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広島「原爆と戦争展」 熱気に満ちた全国交流会

「原爆と戦争展」全国交流会(広島市、8月5日)

 広島「原爆と戦争展」開催中の広島市中区袋町のひと・まちプラザ4階ロビーで5日、被爆者や戦争体験者、学生による全国交流会がおこなわれた。広島や下関の被爆者、学生、沖縄や愛知などの戦争体験者や原爆展運動のスタッフが参加し、全国各地で展開してきた「原爆と戦争展」の反響の特徴や今後の課題について論議した。安保法、共謀罪、憲法改定など戦時体制づくりを進める一方、アメリカに媚びて核兵器禁止条約にすら反対する安倍政府の姿勢に対する激しい批判とともに、原爆展運動への若い世代や世界的な反響の大きさを確信して、全国的規模の戦争阻止の運動を広げていく決意を語り合った。

 

 はじめに、原爆展を成功させる広島の会の高橋匡会長が「戦争の直接体験者が減少するなかで、核兵器廃絶と戦争反対運動をこれからも継続、発展させなければいけない時期を迎えている。私たち体験世代としては、生きているうちに生の声で戦争と原爆の実態を聞きとってもらい、次の世代へ引き継いでいくことが一番の願いだ。今年の原爆と戦争展も大きな盛り上がりを見せている。全国の活動の状況を交流し、今後の向上のために頑張りたい」と挨拶した。

 

 下関原爆被害者の会の河野睦副会長は、「政治がおかしな方向に向かっているが、首相お膝元の下関市民としては歯がゆい思いが絶えない。首相の地元といわれるが、安倍さんが下関のために何かしているわけではない。安倍さんを落とすように頑張らなければ、日本はよくならない。それが下関市民の願いだ」とのべた。

 

 沖縄原爆展を成功させる会の野原郁美氏は、今年の8・6広島集会に沖縄から6人が参加したとのべ、「原爆と戦争展を通じて、沖縄の戦争体験者の団結の輪を広げてきた。4月に八重山諸島で第3回目の展示をし、6月の慰霊の日をへて那覇でも開催した。今年の特徴は、教育者の真剣さが際立っている。現役の先生が子どもたちに体験を聞かせたいと被爆者の話を聞かせる。沖縄では平和学習でも沖縄戦がクローズアップされるが、あの戦争がどうして始まり、なぜ原爆が落とされたのか、戦争の全体像に触れることは少ない。二度と子どもを戦場に送らないという戦後出発の原点に立ち戻り、迫力のある思いが湧きおこっており、現代の世相を反映している」と報告した。

 

 愛知県の予科練出身者の恩田廣孝氏は、「安倍首相は、今戦争をやっても1人も死なないかのようにいうが、沖縄で20万人、広島・長崎で何十万人も死んでいる事実をまったく口にしない」と怒りを込めて語った。「私たちの同期は80人のうち70人が特攻隊として死んだ。当時は、国のために死ぬことを何とも思わなかった。知覧の特攻基地からは1200人もの20代前後の若者が敵艦めがけて飛び立っていった。だが、隊長の菅原道大陸軍中将は、部下が出撃するたびに“俺が最後の1機で後を追っていくから、お前たち先に行ってくれ”といっていた。その隊長が、敗戦時に“一緒に特攻に行こう”といった参謀長に“死ぬことだけがご奉公ではない”といって出撃を拒否した。若者に聖戦と信じ込ませて特攻を命じながら、自分だけは生き延びた。安倍首相がいう“1人も死者は出ない”という言葉はそれと重なるものだ。原発の再稼働をしているが、福井で事故が起きたら関西圏はいっぺんに琵琶湖の水を飲めなくなる。人間にとって経済よりも命が大事だ。戦争だけは絶対に反対だ」と語った。

 

壮絶な経験     交流は白熱

 

 広島の男性被爆者(86歳)は、「一昨年の安保法制、今年の共謀罪法と多くの国民の反対を無視して強行採決した。安倍首相は“いろんな声を真摯に聞いて、丁寧に説明する”というが口先ばかり。原爆展の会場で、ある婦人が“政治家は嘘ばかりだ。これ以上嘘をつくな”と声高に語っていたが、森友や加計学園の審査でも“記憶にない、記録もない”で、出てきた記録は真っ黒に塗り潰す。これが真摯な説明なのか。このような人たちにこの国を任せるわけにはいかないと常常話している。広島選出の岸田前外相がポスト安倍といわれているが、外相のときに国連で核兵器禁止条約の締結に反対に回った。世界ただ1つの被爆国日本が核兵器禁止に反対するというあり得ない事態に、被爆者みんなが憤っている。純粋に真剣に話を聞いてくれる子どもたちの“2度と戦争をしてはならない”“原爆のような兵器を絶対に使ってはならない”“自分たちも平和のためにできることをしたい”という声に励まされている。原爆展での出会いを財産にして、広島に来る1人でも多くの人、1校でも多くの学校に話していきたい。このようなたいへんな時代であるからこそ、この運動の重要性を改めて認識している」とのべた。

 

 はじめて交流会に参加した広島市在住の婦人被爆者(88歳)は、「今回で訪れるのは3回目だが、戦前の日本が歩んできた道をこれほどはっきりと示した展示会は他にはない。これまで明らかにされなかった戦争の真実が集められ、山口県から来てよくぞ広島で広げてくださったと感謝している」とのべ、自身の壮絶な体験を語った。

 

