いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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福島 見通し立たぬ避難に怒りが充満

 東日本大震災から1カ月を迎えるなか、地震と津波の被害に加えて、収束のメドがない原発問題を抱える福島県内では、放射能汚染のために半径30㌔圏内の被災地は放置され、住民は見通しのたたない避難生活をひたすら続ける深刻な事態となっている。生活再建に踏み出すどころか、いまだに立ち入ることのできない20㌔圏内には多くの遺体が残されたままとなっており、その「棄民」政策に避難住民たちのなかではいらだちと焦りが充満している。
 福島県内では、9日午後9時現在で死者は1241人、不明者は3488人、重軽傷者は220人以上。行方不明者は、原発があるため捜索ができない双葉署管が1287人と最も多い。地震発生から1カ月を迎える今も県内から自主避難した8万人もの住民の所在が確認できておらず、原発周辺の双葉郡八町村では約3万人が所在不明となっている。
 福島第一、第二原発事故によって20㌔圏内にある双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、楢葉町、川内村(一部)の約6万2300人の住民に避難指示が出され、県内では、他県の被災地と違い、毎日、放射線量と風向きを確認し、住民の大半がマスクをして歩いている異様な光景となっている。
 郡山市にある多目的施設「ビックパレットふくしま」には、町全体が20㌔圏内に入る富岡町民(約1300人)、同じく30㌔圏内の川内村(約700人)のあわせて約2000人が避難生活を送っている。体育館や廊下、ロビーなどに段ボールなどで敷居を作り、毛布の上にごろ寝状態という過酷な環境だが、ここに両自治体の役場機能が移転しているため、情報が伝わりやすいことや全国から寄せられた救援物資や食糧などが配給されるため多くの住民が集まっている。壁には所狭しと家族の安否を伝える伝言や不明者の目撃情報を求めるチラシ、その他、生活に関わる様々な情報が張り巡らされ、いまだに混乱がつづく被災地の現状を物語る。
 避難生活をはじめて1カ月。住民たちの中でもっとも強く語られるのは、なんの説明もないまま避難させられ、いまも必要な情報が伝えられず放置されていることだ。地震と津波であれば行方不明者の捜索や被災した家の整理もできるが、原発事故が続いているために立ち入ることができない。しかも、緊急避難であったため体一つで避難した人が多く、手足をもがれた状態での難民生活を余儀なくされている。もともと「安全神話」で塗り固めた原発行政だが、大災害に至っても住民たちの生命、財産の保護については「二の次」の対応が続いていることに、住民の我慢は限界に達している。
 夫婦で避難している40代の男性は、「地震当日の11日は、“津波と地震で危ないから避難せよ”という防災無線が流され、みんなは町内の避難所で夜を明かした。私は車の中で寝たが、翌朝になって町内の様子を見て回ろうとしたら、途中でパトカーに遭遇して“そのまま川内村へ行け”といわれた。そのとき、すでに警察官は全身防護服に防毒マスクをしていた。私たちにはなんの説明もないまま川内村で4日間過ごし、今度は30㌔圏内も危ないということで郡山まで移転した」と経過を語る。
 「この施設でも“7月までは面倒見るが、その後はわかりません”という。“家にも帰るな”という。他市町の施設や住居への転入募集があるが、全体から切り離されたら情報も物資も入ってこない。生活費もないので断ると“無利子貸し付けはできる”“今度が最後で次はありませんよ”と脅すようにいわれた。地震と津波被害なら、いまごろは家に帰って片付けくらいできる。だが、原発のおかげでまったく見通しが立たないのだ。誰のおかげでこんな目に遭っているのか」と怒りをぶつけた。
 娘親子と夫婦4人で避難してきた土建業者の男性も、地震の翌日、「避難せよ」としかいわれなかったため2、3日で帰れると思い、着の身着のままで出てきたという。「燃料がなかったので車を置いてバスに乗せられ、1カ月も身動きが取れない。原発から20㌔圏内の住民は完全に放置されている。テレビでも原発付近の被災情報は流れないし、30㌔圏外の放射線量は公表するが、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町など現地の線量は出さない。今後の補償の線引きのために発表しているだけだ」と話した。
 「自分の家は津波で流されたので早く帰って再出発をしたい。重機も潮をかぶって使い物にならず、修理を頼むのにも部品が入らない。県外に運ぶため100万~200万円はかかる。自分たちは後先短いが、子や孫のことを思うとじっとしておれない」と心境を語った。
 30代の女性会社員は、「地震当日は会社から急いで母のいる家(富岡町)に帰ったが、電気も水も止まっていたので避難所に行かざるを得なかった。避難生活は長くても1週間くらいだろうと誰もが思っていた。川内村では、1日におにぎり1個の生活で、情報源もラジオだけ。原発が爆発した映像を見たのは1週間後で、あまりにも事実を知らされていないこ」といった。
 さらに、「勤めていた会社は、4月までは有給休暇を認めるが、社会保障費は会社と折半が条件。5月からは解雇になる。原発のために住所が決まらず、準社員だからだ。ここで支給される食べ物は、おにぎりやカップラーメンで他のものは自分で買ってこないといけないが、生活費が足りない。働こうにもハローワークは4時間待ちで、専門技術や家がない人は就職もできない。どうやって食べていけばいいのか」と不安を語った。

