いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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戦後75年特集 平和な未来の為に語り継ぐ 幾多の戦友を失った戦地の体験 

 第二次世界大戦が終結してから75年目の夏を迎える。かつての戦争で、日本国民は兵隊として中国や南方などの戦地に動員され、銃後の者は軍需工場などに勤労動員で駆り出され、連続する空襲に家財を焼かれ、広島と長崎に原爆を投げつけられて、あわせて約320万人が犠牲になった。先の大戦とはいったいどんなもので、そのなかで人々はどんな体験をしたのか--それを語り継ぐことは、戦争のない平和な未来をつくるうえで欠かすことができない。本紙は戦後75年特集として、これまで直接話を聞いてきた被爆者や戦争体験者の体験を数回にわけて掲載することにした。今となっては本人が鬼籍に入り、直接話を聞くことがかなわない人もいる。それぞれが次の世代に遺した貴重な証言である。1回目は、下関市と北九州市在住の4人の戦地体験を紹介する。

 

戦闘の真っ最中に「サイパン陥落」の大本営発表

              元零戦操縦士 安岡謙治

 

 私は昭和17(1942)年4月1日、海軍甲種飛行予科練習生(甲飛予科練)の10期生として、土浦海軍航空隊に入隊した。私の同期生1097人のうち777人、7割が戦死している。昭和19年のフィリピン・レイテ戦のさい発足した第一次神風特攻隊40数人のうち21人が、同じ10期生の零戦搭乗員だった。

 

 私の出身校である豊浦中学から先輩も後輩も予科練に行ったが、私から上は全員戦死である。とても胸をかきむしられるような思いだ。私の戦後の61年は、彼らの無念の思いをどう埋めていくことができるかという、ささやかな鎮魂の歴史だと思っている。

 

 甲飛予科練は、巨艦巨砲主義の時代ながら急速に飛行機による戦術が採用されるようになるなかで、旧制中学4年修了程度の学力資格で搭乗員として養成する制度で、昭和12年に発足した。海軍がしきりに宣伝するなかで、私たちの年代の者は皆憧れていた。そこには国のために尽くそうという考えがあった。

 

 私も豊浦中3年のとき、予科練を選択した。学校でパッと手を挙げ、家に帰って報告したら、私が長男であることを理由に親、親戚から強く反対された。昭和18年4月に予科練を卒業。飛行練習生として、北海道千歳での初歩訓練から徳島での猛訓練をへて、私は鹿児島航空隊の虎部隊から隼部隊に所属することになった。

 

 昭和19年2月、サイパン、テニアンなどマリアナ地区に空襲があり、私たちは急きょ先発隊として、12機で鹿児島からテニアン島に向かった。後からすぐ到着する予定だった後続部隊が1カ月ぐらい遅れた。

 

 私たち先発隊は、一度日本に帰って新しい飛行機を補充することになっていた。だが、そこを爆撃されたので、私たちは島に残されることになった。サイパンやグアムも同様で、各島十余機の戦闘機を残すのみという状況だった。

 

特攻隊の出撃を見送る(鹿児島県知覧基地)

 

テニアン島への空襲始まる

 

 6月11日、米軍の空襲が始まり、200機、300機ずつの編隊が雲霞のように次々にやってきた。私たち十数機は飛び上がったが、全然降りられない状態になった。そのうち燃料も弾薬も尽き、穴だらけの飛行場に不時着せざるをえず、一挙に壊滅した。その空中戦で生き残った戦闘機乗りはサイパン島2人、テニアン島2人だけだった。

 

 翌12日、島が200隻余りの米艦隊に包囲され、艦砲と飛行機で徹底的に叩かれた。6月15日に米軍はサイパン島に上陸を開始し、陸上で激戦が始まった。

 

 60㌔離れたテニアンからサイパンの戦闘は望見できた。7月7日、「サイパン島総員突入、玉砕せり」との大本営発表を無線で受信したとき、それが目前で展開されている現実とあまりにもかけ離れていることに唖然とした。飛行機も飛び立ち、山、谷、ジャングルのあちこちで日本軍の迎撃作戦がおこなわれている真っ最中だった。敵の上陸当時の陸海軍あわせて4万5000人のうち、1万人以上は生存していたと思う。

 

 大本営発表は、救援に出す兵力もないことから、「全員玉砕」ということにして、国民の怒りから目をそらすための欺瞞だった。次に米軍が上陸したグアム、テニアン島も同じような大本営発表だった。

 

