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生業を奪った「創造的復興」――東北被災地の13年が示すこと 原発事故も津波被災でも棄民政策 人口流出進んだ沿岸部【記者座談会】

津波で流された漁業集落に戻り、大漁旗を立てて再起を誓っていた宮城県雄勝町の漁師(2011年6月)

 2011年3月11日の東日本大震災から13年が経過し、新聞、テレビなど各種メディアで被災地の現状がとりあげられている。現代社会を生きているすべての人々にとって、それは経験したことのない前代未聞の巨大地震と津波被害だったと同時に、福島第1原発の爆発事故というそれまでの安全神話を根底から覆す最悪の出来事も経験したなかで、エネルギー政策のみならず、社会のあり方やみずからの生き方について深く考えさせるものにもなった。震災から13年を迎えた現在、同じように石川県の能登半島が地震災害に見舞われているなかで、火山・地震列島に暮らすわれわれは何を教訓にするべきなのか、被災地の復興のためには何が必要なのか、三陸の被災地に幾度となく赴き、取材にあたってきた記者たちで論議した。

 

住民の暮らしを中心に据えよ

 

  震災13年ということでテレビや新聞が特集を組んでいるわけだが、まず13年も経過しながら「復興」とはほど遠い被災地の現実に言葉を失う。だだっ広い造成地に家がほとんど建っていない陸前高田であるとか、雄勝、南三陸町などの映像も流れていたが、「創造的復興」などといって住民を土地から追い出してしまい、戻ってこられなくした結果にほかならない。すさまじい人口流出となり、ゼネコンが盛り土をして莫大な利益を懐にしただけだったといわれても仕方がないものだ。住民すなわち人間の暮らしが復興の中心になく、棄民だったことを端的にあらわしている。震災から13年というとき、それをお涙頂戴レベルの話に落とし込んでいる場合ではない。

 

  震災直後に福島第1原発の爆発事故が起こり、当時官房長官だった枝野が「ただちに影響はありません」をオウム返ししているなかで、ガイガーカウンターを持って福島取材に乗り込んだのを思い出す。那須塩原あたりからピッピピッピと放射線量が上がっていることを示す音が鳴り始め、福島県の浜通になると音を切っておかないと取材にならないような有様だった。

 

 規制が敷かれ、警察の検問や治安維持のための巡回があるだけで、あとは人っ子一人いない静まりかえった原発立地地域――。双葉町や大熊町から着の身着のまま集団で避難した住民たちがどのような経験をしたのか、その複雑な感情をくみとったり、重苦しい空気のなかで取材にあたるのは大変だったが、会津のホテルや埼玉県の騎西高校まで走って思いを聞いた。あのとき出会った住民の方々が今どんな暮らしをしているのかと思う。

 

 当時、原発立地地域の住民たちについて、とくに反原発を標榜する側から「おまえたちのせいでとんでもない事故が起こった」「原発で散々潤ったのだから自業自得」といった電話やファックスが避難所に押し寄せていて、スタッフたちにもピリッとした空気が漂っていた。

 

 そして、原発事故によって郷土を追い出された最大の被害者である住民たちが肩身の狭い思いをしながら、段ボールの敷居があるだけの空間で身を寄せ合っていた。事故を起こしたのは東電なのに、怒りの矛先が住民たちに向けられるという異様な光景で、「東京の電力のために福島は犠牲になったのに、どうしてそんな東京の人たちから、郷土を奪われてなお私たちが非難されないといけないのか…」と住民たちが苦悶の表情で口にしていたのが忘れられない。

 

 山口県でも上関原発計画があるなかで、これは他人事ではないし原発立地地域の住民たちがどんな思いをしたのか、経験をしたのか、上関町民や山口県民にも伝えなければならないと思っていると取材意図を伝えると、「第二の福島になるから原発だけはやめたほうがいい」とようやく重い口を開いてくれるような現場だった。ある日突然原発事故によって郷土を追われ、戻ろうにも戻れないのだ。地震、津波に加えて原発事故という二重三重の苦しみが福島を襲った。

 

 その後の農作物の風評被害であったり、浜通に限らない福島の苦悩について取材も重ねたが、こうした原発の爆発事故という社会的犯罪といってもいい重大事件でありながら、東電の経営陣は誰一人として処罰されず、何ら責任をとらないまま今日に至っている。むしろ反省もなく原発再稼働に舵を切り、原発については耐用年数の規制すら取り払って60年以上の運転も可能にするなど、あろうことか第二の福島が起こっても構わないという方向に動き始めた。

 

 今年元旦の能登地震で「仮に珠洲原発ができていたら…」という発信を見る機会も多いが、地震列島で原発を稼働することがいかに自殺行為であるかは福島が示しているのに、無謀な政策をなおも推進している。

 

東京のゼネコンが活況

 

  私は宮城、岩手の取材を主に担当した。沿岸を走ったらわかるが、広大な地域が津波被害に見舞われ、三陸の基幹産業である漁業を中心に壊滅的な打撃を被った。街が丸ごと濁流に呑み込まれ、たくさんの尊い生命が奪われていった。そこから一歩ずつ復興に立ち上がっていった住民や生産者の思いたるやいかばかりか。「前向くしかねえべ」という一言が重かった。

