いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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沖縄戦の欺瞞宣伝に怒る県民 沖縄キャラバン第2次行動座談会 アメリカ侵略軍の残虐さ暴く

 長周新聞社が後援し劇団はぐるま座団員によって編成された原爆展全国キャラバン隊第1班が、沖縄での1カ月間の第2次行動を終えて11月17日、山口県に帰ってきた。第1次沖縄行動の経験のうえに「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を公民館や街頭で展開し、長周新聞の「沖縄戦の真実」の号外などを配布し、どこでも新鮮で強い共感を得た。とりわけ南部の激戦地や米軍が上陸した読谷村などで数日間展示し、マスメディアや公的機関などをつうじて表面にあらわれたものとはまったく異なった沖縄県民の沖縄戦と戦後の体験にもとづくほんとうの声を聞くことができた。帰山したキャラバン隊メンバーに集まってもらい、特徴と教訓を語りあってもらった。


  
 天皇の地位のために国民を犠牲に


 司会 沖縄での第2次行動では、激戦地などで数日間ずつの原爆展をやって多くの意見を聞き沖縄戦がどういうものかさらに鮮明になってきた。県民の体験、思いが戦後経験と重ねて語られた。それら全体の特徴を描いてほしい。


  一番印象深く、認識が深まったのは読谷村だ。第1次のときもチビチリガマのある波平地区全戸に長周号外を配布したが、今度は米軍の上陸地点・楚辺の約900戸に号外を配って展示した。3日間公民館で堂堂とやっているから反論が出ることも覚悟していたが、逆に熱烈な支持だった。チビチリガマのことはこちらが聞かないかぎりいう人がいない。沖縄戦の象徴のように宣伝されているが、地元の人はあまり語らない。


 15、16歳の少年のとき沖縄市・美里の貨物廠に軍属として動員されていた人は、そこの兵隊たちが激戦地の島尻に移動するとき、志願する少年たちに「軍人は、骨は沖縄の石となり、肉は沖縄の土となる覚悟で来ているが、君たちは死なすわけにいかない」と解散を命令し、缶詰などありったけの食料を持たせて家に帰らせたと強い思いで語った。「だからわしらは生きている。アメリカがよかったとかいうのは話にならない」と話していた。


 喜名地区でも米軍の包囲攻撃で負傷兵を脱出させたあと、約500人の日本兵が切りこみをやりみな死んだ。その遺体を地元の人たちが自然壕に収めて「梯梧(でいご)の塔」を建て自治会と遺族が60年間慰霊祭をつづけてきた。そのことに生き残った部隊関係者が感謝の気持ちをこめ「山吹の塔」を建てている。「住民も兵隊もアメリカに殺された。その死を悼む」という哀惜の思いが強烈にあった。


 チビチリガマも中に日本兵がいたわけではない。実際は米軍上陸のとき表に出た子ども2人が手榴弾で米兵に殺され、それを見てパニックになり集団自決がはじまったのだという。だから“沖縄戦=日本軍が悪くアメリカが助けた”というのは一部の人が外にむけていうものだ。住民は「日本人民は犠牲者だ」という。天皇や軍部が手のひらを返してアメリカに従ったことへの怒りを語り、「本土の兵隊があの条件のなかで、沖縄のものを助けようとなんとかしようとがんばっていた思いをひきつがなければいけない」といっていた。


 B あの局面ではアメリカの完全な侵略だ。特攻隊にはすごく愛情があった。「特攻隊が来て村の上を回って米軍に突っこむ。どこの子かわからないが胸がつぶれる思いだった。自分たちのために来て死んでいった」と涙を流していう。「アメリカが救った」とか、入る余地のない世界だ。そういう体験をくぐってきている。


 A 1銭5厘で死地にかり出された日本の下層の兵隊たちと、命令した天皇や軍部は次元が違う。沖縄の人が日本の兵隊を見たら家族を思い出すのと同じで、沖縄に来た兵隊たちも家族を思い出して沖縄の人人の世話をしている。みなしごになった男の子を自分がいた壕を出てその子に使わせ、その子が助かった話も聞いた。住民の側も倒れた日本兵を助けることができなかったことを思い出すという。


