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女子教育の先駆け担った歴史  継承すべき梅光100年の伝統

創立者の服部章蔵

 下関の梅光学院で起こっている騒動の真相解明と、正常化を望む声が高まっている。そうしたなかで、文科省の天下りなど外部の者によって、同学院の先人たちが歴史的に積み重ねてきた伝統が踏みにじられようとしていることが、教職員や同窓生はもとより、広範な市民の間で問題になっている。梅光学院は下関開学から100年、その前身の梅香崎女学校(長崎)の創立から145年の歳月を刻んできた。それは同時に、下関の社会的風土とひとつながりのものとしてあった。教育現場の正常化を願う側から、今一度学院の歴史をふり返ってみた。

 

 


 
 封建的土壌打ち破った先進性 交通・文化要衝の地に咲く

 梅光学院の沿革を遡れば、1872(明治5)年、アメリカの宣教師ヘンリー・スタウト夫妻が長崎に開設した英語塾にたどり着く。それが梅香崎女学校になった。もう一つの流れは、1879(明治12)年に服部章蔵が下関に創立した赤間関光塩英学校である。これはその後、山口における光城女学院につながっていった。1914(大正3)年4月、この梅香崎女学校と光城女学院が下関で合同して、下関梅光女学院が開校した。

 

 明治の初期、「文明開化」が叫ばれるなか、廃藩置県とともに欧米の近代的な法制度、教育制度が導入された。キリシタン禁令が解かれたことから、明治10年ごろまでに、おもにプロテスタントによるミッションスクールが全国に設立されていった。それらは新島襄の同志社など日本人によるものもあるが、立教や青山学院、関西学院など多くがアメリカの宣教師によるものであった。

 

 また、そのほとんどが英語塾から出発したが、「女に学問はいらぬ」といった封建的な因習をうち破り、向学心に熱い女子を集めた教育に力を注いだことで、日本における近代的な女子高等教育の先駆けとなった。日本で、女子教育を目的とした公立の女学校が制度化されるのは、1899(明治32)年まで待たなければならなかった。

 

 1899年(明治32)年、梅香崎女学校の国語教師・三宅古城がつくった校歌の第一連には〈くすしきものは あまたあれども/よにうめばかり くすしきはなし/ゆきふりしきる ふゆとはいはず/はるをしらせてまずはなさきぬ〉とうたわれていた。いまだ女子教育への社会的理解が進まなかった時期に、それを担う誇りをにじませた一節である。三宅古城は「長崎おくんち」で有名な諏訪神社の宮司、国学の大家でもあったことは、こうした進取の気風が、宗教の違いを越えて多くの人人の心をとらえていたといえる。

 

 当時のミッションスクールの多くは、横浜などの開港地と東京などの大都市にあった。服部章蔵が下関で英学校を始めたのは、下関が当時の交通の要衝の地であったことに加えて、明治維新の発祥地であったことが大きい。そのことは、学校設立にあたって、維新革命で高杉晋作と奇兵隊を支えた商人・入江和作の大きな支援があったことにも見ることができる。

 

 服部章蔵は周防国吉敷郡吉敷村(現・山口市吉敷町)出身で、若くして明治維新の戦役に積極的に参加した。1864(元治元)年7月、16歳のとき京都禁門の変に参戦、その年12月、高杉晋作が奇兵隊を率いて下関で挙兵すると聞いた服部は、それに呼応し同志八人とともに正義派として激戦に身を投じた。さらに幕府の第2次征長軍に対しても藩兵の小隊長として活躍したあと、戊辰戦争で京都の戦役に出陣した経歴を持っていた。

 

 章蔵は蘭学を学んできたが、明治維新後、西洋諸国の事情を知るために英学の必要を痛感して上京した。そこで、開成校(東大の前身)や福澤諭吉の塾などで学んだ。その後、海軍兵学校教官を務めたときにキリスト教徒となった。下関に赤間関光塩英学校を開設したのは1881(明治14)年のことでその10年後に山口の英和女学校(光城女学院の前身)の校長となった。


 梅光設立時の下関 近代的文芸の交流拠点


 梅香崎の校長・広津藤吉を初代学院長として下関梅光女学院が設立された大正初期は、NHKの朝ドラ『あさが来た』のモデルとなった広岡浅子が日本女子大の設立に力を尽くし、明治初め7歳でアメリカに留学した津田梅子が東京で津田英学塾を開くなど、女子高等教育への流れが加速したころであった。

 

 そのころ、長崎と山口にあった女学校をそっくり、地方都市の下関に移す決断がなされたことは、当時の下関が全国的にどのような位置を占めていたかをよく示している。学院史によれば全国多多ある都市のなかで下関が選ばれた要因に、日本における交通網、文化網から見て、長崎が関門の地に及ばないことがあった。

