いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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おじい、おばあが見た沖縄戦 「無抵抗の民の皆殺しだった」 占領目的の明確な意図

 米軍駐留の起源は、第二次大戦において県民の4人に1人の命が奪われた沖縄戦であり、すべての米軍基地は、その殺戮のうえにブルドーザーと銃剣によって力ずくで奪われたものにほかならない。「本土から押しつけられた」「押しつけた」云々以前に、そもそもの経緯からしてアメリカが地上戦まで展開して乗り込み、勝手に奪っていったままなのである。沖縄戦体験者たちは、その言語に絶する経験をもとに、さらに未来永劫にわたって沖縄を米軍支配に縛り付ける新基地計画に対して底深い怒りを語っている。沖縄戦当時、学徒隊や兵士だったおじいやおばあはどのような体験をしたのか、沖縄戦を知らない世代に何を伝えたいのか、思いを取材した。

 

 

     

吉川初枝氏(那覇市) 昭和高女・梯梧学徒隊

 

 米軍が那覇市内を焼き払った昭和19年10月の空襲から沖縄戦は始まった。当時、私は、那覇市泊にあった昭和高等女学校の4年生だった。女学生といえど勉強したのは初めの1年ほどで、それ以降は米軍上陸に備えて陣地構築などの作業をおこなっていた。那覇市泊の実家では、母親と中学1年生の弟と3人で暮らしていた。

 

 実家も空襲で焼け出され、家族3人一緒にその他の那覇の市民とともに国頭(くにがみ)の本部町にある八重岳へ避難し、そこで軍の協力隊として迎え入れられた。それから母は44旅団の本部で炊事担当を任され、弟は工兵隊、私は看護講習を受けることになった。

 

 看護講習を受けたあと、私たち昭和高女の女学生は学徒隊(梯梧学徒隊)として従軍することになった。女学生といえど軍の末端に組み入れられた。17人が2班に分かれ、首里のナゲーラ壕へ配属になった。初めのころはまだよかったが、4月になり米軍が上陸作戦を開始し始めたころから、壕には次次に負傷兵が運び込まれるようになり、ついに壕に収容しきれないほどの規模に膨れあがった。負傷兵は壕がある山頂までトラックで運び、そこからは車が通れない道を私たちが担架に乗せて2人ずつで運んだ。負傷し、脱力した人間の体は非常に重く、急斜面を女学生2人で担いで下るのは今思うとたいへんなことだったと思うが、その当時は必死だった。

 

「鉄の暴風」と呼ばれた米軍艦船による艦砲射撃

 米軍の艦砲射撃は日に日にひどくなり、ついにナゲーラ壕付近にも届くほどになった。壕に収容できない負傷兵は、壕近くの道に寝かせておくことしかできなかった。その間にも容赦なく続く米軍の艦砲射撃を受け、負傷したり、亡くなる兵士も多く出た。

 

 4月29日、壕の前で仲間と話をしているとき、艦砲の直撃を受けた。私の向かいにいた友人は艦砲の破片が当たって胸に大きな穴が空き、そこから血が噴き出し、包帯を巻いて止血しようとしたがほぼ即死だった。

 

 別の日には、壕の中の二段ベッドの2階で負傷兵が手榴弾で自決した。物量に任せた米軍の侵攻が迫ってくるなかで、自分が兵隊として使い物にならないほどの傷を負っていることへのむなしさや、傷の痛みに耐えられなくなったのだと思う。壕の中には血や肉片が飛び散っていた。

 

 死者は地面に艦砲が炸裂したあとにできる大きな穴へ埋葬した。埋葬といっても当時は1人1人丁寧に埋めることなどできず、遺体をムシロにくるんで手を合わせ、放り込むように穴の中へ埋めた。あのとき亡くなった人たちはみな一緒に誰の骨かも分からない状態で埋められたが、当時はみんな明日は我が身の心境で“悲しい”という気持ちさえ起きなかった。

 

艦砲射撃で蜂の巣のようになった首里城周辺

 5月の中頃になって軍の指揮系統も麻痺し、「近くに家族がいる者は帰りなさい」ということで、私はナゲーラ壕を離れ、首里高女の女学生と2人で一緒に糸数アブチラガマ(現・南城市)にいる母の元へ向かった。

 

