(2025年11月17日付掲載)

イスラエルがつくった壁で封鎖されているパレスチナ・ガザ地区では、2023年10月7日以降、ガザを統治するイスラム組織ハマスによる奇襲攻撃への「報復」としてイスラエルが全域に総攻撃を仕掛け、2年経った現在、すでに死者は約6万9000人(ガザ保健省)にのぼっている。うち2万人以上が子ども、1万人以上が女性だ。だが、これほどの大惨事も「殺戮と破壊」「暴力の連鎖」と形容されるパレスチナ問題の一般的解釈のもとで扱われるうち、次第に理解不能な「よそごと」として意識の外に置かれるようになる。新聞記者として20年にわたり中東取材を続けてきたジャーナリストの川上泰徳氏(69)は、その現状に危機感を抱き、昨年パレスチナ現地に赴いて1カ月間取材した内容をもとに映画『壁の外側と内側:パレスチナ・イスラエル取材記』を制作した。8月末から全国で順次公開され、反響を集めている。(掲載する現地写真はすべて映画『壁の外側と内側パレスチナ・イスラエル取材記』より。川上泰徳氏撮影)
ガザ攻撃がなぜ起き、なぜ止まないのか
イスラエルが18年にわたり封鎖し、この2年間の爆撃で破壊し尽くしたガザ地区は、現在もイスラエルが認めたメディア(取材にはイスラエル兵が同行し、写真や記事を検閲する条件つき)を除き、外国人ジャーナリストが立ち入ることはできない。イスラエルは「壁」の向こう側の真実が世界に伝わることを嫌がり、ガザ地区内で取材するジャーナリストを狙い撃ちし、すでに250人の記者やジャーナリストが殺害されている。
中東ジャーナリストの川上泰徳氏が制作した映画『壁の外側と内側』(104分)は、ガザ地区と同じく700㌔におよぶ分離壁で封鎖されているヨルダン川西岸地区(イスラエル占領地)を川上氏自身が歩きながら取材し、出会ったパレスチナの人々の「占領下の日常」を記録したドキュメンタリーだ。川上氏は同時にイスラエル側にも入り、イスラエル人がガザの惨状をどう見ているのかを取材し、壁で隔てられた両社会の有様から、ガザの惨劇がなぜ起き、現在も止むことなく続いているのか――その根源を探っている。
映画は、分離壁で囲まれたパレスチナ側を「壁の外側」とし、イスラエル側を「壁の内側」と設定する。壁はイスラエルが「外敵」であるパレスチナ人(アラブ人)を排除するためにつくったものだからだ。この「外」と「内」との関係性が、パレスチナ・イスラエル問題を紐解く映画の主題となっている。
また、副題に「取材記」とあるように、映画全編が川上氏がメモ帳代わりに持参したスマホカメラで撮った映像記録で構成されているため、川上氏が現場で遭遇し、見聞きしたことすべてを同じ目線で追体験するような臨場感で見る者に迫ってくる。過度な演出も加工もなく、リアリズムに徹する誠実さに貫かれた映像による現地報告だ。
「壁の外側」の日常 ヨルダン川西岸地区

イスラエル軍に学校を破壊された地区の地区長(川上泰徳氏撮影)
エルサレムの南にあるベツレヘムから西岸地区に入ると、出迎えるのは見上げるほどに視界を覆う分離壁。壁面にはイスラエルによる占領の不当さを訴えるメッセージやアートが所狭しと描かれ、住民からは壁に分断された暮らしの不便さが語られる。そしてカメラは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の聖地ヘブロン、ベルリン国際映画祭で2冠を獲得した映画『ノーアザーランド:故郷は他にない』の舞台でもあるマサーフェル・ヤッタにも向かう【地図参照】。

パレスチナは1993年のオスロ合意に基づいて「自治区」とされているが、それを認めないイスラエルは分離壁を築きながら占領地を西岸地区内に拡大し、パレスチナ人居住区を切り刻みながら圧迫し続けている。「(2023年)10月7日以降はすべてがイスラエルの支配地だ」と嘆く住民たち。街の辻々には、防弾チョッキを着て自動小銃を抱えた完全武装のイスラエル兵らが集団で巡回し、パレスチナ人たちは何をされても守ってくれるものはない。
