は他に例を見ないものであった。当時の岩国駅は、ちょうど上下列車、岩徳線列車がほぼ同時刻に駅に入り、乗降客、送迎車で人があふれかえっていた。米軍はこのタイミングを見計らって狭い範囲に集中的に爆撃をおこない、駅関係者をはじめ多数の市民が無慈悲に焼かれた。空襲後の岩国駅周辺一帯は、直径5~30㍍、深さ5~10㍍のクレーターが無数に残って地形を変え、まさに蜂の巣のような状態となった。

 

 「岩国市史」によると、この空襲で死者517人とされている。だが、遺体処理にあたった当時の岩国市の厚生課長は、死者は1000人をくだらなかったと証言している。

 

中心市街地の36%焼失 下関空襲

 

焼け野原となった唐戸町、南部町。ポイントになったのが秋田商会と南部町郵便局。写真左上にあるのが下関測候所(『写真家上垣内茂夫18枚の記録と記憶』より)

 下関市は北九州の工業地帯に隣接していたため沿岸には多数の工場があり、また本州と九州を結ぶ動脈である関門トンネルがあったため、これがB29の主標的にされた。終戦の年の3月末以降、毎夜のように来襲していたB29は関門海峡に機雷投下をくり返していた。関門海峡を封鎖するための機雷作戦は、1945年3月27日から8月15日まで、35回にわたって661機が出撃し、5078個の機雷が敷設された。5月以降はほとんど1日おきに来襲していたともいわれており、海上物流の要衝はほとんど閉鎖状態となっていた。

 

 下関空襲は、6月29日と7月2日の2日間に分けておこなわれ、市街地には焼夷弾、海峡には機雷が投下された。この空襲で、壇ノ浦から豊前田に至る市の中心部が焼き払われ、市街地の36%が焼けた。官庁の公式資料では、2度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負い、焼け出された市民は4万6000人をこえたと記録されているが、被災者市民の多くが「その程度のものではなかった」とも指摘している。「戦災直前の人口21万2000人は、その直後15万5000人に激減してしまった」(野村忠司編『カンナ炎える夏』)ともいわれている。

 

 また、『下関市70年の歩み』によると、両日の空襲で「死者1383人、罹災者4万6408人、建物被害1万168戸。中国地方では広島に次ぐ被害を出した」とも記されているように、被害の全貌はいまだ明らかになっていない。

 

 下関空襲では、この2回の空襲による被害が大きく、被害を物語る写真や体験者の証言によって記録が残されてきた。だが市内では他にも小規模な爆撃や機銃掃射などがおこなわれており、犠牲者が出ている。

 

 米軍による最初の日本本土への空襲である八幡空襲翌日の1944年6月16日午前1時頃、B29(1機)が下関市豊北町角島に爆弾8発を投下している。このことはあまり知られていないが、当時の山口県下各警察署からの報告をまとめた空襲記録「警備隊引継書」の「敵機襲来状況」で最初の1件目として記されており、被害については「畑山林ニシテ被害ナシ」との記録がある。この空襲は、八幡で空襲をおこなった米軍機が残った爆弾を投棄した「投げ荷」だった可能性もある。

 

 また、7月28日に豊浦郡(豊東村)で機銃掃射及び小型爆弾によって1人死亡。7月30日には、豊北町角島で飛行艇11機による爆弾投下・機銃掃射によって5人が行方不明。8月9日には角島沖合で機銃掃射と小型爆弾によって船舶1隻が沈没し、3人死亡、45人が行方不明となっている。8月10日には、豊浦郡神玉村で機銃掃射と小型爆弾によって2人が死亡している。

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