 アブチラガマへ到着すると母親と弟と会うことができた。弟は工兵隊として首里の激戦地へ送られていたが、あまりに戦況が激しく、まだ中学1年ということもあり、本部の食料倉庫の番を任され糸数へ戻ってきていた。ガマ(天然洞窟)の中で生活していたとき、壕の外で炸裂した艦砲の破片が左足首に刺さった。真っ赤に燃えた鉄の破片がそのまま肉に食い込み、その猛烈な熱さと痛みは忘れられない。

 

 6月1日、ついにアブチラガマも危なくなり、家族3人で別の壕を目指した。そこからは軍について各地の壕を転転とする状況だった。道中に見た沖縄の街は悲惨なものだった。そこらじゅうが艦砲の穴だらけで、雨期のため地面はぬかるみ、逃げ惑う人人が踏み荒らして田んぼのようになって道がどこにあるのかさえ分からない。そしてあちこちに負傷した人が倒れ、亡くなった人が風船のように青ぶくれ、足で踏んでしまうとブスッと破裂するような状態だった。

 

 みな自分の命一つを守るのに必死で逃げ惑い、負傷者に手を貸すような余裕がない。ケガをして歩けなくなった女の子が這って泣いていたが、前を行く人はみな「ついてこい」としかいうことができず、助けたくても助けられない。その女の子もどうなったのか分からないままだ。移動する行く先先では「トンボ」と呼ばれる米軍の偵察機がぐるぐると上空を飛んで避難民の居場所を沖にいる母艦に知らせる。その直後にそこを狙って艦砲が雨のように襲ってくる。

 

 6月13日、艦砲を避けるために数人が隠れていた農具庫に艦砲が命中し、私は意識を失った。一時経って弟のうめき声で目が覚めた。弟は左半身全体にケガを負い、腕も折れていた。母は無傷だったが母の前と後ろにいた人たちは艦砲の破片が直撃して即死しており、私が駆けつけたときは母と弟の背中から大量の返り血がしたたり落ちていた。

 

 私は背中の肉が半分えぐれるケガを負ったが、幸い一命はとりとめた。弟は2日後に亡くなった。弟の遺体は母が1人で焼いて埋葬した。そのとき私は「どうせ自分もいつかは死ぬのだろう」と思っていたため、悲しみをまったく感じなかったが、あのとき一人息子を自分の手で焼かなければならなかった母の気持ちを考えると本当にむごいことだと思う。

 

 背筋をやられたためか、私は座ったり寝たりするのも一苦労で、立ち上がる動作も自力では不可能になった。立って歩くのがやっとの状態で、友だちからは「あんたは自分のケガが自分では見えないから生きていられるんだよ」といわれた。その状態で壕から壕を転転とする日が続いた。艦砲が降ってきても、走って逃げることも伏せて隠れることもできない。ただ立ちすくんでいることしかできなかった。走って逃げる友を追いかけていくと、やっと追いついたところで、友だちはみな艦砲にあたって死んでいたこともあった。

 

米軍に拘束され、道路脇に座り込む住民(1945年4月)

 最後は具志頭村の壕に隠れているときに米軍の捕虜になり、知念町にある志喜屋の部落へ収容された。少しの違いで、艦砲の破片や銃弾に当たるか当たらないかで生死が分かれる。戦後、私の背中の傷を見た病院の先生から「結核の手術でもしたのか」と尋ねられたので、「艦砲ぬ喰ぇー残さー(艦砲の食い残しだよ)」と答えてきた。

 

 米軍基地はこれ以上増やすべきではないし、なくすべきだ。「基地の恩恵」というが、それ以上に沖縄の海や山がもたらす恵みは大きく、沖縄の人たちは昔からその恵みで生きてきた。沖縄の側から「使ってください」といって米軍に提供した土地は一坪もない。アメリカは戦後自分たちが沖縄の土地を奪うために侵攻し、強制的に住民を追い出して基地をつくったのだ。

 

 沖縄の人たちは金網の中に収容され、そこからバラバラの生活を送ってきているため、体験者の私たちでさえ自分の体験以外の沖縄戦の実態は知らないことの方が多い。若い人たちには、まずは自分たちが暮らしているこの沖縄の歴史をよく勉強してから沖縄の未来について考えてほしい。

 

