(2026年5月27日付)

下関原爆被害者の会総会の様子(5月24日、下関市)
「平和な未来のため、命ある限り被爆体験を子どもたちに語り継ぐ」ことを使命とし、子どもたちへの語り部活動を続けている下関原爆被害者の会の2026年度総会が5月24日、下関市勤労福祉会館でおこなわれた。被爆者が高齢化するなかで、ウクライナ戦争、ガザ侵攻、イラン戦争と世界中で戦禍が広がり、日本国内も憲法の改定や非核三原則の見直しの論議がされるなど、アメリカの戦争に日本が巻き込まれるという危機が現実のものとして迫ってきている。そのもとで、原子雲の下の真実を伝え続ける被爆者の会の活動はますます重要になっているとして、被爆者だけでなく二世からも会を継承していく思いが語り合われる総会となった。
戦争の危機が世界を覆う中で
最初に参加者全員ですべての原爆被害者に黙祷を捧げたのち、近藤捷治会長が挨拶をおこなった。近藤会長は「長年大役を務めてこられた大松会長の後を引き継ぎ、会長の責務を全うしてきた。被爆者の会もだんだん高齢化しているが、みな厳しい体調のなかでも子どもたちの前で自分たちの受けた体験や記憶を語っている。いつも子どもや先生たちのお礼の言葉で、語ってよかったという気持ちになっている。これからも会の活動を継続していくためにも、語り部活動への協力をお願いしたい」と呼びかけた。
来賓として参加した山口県原爆被害者団体協議会の林三代子会長は、下関の原爆被害者の会の被爆者が身体の不調を抱えながらも語り部活動を続けている姿に感動を語るとともに、「私も3年前に難病になったが、元気になれたことで恩返しのつもりで活動を続けている。世界中で戦争が起きており、テレビを見ながら日本でもまた同じようなことがあるのではないかと不安に思っている。地球全体が戦争に巻き込まれ、核兵器廃絶を訴えてもどうにもならないような世の中になっているが、だからこそ被爆者が生きているのには意味があると思っている。小さい私たちの力だが、みなさんと団結して世界の平和を守りたいという大きな思いをかけてやっている。みなさんに会って元気をいただきながら私もまた頑張っていきたい」とのべた。
次に下関の前田晋太郎市長より、「長きにわたり、被爆体験の語り継ぎを通じて、子どもたちや若い世代へ、平和の大切さや命の尊さを伝え続けてこられたことに深く敬意を表する」とメッセージが寄せられた。
被爆者の会とともに原爆展運動を続けている沖縄原爆展を成功させる会の平良研一代表はメッセージのなかで、現在も続く沖縄の米軍支配に対し「沖縄は米軍による事件事故の恐怖、苦しみ、屈辱をいやというほど味わい、空も海も水も命に係わる危険にさらされている。その根源は原爆投下によってアメリカの単独占領と戦後のアメリカ追随の政治が横行していることにある」と指摘した。そして高市政府が軍事費の増大、殺傷武器の輸出解禁、スパイ防止法の制定、憲法改悪への動きを加速させようとしているなかで「絶対にアメリカの戦争に日本を当事国として参戦させてはならない!」と訴えた。
そしてこれからも「原爆と戦争展」を開催し続けるなかで「あの戦争がなぜ起こったのか、どうしたら戦争への道を押しとどめることができるのか一緒に考えていきたい」とのべた。
平和の担い手に育つ子 会の活動に大きな確信
被爆者の会は昨年度、下関市内の5校の小学校でのべ469人の6年生に被爆体験を語る活動をおこなった。そのなかで体験を学んだ子どもたちが「世界中から戦争をなくすために自分に何ができるのか」「誰もが幸せを感じられる世界を目指したい」と、現在の世界情勢とも合わせて大きな目標を語っていることに対し、平和の担い手が育っていることへの喜びと、これまでの活動に対する大きな確信が語られている。
下関市立中央図書館や市役所での「原爆と戦争展」開催や、被爆者が少なくなるなかで語り部活動を映像化しDVDとして残していく活動にも力を入れてきた。世界中で戦禍が広がるなかで、被爆体験を語り継ぐ被爆者の会の使命がますます重要になっていることを確認し、これまで以上に力をいれて被爆二世や若い世代に体験を引き継いでいく事業をおこなっていくことが示された。