 C 西原町や佐敷町など激戦地はつねに兵隊といっしょだが、日本兵の話は出なかった。「海からは艦砲射撃で空からは機銃掃射。ガソリンを入れたドラム缶を投げつけて爆弾を落とされた」とアメリカへの怒りが出る。父が兵隊でとられ、残った家族が助けあって生活する状態だから、目の前で死ぬ兵隊を見ると親のことを思う。その遺体を葬ることもできずにきたとせつせつと語る。


   
 皆殺しをやった米軍 避難民も射殺


  「“皆殺しにされる”というのは、日本軍の宣伝で実はデタラメだった」かのようにいわれるが、実際に米軍は皆殺しをやっていた。


 A バックナー(米軍司令官)が殺されたとき、米軍が見せしめで日本人捕虜を並ばせて銃殺したのをガマから見た人がいた。心理戦で、早い時期に一般住民を捕虜にして訊問し日本軍の配置や兵力を調べ、それをもとに攻撃し疑心暗鬼をつくったともいわれた。


 マラリアも戦前沖縄にはなかったし、マラリアという言葉も知らなかったといわれていた。これはアメリカが持ってきた病気だと一致して話になった。シラミも「あんな大きなシラミは見たことなかった」という。西原町では「那覇で偵察機がシラミをまいていった」と語る人もいた。


 とにかく不思議なことが多かったという。山のなかを逃げ回っているのにヘビがいなかったのも不思議だという。集まって話し出すとマラリアもシラミも「やっぱりアメリカだ」となった。そして「アメリカは目的のためには手段を選ばない」「なにをやるかわからない恐ろしさがある」と話された。


  一家全滅が多い西原町では毒ガスを使ったからだといわれていた。空が真黄色で壕の中の人も皆殺しだった。ひめゆり部隊も毒ガスでやられたといわれていた。まさに生物化学兵器の無差別攻撃だ。


 A 西原町の翁長(おなが)地区は戦前の総世帯数が186戸だが、71戸が一家全滅だ。人口886人のうち、なくなったのが556人。米軍はやりたい放題だ。だから原爆パネルを見ると涙を流して人ごとではないと共感がすごい。マスコミは本土との温度差ばかりあおるがぜんぜん違う。「これほど本土の人もひどい目にあっていたのか」という。


  本土から来てくれるという感謝が多い。深深とお辞儀をしたり公民館なども大歓迎だった。


   
 本土と深い一体感 死んだ兵士への哀惜胸に


 A 楚辺でお辞儀をしていた人は沖縄戦のとき30歳ぐらいで、部落で兵隊の受け入れにたずさわった人だった。「若い兵隊が命がけで守るといったがみな戦死した。自分たちはヤンバルに逃げる途中もごろごろ日本の兵隊の遺体を見た。でも拾い手もいない。ほんとうに悔しい」という。この人はちょうど米軍機のトレーラーが落ちた隆子ちゃん圧殺事件のときの村長だ。だからパラシュートの降下訓練反対とか本土復帰斗争とか一連のたたかいを背負ってきている人だった。


  その人の兄弟も原爆が落ちた日の夜、広島市内に救援に入り介護にあたったという。防衛施設庁から土地使用の契約をしてくれとくるが「当時の話をし“だから応じることはできない”」と断っているという。「自分は冗談ばかりいうが、こういうことはゆずれんのだ」といっていた。楚辺は碁盤の目のような部落だが、元の部落はトリイ通信基地内にあって強制立ち退きにあい、区画整理されたその土地に移住させられた人ばかりだ。


  この基地拡張が1952年。中国革命、朝鮮戦争のあとに、米軍が中国アジア侵略にむけて基地を大増強し、土地をとられた。だから怒りも大きい。読谷村民は連続連打でたたかっているが、その主力はいま表に出ている勢力ではなく「この人たちか」と感動した。この70代から90代の世代を中心に、あのころの基地斗争をやっていた。


 編集部 アメリカは中国市場の支配を狙って日本と戦争した。そのため蒋介石を支援したが、思惑に反して中国革命が勝利した。アメリカは朝鮮戦争をやるが、その後、沖縄や日本全土で基地を増強していった。50年代は沖縄とか砂川とか基地斗争が激化している。その時期の運動は民族的だった。反米愛国だった。


