いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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沖縄・読谷村で原爆展 「集団自決の村」 沖縄戦体験者の深い思い 

米軍への怒りが圧倒的

 沖縄県内で第2波行動を展開している原爆展全国キャラバン隊第1班(劇団はぐるま座団員・長周新聞社後援)は、11日から13日までの3日間、読谷村の楚辺公民館で「原爆と峠三吉の詩」原爆展を開催した。公民館の全面的な協力により、すでに今月はじめからポスターがはり出され、楚辺地区の全戸に案内チラシが配布されていた。初日にはキャラバン隊が本紙号外「沖縄戦はせずとも戦争終わっていた」を全世帯(約900戸)に配布。楚辺区の放送によるお知らせも流されるなかで、沖縄戦を体験した年配者をはじめ、40代、50代の家族連れや若い主婦、子どもたちなども参観し、戦中戦後の痛恨の体験と長年胸に秘めてきたほんとうの思いを、腹の底から語りあう熱い交流の場となった。
   
 住民保護に力つくした下層の兵士たち
 読谷村(旧読谷山村)の比謝川河口を中心とする渡具知、楚辺、都屋から宇座にいたる南北10㌔余の海岸線は、1500隻の大艦隊を集結させ、艦砲による無差別絨毯(じゅうたん)攻撃をおこなった米軍が、18万3000人もの兵員で上陸してきた地点である。村内に散在する大小の壕や自然壕(ガマ)、慰霊碑等の「戦跡」は80余個所におよんでいる。
 とくに米軍上陸直後の4月2日、アメリカ兵の残虐な仕打ちを恐れた83人の住民が「集団自決」で非業の死を遂げた「チビチリガマ」の惨劇は、国内外に知られている。だがそれは、少し離れたところにある「シムクガマ」で、ハワイ帰りの住民が「アメリカ人は人を殺さない」と説得して投降に導き、1000人前後の避難民の命が助かったというエピソードと対比的にとりあげられてきた。「住民を集団自決に追いこんだ責任は日本軍のデマ宣伝や皇民化教育にある」「沖縄戦は日本軍国主義の侵略戦争が行き着いた先であり、日本軍にすべての責任がある」というアメリカ美化の論調の象徴的な存在と宣伝されてきた。
 だが9月に読谷村役場ではじめて展示をおこない、「チビチリガマ」のある波平地区の全戸に案内チラシと沖縄戦特集の本紙号外を配布して歩いたときもふくめ、今回の3日間の展示をつうじても、そのような声は住民からはまったく聞かれなかった。それどころか「沖縄戦とか読谷村とかいうと、チビチリガマの“集団自決”のことがいわれ、日本軍が悪かったと強調されているが、あのアメリカが“正義”であるわけがない。いまでも自分たちのもうけのために、イラクでやりたい放題のことをやっているアメリカなど大嫌いだ! ここらを歩いているアメリカ人を見ると、みんなブッシュの顔に見える。ケリーがよいというわけではないが、なぜあんなものが再選されるのか」(50代・男性)といった、アメリカ占領者への憤激がほとばしるように語られた。
 「当時16、7歳で、球(たま)部隊の軍属として美里の貨物廠で働いていた」という70代の男性は、チビチリガマの集団自決は日本軍に責任があるとされていることについて、「話にならない」といわんばかりに笑い飛ばした。そして「米軍上陸直前に、部隊が南部の島尻へ移動するとき、わたしたち軍属も全員が島尻へついて行きたいと志願した。しかし隊長は“自分たち軍人は、骨は沖縄の石となり、肉は沖縄の土となる覚悟で来ているが、君たちはまだ若い。命を粗末にせず、かならず生きのびて日本の将来を見届けてくれ”と軍属の解散命令を出し、たくさんの食料を持たせて“家族のもとに帰れ”といった。だからわたしらは生きている。ほかにも、昭和3年、4年に生まれたものは、みんな同じ体験をしている」と目をうるませて語りかけてきた。
兵隊として球12526部隊に所属していた70代の男性は「激戦地の南風原町塚田の壕にいたが、乾パンを配ったり住民とともに安全に避難することに必死だった」と、天皇や軍部など日本の支配層の意図とは別の次元で、下層の兵士たちが最後まで住民保護に死力を尽くして死んでいったことを強調した。「たしかに追いつめられた日本軍が悪行をしたことも事実だが、“沖縄戦は日本軍が悪かった”というのはまったくわかっていない人のいうこと。わたしはひめゆり部隊がいた壕にも行ったが、米軍の攻撃によるひどい惨状を見た。多くの兵隊は住民とともに(アメリカに)無惨に殺されたんだ」と抑えきれない怒りを語った。
 戦争中は字部落の事務所で書記をやっていたという読谷村の元幹部(90歳)は「日本軍が郷土防衛のために、高射砲陣地をつくったが、わたしはその兵隊たちの宿舎の世話もした。村上さんという隊長と立花中尉という中隊長たちが来て“絶対に沖縄を守る”とがんばっておられたが、しだいに戦況が不利になっていくなかで、わたしたちは国頭の山に避難していった。立花中尉たちは島尻にむかい、ほとんどが戦死した。戦後に遺族の方たちが訪ねて来られたが、いったいどこで亡くなったのかも、もちろん遺骨もわからなかった。わたしたちが避難したときも、山の中に放置されたままの兵隊の遺体がたくさんあった。くやしくてたまらない」と、本土から送りこまれて犠牲となった多くの日本兵への愛惜の念を強調した。「わたしは90歳になるが、米軍に強制収容された土地が返ってくる日を待ちつづけている。遠いところから来て、このような展示をやってもらいほんとうにありがたい」と深深と頭を下げ、「アメリカに謝罪を求める広島アピール」に署名していった。
 読谷村喜名区でも、米軍の重火器による包囲攻撃を受けて兵員の大半を失いながら、負傷兵や補給隊を脱出させたのち、突撃して死んでいった球9173部隊の兵隊たちの遺骨を、戦後の苦しい復興のなかで地元住民が収集し、洞窟に納めて慰霊碑を建て「梯梧(でいご)之塔」と命名、毎年5月30日に自治会と遺族で慰霊祭がつづけられている。またそうした住民への感謝をこめて、当時の球部隊関係者が後に「山吹の塔」を建立している。そこにも戦争で犠牲になった若者たちや住民への、沖縄と本土の人人の消そうにも消し去ることのできない共通の深い思いと、二度と戦争を許さない強い決意があらわされている。「沖縄戦=読谷村=チビチリガマ=日本軍にすべての責任がある」といったアメリカ占領者とその追随者、平和勢力を装う共犯者らのインチキは、圧倒的な人人の実感にはまったくあわないものである。

