いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『あざみの花』を読んで  岩国市 白木博

 今や戦後72年となり、戦争を知らない世代が圧倒的多数を占める時代となった。かく言う私も多数派だが、近年残念なことに8月6日(昭和20年広島に原爆が投下された日)が何の日か知らない若い人が増えてきていると聞く。日本人なら全ての人が原爆の日を承知しているものと思い込んでいただけに少なからぬ衝撃を覚えた。『あざみの花』は、そんな人たちに是非とも読んでもらいたい一冊である。

 

◇・・・・・◇

 

「原爆さえなければ」
 これは全ての被爆者の、そしてその家族の共通した思いであろう。『あざみの花』を読んで、何ともたとえようのない感情に襲われた。いや、読んでいる途中から、感動の連続のうちから言い知れぬ怒りのまじったものがこみ上げてきていた。なぜ、この人たちがこんな目に遭わなければならないのか。戦争加害国の国民だから、それが戦争だから、ということが理由なら、それはあまりにも理不尽である。何の罪も科もない庶民が、武器も力も持たない非戦闘員が、このような悲惨な目に遭わなければならない理由にはならない。

 

 著者の古川豊子さんは、私の家の近所の方で、私の両親ともお付き合いのあった方である。特に、長年反戦非核を訴え地道に活動を続けていた私の父にはよく訪ねて来られて、いろいろなお話をさせて頂いたようである。私も古川さんとは面識があり、明るく快活な方という印象が残っている。8年前に父が亡くなってからはお会いすることもなくなっていたが、テレビで岩国市出身の女流作家・宇野千代の生家が紹介されるたびに古川さんが案内役として出演されるお姿を拝見するにつけ、そのご健在ぶりとご活躍を母と共に慶んでいたものである。(古川さんは「宇野千代生家を守る会」のお世話もされている。)その古川さんが、このように辛く哀しい体験をされていたとは、ついぞ知らなかった。

 

 古川さんのお母さんとお姉さんは、原爆投下時の直接的な被爆者ではなく、原爆投下後の残留放射能を浴びたことによる、いわゆる原爆の二次被曝の被害者である。当時、古川さんの一家は山県郡北広島町に住んでおり、広島市内に住んでいた伯父夫婦を救助するため入市し被曝したのである。(このような事例であっても、紛れもない“被爆者”である。)このような二次被爆者の実態はあまり知られていないように思う。その意味においても、『あざみの花』は二次被爆者に関する貴重な証言記録ともいえよう。

 

 この放射能被曝が核兵器の恐ろしさであり、残酷さである。癌や白血病がじわじわと時間をかけて身体を蝕んでゆく。古川さんのお母さんも、迫り寄る死の恐怖に怯えていた。

 

 最も象徴的な場面がある。ある日、お母さんが黄楊の櫛を取り出し鏡台の前で髪を梳こうとした。ところが、櫛を入れる度に髪がぱらぱらと抜け落ちる。原爆症の特徴的な症状の一つである。髪は女の命とも言われていた時代だけに、相当なショックであったろう。恐ろしい呻き声を上げ、鋏を鏡台に投げつけ鏡を叩き割ってしまった。異常な事態に気付いたお父さんが飛んできて、狂ったように哭き喚くお母さんを抱きしめた。
「お父さん殺して、殺してよお!!」
「ああ殺してやるよ、今楽にしてやるからのお!!」
何とも壮絶な場面である。まだ十代の多感な少女だった古川さんはその現場に立ち会っているのである。これは小説やドラマなどではなく、現実にあったことなのである。

 

 原爆は被爆者本人だけでなく、その家族をも身体的、精神的、そして経済的に苦しめてゆく。古川さんの家も、お母さんの莫大な治療費のために、先祖伝来であったと思われる田畑をやむなく手放したという。さらに残念なことに、被爆者に対する、周囲からのいわれなき差別や偏見もあった。お母さんの死後、被爆者の認定をお父さんががんとして受け入れなかったのも、残された古川さんら娘たちが将来にわたって差別をうけないように考慮してのことであったという。

 

