いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

行政麻痺し沿岸漁村は手つかず 宮城県女川町や石巻市

 東日本大震災から1カ月以上が経過し、政府やメディアは「復興の道筋が見えた」という一段落のムードを作っている。だが、地震と津波に襲われた現地では復興にはほど遠い状況が続いており、とくに小規模集落は手付かずの状況に置かれている。政府の対応能力も含め、この間の構造改革がもたらした人災であることを多くの被災者が語っており、水産業や農業など東北地方の基幹産業の復興へのいち早い対応が求められている。津波によって壊滅的な被害を受けた宮城県の状況を報告する。
 津波で壊滅的被害を受けた宮城県では、14日には仙台空港などの交通機関が回復する一方で、基幹産業の漁業施設をはじめ、沿岸にある漁村集落などはいまだに行方不明者が見つからない手付かず状態に置かれている。多くの地域では、規模の違いはあれ漁業が基幹産業であり、それに連なる水産加工やその他の産業が地域の生活を支えてきた。
 津波によって4万4000世帯が全壊、3万4000世帯が半壊した石巻市では、全国有数の水揚げ高を誇っていた漁港施設、漁協共同施設、水産加工場などの関連企業が大規模に壊滅した。また、港に隣接する日本製紙石巻工場では、周辺にロール紙や原料のパルプなどが散乱し、貨物輸送に使われていたコンテナ基地も線路も津波に蹴散らされたまま放置されている。食品飼料団地、木工団地などの被害も甚大で全国の製造業をマヒさせている。
 東北有数の規模を誇る石巻市水産物地方卸市場は、潮受け堤防を破って押し寄せた津波で市場建屋が根本から引き抜かれ、地面に叩きつけられたようにつぶれている。燃料タンクも倒れ、新しくつくられた活魚センターも「一度も使うことなく」半壊。軒を連ねていた水産会社も骨組みだけ残して瓦礫に埋もれており、その多くが廃業に追い込まれ、何万人ともいわれる失業者が生まれる事態となっている。
 底引き船の乗組員の男性は、家も車も流されて船内で暮らしていることを明かし、「復興のメドも立たず、まだ誰も漁に出ていない。魚は捕れるが、水揚げする施設がないし、水道も復旧していない。さらに、原発事故のおかげで宮城県産の魚も売れるかどうかもわからないのが最大問題だ。茨城県でも半値以下で買い叩かれている。被害の大きかった19㌧未満の船会社は解散して、失業者があふれている。個人で借金してマイナスから出直せるほどもうかる商売ではないからだ。私たちも、4月一杯は待機だ」と話した。
 まき網船の乗組員は、「13隻ある65㌧クラスのまき網船は、漁で沖に出ていたので無事だったが、冷凍、冷蔵や市場機能がやられて漁に出られない。漁をする期間は、9月から翌年の6月までの9カ月と決まっているので、早く再開しなければ今年は漁ができないことになる。だが復旧は、地元だけでは重機や人手も足りない。かろうじて道路が通れるが、その他の復旧のメドがないし、原発事故の影響も無視できない。国の対応にかかっているが、地元選出の国会議員もまったく動かない」と語った。
 この日、冷凍庫から流されて港に散乱した冷凍魚などを、失業者も含め水産業にかかわる人たちが総出で片付けていた。「いまだ10分の1も片付いていない」といわれるが、そこには水産業復興にかける市民の思いが現れていた。
 作業に参加していた婦人は、「水産会社で魚の選別作業をしていて、津波が来たときに会社のバスで逃げたから助かった。逃げ遅れて丸ごと飲まれた会社もあり、生きているだけでもありがたいと思う。石巻は漁業でしか復興はない。いまは会社を解雇になって生活は厳しいが、ここを立て直すまで会社の枠を越えてみんなでがんばりたい」と話した。
 石巻市から北上すると牡鹿半島へ入る。この半島は典型的なリアス式海岸で、ひだのように入り組んだ湾にはいくつもの漁村集落がある。津波は、その小さな集落も例外なく飲み込み、すさまじいエネルギーで人や家畜、樹木、建物のすべてを山側に押し流し、さらに強い力で沖へさらっていった。道路がなくなり、泥の中で家の基礎だけがプールのように浮き上がり、窓ガラスが割られた学校や病院だけが不気味にたたずんでいる光景は、空爆を受けた戦後の焼け野原を思わせる。
 だが、これらの集落は、仙台や石巻などの市街地や、すでに仮設住宅が建設されている陸前高田市(岩手県)などと比べると、泥に埋まったままの手付かずで、多くの遺体がいまだに放置されている。捜索や道路復旧に配置されている自衛隊員も数人しかおらず、マスコミで報道されることもない。
 家が流されて石巻市の親戚に身を寄せている男性は、「それぞれの湾に侵入した津波は、山側まで到達して隣の湾の津波と合流し、まるで巨大な洗濯機のようにぐるぐるとかき回した。だから、頑丈な建物もひとたまりもなく流された。私の兄弟もまだ見つからない。この町も合併しているから広域になって職員も少なく、自衛隊がくるのも1週間後だったので、流された人の救出は漁船や消防団がやっていた。自衛隊も生きている人を優先するので、壊滅した部落は後回しになっている。1カ月たってやっと捜し始めたが、遺体は腐乱して身内も判別できない」と話した。
 「親戚の家に世話になっても、1カ月もただで飯を食うわけにはいかない。自分も漁船のコック長をやってきたが、船がやられて解雇になった。50歳を過ぎてからの雇用先はなく、どうやって食いつなぐかが一番の悩みだが、家族のためにも頑張るしかない。民主党も自民党もあてにはならない。亡くなった人だけでなく、生き残った人間もこのままでは飢え死にではないか」と話した。