最後に読み上げられた総会宣言では、「下関原爆被害者の会は、平成6年に会を再建して以来、『平和な未来のため、命ある限り被爆体験を子どもたちに語り継ぐ』ことを生き残った者の使命とし、地道に子どもたちへ被爆体験を語る活動を続けてきました。下関から始まった原爆展運動は、広島・長崎、そして全国へと広がりました。今も広島平和公園で継続している原爆展キャラバン隊の活動は、世界中から被爆地を訪れた人々に原子雲の下の真実を伝え、トランプ米大統領が核使用について言及するなど、核戦争の危機が高まる世界情勢のなかで『二度と核兵器を使用してはならない』との意志を力強いものにしています」としたうえで、「世界中で戦禍が広がり、日本でも武器輸出の規制が撤廃され、戦後『二度と戦争をしない』と誓った憲法の改定議論が本格化しようとしています。また、唯一の被爆国として核兵器を『持たず、作らず、持ち込ませず』とうたった非核三原則の見直しまでもが議論されようとしています。台湾有事など対中国を念頭においた長射程ミサイルの配備など、日本がアメリカの盾となり、米中戦争の最前線に置かれる危機が現実のものとして迫っています」と指摘した。
そして「私たちは、広島・長崎の惨状と、戦後を生き抜いてきた被爆の真実や思いを命ある限り語り継ぎ、平和を願う全国・世界の人々とともに、二度と戦争のない平和な未来を目指すことを誓います」と宣言し、満場一致で採択された。
学校現場の要望も強く 総会後の懇親会で
総会後におこなわれた懇親会では、平和のために被爆体験の継承活動を続ける親の姿を見てきた被爆二世たちからも、これからの被爆者の会を支える思いが語られた。戦後81年が経つなかで被爆者は年々減少しており、山口県内の被爆者手帳所持者は、ピーク時で8000人弱ほどいたが、今年3月末時点では約1200人となっている。
再建当初の初代会長の娘である二世の女性は「父が被爆者の会で活動している様子を見てきた。自身の体調もあり会からは離れていたが、友人に誘われて自分もなにかしたいと思って参加した」とのべ、別の二世の男性も、母親が広島で日赤の看護師として被爆した経験を語り、「被爆二世として母をはじめ被爆者のみなさんの熱い気持ちなどを聞き、二世として引き継いでいこうと思い会に入った」と話した。
昨年被爆者の会に入会した女性は、2歳のときに長崎で被爆した経験を語った。「2歳だったから記憶がなく、母親から話を聞いて育った。お昼にお弁当をつくり、家の近くの諏訪神社でお弁当を広げたときだった。側に立っていた子が“B29だ”と空を見上げ叫んだその直後に、ものすごい爆風で側にあったイスや看板が吹き飛んだ。母は私を抱いて防空壕に逃げたそうだ。家は瓦などがすべて爆風で飛び、めちゃくちゃの状態だったと聞いた。めちゃくちゃになったタンスはいまでも家にある」と話し、「去年初めてこの会に入ったが、最後のご奉仕で平和のためになにかできたらと思っている」と熱い思いをのべた。
長年、子どもたちの平和学習をおこなってきた退職教師も参加し、被爆体験を学ぶことの重要性を語った。
下関市内の退職教師は、20代など若い教師が子どもたちに戦争体験や被爆体験をどのように伝えればいいのか悩んでいることを話し、「被爆者の会の語り部活動を教えるととても喜ばれ、実際に学校で被爆体験を学ぶ活動へと繋がった。日頃なかなか教師の話を聞かない子どもたちが、被爆者の話を真剣に聞いていたと驚かれていた。また証言のDVDがあることを紹介すると、6年生の先生だけでなくほかの学年の先生たちもみんなでそのDVDを見て“とてもいい勉強になった”と話していた」と、教師のなかでも被爆者の会の活動が喜ばれていることを伝えた。