そのためか、アラビア語が堪能な川上氏が「日本人のジャーナリスト」であることを名乗ると、パレスチナ人たちは家に招き入れ、占領者イスラエルから受けた暴力や略奪の非道を口々に訴える。世界に伝えてほしい――それだけが活路であるかのように切実だ。
対照的にユダヤ教の礼拝所にはいくつもの検問が設置され、銃を持ったイスラエル兵から「どこから来た?」「パスポートを出せ」「何を持っている」と刺さるような鋭い視線。レンズ越しにもその緊張感が伝わる。
マサーフェル・ヤッタは、荒涼とした大地に点在する村々に約1000人が暮らし、羊の放牧で生計を立てているのどかな地域だ。だが、ここにも入植地を拡大し始めたイスラエルは、一帯を軍事地域(軍事演習場)に指定し、そこで暮らす住民たちの家、学校などを当たり前のように重機で破壊していく。まるで決められた公共事業のように粛々と。
住民たちは声を荒げて中止を求めるが、完全武装のイスラエル兵に対してなすすべもない。破壊された建物はガレキとして捨て置かれ、二度と再建できないようコンクリートミキサーや発電機は没収される。人々はそれでもこの地を離れず、先祖たちがつくった洞窟住居で暮らしを続ける。
イスラエルの入植のやり方は、まず軍が「前哨」(監視塔)を作り、それに守られるようにして周辺に入植者の住宅が建設され、それが一定の規模になると、さらに外側にまた新たな「前哨」を作る。入植者は民間人であるにもかかわらず自動小銃を携行し、そこで先祖代々暮らしを営んできたパレスチナ住民を威嚇したり、家に火を放ったり、暴力を加える。警察はそれを黙認し、住民が少しでも抵抗すれば力で拘束する。「暴力の連鎖」などではない。イスラエルの一方的な暴力とパレスチナの一方的な忍従――これが「壁の外側」の日常だ。
加害を見ぬ「壁」の内側 イスラエル

イスラエルで兵役拒否を宣言した若者たちの抗議集会=2024年8月、テルアビブ郊外で(川上泰徳氏撮影)
「壁の内側」のイスラエルにも赴いた川上氏は、そこで停戦合意を求める万単位の人々のデモに同行し、ある違和感を覚える。人々はハマスに捕らえられた人質の解放に熱心でないネタニヤフ政権を「人命軽視」と声高に非難するが、戦争そのものに反対しているわけではなかった。ガザではすでに1万6000人の子どもたちが自国軍の攻撃によって殺されているにもかかわらずだ。「イスラエルの議論の中にパレスチナはない」――その言葉が耳に重く残る。
イスラエル人はガザの惨劇や占領地の実態を知らないのか? 川上氏は、イスラエルの独立系メディアで活動する旧知のジャーナリストへのインタビューでその疑問を解き明かしながら、イスラエルの中でも「壁の外側」で自国がおこなっている加害に目を向け、それに異議を唱えて兵役を拒否する若者たちの声を丹念に拾っていく。ホロコーストの悲劇を建国の根拠とする国が、なぜ残忍な殺戮を遂行するのか。映画で明かされる「壁の内側」の状況は、にわかには信じがたいものだが、日本の現状に置き換えて考えたとき、決して他人事とは思えないものがあった。
戦争が終わらない理由は、戦争が始まった理由でもある。その大義のための犠牲が出れば、その理由は補強されさらに増幅していく。いくらネットやSNSが普及して情報ツールが多様化しても、この認識空間が変わらない限り、真実は歪められ、見たくない現実から目を背け、心地よい言葉、都合のよい情報に躍らされながら、より悲劇的結末へと突き進んでいくほかない。それはかつての日本の姿であるだけでなく、これから先、否、現在すでに起きていることでもあるのかもしれないと身につまされる。