 『あざみ』はキク科の多年草。日本中どこの野でも見ることができる。あざみの花は決して目立ちはしないが、どこか凜としたたたずまいが感じられるように思う。古川さんは、お母さんをその花にたとえた。実際、そのような女性であったのだろう。全文を通して古川さんの過剰ではない、抑えた表現が迫真性を増し、我々の胸を打つ。

 

 古川さんのお母さんは自宅で最期を迎えたが、古川さんはお父さんや二人の妹とともにその場に立ち会っている。
 「生きたい!!」「死にたい!!」
と繰り返す生と死の葛藤の中で、お母さんの長い苦悶は終わった、と古川さんは記している。癌という病の余りの苦痛から逃避するために「死にたい」と思い、人間本来の生存願望からまだ「生きたい」と思う。まだ40代だったというお母さんは、嫁入り前の娘たちを残して逝く無念もあったと思う。あまりにも悲しく惨酷な最期である。
 『あざみの花』を繰り返し読みながら、私はその度に込み上がってくる、何か言い知れぬ感情を抑えることができなかった。

 

◇・・・・・◇

 

 私事になるが、ここ数年、母の介護をしながら、母の昔話を聞く機会が多くなった。私の母は今年91歳で、戦前戦中(昭和の戦争の時代)を経験した人である。最近の記憶はおぼつかないが、昔の記憶は、多少薄れ一部混乱してはいるものの、まだまだしっかりしている。それまで知らなかった戦争の悲劇を、母の家族・親戚・周囲に限られた極めて狭い範囲内ではあるが、多く知ることができた。

 

 母の従兄弟の1人は陸軍少尉であったが終戦半月前に戦死し、その弟は終戦時には日本統治下にあった朝鮮平壌(現在の北朝鮮ピョンヤン市)の陸軍部隊にいたところソ連軍によってシベリアに抑留された。(しかし、その後、無事帰国することができたという。)夫が陸軍軍医だったという親戚の女性は満州から引揚げの途中に幼子を亡くし、当時の朝鮮仁川沖の離島の国民学校(昭和16年国民学校令により小学校を改めて成立した初等教育機関)校長であった親戚の男性は終戦から3日目に妻と共に手榴弾自決している。母は三歳の時にその父(私の祖父)を亡くしているが、父親代わりとなって家族を支えてくれた14歳年長の長兄(私の伯父)は終戦の年の正月に陸軍将校として召集され、終戦から20日後に隊長として責任を取って拳銃自決したという。

 

 これら母の関係者は戦争の被害者と言えようが、それまで伯父が終戦後に自決したという話は聞いていたものの詳細は知らず、伯父以外の人については全く私の知らないことであった。母に縁のある人だけでもこれだけの悲劇があったのである。それも母が健在だから(少なくとも意識がしっかりしているから)こそ、知ることができたのである。母自身も戦前、朝鮮総督府に勤めていた兄を頼って出身地の富山から朝鮮京城(現在の韓国ソウル市)へ移住し、彼地で小学校・女学校を卒業して就職もしたが、終戦後、大黒柱であった兄を失って女性だけの家族5人で大変な思いをして内地へ引揚げてきた。そのほかにも、中国青島から、あるいは台湾から苦労して引揚げてきた親戚の家族もあったと聞いている。

 

 これらの話は母の家だけが特別なのではなく、当時の人の多くが、家族・親戚の誰かを戦争によって亡くしたり、非常の体験をしているはずである。実際に体験した者の言葉は、その重み、深みが、そうではない者のものとはまるで違う。『あざみの花』もそうである。古川さんの語る、ひと言ひと言が我々の心に深く鋭く突き刺さってくる。

 

 古川さんの文章もさることながら、西沢昌子さんの鉛筆画も見事である。文章だけではイメージしづらい当時の情景を補うばかりか、鮮明に甦らせてくれている。絵本のようなやさしいタッチが、また却って効果的である。そう、『あざみの花』の根底には「やさしさ」が流れている。古川さんのお母さんの壮絶な闘病生活の中で、家族が互いを思う「やさしさ」が貫かれているように思う。ことに、急に刺身が食べたいと言い出したお母さんのために、お父さんが自転車を飛ばして村に一軒しかない魚屋へ刺身を買いにゆき、久しぶりに一家団欒の食卓を囲んだ場面は、微笑ましくも涙を誘う。結局お母さんは半切れしか食べなかったが、お母さんの長く苦しい生活の中で(家族にとっても)、ほんの一瞬の幸福な時間だったかもしれない。