 “住民も兵士も殺された” 忘れえぬ米軍の蛮行 
 「12歳のとき楚辺から山原に泣きながら逃げたのを思い出して…」と話しはじめた70代の婦人は、「もう絶対に戦争はいけません。イラクの映像を見るとわたしたちの子どものころとまったく同じです。アメリカが戦争をやめろ! といいたい」とハンカチで目頭を押さえた。「国は兵隊を沖縄へ送るだけ送って、ほったらかしの状態だった。楚辺にもたくさんの兵隊が来て全員民家に割りあてられた。わたしの家には山部隊の兵隊さんがたくさん来た。父は出征し、母と2人暮らしで家も大きかったので、家の中には部隊の病院も置かれたが、他部隊の患者は診察を受けられないほど薬が不足していた。主人のお兄さんも17歳で防衛隊として出征し、そのまま帰ってこなかった。日本は無謀な戦争をやったと思うが、アメリカが救ったというのはぜんぜん違いますよ!」を語気を強めた。
 また、「父親は防衛隊にとられていたので、母親が5人の子どもを連れて祖父母といっしょに国頭へ避難する途中、避難民だとわかっているのに艦載機に機銃掃射をやられ、弾丸が祖母の鼻先をかすめてわたしの足にあたった」(69歳・男性)、「6歳のとき、楚辺から山原に歩いて避難したが、逃げる途中で同い年の子どもが鼻からあごにかけて艦砲の破片が貫通して殺された」(65歳・男性)、「疎開児童が乗っていた対馬丸がアメリカの潜水艦に撃沈されたあと、軍艦で宮崎に疎開したが、いつ沈没するかと恐ろしい思いをした。父は目の前で母と妹を艦砲で殺されたし、沖縄でマラリアがはやったのはアメリカが細菌をまいたからだ。アメリカが憎いのはあたりまえですよ」(71歳・婦人)、「母たちは残波岬の壕の中にかくれていたが、アメリカ兵は火炎放射器で壕の中を焼き払ったと聞いている。母はなんとか生きのびたが、母の姉妹は三人亡くなっている」(40代・婦人)など、アメリカの蛮行への抑えきれない憤りが口口に語られた。
 球部隊の軍属で、解散命令が出されたために助かったという70代の男性は、「米軍が上陸して2日目に捕虜になり、最初は楚辺に収容されたが、友軍の特攻機が知覧から飛来して米軍に体当たりしたのをきっかけに石川へ移動させられた。その後はGMCのトラックで国頭の漢那に収容され、昭和22年の4月にようやく楚辺に帰ったが、いまのトリイ通信基地の中がわたしたちの部落だった。昭和27年に強制立ち退きにあい、連日連夜常会を開いて、全区民あげて反対し陳情もしたが“軍命”という権力で強制的に立ち退かされた」と、米軍占領下の屈辱的な仕打ちをふり返った。「日本には憲法九条というものがあるのに、これをなし崩しにしている小泉総理にはほんとうに腹が立つ。広島、長崎、沖縄の体験をもっと真剣に受けとめるべきだ。子どもたち孫たちのことを考えるとこのままでは心配でたまらない。どうしたら戦争のない世にできるか。これが戦争体験者の願いだ」と「広島アピール」に署名して、長周新聞を持ち帰った。