 戦争に動員された学徒隊では、ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部・県立第一高女の女子学徒隊)が有名だが、沖縄戦では全21校から学徒が動員され、約2000人が亡くなっている。10代半ばの女子も男子もみな戦争へかり出されて亡くなっており、その多くが知られていないため「全学徒の碑」の建立を呼びかけ、昨年3月に完成させることができた。沖縄だけでなく、外国の戦地など戦争へかり出され犠牲になった多くの若者たちが、もし生きていれば今のような日本にはなっていなかったと思う。なぜあれほど死ななければならなかったのかと惜しい思いがしてならない。子や孫たちの世代に同じ経験をくり返さないためにも、沖縄に新たな基地をつくらせてはいけない。

 

興座章健氏(南風原町) 県立一中・鉄血勤皇隊

 

 沖縄戦は、米軍の反撃でガダルカナルが陥落し、日本軍が撤退、敗戦の一途をたどるなかで、兵員や軍艦、戦闘機や武器まで消耗し尽くしたうえで始まった。沖縄は米軍上陸前から制空権も制海権も失い、すでに丸裸にされていた。だが沖縄では、「ドイツ、イタリア連合軍や本土からの援軍が来る」といわれていた。戦艦大和も沖縄へ援軍に来ると聞いていたが、沖縄へたどり着く前に撃沈された。大本営はすべて知っていながら国民にも情報を隠し、いよいよ沖縄戦が始まった。「いつか神風が吹く」と教育され、当時10代だった私たちも正しい戦争だと信じて疑わなかった。

 

捕虜になり米軍の尋問を受ける鉄血勤皇隊の少年

 県立一中(現・首里高校)の4年生だった私たちは、陣地構築や、出征兵士を持つ家族の応援のために農作業を手伝っていた。昭和18~19年頃になると中飛行場(米軍占領後の嘉手納飛行場)の建設作業に動員されたが、ブルドーザーなど重機はなく、道具はスコップともっこだった。

 

 19年の10月10日、米軍が那覇を空襲した(10・10空襲)。これが沖縄戦の開戦だった。米軍のB29は沖にいる母艦と那覇の市街地上空を往復しながら那覇飛行場付近をめがけ、1日中爆撃を続け、これで那覇は全滅した。それからというもの何度もB29が1機だけで飛来してきては日本軍の高射砲が届かない高度を旋回し、何もせずに帰って行くことが続いた。沖縄上陸作戦に向けた偵察をしていたのだと思う。

 

 昭和20年の3月23日、米軍の艦砲射撃が始まった。米軍は夜が明けて明るくなると砲撃を開始し、日が沈む頃に攻撃をやめて沖に帰っていた。25日には慶良間列島に上陸して神山島に大砲を据え、首里方面に向かって砲撃を開始した。首里は一中の学徒たちが立派な壕を掘っており、中に入っていると安全だったためそこを拠点にしていた。

 

 学校では砲撃の合間を縫って卒業式をおこなった。当時中学は5年制だったが、4年生の私たちもくり上げ卒業となった。同期の入学者は250人いたが、予科練や陸軍の特別幹部候補生へ志願したり、九州や台湾へ疎開した者もおり、卒業式ではかなり人数も減っていた。その翌日、卒業生を含む学徒(14~16歳)によって鉄血勤皇隊が編成された。入隊後すぐに遺書を書かされ、支給されたのは軍服だけで銃も剣も持たされなかった。

 

 9班に分かれ、私たちの班は首里城の下に掘ってあった陸軍司令部の壕南口の土砂を搬出する作業を8時間勤務の3交代でおこなっていた。比較的安全な場所での作業だったが、壕の外へ土砂を出すときがもっとも危険だった。近くの農家の畑から芋やキャベツをとってくる食料調達や、激戦地へ行って米軍の攻撃によって切れた電話線をつなぐ作業もやった。米軍は夕飯時になるとすべての砲撃をぴたっとやめる。攻撃を受ける心配もなく、悠悠と戦争をやっていたのだ。

 