 7月24日、米軍は私たちのテニアン島に上陸した。9日後、第一航空艦隊最後の司令部があったジャングルの洞窟から出て、カロリナス台地で玉砕することになった。重傷者は自決と決まった。傷を負った戦友が出ていくわれわれに涙声で「連れて行ってくれ」と哀願した顔が今もまぶたに浮かぶ。断腸の思いだった。

 

 カロリナス台地では、夜明けと同時に米軍の艦砲射撃が始まった。敵は遠くの方で戦車4、5台を先頭に出現し、砲銃撃を始めたが、近寄って来なかった。そのうち敵の観測機が空を舞い、その指示でサイパン島にとり付けた銃砲6門からの砲撃を始めた。台地は徹底的に叩かれたため、木もほとんどなくなり、枯れ木のようになって残った枝に肉片がぶら下がっていた。

 

 至る所に砲弾の大穴があき、戦友の姿もほとんど見られず、隣にいた者も即死していた。観測機からは丸見えなので、そのまま死んだふりをしているより他に方法はなかった。夕方になってフラフラと立ち上がったが、ずっと遠くに同じような者がポツポツ見えるだけだった。まさに虐殺の終焉だった。

 

ガダルカナル島の争奪戦で全滅し、テナル河畔に倒れた日本兵(1943年1月)

 司令・参謀などは安全なうちに早々と自決した。軍人として最高の地位まで昇りつめた人にとっては、それにふさわしい死に場所を得たかもしれない。だが、ほとんど武器もなく、負傷して戦闘力も失っている若者を玉砕の名の下にただひたすら死に追いやったのだ。

 

 私は最後の死に水が欲しくてカロリナス台地南端の灌木の繁る、割になだらかな所を通って降りた。頭上の台地から米兵の声も聞かれ、銃撃もされたが、もう一向に気にもならなかった。下の岩場には負傷者や、落下して死んだ者が倒れ、湾状になった海岸の前を多くの遺体が潮流によって左右に流され、滞留していた。まことに悲惨な状況だった。

 

 海岸の小さな洞窟には負傷者がいて、艦砲射撃も受けた。塩分のある水を飲み、拾った水筒にも詰めて少しは気力を回復したが、このままでは死を待つだけと、夜になって洞内にいた搭乗員2人とともに、台上にいる敵の真下の岸壁のジャングルに貼り付くようにして二晩がかりで脱出した。これからが終戦までの1年間のジャングルでの闘争の始まりだった。

 

死に追いやるだけの大本営

 

 ジャングルの中に潜んだ者は当初15、6人いたが、最後には私ともう1人だけだった。私が生き残ったのはまったくの僥倖(ぎょうこう)だ。

 

 ジャングルでは米軍に何回となく包囲され、迫撃砲、戦車砲の激しい砲撃、さらに掃射、待ち伏せによる攻撃を受けて、日本兵が次々に戦死していった。完全に包囲されたさい、灌木に潜み、迫撃砲の信管を抜いて、発見されたら撃たれる前に爆発させて敵共々死ぬ覚悟をしていたそのとき、私のそばに立ち、灌木に向かってパッと唾を吐いた若い米兵のソバカスの顔も忘れられない。

 

 ジャングルでは寝るとき、ものすごい蚊の集団がわんわんやってくる。最初の半年間は岩の上に寝た。蚊にかまれたあとがかぶれてくる。スコールがくる。今度はヤンキーが残したカッパをかぶって口だけ出して息をするような生活だ。

 

 可哀想だったのが、私たちよりずっと年上の30過ぎ、40過ぎの補充兵で、ほとんどが整備兵だった。体も丈夫とはいえず、結婚して子どももいるなかで兵隊にとられ、半年もしないうちにサイパンやテニアンに配属されていた。敵の攻撃で「伏せ」といっても突っ立っている。そういう人たちが一番先に倒れていった。

 

 私たちがいた所には国策会社の南洋開発があり、サトウキビ労働で沖縄出身者らが多く生活していたこともあって、食料の面での苦労は他の戦場より恵まれていた。それでも大トカゲ、椰子蟹、でんでん虫(アフリカマイマイ)などをとって食べていた。ジャングルの中で日本兵の集団間の食べ物をめぐる醜悪な争いもあった。デング熱、アメーバ赤痢などの病気にも苦しめられた。

 

 私たちはジャングルから、本土空襲に飛び立つB29を見ていた。テニアンから飛び立ったB29による広島・長崎への原爆投下、その惨事を思うと、生き残りのわれわれが少しでも阻止できなかったことが悔やまれてならない。