この壁は越えられないのか――。映画は、この構造的な暴力が支配するなかでも、イスラエルとパレスチナの人々のなかに生まれている人間的なつながりに光を当て、困難ななかでも心豊かに生きるパレスチナの人々の強さ、支援活動のなかで人間らしさを回復するイスラエル人ボランティアグループの交流のなかに一つの答えを見出している。それは一縷の望みかもしれないが、今確かに現地に存在する「希望」なのだ。
この作品は8月、東京を皮切りに全国で順次公開され、各地で反響を呼んでいる。来年1月からは自主上映(12月から受付開始)も可能になるという。多くの劇場で監督自身が舞台挨拶に出向き、観客と意見を交流している。「現場で遭遇したことを体験していただき、ともに考える」(川上氏)ことが映画を作った目的だからだ。
以下、福岡市のKBCシネマで9日におこなわれた上映後トークイベントで語られた内容を抜粋して紹介する。聞き手は、田村元彦氏(西南学院大学法学部准教授)と内藤梨花氏(西日本新聞社記者)。
●●トーク・イベントより●●
質問 パレスチナやガザについては死者数や被害規模はニュースで報じられても、この映画のように人々の日常について伝えられることは少ない。それはなぜか?

川上泰徳監督
川上 私は新聞記者人生35年のうち20年間は中東問題をやっていた。1994~2014年の半分以上はカイロ、エルサレム、バグダッドなどの現地にいた。中東はイラク戦争、「アラブの春」など10年ごとに大きな戦争や騒乱が起きる地域だが、私はそれを記者として現地で見てきた。だが、2023年にガザでの戦争(攻撃)が始まってからは日本にいて、日本の人たちがどのようにこの惨事を見るのかを観察した。
人が死んだり、街が破壊される衝撃的な「非日常」がいきなり始まる。そのニュースを毎日見ていると、次第に現実感が失われていく。見続けるのも辛くなって麻痺してしまう。メディアも麻痺していく。これはいけないと思った。
パレスチナ問題がいつ報じられるか? それはパレスチナ側からの武装闘争があったときだ。占領の日常はニュースにならない。今回取材したヨルダン川西岸地区では、丸腰のパレスチナの住民に対して、イスラエル兵は完全武装しており、入植者も自動小銃を所持している。だから、ここではパレスチナ人の暴力的抵抗は起きないし、石一つ投げない。その状況のなかでは、イスラエル側の死傷者が出ることはない。だからニュースにならない。
2023年10月7日のハマスによる襲撃のように、パレスチナ側が武装闘争をするとイスラエル側に犠牲者が出る。すると、イスラエル側は何十倍、何百倍返しの報復をし、パレスチナ側ではおびただしい死者が出る。そのときになって「大変なことになった」と国際ニュースになる。
今、停戦合意がなされて、以前に比べると被害規模が小さくなり、だんだんガザのことは報じられなくなり、ニュースから消えていく。だが問題は何も解決しておらず、イスラエルによる占領は続く。この映画にあったマサーフェル・ヤッタの状態に戻るだけだ。
そして、数年経ってパレスチナ側が武装闘争で反撃すると、イスラエルが大規模報復をし、またニュースになる。これが多くの日本人にとってのパレスチナ問題への接し方だ。このようにニュースだけを通じてパレスチナに接しているうち、次第に「イスラエルもひどいが、もともと手を出したのはパレスチナではないか。パレスチナが手を出さなければ、イスラエルがこんなに攻撃することはない」と考えるようになる。家や学校を壊され、道路は封鎖され、入植者が襲撃してくる「占領の日常」がニュースにならないからだ。
だから私は、ガザの状況を理解するためには、新聞記者時代に現地にいて、ニュースにならなかったことを伝えるしかないと思った。映画で見ていただいたパレスチナの日常は、ガザ攻撃という「非日常」の裏にあるものだ。
日本社会にもある「壁」 向こうを知る大切さ
質問 鑑賞前は、壁の内側に閉じ込められているのはガザ地区やヨルダン川西岸地区のパレスチナ人たちで、壁の外側にいるのがイスラエルの人々だと思っていた。映画は逆だった。『壁の外側と内側』というタイトルに込めた思いとは?