 4月28日、夕方静かになった時間に中隊長が「お前たち全員に食わす食料がなくなった。口減らしに何人か帰ってもらわなければならない。体力的に自信がない者は優先的に除隊するので手をあげなさい」といった。だが、手をあげる者は1人もいなかった。結局1人ずつ中隊長が指名し、除隊する19人が選ばれ、私もそのなかに入っていた。その19人で各班の班長に除隊する旨を伝えに挨拶に行ったが、「なに? それならおまえたちの故郷はいったい誰が守るのか。もってのほかだ」と全員張り倒された。中隊長からいわれたのになぜなのか…と思ったが、黙って軍服を脱ぎ、誰のかも分からない学生服を拾って、同じ方向へ帰る4人が一緒に自宅を目指して帰った。そのうち1人は途中で別れ、そこから家へ帰り着くまでのわずか3㌔の間に砲弾によって亡くなった。

 

 南風原村の役場に勤務していた父親と合流し、玉城村に避難している母や姉のところへ夜通し歩いて行った。家族と玉城村で合流したが、そこでは一般人も日本軍の援助として、首里の前線まで弾を運んだりしていた。米軍はすでに付近まで迫ってきたため、具志頭村の新城(あらぐすく)へ避難することになった。

 

 新城の天然の洞窟に入ったが、初めの1週間は静かで、艦砲も来ないし飛行機も飛ばない。戦争が終わったのかと思うほどだった。だが、翌週になると「ここは最後の戦場になるから民間人は知念半島へ逃げなさい」という情報が入ってきた。私たち家族はまた玉城の壕へ引き返した。道すがら、大勢の人たちが向かいから逃げてくる。「なぜ敵に向かっていくのか。すぐ近くまで敵が来ているぞ」といわれたが、父親は耳を貸さず進んだ。玉城の壕まで戻ったとき、米軍は玉城城址の一番山の高いところへ機関銃を据えてどんどん南の摩文仁方面へ向けて弾を撃ち続け、煙がもうもうと立ちこめていた。それを見て新城へ逃げていった叔父一家も銃弾に倒れた。四方から米軍に追い詰められ、安全といえる場所などなかった。

 

 その後、密林の中に私たち一家は潜んでいた。そこでは米軍が2人組で見回っていたので、暗くなってから水をくんだり、サトウキビをとったりする生活を1~2週間続けた。米軍の捕虜になった、一緒に逃げていた別の家族が呼びに来たので、米軍の収容所がある百名という部落で6月14日に投降した。

 

 収容所に来たばかりで住む家もなく私たち家族が地べたに座っていると、目の前をM4という巨大な米軍の戦車が何台も通り過ぎていった。それを見ると日本軍の戦車がブリキのおもちゃのように思え、呆然と立ち尽くしたまま涙が止まらなかった。

 

 馬小屋で寝泊まりし、翌日から米軍用地を整備する作業にかり出された。16歳から45歳までの男性はみな毎朝8時に集合し、2㌧トラックの荷台に積み込まれて玉城村にある今の国道331号線の溝浚いを2、3日やらされた。作業中、南部で収容された避難民が米軍に30人ほど引き連れられて歩いていた。そのなかに同じ鉄血勤皇隊にいた仲間が母親と一緒にいた。飛びついて「元気だったのか、よかったな」といいたかったが、声をかけることすらできなかった。一緒に勤皇隊を除隊された19人のうち、半分も生き残っていない。戦後は「自分は生き残って貧乏くじを引いたのだ」とずっと思って生きてきた。

 

 昭和22年ごろから本格的な基地建設工事が始まり、本土からも錢高組をはじめ大きな建設会社が沖縄へ入ってきた。家も土地も奪われた沖縄県民は、収容所から無一文で出され、その工事に携わることでしか生活の糧を得ることができない人も多くいた。私自身も、アメリカからやってきたAJカンパニーという建設会社に雇われ、日本人に対する運転免許交付の試験官をやった。

 

 地政学的に見て、沖縄は非常に重要な位置にある。沖縄古来の歴史が裏付けているように、各国との平和交流の拠点として利用することを足がかりに発展する道を進まなければいけない。今のようなアメリカだけに利用される軍事拠点にしてしまってはいけない。核戦争は人類を滅亡に導くものであり、それは誰もが分かっていることだ。沖縄を再び戦場にする道だ。米軍との戦後の関係を見ても、日本との地位協定だけ他のヨーロッパ諸国と比べてもまったく主権がない。日本政府はアメリカのいいなりになってしまっている。辺野古新基地も含め、米軍基地は沖縄にも日本にも必要ない。

 

県立第一中学校の学徒兵を追慕し建立された一中健児之塔(那覇市)

宮平盛彦氏(西原町) 県立一中・通信隊

 