 D 読谷村の道で号外をまいても「アメリカとのたたかいの連続だった」とみないう。あまりにもチビチリガマは存在感がなかった。


  住民のなかで、特攻隊の慰霊碑を拝んでくれという人はいても、チビチリガマに行きなさいという人はいなかった。集団自決にしてもアメリカの犠牲という受けとめかたが普通だ。


  アメリカがはじめて上陸してきて壕の上にのぼったり前から攻めてくれば、なかでパニックになるのは当然だ。そのまえにもしこたま殺している。


  生き残ったものは「艦砲の食い残し」といわれる。艦砲で殺された人が一番多いわけだ。艦砲といったらでかい爆発で吹き飛ばされるというだけのものではなかった。何百㍍も先でドーンというと、バラバラっと鉄の鋭利な刃物が雨のようにふってくるのだという。爆発したら細かい刃物になって周囲に降り注ぐ兵器だ。歩いていたらいきなり首が切れたとか、おんぶしていた赤ちゃんが切れるから逃げようがない。残酷な無差別殺りく兵器だ。


  ある人は「住民が避難する森などに線を引っぱっていて、それにお母さんの足がひっかかったら、照明弾が上がった。そこに米兵が出てきて、“ハローハロー”といい、味方がいないのを確認して、自動小銃を乱射して母親を殺した」と語っていた。殺し方も残酷だ。


  読谷村の残波岬でも壕に隠れていたら火炎放射機でやられたという。民間人でも、壕から出てこなければ手榴弾を投げこまれる。米兵と遭遇して逃げようというそぶりをすると撃たれる。
 C 動くものはすべて撃たれるから動かず手を挙げるしかなかったという。



  強烈な侵略への怒り 親米革新派が抑圧


  「アメリカの侵略」という認識が、いまのイラクの状況を毎日テレビで見て重なる。戦争は終わっていない。ずっとアメリカが戦争をしている。そのことへの怒りはすごい。謝罪するのは当然とすごい共感を示す。


  「あれは戦争というものではない。原爆でも同じ。皆殺し」という感覚だ。アメリカの残虐さを肌身で知っているから原爆パネルにたいする見方も違う。いまイラクでやられていることのすごさもよく知っている。


 A 「原爆を落とす必要はなかった」というパネルがすごい共感だった。「沖縄戦は必要なかった」という号外とあわせて衝撃だった。そして沖縄戦体験者から「戦争を終わらせるポツダム会談をやったあとに原爆を落としたのがけしからん」とか、「沖縄はアジアのキーストーンだから、戦争をやるためにアメリカはほしいのさ」など語られる。既成の革新勢力にも「口先で基地反対とか撤去といってどうにかなる問題ではない。日本の国全体をどうするかという問題だ」とか、「目先だけでいいとか悪いとかいわれたら軍で働く人はみんな反対なのにバラバラになるだけ」と不信感が強かった。日本全体の植民地状態を変える政治家が出てこないのかと待望していた。


 B 元公務員の人は普天間ヘリの岩国移駐を宜野湾市長が認めたことについて「革新市政が日本全国に基地を置くことを容認している。アメリカにはなにもいわない。そういう革新勢力がだめだ」といっていた。実際に来た革新の活動家は「本土と沖縄には温度差があり、本土の人にまず沖縄の痛みをわかってもらうプロセスがいる。沖縄の基地は本土が国有地であるのと違い私有地だ。私有地が安保で抑圧されているのが沖縄の特徴だ」と自分がいかにつぶされているかだけ強調していた。これが本土も痛みを分かちあえという方向に行く。


 A すこし条件をよくしろという発想は全部そうなる。しかし体験者は「安保」をなくせ、日本全国を変えないとだめだという。基地の問題は目先の小さい問題じゃないというのが沖縄の圧倒的な声だ。アメリカはあれだけの戦争をして奪った基地なのだ。それをとりもどすのは口先だけではダメで、それだけの重みがあることだ。