 何時間も避難所開かず 災害対応できぬ女川

 牡鹿半島を抜けると原発を抱える女川町へ出る。この地域は、最大規模の地震をもたらした震源に近く、津波の規模もすさまじかったといわれる。海辺に立地されていた消防所や魚市場、銀行、保健センターなどの公共施設などが壊滅。駅付近に停車していたと思われる列車は切断され、山側の墓地の崩れた墓石の上に乗っていた。小高い場所にあった役場もほぼ全階に浸水し、すべての役場機能が奪われた。逃げ遅れたおよそ3000人(いまだ調査中)の住民が死亡したといわれる。
 800人ほどの避難民が身を寄せている総合体育館では、住民たちが瓦礫から集めた材木でたき火をして暖をとっていた。みんな家を失った住民たちで、地震以来の1カ月間、ここで暮らしている。住民たちのなかでは、女川町が原発立地自治体であることとも関わって自治体が利権の道具になる一方で災害対応能力がまるでないこと、歴史的な津波被害を無視して開発をやってきた戦後の行政のあり方を指摘する声が後を絶たない。
 住民の一人は、「テレビでは復興の光が見えたなどといっているが、このあたりは被災直後とほとんど変わっていない。芸能人や国会議員も顔を見せるだけの売名行為だ。生の実態を伝えてほしい」と語り、「役場機能がマヒして、1週間以上食べ物も飲み物もなかった。この避難所も鍵が開かず、自分たちは何時間も雪の降る屋外で待たされた。役場が動かないので次の日から住民の手でタンクに水を貯めて運んだり、被災した水産会社が譲ってくれた冷凍サンマやサケを焼いて食べたから助かった。水産業が復興しなければ町がなくなる」と話した。
 別の男性は、「女川の遺体が岩沼であがったり、気仙沼の遺体が女川で見つかっているくらいだから福島原発も放射能はここにも必ず影響してくる。女川原発も絶対に隠している。これまでも事後報告ばかりだった」と話す。
 原発で働いてきた中年男性は、「女川原発も異常事態になっている。今回も身内が女川原発で復旧作業にあたっているが、被災以来、作業員は缶詰状態で一歩も外へ出さない。家族との連絡も取らせないし、生きているのか死んでいるのかもわからない。これまでも従業員には格納容器のなかで作業をさせていたが、今回は日当を通常の数倍にも上げていると聞く。“死んでこい”という意味だ。そういう体質が今回の災害にも現れている」と話した。
 11人の身内が未だに行方不明という年配婦人は、「この町では歴史的に津波に襲われているので、町のいたるところに“津波に用心”という石碑が建っていたが、原発立地後の開発に次ぐ開発で埋め立てをやる過程で全部撤去された。原発交付金で町立病院、温泉施設、老人ホームなど立派なハコモノを建てたが、議員たちの息のかかった業者に払い下げ。役場も人脈やコネで入るものが多く、住民のことを考えるものがいない。カツオ漁などの水産業が盛んだったが、日本人ではやっていけずに中国人を雇いはじめた。若い者が都会に出て行って年寄りばかりになった」と話した。
 住む家が流された年配者は行き場がなく、公的援助なしには「のたれ死に」の様相となっており、「ひと思いに津波に流されておけばよかった」と語る人も少なくない。早急な対応が求められている。