北九州市の退職教師も証言DVDが平和学習として同市の学校現場で利用されていることを話し、「被爆者の方たちが想像もできないような苦労を乗りこえて生きている姿は子どもたちにとって大きな尊敬の的であり、生き方の指針ともなっている。被爆者の話を聞いた教え子が、今看護師として働いているが“僕が看護師になったのは被爆体験を聞いて、みんなの役に立つ仕事をしなさいといわれたからだ”と教えてくれた。子どもたちの生き方を被爆者の会の方々が示してくれているというのを実感している」とのべた。
語り部活動をおこなっている和田節子氏は、4歳のときに広島で入市被爆をした経験を語った。「原爆が落ちる前日に母と子ども3人でおばあちゃんのところに疎開をした。父親は翌日帰るということで広島に残ったが、帰ってこないから母と私と叔父と3人で二度探しに行った。広島に入ったときのあの惨い景色は一生忘れない。原爆の話になると胸がいっぱいになる」とのべた。
戦後は看護師として働きながらも、被爆の影響で造血機能が低下し長年貧血に苦しんできたことや、細胞が少ないせいで何度も目の手術をくり返していることを話し、「語り部の人が少なくなるなかで、元気なうちは頑張っていきたい」と語り、最近バスですれ違った子どもに「和田さん!修学旅行に行ってきました」と声をかけられた経験を嬉しそうに話した。
近藤捷治会長は「小学校1年生で被爆し、黒い雨の降るなかを火傷をした友だちと逃げ惑った。家にたどり着いたとき母は全身真っ赤で大火傷を負っており、10日もするとその火傷にウジが湧いた。母の身体に湧いたウジを兄弟みんなで割り箸でとったことを今でも覚えている。6人いた兄弟のうち3人は原爆症で亡くなり、残ったのは3人だ。年々語り部活動ができる被爆者が少なくなっているのを身をもって感じているが、二世の方々にわれわれのこの活動の後を継いでもらい、被爆者の会を支えてほしい。これまで長年先輩方が継承してきたこの事業を止めるわけにいかない」と二世の参加者らに強く訴えた。
5歳のときに入市被爆した女性は「あのときの怖いことは全部覚えている。夜中でも夢を見て騒いでいるという。大病を何度もし、今生きているのが不思議なくらいだが、やはり生かされているのだと思う。人に話したくないという自分の逃げる心もあるが、私なりにやってきた。結婚するときも被爆したことは黙っていて、子どもを産むとき姑に“なぜ産むのか”と怒られた。長い人生のなかで被爆にかかわる不幸なこと、地獄のようなことがたくさんありながら現在にいたっている。やはり戦争ほど不幸なことはないと訴えていきたい」と伝えた。
被爆二世の女性は、「母は看護師の卵で広島で被爆した。とても鮮烈な記憶となって残っていたようで、テレビで戦争の話が出ると消してくれという状態が長年続いていた。母は72歳で認知症になり、その前の10年間くらいでようやくこの会で語り部として原爆の話をするようになった。しかしたった10年で語り部もできなくなってしまい、怖かったとか大変だったとかそういう話だけで、母の体験を聞く時間がなかったなと今になって思う」と語った。
◆下関原爆被害者の会 再建から32年のあゆみ◆

1994年10月29日、下関原爆被害者の会の再建総会(下関市)
下関原爆被害者の会は1994(平成6)年、下関在住の被爆者たちの手によって再建され、今年で32年を迎える。原子雲の下の惨状と被爆者の思いを伝える「原爆と峠三吉の詩」原爆展パネルの作成と、それを使った原爆展運動は、下関を起点に広島、長崎、全国へと広がり、「原爆投下は戦争終結のために仕方がなかった」という論調を覆しながら、核兵器を二度と使わせない力をつくることに貢献してきた。同会の歩みは、心ない中傷や攻撃を乗り越えつつ、広島・長崎、沖縄の被爆者と交流を深めながら、大きな役割を果たしてきた30年だった。
会の再建に向けて準備が始まったのは戦後50年を目前に控えた1993(平成5)年のことだった。戦後50年を前後して、「被爆体験の風化」が宣伝され、「被爆体験の継承は戦後50年以降は途絶える」といったマスコミ報道があふれるなかで、家族にも被爆体験を語ることなく生きてきた下関の被爆者たちが生々しい体験を語り始め、会再建に向けた機運が高まっていった。