 

 サイパン湾には米軍艦がおり、夜になると灯火管制を敷いていたが、それがなくなったことで終戦を知った。私は昭和21年1月の終わりに帰国した。

 

 私は帰国して初めて、特攻隊が組織されたこと、多くの同期生を神風特攻隊のさきがけとして失ったことを知った。後に続く者を養成するものがおらず、これ以上戦死させたら本土防衛要員はいないといわれるなかで先輩の搭乗員をすべて使い、後期には飛べればいいと機上作業練習機による白菊隊が編成され、ただ死に追いやるだけだった。精神の葛藤に苦しみながら最後に敢然として突入して散った戦友の心境を思うと、いつも落涙を禁じ得ない。

 

 終戦直後、治安の悪いことは特攻崩れ、予科練崩れのせいにされたり、悪用されて汚名を着せられた。元特攻隊員を脅し文句にするチンピラが出回った。だが、予科練出身者はそれにも黙々と耐え、誠実に生きてきたことを、私はこの目で見てきた。人生を立派に頑張られた諸君に敬意を表したい。

 

 私たち生存の甲飛10期の同期生も、戦没した戦友、また遺族の方々に対し、いつも生き残って申し訳ないという負い目を深く感じながら毎年供養をおこない、このような戦争が二度とくり返されないようにいつまでも心新たに誓い続けたい。
 (2006年10月に本紙掲載)

 

ガダルカナルでは1万の兵士が飢えで死んだ

                元海軍 宮崎宗夫

 

 私は昭和12(1937)年6月に海軍に入隊した。兵隊になると同時に、昭和12年7月に日中戦争が勃発した。

 

 私は支那方面艦隊司令部で上海にいた。そして、杭州湾、広東湾、海南島などの上陸作戦に参加した。その頃はまだ海軍にとって有利な戦争だった。

 

 実戦に参加したのは南京の攻撃作戦だった。南京虐殺をしたとかしないとか話題になっているが、私は事実をこの目で見た。私たちは海軍であるために、揚子江で遡航作戦をやった。遡航作戦中、南京に近づいたとき河が上流から真っ黒になっていた。ゴミがいっぱい流れていると思ったが、それはゴミではなくて人間だった。私は実際をまのあたりに見て、何でこんなことになったんだと非常に憤りを感じた。それが今でも目に浮かぶ。

 

 昭和16年の12月に太平洋戦争が始まり、17年の正月元旦に上海で召集令状を受けとった。そして日本は、フィリピンのミンダナオ島、ボルネオ島、トラカル島など石油が出るところを優先的に占領していった。その後、インドネシアのスラバヤ沖海戦に参加し、米英蘭豪と第1回目の海戦をおこない、そのときは日本が圧倒的に勝った。それまでが日本の海軍の最高の時期だった。

 

 それから昭和17年の6月にミッドウェーの海戦に参加した。ここには米軍基地があり、戦略的に重要なところだった。ところがこの作戦の暗号が全部敵に解読されていて、米軍は日本軍を待ち構えていて日本の海軍は全滅してしまった。航空母艦は4隻とも撃沈され、飛び上がった飛行機も戻るところがなくなり、全機が海中に沈んだ。第1回目の敗戦だった。

 

 それからはラバウルを基地にしてガダルカナル島の争奪戦に参加したが、非常に悲惨なたたかいだった。陸軍部隊の約1万の兵隊が飢えで死んでいった。生き地獄のようだった。陸軍も海軍も連戦連敗だった。

 

 そのなかで私は2回撃沈されて、1回目は11時間泳いで、2回目は2時間ぐらい泳いで助けられた。1回目のときは、惨敗した日本軍を助けるために私たち海軍部隊が行ったのだが、魚雷にやられて沈没した。私たちは無線関係の仕事だったので、私たちと艦長は船に残って最後に脱出した。先に逃げた戦友は船のスクリューに巻き込まれて死んだり、フカに食われて死んでいった者もいる。私は日本の潜水艦に助けられた。そのとき助かったのは、250人のうち13人だった。

 

 昭和19年2月15日に内地勤務のため日本に帰ってきて、海軍通信学校の教官になった。そこで教えた生徒たちは、みな特攻隊と人間魚雷で死んでいった。15歳か16歳ぐらいの子どもだった。

 