 配管破損は日常茶飯事 住民が話す原発内部

 また、「地震当日、知り合いの東電社員から“危ないから逃げろ”と電話がかかってきたが、そのときすでに東電社員は裏磐梯(会津若松市)のリゾートに避難していた」(下請け会社社員)、「3号機爆発の前夜には、それまで昼夜たがわず飛んでいた自衛隊ヘリが一機も飛ばなかった」とも語られ、大惨事を事前に予測しておきながら住民は完全に蚊帳の外に置かれていたことが暴露されている。そのなかで住民からは、原発事業をめぐる東電と国との長年の癒着関係が口口に語られている。
 元原発技術者の男性(70代)は、「三菱の下請けとして10年ほど原発の作業をやっていたが、なにか事が起きれば隠すというのは東電の歴史はじまって以来の体質だ」と語る。
 「原発の仕事は95%は子会社に丸投げし、東芝や日立などが地元の下請け業者を使ってやる。原発事業は、電力会社から学者、官僚もすべてつながっているので、事故が起きれば官僚や東電が自分たちに責任が及ぶことを恐れて、いつも東電の現場職員や中間管理職に責任を押しつける。事故対応の総務課職員の自殺は日常的だった。リークしそうな人間には金と女で黙らせてきた。だから、今度のような大きな事故が起きても、現場の意向は全く反映されない。東京本店と現場との関係が完全に転倒している」と話す。
 また、「原子力安全・保安院の役人は、現地に5年もいれば“蔵が建つ”というくらい左うちわだ。接待はもちろん、住まいから夜遊びまですべて東電が世話をするので、国からの給料は手つかずで退職できるという。だから、国は今回の事故処理では歯切れが悪く、東電もふてくされて責任の投げ合いをしている。裏を知ってる町民は、東電の情報を信じないし、国も原子力学者もまともなことをいうとは思っていない」と話した。
 別の元下請け経験者は、「炉心の修理は、機密保護の法律に触れるため一般人にはやらせない。どんなにコストがかかってもGEなど外国メーカーの技術者を呼んでいた。そのためにGEも全世界に現地法人を置いている。だが今回、GEは“すでに補償期限が切れている”といって一歩引いている。しかも、体力のない60代以上の熟練者は管理区域には入れず、法外な日当を出して若い者ばかり集めているが、経験が浅いからわからない。そこに、さらに現場にうとい東京の幹部連が陣頭指揮をとったから大混乱したのだろう」と話した。
 住民の中には東電の下請け作業員も多く、「福島第一原発の老朽化は作業員の間では評判だった。これまでも配管が薄くなって破裂したり、錆びたネジの交換をしてきたが、その量が考えられないほど多かった。危ないと判断して20年近くやった原発の仕事から手を引いた。津波や地震を想定する以前の問題だった」(大熊町民)、「今回も事故対応の依頼があったが断った。農家で冬の出稼ぎのつもりで、人材派遣会社を通じて原発の配管の仕事をしていたが、肉厚の配管も温排水を流せば数年すればペラペラに薄くなっていた。それなのに応急処置だけして点検の時期を延ばしたり、廃炉にするはずの1号機にプルサーマル導入を決めたり、デタラメも度を超していた。新設するより廃炉にする方が金がかかるからだ。今回の事故もまだかなりの部分を隠している」(川内村民)と、原発がいかに非科学的であり、利権にまみれたインチキでまかり通ってきたかがとめどもなく語られている。
 避難所で生活する富岡町会議長は、「原発事故の訓練はやっていたが、県と町、原子力保安院でおこなう形式的なもので住民参加ではやっていなかった。1年間で80億円くらい県に入る核燃料税で作りはじめた災害用の避難道路も、財政不足で3分の1しかできていなかった。だから、プルサーマル導入も反対もあったが12対3で可決した。これまで、原発に頼ってきたがその代償が大きすぎた…」とさめざめと心境を語っていた。
 