当時、下関市内には約800人の被爆者が在住しており、中心になった被爆者たちが、協力者とともに被爆者宅を一軒一軒訪ねて会へと結集し、「核兵器も戦争もない平和な未来のために若い世代に広島・長崎の体験と被爆者の思いを語り継ぐことが生き残った者の使命」として会再建は進められた。
本島等長崎市長(当時)が、原爆ドームの世界遺産登録にさいして「広島よ、おごるなかれ」といい、「原爆が日本に対する報復としては仕方がなかった」と主張したのが、会再建から3年後の1997(平成9)年のことである。「日本は加害者である」としてアメリカの原爆投下を正当化する言説が被爆者の口を塞ぐように覆うなかで、下関原爆被害者の会の被爆者たちは、原子雲の下でなにが起こったのか、広島・長崎の市民がどのような目にあい、虐殺されたのか、みずからの体験を子どもたちに語る活動に本格的に踏み出していった。

1997年7月、被爆体験集「未来に灯す」を編集する吉本会長(右端)をはじめとする下関原爆被害者の会の被爆者たち
2代目会長の故・吉本幸子氏(29歳のとき広島で被爆。女学校2年の妹を亡くす)は、このころについて、
広島よ驕るなかれの論説をいかに解くべき被爆者われら
自らを原爆被害者と顔さらし八月六日の惨禍を語る
送られて涙ぬぐひぬ此の子らに勇気もらひし吾が道程(のり)に
とうたっている。
長年の沈黙を破ることは、被爆者にとって大きな勇気が必要なことだった。吉本氏は会再建過程でおこなわれた被爆体験者を囲む懇談会で初めて、匿名にて被爆当時の生々しい体験を語り、そのときに熱心に聞いてくれた子どもたちが思いを受け止め、「ありがとうございました」と声をかけてくれたことが、平和のために被爆体験を語り継ぐ使命を痛感するきっかけになったと語っている。
パネル寄贈運動に強い共感

1994年6月、第1回下関原爆展で体験を語る吉本幸子氏
1999年、念願だった第1回下関原爆展は、当初会場を貸していたJR西日本が突然貸し出しを断るという事態に直面した。これを受けて市内の大学学長ら文化・教育関係者を呼びかけ人とする「原爆展を成功させる会」が結成され、会場をからと会館(中之町)に移し、全市的な支援のもとに大きな成功を収めた。以後、県内から全国に原爆展が広がるなかで、下関原爆被害者の会は2000年、『平和な未来のために少年少女に語り継ぐ広島・長崎被爆体験集』を発行し、54000冊を小・中学校に寄贈するなど、精力的に活動を展開した。
同年、原爆展事務局によって峠三吉の詩をベースにしたパネルが作成され、それが広島、長崎でも大きな反響を呼んだ。それらの経験や、その間に寄せられた写真などをもとに、2001年にはパネルの改訂版『原爆と峠三吉の詩 原子雲の下よりすべての声は訴える』が完成。同時にパネルを縮小した冊子もできると、学校現場から「教材に使いたい」という要望が上がり、地域の親や年配者のなかからも「子どもたちに読ませたい」という声が上がった。
その状況に応えて2001年初め、下関原爆被害者の会の飯田定雄会長(初代会長)は松田雅昭教育長(当時)を訪問。パネルを紹介して寄贈する旨を伝え、吉武邦敏(下関市文化協会顧問)、頴原俊一(武久病院)、安部一成(財団法人山口県原爆被爆者福祉会館ゆだ苑理事長)、黒瀬圭子(童話作家)、松井正太郎(松井整形外科院長)、鮫島元(下関市子ども会連合会顧問)、飯田定雄(下関原爆被害者の会会長)の7氏を発起人に「原爆展パネルを寄贈する会」を発足させ、300万円を目標に拠金運動を開始した。
しかし、寄贈する手はずの相談に教育委員会を訪れたところ、市教委は「寄贈するということは聞いたが、受けとるとはいってなかった」「横槍が入っており、現場が混乱する恐れがある」とし、「教育委員会として受けとって、学校で使えということはできない」と返答した。