 戦争というものは人間の価値を完全に無視するものだ。私の戦友が爆弾を受けたときも、お母さんと呼んで死んでいった。「天皇陛下万歳」といって死んでいった者は絶対にいない。いかに戦争というものが残酷であるかということをわかってほしい。人間というのは万物の霊長である。ところがその万物の霊長が一番残酷なことをやっている。戦争はどちらも「正義」ということはない。勝った方が理屈をつけて正義だといっているだけだ。戦争は人間としての最低の行為だ。

 

 私もそういう経験をしてきているから、戦後はできるだけ人のために尽くそうという気持ちを持った。亡くなった戦友のためにも、少しでも世の中の役に立たないといけないと思って組合運動に参加し、海洋少年団の顧問もしている。

 

 今テロ事件を契機に日本政府が憲法を変えようとしていることが、私は一番心配だ。国民の声を聞かずに、一部の政治家の意見だけで進んでいる。われわれはこの憲法改正を何としても止めなければならない。テロはいけないが、テロをやられた根源を考えないといけない。悲惨な戦争をこの目で見ているから、戦争というものを絶対やってはいけないということを痛切に感じる。

 

 平和を永久に保つことは難しい。私たちは戦争を経験して、平和な日本を維持していこうと努力してきた。しかし現在、平和は維持されていない。若い人たちが平和を維持するという強い信念を持って平和な日本をつくっていってほしい。
 (2001年10月掲載)

 

海上で助けを求める兵士を狙い撃ちした米軍

           元戦艦大和乗組員 小西博

 

 太平洋戦争も、昭和18(1943)年のはじめに日本軍がガダルカナルを撤退し始めた頃から負け戦になりつつあったと聞く。しかし当時国内にいたわれわれは、大本営発表で「勝利」が連日大きく報じられ、そのことはなにも知らされていなかった。

 

 当時16歳だった私は、海軍を志願し、昭和18年に呉鎮守府大竹海兵団に入隊。4カ月の厳しい基礎教育訓練ののち、砲兵として戦艦大和の乗員に配属された。その後、トラック島の米軍機動部隊との交戦、そしてレイテ島の海戦(フィリピン沖海戦)に出撃して、米軍機動部隊と激戦になった。このとき戦艦武蔵が撃沈され、戦艦大和にも2~3発の魚雷が命中したため、修理のためにいったん徳山港に帰港した。

 

 昭和20(1945)年4月1日、アメリカの大機動部隊が沖縄を包囲して爆弾の雨を降らせ、上陸作戦を開始して大きな犠牲を出していた。このとき戦艦大和に出撃命令が出た。「海上特攻隊」と命名され、「生きては帰れんぞ」といい渡されたので、みな死を覚悟していた。ただ「沖縄を助けなければ」という思いだった。6日、徳山港を出港した。片道の燃料しか積まず、夕闇の中に薄れゆく内地の山々に別れを告げた。

 

 出港して豊後水道にさしかかる頃には、早くも米軍の偵察機に発見された。アメリカはわれわれの動きをすべて手にとるように知っていた。その頃は日本に制空権も制海権もなかったのだ。

 

 そして本土を離れてしばらくたった7日の午後零時半、アメリカの航空機500機以上がやってきて爆弾や魚雷の雨を降らせた。大和は不沈艦といわれていたが、これだけたくさん航空機が来ればわけはなかった。味方は迎え撃つ航空機が1機も飛ばなかった。飛ばないはずだ。すでに航空機はないのだから。

 

 副砲15・5㌢砲を私は死にものぐるいで撃ちまくったが、約2時間後には大和が傾いて、砲の上に立って潮がひざまで来たとき海に飛び込んだ。沈むまで元気でいた者は多かったが、巨大な艦が渦を巻いて沈むのだから、それに吸い込まれていなくなった。私は親父が漁師で、子どもの頃からサザエをとるためによく潜ったりしていたので、泳ぎが達者で助かった。

 

 このとき私は、爆弾の破片で頭と左肩に傷を負い、全身血だらけだった。沈没とともに、油と炎が漂う中を何人もの日本兵が必死に泳ぎ、助けを求めていた。ところが米軍機が、海上に浮いている一人一人を狙って機銃でバラバラと撃つ。あれは人間のやることではない。沖縄戦でもアメリカは、壕の中に避難していた住民を火炎放射器で焼き殺したというではないか。ひどいことをする。

 