  浦添でも「かつてアメリカとたたかった気位があった。それが自分さえよければいいという方に流れ、沖縄の斗争も最近は力がない。これではだめだ」という。号外に共感し「小泉の首を切るぐらいやらんといけん」といっていた。日本人の強さをとりもどさんといけんという思いが強かった。


 C 6歳で孤児になり、弟たちを食わせるために働いたという、戦後のいいしれぬ困難をくぐりぬけてきた男性が「大和魂がいる」という。「特攻隊で知覧から飛んできたのは撃たれてもストンとは落ちず、最後までアメリカにむかっていった。いまあれがいる」といういい方をする。


 A 教育の問題も「自分さえよければという考えでむちゃくちゃにされている」とすごく出た。ある体験者は「自分たちはみな世のため人のため、国のためで生きてきた。天皇や軍部は許せないが、いまの子どもたちが世のために人のためにがんばるのは必要だ。ずっと軍国主義といわれ話せずにきたがようやく話せる場にあった」といっていた。


 編集部 復帰斗争までは民族的なものがあり燃えている。それ以後のねじ曲げがすごい。


 A 返還協定などのペテンがもっと暴かれないといけない。「沖縄ではなにも変わっていない」という。


 編集部 70年代、ニクソン・ドクトリンと、中国がベトナム革命を売り飛ばしてアメリカに投降していく。それ以後運動の変質がすすむ。例の加害者論みたいなものがはびこるのもそのころだ。復帰斗争をになった部分が隠れていき、大田元知事のような親米革新派が出てきて変質していった。


  全体の基調は平和資料館のようにガマで日本兵が銃をつきつける「日本軍が悪い」「アメリカが救ってくれた」というものだ。広島と同じで、行政と革新系がセットでそれをやり抑えている。


 編集部 進歩派と反動派の概念が逆になっている。進歩づらをしているものが実はアメリカ擁護で反動であり、反米派は軍国主義者といわれかねないような転倒がある。


 A 考えてみると復帰斗争のときの全軍労の労働者も兵隊帰りだ。みなが沖縄戦の壮絶な体験をしている。だから銃剣を突きつけられても屁とも思わない。「やるか」というものだ。コザ暴動でも基地の中まで突入していった。そんな戦斗的な精神は民族的なものがあるから強い。それが戦争反対という言葉だけで反米が中和されると力がなくなる。


  
 本音を語る沖縄県民 本紙号外に共鳴


 司会 長周新聞の号外はどれくらいまかれただろうか。


 B キャラバン隊では、1万枚近い。各地で開催するとき、1日目にその地域全戸にまいていって、人人はそれを読んで原爆展に来るという状況だった。沖縄県の活動家も共感して、独自に3万枚近くまいている。


 C 号外の内容がひじょうに響いた。会場で号外を渡そうとすると「ちゃんと自分の机の上に置いてある」という人もいた。


  「資料として貴重」という人もいた。自分が直接経験していない知らない大事なことがあるという。自分たちの実感であるということと、そういうことが公然とした論点として出てきたのははじめてだというのがあった。いままでは皇国史観で日本の戦争を美化するか、「日本軍が悪かった」でアメリカを美化するもので、いわば空中戦だった。それが号外で発動され、「はじめて語れる場ができた」という実感だ。


 西原町でも、書こうにも字がわからないし、語ろうにも語れないといって、戦争というと「たいへんだったよ」としかいったことがなかったというオバアが、パネルを見たあと、スカートをまくり艦砲の傷を見せた。それをいっしょにいた婦人会の仲間もはじめて知る。そんな体験者が「すっきりした。はじめて語れた」となんども婦人会の人にいっていたという。1家9人のうち6人死んだという体験だから思い出すのもつらいはずだ。でも語らずにはおれないと、つぎつぎに語りはじめた。


  戦後一家全滅で孤児で生き残ったとか、親兄弟殺されたとか、土地を奪われたとか、すごい経験のなかからがんばってきているから強い。6歳とか7歳でたった1人になるわけだから。どう生活したのかと聞くと、「大人の見よう見まねで配給があったものを物物交換していた」という。よく生きてきたと思う。