 沖縄戦当時、県立一中の2年生で14歳だった。私たち2年生は軍司令部の通信隊として入隊した。30人ずつ各班に分かれて配置され、私は南風原村の壕へ配属となった。首里にある司令部との通信は電話だったが、戦争が激しくなって艦砲射撃などで電話線が切れると、私たち通信兵は電報を持って艦砲のなかを走り、別の陣地へ伝達する仕事を任されたりもしていた。沖縄戦で実際に戦闘がくり広げられたのは首里から北側の地域までで、首里から南側へ米軍が攻めてきた頃には日本軍も住民もただただ南へ逃げるだけでとても戦える状況ではなかった。

 

 南部へ撤退する途中で米軍の攻撃がひどくなり、多くの人人が犠牲になった。ひめゆり部隊が勤務していた陸軍病院も米軍が迫っているということで閉鎖・撤退することになったが、重傷者もいたため、動けない人はその場で自決しなければならなかったという話も聞いた。私たちは動けるので山のあぜ道を歩いたが、病院の患者や負傷兵は足場の良い大通りしか歩くことができない。

 

 医療器具や薬品を積んだトラックについて歩いていた。大きな一本道で逃げ場もないのだが、これをめがけて米軍は艦砲射撃やグラマンからの機銃掃射を無差別にくり返した。沖縄戦でもっとも悲惨な目にあい、犠牲になったのは無抵抗の住民たちだった。首里から南側の戦線ではまったく攻撃する必要はなかったが、米軍は攻撃をやめなかった。

 

 6月23日、沖縄の南端にある摩文仁の山城という部落で私が所属していた通信隊の部隊は解散した。すでに沖縄は米軍に占領された状態だったが、まだ北部には日本軍が残っており、大本営は1日でも長く沖縄でたたかえという方針であったため「できるだけ北部へ突破して合流しなさい」という指令が出た。だがすでに司令官も参謀長も自決していた。

 

 私たちの部隊もそれぞれ分かれて北部を目指し、坂本曹長と行動を共にした。すぐ近くの海岸へ降りると南へ北へ逃げる兵士や一般人でごった返しており、すでに沖縄での敗戦は決まっているにもかかわらず米軍はそれを崖の上から攻撃していた。海岸沿いは危ないということで陸へ上がり、アダンのジャングルの中に身を潜めた。

 

米兵に捉えられた鉄血勤皇隊の少年たち

 23日から1カ月ほどそこへ潜伏していた。7月初め頃までは米軍が敗残兵狩りにやってきて、機関銃や火炎放射でジャングルを焼き払った。ジャングルのなかを逃げ隠れしながら敵の攻撃がおさまるまで耐え、8月の初め頃にジャングルから出て北部の山原(やんばる)を目指した。昼は壕や岩陰に身を隠し、夜はひたすら歩いて東風平まで着いて壕に隠れていると、海上の米艦船がボンボンと空に向かって艦砲を撃ち、サーチライトを右往左往させているのが見えた。「今日は特攻隊がたくさん出撃しているのだろう」と思っていたが、あとで聞くと8月15日にアメリカが戦勝祝いをやっていたのだそうだ。だが当時はまさか戦争に負けたとは知らなかったため、私たちの逃避行は続いた。

 

 さらに北部へ向かうため、9月の初め頃に南風原の津嘉山にある軍司令部のために掘った壕へ移動した。すでに私たちと同じように北部に行く機会を待って潜伏している日本兵が7人おり、私と坂本曹長もそこに仲間入りした。1日中壕の中で、軍が残した食料と水で食いつないだ。

 

 10月の半ば頃になって投降を呼びかける声とともに2人の日本兵が壕の中に入ってきて「すでに日本軍は敗戦し、みな米軍の収容所に集まっている。近いうちに本土の者は故郷へ帰ることができる」といった。しかし誰もその言葉を信用せず、スパイと思ってその2人を後ろから射殺するという悲劇もあった。私は壕の奥に身を潜め、音だけを聞いていた。戦後、長くそのことが気がかりで、その兵隊のご遺族と面談することができ、私も故郷の北海道に手を合わせに行った。11月末になりようやく津嘉山の壕を出て金武町にある屋嘉の収容所へ連れて行かれた。

 