 

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 再び私事になるが、私の父方の従兄の一人は、旧制中学2年生、14歳の時に勤労動員で広島に出て被爆し亡くなっている。(本人が亡くなっているので、これ以上の詳細は分からない。)別の18歳だった従兄は爆心地からやや離れた場所で被爆し、連絡が途絶えて絶望視されていたが数日後に徒歩で岩国の家族の元へ帰り、皆を驚かせたという。私の叔父(父の弟)も原爆投下後、内地の陸軍部隊にいた時に動員され、被害者の救助と破壊された市街の後片付けのために広島へ入ったが、幸い二次被曝の影響はなかったという。いつかその話を詳しく聞こうと思っていたが、その前に2人とも他界してしまった。父の時もそうであったが、日頃元気そうな姿を見ていたので、いつでも聞ける、と安直に考えていたことを後悔している。(海軍大尉であった父からも当時の話を詳しく聞くことは遂になかった。)死んでしまった者からは、過去にあったことを聞くことはできない。当然、それを後世に語り伝えることもできない。

 

 古川さんも悲惨な過去に苦しみ、それを改めて文字として残すことに大きな葛藤もあったと思う。だが、勇気をもってそれをしてくれた。古川さんの語る話は、何万何十万とある同じような物語の一つかもしれない。

 

 軽々しい言い方になってしまうが、戦争当時の人は、誰もが今の我々からは想像もつかない体験をし、ある意味で劇的な人生を送っている。それを次の世代へ伝え、未来に残すことは、必ず意味のあることである。今や戦争を体験した人は少なくなってきている。遠からず絶えてしまうことは必然である。そうなる前に、戦争体験者の方は子や孫に自らの体験を是非伝えてほしい。戦争を知らない方は父母や祖父母など体験者から生の声を、とにかく聞けるうちに是非聞いてほしい。それはどんなに些細なことでもいい。その時を生き、その場にいた者しか知り得ない貴重な証言が、その中にはあるはずである。

 

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 3度私事になるが、私の母方の親戚に、渡辺順三という歌人がいる。戦前はプロレタリア短歌運動の中心的指導的立場にあり、戦後は民主主義短歌運動を領導し新日本歌人協会の設立に参画した人物として知られている。戦前戦中に治安維持法違反等の容疑により4度投獄されながらも節を曲げなかったことで「抵抗の歌人」、「不屈の歌人」とも呼ばれた闘士である。中でも昭和16年12月9日(太平洋戦争開戦の翌日)の夜明け前には、自宅へ特高警察に踏み込まれて1年3カ月間拘留された。順三の自叙伝によると、あらかじめ戦争遂行に障害となりそうな人物をまとめて投獄してしまえ、という当局の方針(いわゆる予防拘禁)により、左翼系の活動家・思想家を中心に、この時二百人以上が一斉に検挙されたという。

 

 ここ数年、右傾化を強める自民党・安倍政権はPKO法案、安保関連法案、テロ等準備罪(いわゆる共謀罪)関連法案を相次いで成立させ、憲法九条改正(私は“改正”だとは思わない)へと動き出そうとしている。戦争前夜のあの時代へ回帰しているのではないか、と危惧しているのは私だけではないだろう。どのような法であっても、それを運用する者が拡大解釈して恣意的に適用してしまえば、法の精神を歪め立法時の目的とは全く異なる方向へ突き進んでしまうことにもなりかねない。我々は先の戦争でそれを学んだはずである。

 

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 先人の言葉を聞き、過去に学ぶことは、人の知恵であり、現在生きている我々の責務である。もちろん、それは過去のあやまちを繰り返さないように、その教訓を現在、そして未来に活かすためである。『あざみの花』を読んで、改めてその思いを強くしているところである。

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