川上 多くの人は「パレスチナが壁で囲まれているのではないか」という。だが、その壁は、イスラエルが自分たちを守るためにつくった壁だ。パレスチナ側から「テロリスト」が入ってこないように排除するためだ。その壁の外では自分たちの軍隊が違法に占領し、入植地を増やすという「加害(暴力)の日常」がある。それが壁の中にいるイスラエル人には見えない。見ようとしない。国民の多くが自分たちの占領の暴力的な実態を知らないという状況だ。
確かにガザ地区は壁で囲まれ、海側も封鎖されて外に出られない。だが、これも壁の外だ。ガザは「天井のない監獄」といわれる。監獄とは犯罪者を社会から一時的に排除するために入れる場所だ。だから、ガザは社会の外にあるが出口がない監獄だ。
イスラエルとパレスチナに築かれたのは物理的な壁だが、意識の壁、情報の壁、人種や言語の壁など目に見えない壁もある。みんな「壁の内側」状況を作り、自分に都合の良い情報だけを共有する認識空間が生まれる。これは世界中で起きていることでもある。
まさに今のイスラエルがそれであり、自分たちが壁の外でおこなっている暴力に目を向けない。ネットやSNSで情報は得られるのに見ようとしない。政府も発表せず、新聞もメディアも報じない。「自分たちの軍隊は国民を守るために戦っている」「パレスチナ人はテロリストだ」という情報しか流れないのだ。だから、自分たちは平和に暮らしているだけなのに、パレスチナ人が攻撃してくるのだと考えることが一般化している。
同じことが日本でも起きていないだろうか? かつての日本がそうだったように、壁の外で自分たちが加害者になっていても国民は知らない。それは今でも、これからだって起きうる。だから遠い話ではない。イスラエルで起きていることは、日本の状況と繋がるということが「日常」を見ればわかるはずだ。
誰の視点で戦争見るか メディア報道の問題
質問 ガザでは記者やジャーナリストがイスラエル軍から意識的に狙われている。現地取材で命の危険を感じたことは?
川上 中東取材を20年やってきたので、日本のメディアのなかでは最も戦場にいる機会が多かったかと思う。幸いにしてここにいれるのは単に運が良かっただけだが、それはたいした問題ではない。自分の身を守ることも仕事の一部だ。
現地では、普通に日常生活が営まれている場所から300㍍離れたら戦場という状況はざらにある。イスラエルとパレスチナは至近距離だ。以前、ベツレヘムにイスラエル軍が侵攻してパレスチナ側と銃撃戦になったことがあり、そこに取材に行って記事を書き、車に乗ってエルサレムをこえてイスラエル側に入ると、バス停で乳母車を押した母親が普通にしている。こちらの意識が追いつかない。10分前まで銃撃戦だが、10分動けば平和な世界がある。こういう世界であると理解するしかない。
だが、戦争を見るというのは、必ずしも現場に行くかどうかだけではない。私は新聞社に入社してすぐ地方で家庭面の記者を3年やった。「子どもの本」を担当し、女性や子どもの問題を扱っていた。そのときの経験がその後の土台になった。
中東を取材する記者はだいたい社会部出身で事件を扱ってきた人たちだ。だが、子どもや女性の視点から取材すると同じ戦場もまったく違って見えてくる。だから、重要なことは戦場に行くかどうかではなく、戦場を誰の視点から見るのかだ。私が自分自身の反省も含めて日本のメディアに疑問を持つのは、戦争報道が「戦況報道」になっていることだ。どっちが勝ったか、どっちが負けたか。そうではなく、戦争で犠牲になる市民の立場から報道しなければいけないと思う。
違いでなく共通点探る 分断を乗りこえる

地上の家をイスラエルによって壊され洞窟住居で暮らすパレスチナ人の母親。摘んできた野生のバラを部屋に飾る(川上泰徳氏撮影)
質問 2023年にガザのことが起きて以降、ようやく日本社会もガザやパレスチナの問題について目を向け始めたと感じていたが、一方で外国人排斥やイスラム教徒への差別的な世論も一部で広がっている。日本社会の課題をどう考えるか?