これを受けて、市教委が横槍の心配をしなくてすむように、拠金と同時に広く市民の賛同を募る運動が始まった。賛同人への訴えは非常に大きな反響を呼び、賛同者は短時日で300人をこえるに至った。下関原爆被害者の会の被爆者はもちろん、自治会長や、戦争体験者を祖父母に持つ世代、保護者、教師たち、病院や企業など、政党政派にかかわらず、各界を網羅した大きな運動になった。
自治会の回覧で回されるなどするなかで、「自分たちが経験してきた本当の思いを次の時代を担う子どもたちに伝え、平和で豊かな日本をつくっていってほしい」という熱い議論も広がり、賛同者は600人超、6000人以上にのぼる市民の拠金提供によって、開始からわずか2カ月後の同年3月10日には目標の300万円を達成。その後も続々と拠金が寄せられ、5月には目標をはるかに上回る413万7742円に到達し、市内の小・中学校28校(私立を含む)にA2判パネルとパネル冊子(1校50冊)が届けられた。また超過達成によって市内の高校13校すべて、保育園・幼稚園17園、児童養護施設やこども文庫などにも寄贈することができた。
ただ、この当時は教育委員会の姿勢もあり、小学校25校、中学校2校が寄贈パネルを受けとらないという状況もあった。ここ10年ほどで、毎年長崎への修学旅行に向けた事前学習として小学校6年生が同会の被爆者を招いて体験を聞くとりくみが定着してきたことは、その後の下関原爆被害者の会の純粋な運動が、被爆体験を語ることを「政治的」であるかのように捉えていた下関の教育界の様相を一変させてきたといえる。
被爆者の使命胸に語り継ぐ

広島市内で毎年開催されている「原爆と戦争展」(2016年)
下関で開始した「原爆と峠三吉の詩」原爆展運動は、翌2001年に広島市の旧日本銀行広島支店での開催で、被爆市民の圧倒的な共感を集め、これを契機に結成された「原爆展を成功させる広島の会」は、被爆地・広島市民を代表する運動として存在感を示すようになった。また、2004~06年には全国キャラバン隊が結成されて全国の駅前や商店街など、人々の集まる場所で街頭原爆展を展開。多くの地で黒山の人だかりとなり、広島・長崎の真実を伝えると同時に、沖縄戦をはじめ各地の空襲体験や戦地での体験を呼び起こしていった。そうした全国の体験者の経験から「沖縄戦の真実」「第二次大戦の真実」「全国空襲の記録」「東京大空襲の記録」などのパネルが作成され、現在は広島平和公園での街頭展示を通じて、全世界の人々から深い共感を集めるところとなっている。
こうした活動の発展の途上では、「被爆体験など語らなくてもよい。手当をもらって楽しくやっていればよい」といった意見や、被爆体験を語ることが偏った主義主張を押しつけるものであるかのように描き出すなど、陰に陽に中傷や攻撃があり、会の結束が危機にさらされた時期もあった。そのなかで、女性たちを中心に「被爆者の使命を放棄してはいけない」「被爆者の運動に右とか左とかはない」と、会の活動に党利党略を持ち込むこととたたかい、政党政派・思想信条をこえて被爆体験を語り継ぐ方向を鮮明にしてきたことがより多くの被爆者や市民の支持を得ることにつながった。そして、子どもたちや教師たちの真剣な眼差しが、その活動を励まし、支えてきた30年であった。
戦後80年をこえるなかで10代、20代で体験した被爆者のほとんどが鬼籍に入り、小学校低学年で被爆した被爆者も80代後半から90代と、当時の体験を語ることのできる被爆者は年々減少している。山口県全体で見ても、もっとも多い時期に8000人在住していた被爆者は、現在約1200人になっている。人類史上かつてない残虐さで無辜の市民を大量に虐殺した原爆投下の真実をいかに後世に語り継いでいくかということは、広島・長崎の被爆地をはじめ全国の被爆者団体の共通した課題だ。下関原爆被害者の会は、「語り継いできた親の思いをひき継ぎたい」という二世とともに、模索しつつ体験を継承するとりくみを進めていこうとしている。





