 私の家族は両親と姉2人、妹1人みな島尻(本島南部)で亡くなっており、生き残ったのは私だけだった。戦後、亡くなった場所だけは教えてもらった。どのようにして亡くなったのかなどは聞くほど辛くなるため、それ以上は聞いていない。毎年六月になったら島尻に参拝に行っている。

 

 戦後は母親の姉に引きとってもらい、高校へも通わせてもらった。家族がみないなくなったのは辛かったが、「自分1人だけではない。他にも苦労している人がたくさんいるんだ」と自分にいい聞かせながら深く考えないように心がけていた。

 

 戦争は絶対に二度と起こしてはならない。私が体験したことと不戦の思いはいつまでも頭の中から抜けることはない。近頃また戦争へ向かう雰囲気があることが心配でならない。沖縄は基地があるために有事の際には世界中の戦争に関わることになる。今回の知事選でどうなるかは注目しているが、日本政府はいつも金に物をいわせてえげつないことやって選挙に乗じて沖縄に乗り込んでくる。それに食いついていく者がいるのも現実で、この構造を変えなければ未来は拓けない。

 

米兵の監視下で応急処置する学徒

西原善英氏(西原町) 電信三六連隊所属

 

 私は、西原町翁長で生まれ、沖縄戦が近づく昭和20年3月に、20歳のくり上げ入隊で首里の陸軍電信三六連隊向井隊に配属され、それから最後までずっと司令部付きだった。徴兵検査を受けた最後の世代だと思う。

 

 当時、首里に近い西原町では、学校や大きな民家には本土や沖縄中から集められた兵隊が寝泊まりしていた。家を追われた住民は親戚縁者の家に身を寄せながら、空襲警報が鳴ると山や墓に避難する毎日だった。

 

 米軍が上陸し、浦添や宜野湾での戦闘で日本軍が壊滅した後は、三二軍司令部は早早に首里を捨てて南部に退却し、私たち通信隊も津嘉山にこもって無線で戦況を本土の大本営に伝えていた。

 

 米軍は与那原からも上陸し、日本軍はほとんど抵抗することもできず、「反撃」とか「攻防戦」などといえるものはなかった。戦場にあるものは、生きるか、死ぬかという二つだけだった。米軍は空からは戦闘機による爆撃、海からは艦砲、そして戦車で砲撃を加えて日本軍や住民を追い詰め、部落を丸ごと蜂の巣のようにした。首里に近い西原は、住民の半数(5000人以上)が死亡する凄惨な戦場になった。沖縄戦においてもっとも多くの犠牲を出した場所の一つだと思う。

 

 私たちは津嘉山に潜伏したが、向井隊で生き残っていた六人も逃避行のなかでバラバラになった。米軍は手榴弾と火炎放射器も使って追い詰めてきた。「出てこい、出てこい」と呼びかける米軍が榴散弾(一発から多発の弾が飛び散る砲弾)を撃ち、そのときに首、腹、左耳と左目を負傷して使えなくなった。耳はヤケドのように水ぶくれたため、ナイフで自分で切りとった。捕虜になっても、逃げようとすると容赦なく追ってきて射殺される。どうせ死ぬなら最後まで抵抗しようと思っていた。

 

 8月15日の敗戦を知らず、10月まで潜伏を続け、日系2世が説得に来て「もう戦争は終わったから出てきなさい」という言葉に応じて投降した。そのときすでに一番最初の捕虜は、送られていたハワイから帰ってきていた。

 

 捕虜になり屋嘉の収容所に入れられた。捕虜は身元引受人がいなければ釈放されないため、名前を提示して迎えを待ったが、いつまでたっても家族が来なかった。しばらくして親戚が迎えに来て、家族の消息を知った。父親は防衛隊で戦死し、母親も亡くなり、4人の妹弟たちはそれぞれ孤児収容施設に入れられていた。その妹弟たちを迎えに行き、親がわりになって育てた。一番被害の大きかった西原町翁長地区は一家全滅も多く、多くの孤児がもらわれていった。生き残った者も辛い戦後だった。

 

 辺野古新基地どころか、いまだに沖縄に米軍基地があること自体が問題だ。基地があるから叩かれる。戦場になる。それが沖縄戦だった。なぜ沖縄があれほどの受難を被ったのか考えれば、答えは簡単だ。いうにいえない苦労を背負ってきた沖縄県民に、米軍基地を受け入れる者はいない。

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