川上 壁とは、イスラエル人にとってのパレスチナ人のように、本来は共存、共生しなければいけないものを壁の外に置き、これは危険だと考えることだ。そして、壁の中で自分たちだけの世界をつくる。日本の外国人労働者問題もまったく同じ問題だ。すでに外国人労働者は日本の産業を支えている。彼らがいなければ農業も介護もできない。そのなかで共存しなければいけないのはわかっているのに「日本が壊れる」「犯罪が増える」といって壁の外に置いて危険だと思っている。問題の解決には向かわない。
確かに外国人との共生は簡単なことではない。まったく文化の違う人たちが来るわけだから。そのときにどうやって共存していくのか。日本が今のままで済むわけではない。介護業界を見ても、来ているのはインドネシア、マレーシア、パキスタンなどイスラム教徒たちだ。であれば、イスラム教の伝統は日本でどのように折り合うのかを考える。仕事中に礼拝をする時間を作ってあげるとか、そういう考えができないのに「日本の文化を壊す変わった者たちだ」という意識の壁が広がっている。
僕がこの映画で伝えたいのは、壁の中で自分たちだけに都合の良い認識空間を作るのはやめて、その壁をとっ払い、共生しなければいけない人たちと共生しましょうということだ。それは簡単ではないが、それをやらなければ日本の未来はない。
日本では、パレスチナとかアラブというと、なんとなく「怖い」というイメージがあるかもしれないが、私が出会ったのは、イスラエル軍の暴力に耐え、自分たちの言葉で訴える人たちだった。子どもも大人たちも一生懸命生きようとしている。状況は悲惨でも、人々に悲壮感はなく、饒舌でさえあり、その言葉は強さと確信に満ちていた。この映画で、多くの人に見てほしいと思ったのは、そんな普通のパレスチナ人の姿だ。
最後に出てくるマサーフェル・ヤッタの洞窟住居で暮らす母親は、夫はイスラエルの刑務所に収監され、家は破壊され、生まれたばかりの子どもを育てなければならないという過酷な状況下にあっても、野花を摘んで生けていた。私が「食用ですか?」と聞くと「いえ、飾るんです」といわれ恥ずかしい思いがするが、こんなに厳しい生活を少しでも豊かに、人間らしく生きるために花を飾る彼女の姿に胸が震えた。
一方で、イスラエルは人間性を喪失していると思う。ガザや西岸の現実を見ようとしない。しかし、そのなかで若者たちが「こんな軍隊には入りたくない」といって兵役を拒否する。彼らもまた人間らしく生きようとしている。そして、イスラエルがしていることを気づいたイスラエル人が慈善活動でパレスチナ人と人間的な関係を結ぼうとする。彼らも人間らしく生きようとしている。人間らしく生きようとすることに人種や宗教は関係ないと感じた。
国籍はどこか、何語を話すのか、宗教は何かといっているから分断が起きる。厳しい環境の中でなるべく豊かに人間らしく生活していこうというのは同じであり、そういうことが一緒にできることが分断をこえることだ。違いに目を向けたら壁ばかりできるが、人間らしく生きようとする思いを共有すれば、共生できると私は考えている。親が子どもを思う気持ち、厳しい境遇で生きていく大変さは相手も同じなのだ。一緒に助け合って生きていこうとすればいいだけのことだ。
相手の苦難に心寄せる 市民にできること
質問(客席から) 分断をこえることが難しいから戦争が起きる。こういう大きな問題に接するときにいつも思うのが、自分たちに何ができるのか?ということだ。
川上 洞窟生活をするパレスチナ人のために食料を配布する慈善活動を地道に続けているイスラエル人に、この活動で得たことを聞くと「はじめはパレスチナ人が怖かったが、一緒にお茶を飲んで、食事をして仲良くなった」といっていた。だから彼らとパレスチナの人たちとの関係は、援助する、されるの関係ではなく、まるで親戚を訪ねているような間柄だった。活動のなかで、彼らはそんな関係をつくってきたのだ。家を訪ねて同じ時間を過ごす。そうすれば、自分たちと同じ存在であることに気がつく。私たちは壁(分断)を自分たちでつくっている。理解してから付き合うのではなく、まず付き合う。そうすれば共通点は見つかる。