 大川小は児童7割死亡 町村合併の旧河北町

 さらに北上すると旧河北町(平成17年に石巻市に合併)に出る。この町では、太平洋へ通じる北上川に津波が押し寄せ、数㌔にわたって沿岸の町を押し流した。
 河口付近にある石巻市立大川小学校では、学校に残っていた108人の児童のうち74人が死亡。教職員も、外出していた校長と教務主任をのぞいて全員死亡したという。校舎は土砂で埋まり、そのなかから小さな遺体が次次に運び出されたが、いまだに10人が見つかっていない。辛うじて残った門柱には、たくさんの花束やお菓子が備えられていた。
 土の中から泥まみれの学用品を大事そうに集めていた母親は、「1年生の息子と4年生の娘がいまだに見つからない」と話した。「自衛隊の人たちが一度、泥を掘り返し、それでも見つからない子どもは、人間の手による捜索は打ち切られた。私たちももう見つからないという覚悟はあるが、気持ちはいつまでも3月11日のまま止まっている」と話した。毎日、夫とともに手がかりを探しに訪れているという。
 「4月9日にはじめて教育委員会からの説明があって、津波当時の状況が知らされた。津波警報が出されて、残っている子どもたちを全員校庭に集めて点呼をとって避難中に流されたのだという。防災マニュアルはあったらしいが、逆にマニュアルにこだわりすぎて避難が遅れ、わが子を連れに来て待たされていた親たちも一緒に流されてしまったという。その後のニュースでは、大川小学校の子どもたちは避難しているという情報が流されたがこれもウソだった」と無念さをにじませた。
 河北町が石巻市に合併した後、学校の安全性について住民から市教委に意見が上げられていたが取り上げられなかったことにも触れ、「市の防災計画では、この学校が避難所になっていたほどだ。市町村合併やマニュアルという役所の都合を優先した結果、子どもたちを守ることができなかったことは重く受け止めてほしい。今回のような災害はだれも予期できなかったが、もう少し実際にあった行動がとれていたら一人でも多くの子どもが助かっていたはずだ」と語った。
 宮城県北部の水産都市である気仙沼では、水産施設が集まる南部地域が津波で壊滅し、その後、炎上した。陸側数㌔の地点でも、真っ黒のガレキの渦の中に大型漁船が打ち上げられており、津波の激しさを物語っている。
 日本有数の水産基地が軒並み壊滅しているなかで、戦後の国の漁業政策のなかで基礎体力が奪われ、個別で復旧できる資金力をもっている地域は少ないのが現状となっている。現状を放置することは、東北地方をさらなる壊滅に追い込むことにつながり、西日本での増産体制も含め、国の農漁業政策の見直し、農漁業を復旧させることが「日本復活」の緊急の課題となっていることを示している。

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。