 D 男手がなくなったから食料を確保しに行くのもいつ襲われるかわからないし、食料確保だけでも命がけだったという。


  嘉手納基地に土地を奪われた地域は山の斜面に仮小屋をつくりいまだに借地だ。井戸を掘るところからはじめていままでやっている。だから地域の結びつきが強い。


  男の人は軍属が多いが、女の人に聞くとほとんどが遺族か遺児だ。幼少から親を失い、一家の中心で生きている人だから、「沖縄の遺児には不良はいない」と語られる。生きることに必死で、学校も行っていないし、文字もかけないが、そのパワーと思いはすごい。


  そんな人をべっ視して米軍が基地で使っていた。楚辺のばあちゃんが「頭の悪い米兵が多かった。ケーキの数数えろというからわたしがカケ算でやってやるとバカにしないようになった」といっていた。2世代ぐらい基地で働いている世代の怒りはすごかった。


 A 金武町で都市型訓練施設反対でたたかうのもほとんどが基地労働者だ。朝はゲート前で抗議集会をして、終えると鉢巻きをはずして基地の中に働きに行く。そこでたたかっている人の大学生の娘が「うちのお父さん、基地で働いているからといって魂を売ったわけじゃないとよくいっている」と話していた。米軍の商売をしていてもそれでいいと思っている人なんて一人もいないと共通して出されていた。


 B 基地しか働く所がない。それはどこの労働者も同じだ。基地の中でも三等国民というあつかいでばかにされてきたから、ものすごい怒りがある。


   
 真の戦争目的暴く 沖縄戦はアメリカの侵略戦争


 編集部 第2次大戦の性質、つまり日本の支配階級の戦争の犯罪性とともに、戦後美化されてきたアメリカのほんとうの戦争目的を明らかにした号外を見て、かさぶたがとれ、本音を語り出している。沖縄戦を見るときに、これはアメリカの侵略戦争だったということをきっぱりさせる必要がある。天皇を中心とする支配階級は、敗戦が早くからやむをえないというなかで、日本人民を犠牲にしてアメリカに自分たちの地位を保障してもらっていったというのが真実だ。


 ライシャワーが、パールハーバーの半年ぐらいあとに、すでに戦後の日本について「天皇を中心とするかいらい政府をつくれ」といっていた事実が最近明らかにされた。そのまえからアメリカの支配層のなかでは、日本の占領計画を持っている。そこでは「天皇を攻撃してはならない」としている。「日本を占領するうえで、天皇の存在は100万の軍隊の駐留に匹敵する」というものだ。


 敗戦前年の近衛の上奏文で、「敗戦は必至」といって、「もっとも憂うべきは敗戦にともなう共産革命」といい、そこで「米英は国体改革にはいたらず」といい、いかに国体護持をはかるかといっている。アメリカが天皇を攻撃しないし、天皇の地位を保護する意図であることを知っていたと思う。


 情報としても知っていただろうが、行動としてもあの一見ムチャクチャな東京大空襲でも皇居には1発の爆弾も落ちなかった。天皇を攻撃しないことが空襲に来た数百機の全パイロットに徹底されていることは実地にわかることだった。イラクでもフセインを倒すためといい、対テロ戦ではビンラディンを倒すといって戦争をやっているが、対日戦をやるのに皇居、大本営の攻撃を避けたことは、まともな戦争ではないということだ。


 日本の戦死者は、その大部分が最後の1年だ。サイパンが陥落し、敗戦必至ということで東条内閣が崩壊する。降伏論が出されるが、それを押しきってさらに「一億総玉砕」で突っこませる。サイパンを占領されたことから、B29による本土空襲がやられはじめ、全国の都市が焼き払われることになった。制空権も制海権もないなかで、多数の兵隊を輸送船に積みこんで送り出すが、そのほとんどを海の藻くずと消えさせた。特攻隊出撃や戦艦大和の片道燃料での沖縄戦出撃なども、若者をむだに殺すものであった。そして広島、長崎の原爆とつづいた。