 

 震災から13年――。それは三陸の人たちにとって「ふざけんな! 日本政府」という感情に収斂(れん)されるのではないか。復興の過程では、沿岸部の水産都市も小さな浜も、国が主導する復興計画との矛盾が際立っていた。住民生活の再建が置き去りにされて、もっぱらゼネコンが防潮堤利権をむさぼったりするものだから、どこでも激しい衝突になっていた。肉親や友人を亡くしながら、みなが故郷の復興を目指して尽力してきた。ところが「危険浸水区域」といって建築規制がかけられ、何年にもわたって何もできない状態に置かれた。こちらも福島と同じように住民は戻れず、20万人以上もの人々が仮設住宅や借り上げ住宅などで避難生活に耐えなければならなかった。

 

 行政は「町から出て行かないでください」と住民に訴えていたが、市街地にも漁港にも何ら手が入らないから戻ろうにも戻れない。国が示した復興計画以外にはなにもできず、いつまでも足踏みを余儀なくされた。やることといえば住民無視の建築規制であったり、私権を制限して浸水地をみな公園にしようとしたり、巨大な防潮堤をつくらなければ「後背地の住宅再建はできない」といって待ったをかけたり、あれもダメ、これもダメばかり。おかげで人口流出が深刻なものになった。これは必然的な結果だ。

 

 防潮堤(総延長370㌔㍍)の建設費用として膨大な復興予算がつけられたが、「人口が流出して人が住めない地域にしておきながら、そこに防潮堤をつくって何を守ろうとしているのか?」とどこでもいわれていたくらいだ。目的がひっくり返っているとみなが指摘していた。住民、すなわち人間不在の復興を誰もが問題にしていた。

 

漁業集落が消えたかわりに巨大防潮堤が囲むように建設された雄勝湾(2021年2月、宮城県牡鹿半島)

住民が戻らず広大な空き地が広がる沿岸部のかさ上げ造成地(岩手県陸前高田市)

 A 13年も経過して、結局のところ誰も戻らない広大な造成地だけができた――。この酷い現実について、深刻に考えないといけない。陸前高田が最たるものだが、そのほかの地域も大差ない。国が進めた復興が住民の要求とはまるでかけ離れたもので、大矛盾になったのだ。

 

 これだけの震災に見舞われて、政府なり国というものが国民のために何かしてくれると思ったら、いつまでも放置して棄民状態にした。第一に建築規制をかけて住民が住めるようにしなかった。そして、防潮堤をつくるとか、コンクリ事業ばかりに熱を上げた。それが東北の被災地の経験だった。

 

 震災後は「いつまでも塞ぎ込んでいられない。前を向くしかないんだ」と住民自身が再起を誓って立ち上がっていった。ところが、なにをしようにも規制してしまい、「創造的復興」といいながらなにも復興しなかった。そして被災地に人がいなくなってしまった。津波だけならまだしも、その後に人災がもたらされたといっても過言ではない。国家たるものの残虐さを暴露している。

 

 D 震災後、3月になると商業メディアは思い出したように「絆」とか「支援を!」といってきたが、何が支援なのかだ。もともといた住民が主人公になって復興するのを応援しなければいけなかった。

 

 岩手県の重茂や宮城県でも牡鹿半島の小渕浜など、共同体が中心になっているところでは、住民自身のパワーによって復興が進んできたが、その力を否定して被害者にし、土地から追い出して生殺し状態を長引かせた。「骨病(や)み」といわれ精神的にも荒廃を促進した。そして、「創造的復興」という別目的を含んだ土地接収、核処分場建設や大企業パラダイスをつくろうという意図が一方で働き、被災地の土地が差し出されたのだ。

 

土地奪い核ごみ処分場や実験施設に

 

  福島では放射能汚染を直接の理由にして亡くなった人はいないが、その後の過酷な避難生活によって亡くなった被災者は多い。福島では震災関連死で1600人以上が亡くなった。自殺など含んでいる。二次災害の方がひどかった。そして国は災害をもっけの幸いにして、核廃棄物の処分場をつくるチャンスと見なした。「ショック・ドクトリン」といわれてきたが、要するに火事場泥棒だ。そういう残酷なことを国が平然とやろうとしたことも忘れてはならない。

 

関連記事「政治に翻弄される学術」より

  仮設住宅も当初は入居期限が2年だったのが3年に延長され、かといって復興公営住宅も建設されず、いつまでもプレハブ暮らしを強いられた。いまになって復興公営住宅でお年寄りの孤立化が問題になっているとニュースでやっているが、それは当時から心配されていたことで、案の定そうなったというだけだ。住民生活にかかわる部分が極端に後回しにされ、ひたすらゼネコンが荒稼ぎし、しまいには「復興」を謳った東京五輪に作業員も資材も奪われて、さらに復興は足踏みを余儀なくされるという有様だった。「創造的復興」「ショック・ドクトリン」で、東京の大企業利益を代表して国が動き、膨大な復興予算を食い物にしただけだ。