 ときおり意識が朦朧(もうろう)となりながら、泳ぎ始めて1時間ばかりして、奇跡的に味方の駆逐艦に助けられた私は、別府の海軍病院に収容され、その後呉にいた。そのとき原爆が広島に投下され、私はそのキノコ雲を見た。その後、駅に入る列車には焼けただれた人がたくさん乗っていた。呉はその前に米軍の焼夷弾攻撃も受けている。炎が迫るなか、駅の女車掌さんたちを連れてそばの川の中に避難したことを覚えている。

 

 日本の敗戦となり故郷に戻ったとき、傷痍軍人の手続きをすれば金がもらえるといってくる人があったが、私の周りにいた戦友が目の前で次々に倒れ、二千数百人が帰ってこなかったのであり、金がなにか、という思いで返した。「生きて戻らない」と誓いあったのだった。以後50年間、このことは話してこなかった。

 

 それにしてもアメリカはあれだけ日本をひどい目にあわせておいて、日本が一番悪いことをしたとか、アメリカが日本を救ったようにいうのはなぜか。また、私らは沖縄に向かうとき、「絶対負けんぞ」という考えだったが、上の者は負けるのはわかっていたのではないか。片道燃料で、船を沈めて帰るというような考えだったのではないか。
 (2006年10月に本紙掲載)

 

中国戦線でも無差別爆撃くり返した米軍

            元陸軍 長原久一

 

 私は昭和15(1940)年7月に徴兵検査で第二乙種合格となった。これは有事勃発で召集される補充兵なので、当分、召集はないと思っていた。しかし昭和16年5月、会社の作業場で働いていたときに呼び出された。そこで渡されたのが一銭五厘の切手一枚で人の生命も自由にできる赤紙の召集令状だった。

 

 岡山の陸軍に入隊し、3カ月の教育を受けて外地に出発した。「スパイがいるから」と行く先も教えなかった。完全軍装で岡山駅まで4㌔行軍したが、憲兵が両脇を護衛し面会に来た家族と話もさせない。囚人同様の扱いだった。軍用列車でも車内は外部と遮断され、上り線か下り線かも分からなかった。広島駅で下車し、翌朝、貨物船で宇品港から出港した。

 

 翌日、甲板に全員整列させられ、そこで輸送指揮官が「日本本土とお別れする。いつ敵潜水艦から魚雷のお見舞いを受けるか分からないから、全員心の準備をしておけ」といった。しばらくして「山東省青島港に入港」と行き先が知らされた。

 

 上陸すると補充兵受領に来た下士官が「占領地は点と線で結んだ大陸の一部で、周囲はみな敵である。どこで襲撃を受けるかわからない」と実弾30発を支給した。

 

 初めての戦闘は昭和16年12月。八路軍とたたかうのだが、狙って撃つようなものではない。体はガタガタ震え、夢中で撃ちまくるものだった。小銃は2時間以上連続射撃すると銃身が焼けて使用不能になり、水をくんできて銃身を冷やす状態だった。

 

 その後は漢口、九江、岳州と転戦し、揚子江近辺ではそんなにひどい戦闘はなかったが、大東亜戦争で変化した。敵の通常装備も兵器も米国式。日本軍は明治38年以来変わっていない三八式小銃で、一発銃弾をこめて「パン!」とやるが、相手は自動小銃だ。昭和20年に入ると戦闘をやればやるほど犠牲者が出るようになった。

 

 補給も届かない。重要な作戦はパラシュートで銃弾や食料が届くが、作戦用の分量しかない。兵員が送り込まれてきても弾薬も食料も不十分。武器は銃剣、食料は現地調達、それでたたかえという状況だ。終わり頃は戦争より食料探しが優先されていた。

 

 米軍機が飛び始めるのは日本軍がヘトヘトになってきた昭和18年頃だ。昼間は動けず、夜にご飯を炊いていたが、その煙が上がった地域一帯を無差別に爆撃する。アメリカは「日本軍がいる」といっては、中国のいろんな都市を民家も含め無差別に焼き払った。これはアフガニスタンで「ビンラディンがいる」といって全土を焼き払ったのと同じやり方だ。

 

 米軍は中国戦線で野戦病院も爆撃した。建物に赤十字の印があれば国際法上攻撃してはいけないはずだが、戦後「手前を狙ったが外れた。誤爆だった」とごまかしている。これもイラク戦争での「誤爆」とそっくりだ。「パールハーバーを忘れるな」などといって日本本土に空襲をやり、原爆を落としたことも言語同断だが、これがアメリカだ。第二次大戦はまだ終わっていない。
 (2006年9月に本紙掲載)

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