 町ごと奪った原発  「屋内退避」の南相馬市

 原発から30㌔圏内で「屋内退避」区域とされた南相馬市では、多くの住民が「自主避難」して人のいない町と化した。駅前の目抜き通りにも人影が見あたらず、商店街もシャッターを下ろし、「当面の間、閉店」と張り紙が貼られている。自動販売機にも「休止中」の札が貼られ、大型スーパー、銀行、郵便局、保険会社など大手企業はいまも営業を停止し、市街地は閑散としている。
 沿岸部に近づくと光景は一変し、津波に飲まれた住居の残骸が土砂や海水に埋もれた荒野が一面に広がる。「見えなかったはずの海が見える」(住民談)ほど広範囲の居住区が波にさらわれ、土砂の中にはいまだに1000人を越える行方不明者がいるといわれる。だが、自衛隊などによる不明者の捜索やガレキ除去の様子はなく、避難していた居住者や親戚縁者たちが訪れて手作業で埋もれた家を掘り返している。
 原発から15㌔地点に自宅があるため避難所で暮らしている農業者の男性は、「三陸地域に比べても、このあたりは原発の関係で後回しにされている。ようやく7日から警視庁が遺体の捜索をはじめたが、男女の区別も付かないほど腐乱した遺体が見つかって身元調査もできない。家を流され、家族が行方不明の住民にとっては生殺しといえるほどむごい状態だ」と語る。
 また、「原発のある浜通り地区の民間企業はすべて操業停止。農漁業もできない。6万人が失業し、家に帰れるのかどうかもわからないまま宙づり状態に置かれている。農家は今年の作付けはまずできないが、政府は現状を評論するだけで補償など具体的な対策を示さない。地震当時、JA幹部も東電と中国旅行をしていたというが、上層部が全部癒着して住民をコケにしている。納税の義務、勤労の義務をまじめに果たしてきた国民をこれ以上見殺しにするなら、みんなの不安は怒りに変わる」と感情をかみしめるように語った。
 酪農家の60代男性は、「56頭の乳牛の世話で21日まで残っていたが、自衛隊が家にやってきて半ば強制的に避難場所に連れていかれた。残された牛たちは、餌がもらえないまま衰弱し、放射能を浴びているので殺処分されることになる。小学校も閉校し、一度避難した若い人が帰ってくるか分からない。野菜も“福島産”というだけで売れなくなるし、莫大な漁業補償金をもらって御殿を建てた漁師も、津波で家が流され、避難地域で立ち入りも禁止された。金よりも、子や孫に受け継ぐふるさとを返して欲しい」と激しく語った。
 同じく避難中の婦人は、「マスコミはお涙ちょうだいのドラマをかき立てているが、そんなものではなんの力にもならない。同情や悲しみだけでは何もはじまらない。生き残ったものが働くことでしか復興ははじまらないのに、この地域ではなにもできない状態が1カ月も続いている。このまま住民をあきらめさせて他所に転居させ、20㌔圏内は原子炉から漏れ出した汚染水や廃棄物の処理場にするつもりだと思う。身の回りの世話をするボランティアよりも、現地の人間が働いて自分の地域を復興できる基盤を補償して欲しいというのが私たちの願いだ」と訴えた。
 福島原発周辺の住民の中では、原発が持ち込まれる過程で農漁業などの地域産業が潰され、東京依存型に作り替えられてきた歴史的な経過を語る人も多い。
 いわき市の商工業者の男性は、「福島県浜通りは、常磐炭鉱や全国有数のサンマ漁の船団で栄えた地域だった。それがエネルギー産業構造の転換で炭鉱が閉鎖され、100隻くらいあったサンマやサケ鱒漁の船団も10隻程度になり、一気に街は寂れていった。農業地域で出稼ぎ者が多い相双地域に原発を誘致してからは、小野浜港にはサンマはあまり揚がらなくなった。福島市、郡山市などの中通りに新幹線や東北道が開通したが、原発の浜通りでは常磐道が仙台市の手前の相馬市でストップし、完全な原発道路になっている。経済圏が東北地方から切り離され、原発や東京依存型の経済が作られてきた」と語る。
 水産関係者の男性は、「東電の社員は、双葉や富岡などには住まず、ほとんどがいわき市の新興住宅に一戸建てを建てて暮らしている。危ないことを知っているからだ。これまでも大熊町近海では奇形種の魚が揚がって問題になったが、これも金でもみ消した。下請けで働いていた友人は、金はもっていたがほとんどが50代でガンで死んでいった。原発は健全な産業を潰すことで成り立ってきた」と話した。
 富岡町の60代の婦人は、「原発を建てるとき、広島や長崎の原発のことが頭にあったのでむしろ旗を立ててみんなで反対した。だが、議会で誘致が決まり、原発工事で雇用もできて宿泊施設なども繁盛したり、道路も整備され、田んぼのあぜ道までアスファルトで舗装された。立派な町役場や、コミュニティーセンターなどが作られ、町民も“安全”という東電の情報を信じて生きていくしかできなくなっていた。でも、結果的に維持費で財政は厳しくなり、泥縄式に原発が増えていった。今度の事故で町そのものが奪われてしまった。原発は二度とお断りだ。日本中の原発もすぐに停めてほしい」と話した。

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