 パネルさすり見入る村民も 現在重ね原爆に憤り 
 友人の婦人とともにパネルを指さしたり、さすったりしながら熱心に展示を見ていた70代の婦人は「これは米軍が撮影したんだねッ、バカやろう!」と独り言のようにつぶやいていたが、「ポツダム会談で戦争を終える話しあいをしたあとに原爆を落としたアメリカは許せない。アメリカは“リメンバー・パールハーバー”などといっているが、そのまえから日本を攻撃しようとしていたんです。あくまで“不意打ちにあった”といっているがそれはまったくのデタラメですよ」と思いの丈を語った。「戦後はみんな楚辺の通信基地で働いた。米兵は植民地だと思ってわたしたちをバカにして抑えつけてきたけど、わたしたちの方が頭はよかった。食堂で、ケーキの数をかけ算を使って計算をしてみせると驚いてバカにしなくなったということもある」と、誇らしげに笑い飛ばした。
「うちに長周新聞の号外を入れたのはあんたたちか。まったく同感だ!」と語りかけた69歳の男性は、「米軍の艦砲射撃はたいへんなものだった。壕の中での自決者もたくさん出た」と悔しそうに拳を握りしめた。「アメリカはソ連の参戦に焦って原爆を落としたと書いてあったが、なるほどそうだと思った。沖縄戦だってあんなに犠牲を出す必要はなかったはずだ。沖縄はその後、アメリカの基地をつくられてずっと支配されてきた。沖縄県知事は普天間基地のかわりに辺野古に“軍民共用の基地を15年の使用期限で”などといい、海をつぶして基地をつくろうとしているが、そんなバカな条件をつけるものがあるか。家でも15年の家ならトタンばりでいいはずだ。ばく大な金を使って永久に使うようになるのは目に見えている。県民は基地は本国へ返せといっているんだ。ああいうバカがいるから沖縄はいつまでも変わらないんだ。がんばってくれ!」と握手を求めた。
 「長周新聞の号外を読ませてもらいました」と熱烈な共感を寄せた60代の婦人は、「4歳のとき宮崎に疎開していたので沖縄戦の経験はないが、1人の国民として、戦争のない世界をつくるために、これからどうしたらよいかという思いで、広島にも長崎にも行ってきた。アメリカは沖縄の一番よい土地を奪って基地にしているが、それはただ基地は反対だ、いますぐなくせといってすむような、目先の小さい問題ではないと思う。日本の国全体をどうするのかという問題でしょう」と深い問題意識を語りかけた。「いまの政治家は目先のことや自分の利益しか考えていない。ほんとうに国や国民のことを考えている政治家は、右から左までどこにもいない。オジイやオバアたちは、どんなに苦しくても家族や地域のために、世のため、人のためにがんばって生きてきた。そういう思いを代表する政治家があらわれないものでしょうか。このような活動はたいへんでしょうが、がんばってもらいたい」とカンパを寄せ、パネル集の冊子と『きけわだつみのこえ』『戦争はなぜ起きたか』などのパンフレットを購入していった。

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