 

  被災地を取材していたとき、岩手県宮古市の田老地区で、90歳近い老人が語っていた。昭和の津波のときは翌日から瓦礫撤去をみなでやり、1年後にはバラック作りの自宅が元の場所に建ち、みなが暮らしをとり戻したのだと。当時の政府は成長の早い野菜の苗を提供したりして被災地の食料支援も熱心だったといっていた。現代のほうがはるかに国家統制がひどい。「戦前はひどかった」というが、変に規制を加えないだけ、現地の復興が動いたということだ。同じようにプレハブ材料でもいいから国が提供していたら、被災地の暮らしは崩壊せず、地域コミュニティが機能しながら復興に向かっていたはずだ。順を追って高台移転で正規の住居をつくるとか、二段階、三段階でやれば良かった。津波が来たときに「流されてもしょうがない」と思う者はそこで生活再建にあたればよいし、住民の判断や要求にもとづいて進めていたら、今頃は賑やかな市街地になっていたに違いない。しかし、広大な造成地はできたが誰も戻ってはこないのだ。これは東京で「創造的復興」の青写真を描いた者たちに重大な責任がある。

 

 あと、被災地で進められた企業向けの復興施策は補助金漬けなのが特徴だった。それによって大企業が法人税を減免されたり、恩恵を被った。中小零細企業にとってはハードルが高いが、大企業はフルに活用した。たとえば企業参入が奨励された植物工場は全部不採算で電気代ばかりかかってどうにもならない。しかし、結局補助金で成り立っているという具合だ。そのほかにもゲノム関連の企業が誘致されたり、軍事研究施設ができたりといった調子だった。

 

各地でくり返される棄民政策

 

  被災地では基礎自治体に自由がなく、復興交付金でがんじがらめにされた。補助率だけで復興計画が組み立てられ、あちこちが金太郎飴みたいな似通った街作りをデザインした。そして、実際にはゴーストタウンになってしまったのだ。

 

 東北の被災地について考えるとき、他人事で「応援します」というものではない。明日は我が身で、それこそこの13年の間にも、熊本地震が起き、能登半島地震が起き、各地で豪雨災害に見舞われた人々がどれだけいるか。火山噴火、地震など日本列島が置かれた自然環境からしてそれは過酷で、いつ誰が経験してもおかしくない出来事なのだ。南海トラフ地震や首都直下地震などの脅威も迫っているなかで、備えは必要であるがそれが避けがたいものであるならば、そうなった時にどうするかが問われる。原発再稼働などはもってのほかだ。

 

 そして、東北の被災地でやられたように、どこでも被災地では棄民政策がやられ、自己責任にゆだねられている現実がある。微々たる支援金を与えたりはするが、被災者が二重ローンに苦しんだり、暮らしをとり戻すことがままならない状態に置かれることがほとんどだ。東北がそうだったように、国とか政府というものが国民の心配をしておらず、冷淡であることについて考えなければならない。政府や国というのは何のために存在するのかだ。上級国民や大企業のためだけに奉仕して機能するというのなら、どうして国民は税金を払わなければならないのかだ。自然災害に直面して国民の暮らしがままならないのであれば、政府をしてその負担を肩代わりして、「心配するな! 国がついている」と復興を全力支援するのが本来の役割なはずだ。れいわ新選組が指摘しているように、被災者への貸付金などはチャラにするぐらいの手厚い援助が必要不可欠だ。

 

 C 震災直後は「日本人というのは秩序正しく、困難に直面しても整然としていてすばらしい民族」と海外も驚いていたが、13年経過した被災地を見せなければいけない。あの誰も戻ってこない広大な造成地は、いかに政府がボロかを示している。世界中の笑いものだ。暴動などなく、被災者が助けあっていたということと、為政者がデタラメというのは別の話だ。

 

 13年たって、国が進めてきた復興については結果が出ているといえるのではないか。何もできないし、復興させる意志も能力もなかったことを示している。まるで復興が成功したかのように描いて、東北はこんなに良くなりましたみたいな報道は偽善的であるし事実とも異なる。それは東北の人が一番感じていることだと思う。むしろ別目的ばかり実行して阻害してきた13年だったといえる。被災地の自治体がもっと自由に復興予算を使えるような仕組みに改めることはもちろんだが、住民生活の再建、生産活動の復興を最重要課題にして、住民自身の力によって復興が動くように、いかなる自然災害からの復興であっても転換させなければ絶望的だ。

 

  能登地震を見ても、政府が初動からして動きが鈍く、援助物資すらなかなか届かなかった。もっとも重要なのは、国民の生命と財産を守るために行政や政治が機能しなければならないという点だ。そのことが中心にあるなら、震災対応や復興施策というのはまるで変わってくるはずだ。東日本大震災から13年というとき、「東北の被災地はかわいそうだったね」で終わらせるのではなく、その13年の経験から教訓を導き出して、未来につなげていくことこそ大切なのではないか。

 

水揚げしたワカメを浜でボイルする漁師たち(2017年3月 岩手県宮古市重茂)

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