 

 当時は山陽鉄道が下関までつながった時期で、関釜連絡船の就航によって大陸と向きあう玄関口として海陸交通の要衝をきわめていた。関釜航路の乗船者数は年間50万人を数えるまでになっていた。下関駅は東京、名古屋、京都、大阪と並ぶ鉄道省の指定する特別一等駅であった。日本銀行が大阪に次いで2番目の西部支店を下関に置いたこと、大阪の堂島に並ぶ米穀取引所があったことなども、そうした事情と重なっている。

 

 下関はかつて北前航路の中継地として「西の浪華」と呼ばれる賑わいを見せ、各地の志士が交流し、維新革命の拠点となった。文化の方面を見ればこうした風土のなかで、多くの新聞社が拠点を置き、近代的な文芸、映画、音楽、舞踊などの活発な交流地点となっていた。

 

 梅光女学院が開学して10年ほどたった昭和の初め、吉田常夏が主宰した『燭台』に代表されるように、下関を拠点に「関門ルネッサンス」と呼ばれる文芸の隆盛を極めた時期があった。『燭台』には、金子みすゞ、高島青史、山下寛治、玉井雅夫(後の火野葦平)、田上耕作、阿南哲朗など下関、北九州の文芸愛好家が書いていたが、たんに地方の文芸誌というものではなかった。

 

 東京の文壇からも泉鏡花、生田春月、徳田秋声、小山内薫、尾上柴舟、萩原朔太郎、与謝野晶子、野口雨情、久米正雄、西條八十、北原白秋、佐藤春夫、里見弴、島崎藤村、佐佐木信綱、岸田國士、三木露風らが寄稿しており、最高時には6000から7000部も発行されるほどであった。そして、ここから多くの若い作家、詩人が巣立っていった。

 

 吉田常夏夫人は、長女・玉の緒が梅光女学院への転入学に踏み切ったのは、当時『燭台』を支援していた河村幸次郎(伊勢安呉服店)の力があったと語っていた。河村幸次郎については彼の多くのコレクションが現在の下関市立美術館の所蔵品としておさめられ、発足に貢献したことで知られる。

 

 河村はみずから海峡オーケストラを運営し、築地小劇場や舞踏家の石井漠、崔承喜、下関出身のテナー・藤原義江など全国的に著名な芸術家を下関に招いたり、福田正義らが発行した『展望』や映画上映会など青年の文化運動に惜しみない援助をしていた。彼は服部章蔵が設立した下関教会に通うクリスチャンでもあり、梅光の広津学院長と深い親交があった。

 

 広津藤吉は教育者として、吉田松陰に深く共鳴していた。また植物分類学者・牧野富太郎らとともに高山植物を採集し、押し花にして数百種類の標本を作製したこと、下関に来て2年後の植物採集の途上、椋野で火山弾と火口跡を発見し地質学界に貢献したことで知られる。
 広津は鉱物や昆虫類でも標本採集とともに、歴史・美術・民俗にいたる多方面にわたる資料を収集していた。それらのコレクションは、単に個人的な関心からではなく、広津自身が書き残しているように、女子教育に従事する教育者として学生の理解を促すうえでの実物教育の必要性と結びついていた。

 梅光の女子教育 中傷や妨害にも負けず


 梅光の女子教育をめぐっては、とくに第1次世界大戦直後の1919(大正8)年の卒業生の学芸会での演説と、広津学院長の式辞がマスコミの標的にされたことがあげられる。

 

 生徒の演説は、「日本女性が男子の従属的地位から解放されて婦人自らの意志で国家、社会に尽くすようになることを望む」と訴えるものであった。当時の生徒の思想は、「婦人は解放されなければならないが、男性的に解放されなくてもよい。女性とし解放されれば十分だ」「良妻賢母というのは、婦人の全人格の一部分で、全部ではない。妻であり母であると同時に、社会および国家のことにも尽くさなければならない」というものであった。

 

 また、広津学院長は式辞のなかで、「日本婦人が人間として男子と対等に認められず、終始男子の従属として存在せる従来の因習を打破せられんことを望み、婦人自らの意志により家庭社会および国家につくす世界を樹立せよ、そのためには婦人もまた高等教育を受け、知識と技能を充実すると同時に修養を積み努めてその人格の向上に努力せねばならぬ」とのべていた。

 

 ところが翌日の新聞は、このように純粋な気持ちで婦人が男性と平等に、社会的に貢献できる力を身につけ発揮できるようになりたいと願う女生徒と、それを励ます学院長の熱い交流に対して、「婦人参政権を叫ぶ梅光女学院生」「自由の鐘をつく広津院長」の見出しで中傷する記事を掲載し、これが全国に波紋を広げた。