 この最後の1年で、日本は中国にうち負かされたという印象から、アメリカに負けたかのような印象を与えることにはなった。学徒兵も召集され大量に殺されるが、それはただやみくもというものではなかったと思う。天皇の支配とアメリカの占領に対抗するような力をなくす、そのために若い力をさんざんに殺し、親兄弟を殺し、家財道具を焼き払わせ、国民をヘトヘトにさせてしまうということで、アメリカと天皇ら日本の支配階級の利害が一致していた計算ずくのやり方であったと見れば説明がつく。戦後「特攻隊上がり」という人たちは冷や飯だった。ぐれたという話をよく聞いた。天皇のためというのは欺まんだったが、アメリカ占領のもとでの愛国心というのは占領軍が嫌ったことだ。


 日本は、しかたなしにアメリカに降伏したというのではなく、意図的にアメリカへの降伏を選んだ。「国体護持」つまり支配階級の地位のためであり、そのために国民がどんな犠牲になってもかまわないというものだ。あれだけ「鬼畜米英」といって排外主義をたたきこみながら、アメリカのもとにもみ手をして命乞いにいった。民族的な利益を売り飛ばしたわけだ。



 “皇居狙われなかった”に衝撃


  皇居が狙われなかったのは沖縄の人もみんな衝撃を受けていた。


  ひめゆりの生き残りの人が「なぜ早く降参してくれなかったのか。なぜアメリカがここまでむちゃくちゃをやったのか。イラクのニュースを見るたびに亡くなった人が夢に出る!」という。その人が号外を見て、天皇とアメリカが一致していたと知ると「ようやくわかった」といっていた。


 編集部 あれだけ東京大空襲をやって皇居には1発も落ちなかった。天皇は頼りにされていたわけだ。あの辺のインチキを暴露して、天皇の汚さとアメリカを暴露しないといけない。


 A 金武町で『きけわだつみのこえ』を並べていると、「なんでこんなものがあるんですか、これ特攻隊ですよ!」という人がいた。「いや見てください。悪くないですよ」というと「いやぼくもそれがいいたかった。いいのかなという気がして」という。結構『きけわだつみのこえ』を買っていく人が多かった。


 編集部 『きけわだつみのこえ』や峠三吉の原爆詩集が攻撃されている。「安保」斗争にいたる学生の平和斗争では、『きけわだつみのこえ』や峠三吉の原爆詩集が原典のようなものだった。それを攻撃してインチキな親米の「平和」勢力がはびこってきた。進歩のような顔をしているが、実はこちらの方が反動派だ。民族的で反米の方は、まるで軍国主義者のようにいわれるが、こちらの方が明らかに進歩の方だ。広島、長崎の真実とあわせて沖縄戦の真実についての宣伝が広がり、沖縄県民の大多数がそれに共感したということは、その方向が強まると、アメリカはイラクどころではなくなる。今回の行動はそういう国際連帯をふくめた迫力を持っていると思う。


   
 大衆のたたかう力を確信 階級的な真実描く


 司会 活動上の教訓はどうだろう。


 A 主体の側が確信を持ってやるかどうかだと思う。読谷村でも、最初はおっかなびっくりで聞くと一般的なことしか聞けなかった。でも切りこんでいくと思いが噴き出した。号外の反響を見ても、大衆のなかに真実がある。それを学んで全局の観点から整理し、研究して返すことだ。最初関心の持ち方も変えようと出発したが、聞く側の聞き方で同じ人でもぜんぜん違う話になる。こちらが確固として大衆の根本的利益に立って、アメリカとたたかう側にいれば、大衆が信頼して、ほんとうの思いをいってくれる。全局的な沖縄戦をめぐる階級関係を暴露していくことのたいせつさを感じた。全体像のなかでそれぞれの体験が位置づけられると本質的なものが発動されていく。それをやる立場・態度のたいせつさがわかった。


 D 東京から修学旅行で来た高教組の先生が「読谷村の知花さんの話を聞くコースが斗争のすえに実現した。日の丸を焼いた人だから斗争なんです」と得意満面にいっていた。でも現地でチビチリガマのことを聞くと知られていない、その落差は大きかった。


 A その高校生たちは、壕を回って日本軍が悪いという話ばかり聞いて暗い気持ちになっていたが、原爆展に来ると大喜びで号外を持って帰った。やっぱり真の大衆のところに根をはっていけば絶対勝てるなと思った。


