いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』 著・中村一成

 京都府宇治市伊勢田町ウトロ。ここは戦時中、軍事飛行場建設のために働いた朝鮮人の飯場があった場所で、戦後も在日朝鮮人のコミュニティが維持され続けたところだ。昨年には放火事件にも見舞われながら、4月30日にはその歴史を伝える「ウトロ平和祈念館」がオープンした。

 

 2000年からここに取材に入り始めたフリー・ジャーナリストの著者は、ウトロ民間基金財団から依頼を受け、飛行場建設から80年、ウトロ飯場建設から77年の歴史を後世に伝えるため本書を執筆した。すでに一世は全員鬼籍に入り、二世も亡くなる人が多いなか、ときには食事をよばれながら聞きとりしたその記録は、一人一人の生い立ちや経験、その感情のヒダに迫り、また歴史的な背景も見逃さない。

 

 

 本書にしばしば登場するウトロ住民の一人、1919年生まれの文光子は、現在の韓国・慶尚南道、馬山の農村に生まれた。故郷の思い出は、植民地宗主国・日本の収奪にあえぐ村の人々の姿だった。日本のためにコメを増産する計画が進み、借金で没落した小作農は流動性の高い底辺労働力となった。近所の人が泣きながら姿を消していく。彼女の一家も夜逃げのようにして釜山から下関に渡り、親戚を頼って東京に向かった。

 

 1939年、国は国内5カ所に航空乗員養成所と付属飛行場の建設を計画した。中国との戦争が泥沼化し、日米開戦が迫るなか、空軍力の増強をもくろんだのだ。事業者は民間会社・国際工業で、京都では宇治市の優良耕地をその対象にした。滑走路のための盛り土は現在のウトロ地区から採取することにし、スコップやツルハシで土砂を採る労働力(1日2000人といわれる)の主力は、全国から集まってきた朝鮮人だった。

 

 そして大倉組(現・大成建設)や竹中組(現・竹中工務店)がウトロに飯場を建て、朝鮮人の親方が管理した。木造バラックの棟割り長屋で、一家族に与えられたのは六畳一間と土間のみ。大雨や台風になると床上床下浸水が当たり前、加えて汲みとり便所からあふれ出すという状態が、ごく最近まで続いたという。男たちは日が出てから沈むまで、1日14時間働いた時期もあった。

 

 1945年8月15日の日本の敗戦は、朝鮮人にとっては苦難の根源である植民地支配の終焉だった。「大人は家から出て来て“マンセー、マンセー”いうて喜んで、一世は“もう重労働せんでえぇ”なんて大声でいうてたな」。だが、国際工業は一方的に労働者を解雇していなくなり、たちまち食べるためのたたかいが始まった。子どもたちは豚のエサにする残飯を集めたり、飛行場を占拠した米軍の演習場にもぐり込んで薬きょうを集めた。

 

 そんな貧困のどん底で、大人たちがもっとも力を注いだのがウトロに学舎を開設することだった。ある朝鮮人の復員軍人が子どもたちにいう。「言葉も歴史も知らんでどんな人間になる気なんや。僕らの第二の人生踏まんように君らは勉強せなあかん」「ええか、これが僕たちの文字や。これを組み合わせるとな、世界中のどんな音だってあらわすことができるんやぞ」。路上の綴り方教室に子どもたちが感激し、乾いた砂のように知識を吸収する場面には胸が熱くなる。またコミュニティには互いに助けあう温かい気持ちが流れていることも強く印象に残る。

 

 しかし、こうして全国にできた朝鮮人学校を、GHQが「共産主義者の巣」とみなして根絶やしに乗り出した。朝鮮戦争が始まると、これに反対するウトロの住民に日本の警察が襲いかかった。日本政府は朝鮮人に対して、戦時中は同じ「皇国臣民」として戦場や軍需工場、炭鉱に駆り出して日本人以上の酷使をおこないながら、戦後は日本国籍を喪失させる外国人化を一方的におこなって社会保障の対象外とし、一方朝鮮半島は二分され自分の国に自由に帰ることもままならなくした。

 

 それに加えて1962年からは、国際工業を吸収した日産車体がウトロの住民を「不法占拠」といい、立ち退きを要求し始めた。

 

 この問題はその後紆余曲折するので詳細は省くが、日産車体は、ウトロに住む自称町内会長の男性(在日韓国人)と密かに交渉を進め、ウトロの土地をこの男性に売却し、この男性が1億円余の利益を懐にすることと引き替えに不動産会社に転売する。不動産会社は三栄地所とマンション建設の契約を締結し、立ち退きに応じないウトロの69世帯の相手に裁判を起こした(1989年)。当時のウトロの居住者は80世帯・約380人なので、ほぼ全員が被告となったわけだ。

 

 しかし、住民たちも負けてはいない。住民たちの訴えは日本人の支援者にも支えられ、市外・県外の世論、さらに韓国の世論まで動かして局面を打開していく。

 

 ウトロの住民は多くが中卒で、マイクを握って人前で話すのも初めての人ばかり。その最初の舞台が1990年の京都市で開かれた女性たちの集会だった。年輩の女性たちが飛行場工事の厳しさや敗戦後の苦労、故国に帰れなかった無念、バラックの惨めさ、読み書きができないことや差別について話す。するとそばに控えていた屈強な男性たち、中には小指のない人もいたが、みな体を震わせてボロボロ泣いている。自分たちの女房の話を初めて聞いたのだ。

 

 日産本社への抗議パレードのさいには、女性たちがつくった農楽隊が活躍する。東京の銀座の通りを、民族衣装をまとい、チャンゴなどの民族楽器を打ち鳴らし、数百人が歩きながら訴えた。そのことが「一生の思い出やね。ほんまに楽しかったんやで」「右翼の街宣カーが来たけど、へっちゃらやった」という。

 

 そのほか本書の中には、小学校の同級生だった日本人の男子に手紙で知らせると、すぐに署名300人分を集めて送ってくれたとか、ウトロ地区に水道を敷設するために市役所の上下水道担当の職員が奮闘した話(工事開始は1988年)なども出てくる。あるウトロの年輩女性は「私は日本人をずっと恨んで生きてきた。でもあんたら頑張ってくれるやろ。もう日本人恨んだまま死なんですむわ、感謝してる」といった。

 

 2000年11月、裁判が最高裁で敗訴し、もはや強制執行かというそのときには、韓国で民主化運動をたたかってきた30代の女性たちがウトロを訪れ、その実情を韓国に伝える。こうした日本と韓国の市民の立ち上がりがついに韓国政府を動かし、日本政府も動かざるを得なかった顛末を著者は明らかにしている。

 

 近隣諸国の民族同士をいがみあわせ、殺しあわせる戦争の無惨さとともに、日本と韓国、朝鮮の市民のなかにいかに平和と友好の願いが強いか、である。著者は最後に、この本を「あったことをなかったことにする」国やマスメディアに対する異議申し立てとして書いたとのべている。

 

 (三一書房発行、四六判・352ページ、定価2800円+税)

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