「私たち市民は何をしたらいいか?」とよく聞かれる。確かに一市民にガザの戦争を止めることはできない。現状では国連も何もできない。殺戮と破壊のニュースを延々とみていたら余計でも無力感を感じるだろうと思う。だが、無力なのかといえばそうではない。
映画のなかに出てくるイスラエルの若者は、ユダヤ教超正統派の家庭に生まれたが、その厳格な信仰が嫌になり、普通のイスラエル人になりたいと思い、そのためには兵役を受けなければいけないから軍の学校に入った。だが、ガザのことを知って軍隊も嫌になり、パレスチナ人と家族のような関係になって、イスラエルの街頭で「占領反対」を叫ぶようになった。彼は兵役を拒否したために半年間刑務所に入って3月に出てきた。
僕は彼とSNSの相互フォローをしていたので、この10月に刑期を終えた彼がイスラエルで「ガザ包囲反対」のデモに参加して逮捕されたことを知った。そのとき彼は、イスラエル警察に羽交い締めにされる自分の映像を「X」(旧ツイッター)にアップした。僕もそれを日本語に訳してリポストしたが、彼の投稿へのアクセス数は30分間で450万件にのぼっていた。これだけ世界中の人たちが見ていることがわかれば、イスラエル警察も下手なことはできない。これはSNSを活用したことによる一つの力だ。無力と考えれば、どこまでも無力だが、少なくとも私たちはイスラエルがやっていることを知り、発信することによって自分の意志を伝えることはできる。
今、ガザで250人のジャーナリストが殺されている。なぜか? イスラエルはバックにアメリカがいるから、他の政府など何も怖くない。アメリカの動向を意識する日本の政府も怖くない。だが、イスラエルがコントロールできないのは市民だ。市民が反対することをイスラエル政府は止めることはできない。
イギリスでもフランスでも何十万という「ガザ虐殺反対」のデモが起きると、それぞれの政府はイスラエルに対して批判的にならざるを得ない。世論がそのように動かす。イスラエルがジャーナリストを殺すのは、市民に情報が伝わることを恐れているからだ。だから、私たち市民にもやれることはある。
ニュースにならなくなっても、ガザの人々はSNSを通して、苦境のなかで生きていることを発信し続けている。それを受けとり、共有し、市民として連携するのは、私たち市民の役割ではないか。日本でも「壁の向こう」で起きていることに関与する努力が必要だと思う。
【リンク】『壁の外側と内側』劇場情報
※上記リンクによれば、北九州市小倉北区の「小倉昭和館」で12月14日(日)午後から1日限定上映がおこなわれ、上映後に川上監督の舞台挨拶がおこなわれる予定。
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川上泰徳(かわかみ・やすのり) 1956年生まれ、長崎県出身。大阪外国語大学アラビア語科卒。学生時代にカイロ大学留学。 朝日新聞に入社し、高知支局、横浜支局、東京本社学芸部を経て、国際報道部へ。カイロ、エルサレム、バグダッドなどに駐在し、パレスチナ紛争、イラク戦争、「アラブの春」などを現地取材。中東報道で2002年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。15年からフリーランス。著書に「中東の現場を歩く」(合同出版 2015)、「『イスラム国』はテロの元凶ではない」(集英社新書 2016)、「シャティーラの記憶 パレスチナ難民キャンプの70年」(岩波書店 2019)、「戦争・革命・テロの連鎖 中東危機を読む」(彩流社 2022)などのほか、ガザ戦争が始まってから「ハマスの実像」(集英社新書 2024)を刊行。




