  語ってくれた年配者たちは、語ることはいっぱいある。字が書けないけれど書けたら本にして残したい、という人ばかりだった。峠三吉のように芸術家がいって描く任務がある。


 A 読谷村を舞台にして描いても衝撃を与えると思う。親兄弟を殺されて孤児になり、ものすごい悲しみと苦しみ、怒りのなかで、基地で働き、屈辱のかぎりを受けながらがんばってきた。疎開から帰ると親も家もなにもないのが10歳ぐらいの子ども。100円で売られたとか、まんじゅう売りや子守奉公をやるなどして生きている。そしてまた同じことをやるのかという状況だ。そこにはものすごい人間のドラマがある。歴史、社会とかかわって。


 編集部 山口県でも漁民が漁協合併をはね返し、それに農民が激励され、下関のダンピング入札問題でも労働者と中小業者がなんとかしたいという気運になってきた。規制緩和で「自由化」というが、大手にとっては官制談合を広げて末端は自由に死ねというものだ。下関では自由競争が進歩とばかりにダンピング入札をあおり、それが人件費に転嫁され、建設現場の日当は半減して、夜は代行タクシーなどに出て夜も昼も働く。給食しか食えない子どもができる。


 こうしたなかで、小泉はアメリカのかいらい政府だという実感が強まっている。その最大のものが戦争問題だ。アメリカの国益のために日本の若者を肉弾にするというものであり、日本を戦場にするというものだ。それらの怒りの根源はどこかといえば第二次大戦だとなっている。原爆問題と沖縄戦の問題は、第二次大戦がいかなるものであったかの問題として、全運動に影響を与えていくと思う。大衆の所はうっ積した怒りがある。それを代表する政治勢力が弱い。キャラバン隊のような全国行脚の宣伝隊が重要だ。


 A 全国キャラバンを紹介したパネルが好評だった。「北海道まで行ってきたんですか。ああいう地道な活動がたいせつだ」という。日本の政治家は自分の懐をこやすことしか考えていないというのも万人の共通した所だ。



 沖縄の真実が全運動に影響


 司会 沖縄の活動家の人たちはどうだっただろう。


  帰山するまえにみんな集まってこられ、自分たちのもっていた読谷村のイメージさえ違ったといっていた。みんな読谷村といえば日本軍を鬼か悪魔のようにいい、本土の人がくると嫌うというイメージだったがぜんぜんちがう、衝撃だったといっていた。最初、原爆展で沖縄戦のことをだすと「日本軍のことが出て話がややこしくなるから出さないで純粋に原爆展でいこう」という発想だったという。だから最初はよく話も聞いていなかった。それがこのたび、沖縄戦も原爆も同じとなったという。長周新聞の号外も反応がいいといっていた。


  「号外を配ってこんなに反響が返ってくるのははじめてだ」といっていた。


 A 自分たちもそうだが、みんなだいぶ世の中の見え方が変わってきたみたいだ。だから沖縄の真実を暴くたたかいは広島といっしょだ、気合い入れてがんばりましょうと別れてきたが、ひじょうに良かったと思う。南部の公民館に号外がおいてあったし、いろんなところで影響が表面化すると思う。
 編集部 自分だけが号外を見ただけでなく、それが相互に論議されることで世論ができていく。さっきのマラリアの話のように、それぞれが不思議だと思っている。それがみんなそうだとなって「アメリカが持ちこんだんだ」と認識ができる。


  やはり峠三吉の「すべての声は訴える」のように、アメリカ側の戦争目的もふくめた全体像が実感こめてわかるものがいる。たとえば読谷村のガマで殺し合いが起きているとき、アメリカの意図はこうだったなどのことを重ねていくと、怒りも湧く。そうすれば兵隊たちが切りこみをやって死んでいくときに天皇がなにを考えていたかなども実感をともなって描けるかなと思う。


 編集部 沖縄の人の体験として、経験やそこにある思いなどを集中して沖縄戦を描ききるとすごい。峠の詩もみんなの経験を集中して、みんなが直接体験していない諸関係をふくめて描いている。


  それにいどんで見ようと思う。それは劇団はぐるま座の役割だ。
 司会 ぜひリアリズム芸術の本領を発揮してほしい。来年は戦後60年だし、もっと情勢は発展するし、人人の要求は強まる。

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