 

 それに呼応する形で、翌4月に入って、日東太郎を筆頭とする右翼団体が演説会を開いて「梅光撲滅運動」を開始した。日東太郎は梅光学院長室に押しかけ迫ったが、広津学院長が「よかろう、やってみたまえ、しかし、撲滅されるのは君の方だろう」と一喝、その気迫におされて退散せざるをえなかった。これは、梅光における女子教育の真髄を誇るできごととして語り継がれてきた。

 

 ちなみに当時、教員の藤山一雄が生徒を連れて下関市議会を見学し、生徒に感想文を書かせたが、その作文のなかで、「議員が寝ていた」と書かれたものがあったことが問題になった。このときも、藤山は動じることなく突っぱねている。

 

 梅光の英語教育の水準の高さについては、市内はもとより教育界で一目置かれてきた。卒業生の多くが、社会に出てから、梅光の授業で身につけた英語力の高さを知って驚いたことを語っている。それは、学院の出発点が英語学校であったことにもよるが、とくに、梅香崎から下関の梅光に学び、卒業後1918年に母校の英語教師となった上野シゲの功績が大きいといわれる。
 上野は梅光の英語の授業に、これまで主体であった「外国人教師による耳と口からだけの英語教授」ではなく、日本人が英語を勉強するための文法を基本にした教授法を導入した。「その授業はたいへんわかりやすかった」と感動的に語られてきた。

 慕われる教育者の姿 戦災孤児と寝食を共に


 第2次世界大戦では、梅光女学院においても男子教員の召集と生徒の勤労動員があった。さらに学院の裏山に軍の日和山部隊が大きなトンネルを掘り、新館と図書館が軍に接収された。そして、1945(昭和20)年の6月と7月にかけて、二度にわたる米軍の空襲で校舎とすべての教具、図書、教材が焼かれるなど多大な損失を被った。

 

 とくに、7月2日の下関空襲で広津学院長が収集した教材用の資料の大半が焼失したことは、生徒たちの展覧・学習を目的にした博物室の開設を控えていたこともあって、学院にとって痛恨の痛手となった。

 

 戦後の梅光は焼け跡の復興事業から始まった。当初の授業は、焼け残った教室と近くの教会、バラックの旧兵舎を利用し、窓ガラスがなく寒風がすさぶなかで卒業式がおこなわれた。

 

 1951(昭和26)年に学校法人・梅光女学院となった後、幼稚園の開園(1953年)、1960年代に入って、短期大学と4年制大学(その後大学院も)が設立された。

 

 大学は文学部として出発し、日本文学科と英文学科を基本にしてきた。それは梅光学院の歴史がそのときどきの時流に流されず、人間的普遍性を探究し、生涯学びつづける姿勢を持つ女性を育てるという女子教育の精神を貫いてきたことによる。そうして、西日本における日本文学研究、文芸創作の拠点として、全国からも注目されてきた。また、日本文学科に書道課程が置かれ、全国的にも知られる道岡香雲と田中江舟という郷土の書家を教授に招き成果をあげてきた。このことも、通常大学の書道課程は教育学部や東洋文化の専門学部に置かれることと対比して、期待を集めてきた。

 

 同大学の教授で夏目漱石の研究者として知られた故・佐藤泰正元大学学長の業績は、そのような精神と重ねて同窓生はもとより市民の間でも共感を広げてきたといえる。とくに、佐藤夫妻が戦争直後、戦災孤児の施設「天の家」で、子どもたちと寝食をともにし、生活指導とともに国語や数学、演劇や美術などを教えて、社会に送り出していったことへの尊敬の念がある。

 

 とくにこの時期に、非行や盗癖のある子どもに詩を書かせて導くなどの教育的な視点は、佐藤が漱石の「文明社会の底にひそむ権威主義や様々な矛盾に対する批判の眼」とともに、「時代の矛盾と危機」を、その時代の人間の内面の葛藤を通して描くことを文学に求めてきたことと無関係とはいえない、と語りあわれている。

 

 近年、男女共学となったのを機に梅光学院と改称されたが、学院は梅香崎、光城、梅光女学院、中高、短大、大学院あわせて4万人もの卒業生を送り出してきた。このような校風で巣立った同窓生はもとより、多くの市民の間で、今のような乱れた風潮のもとでこそ、学院の伝統を発揮すべきだとの思いは強まっている。「改革」の名のもとで変貌した現在の姿が、こうした伝統と誇りの系譜から見てどうなのか問われている。

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