 当時16歳・女学校4年生で、学徒動員に出ていて助かったが、自宅は爆心地から500㍍の袋町にあり、家族が朝食を食べているときに原爆が投下され、両親と兄弟を含めて5人が亡くなった。「72年間、この表現の難しい原爆の真実をどのように伝えたらいいか悩んできた。一昨年、原爆資料館で座談会があり、外国人グループに感想を尋ねたところ、スイス人女性が“資料館を見て足が震えて立てないくらい怖かった。これほどの目にあって、あなた方はよく黙っておられますね”といった。考えてみれば、家も家族も奪われながら、なぜ自分は黙っているのかとの思いに駆られた。戦後の日本には、アメリカがやってきたことを許すという風潮があるが、私は絶対に許してなどいない。最後に死んだ姉は“ニューヨークへ原爆を落とせばいいじゃないか”といつでもいっていた」とのべ、遺骨もなかった父親の形見である懐中時計を披露した。家の焼け跡の溝の中に転がっていたもので、針は8時15分を指したまま表面は黒焦げになり、割れたガラス面が泡のように膨れあがっている。

婦人被爆者が披露した父親の懐中時計

 「5000度の熱線に焼かれて父の体は何一つ残らなかった。これを身につけていた人間がどうなったかを想像してほしい。だが私がこの形見を原爆資料館に収めにいくと、職員から“こんなものはいくらでもある”とあしらわれ、“骨もないことですから、父の遺骨だと思って持って帰ります”といって帰った」と悔しさをにじませた。

 また、母親の目撃情報を聞いて駆けつけたがすでに死亡していたこと、母親の遺体を担ぎ、自分で薪をつんで火葬したことを明かし、「当時の気持ちはどうだったか? といわれても、頭の中は真っ白だ。ただはっきりいえることは、亡くなった人たちがどういう思いで死んだのか。それを考えると胸が苦しくなる。なにか自分がやらなければならないとつくづく感じる。朝一緒だった人が、数分後にはみんな死んでしまう。それだけ核兵器は怖いことを知って欲しい。再びくり返させないために、この事実を伝え続けなければいけない」と強い口調で語った。

 

 他の被爆者からも、「私の職場でも被爆2日後から仕事を再開した業務日誌が残っている。毎日毎日、髪が抜け、発熱し、斑点が出て、喀血して死んでいく。その死亡者を記録した日誌であるが、それを資料館で保管できないかと相談すると“そんなものはどこにでもある”の一言だった。責任者が血を吐く思いで記録した実態を伝えようという心は認められなかった」「5歳のときに被爆した人が証言を申し出たら“5歳でどれくらいのことを憶えているか”と退けられた。どれだけのものが苦しんで作り上げていったかということが認められないのが資料館の姿勢だ」と、さらに内容が希薄になった原爆資料館の現状とあわせて怒りの声が上がった。

 

受継ぐ意欲高める学生

 

 体験者の真に迫る発言を受けて、原爆展スタッフとして活動している学生たちが発言した。
 修道大学4年の女子学生は、「これまで大学で英語を学んでいても、広島にいながら外国人と原爆について話をしたことはなく、これではいけないと思って参加した。原爆展には米国人もたくさんきていたが、アメリカで核兵器保有が当たり前になっていることに驚いた。核の被害やその思いをまったく知らない人が世界にはまだたくさんいる。若い世代が力を合わせて、世界に発信したいと思う」とのべた。

 

 広島大学3年の男子学生は、「原爆や戦争はどうしても恐いものだから、避けていたいというのが若い人にはある。だが、この事実は誰かが発信していかなければならず、広島で育ち、被爆について学べる環境にある自分たちがその使命を背負っていると思う。被爆者の方方とこれほど密接に話し合う機会はなく、非常に有意義な経験だ。どれだけ正当化しても、核が存在する限り必ず犠牲者を生む。廃絶しなければ平和は来ないと感じている」とのべた。

 

 奄美大島出身の男子学生は、「奄美は終戦後も2年間アメリカの統治下に置かれ、鹿児島からの食料も入らず飢餓状態になってたいへんな目にあっている。その経験から戦争の問題には関心を持ってきた。被爆者の話やパネルを通じてその悲惨さを身に染みて感じている。今の平和があるのは体験者のみなさんの努力のおかげであり、これからは自分たちが頑張らなければならない。事実を語り継ぐだけでなく、社会に影響を与えていくことも重要な使命だと感じている」とのべた。

 

 被爆体験の伝承事業に参加している女子学生は、「実体験のない世代がどう受け継いでいくかは、全国的な戦争体験を引き継いでいくテーマだと思う。大学の国際教育研究では七割が海外の人たちで、個人では仲良くできるのに、国という枠組みになったときに相手の意見が聞けなくなったり、戦争という選択肢が出てくるのだろうと感じている。1人1人の個人としての対話を通して広げていくことが平和への道筋になるのではないか」と思いをのべた。

 

 81歳の婦人被爆者は「以前よりも原爆展に来る人人の心意気が変わっている。若い人が積極的に聞いて、感想を語ってくれる。とても心強くうれしく感じる。国際平和シンポジウムに参加したが、核兵器禁止や核廃絶では、政治家にまかせていたら進まないのが現実のようだ。今回の核兵器禁止条約は、被爆者の言葉が、世界の市民レベルの運動を動かして実現した。市民レベルの運動を広げ、核廃絶の世論を束ねて国政を動かすところまでやらなければいけない。この原爆展運動は、国や行政からの援助は受けず、市民からのカンパや寄付で運営している。このような力強い草の根の運動を日本全国に広め、日本の隅隅の人たちにわかってもらうように努力しなければいけないと思う。そして、世界中の1人でも多くの人たちの中に草の根を下ろしていく心意気が必要だ。被爆者をこの地球上に生まないという広島の思いが世界に通じることに確信を持って頑張りたい」と抱負をのべた。

 

 被爆や戦争の真実を堂堂と発信していくことを基本に、その思いを継承して活動する若い世代とともに、来年に向けてさらに尽力していくことを誓い合って散会した。

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