いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

民族教育守るため闘った日朝市民連帯の歴史 朝鮮学校80周年を迎えるにあたって 山口県における設立・認可運動

(2026年6月3日付掲載)

山口県庁前での朝鮮学校廃止に反対する朝鮮人たちによる1万人集会(1948年3月)

 全国各地の朝鮮学校が民族教育80周年を迎え、さまざまな式典や行事をおこなっている。80年前といえば、日本の敗戦直後のことである。そこには、植民地支配から解放された在日朝鮮人の子どもたちへの民族教育にかける熱い願いがあった。日本政府が今なお朝鮮学校への差別政策を続けるなか、朝鮮学校がどのようにして設立され、さまざまな攻撃・抑圧とたたかってきたのかを振り返ることは、日本国民の進むべき道を確かめることでもあるだろう。下関を中心に発展してきた山口県の朝鮮学校の生い立ちと歴史をもとに考えてみたい。

 

 現在の山口朝鮮初中級学校(下関市)は1946(昭和21)年4月、朝連下関小学校として設立された。「内鮮一体」「皇民化」を掲げた植民地支配のもとで国、言葉、名前を奪われた朝鮮人は日本が敗戦するや、時を移さず子どもたちに国語(朝鮮語)を教え、朝鮮の文化・歴史を学ばせ、本来の民族の子として育てることに情熱を傾けた。

 

 当時、朝鮮人の子どもたちは日本の学校で民族的な屈辱を受けながら、日本名を名乗り「日本人として立派に生きることが名誉だ」と教え込まれてきた。日本で生まれて朝鮮語がわからない子どもは、日本語をうまく使えない父母との意思疎通すらままならない事情もあった。

 

 下関の在日朝鮮人たちの戦後出発は、こうした問題を解決することから始まった。寺子屋のような勉強会を持ち、敗戦の翌月の1945年9月には大坪、園田、彦島など市内の数カ所に国語(朝鮮語)講習所を開設した。講習所は山口県下では宇部、岩国など数十カ所で朝鮮人の身を削る事業として急速に広がった。それはやがて在日本朝鮮人連盟(朝連)の手で、朝鮮人教師による組織的で体系的な民族教育をおこなう学校へと統合されていった。

 

 当時学校建設に身を投じた一世たちは、「朝鮮人ならだれでも協力を惜しまなかった。“金のあるものは金を、力のあるものは力を、知識のあるものは知識を”を合言葉に、個人の家を改造したり廃屋の木材や寄付金を集めた」「二度と国を奪われ、言葉を奪われることのないようにとの思いで100円、200円、1000円のなけなしのお金を集めて750坪の土地を買い、資材を持ち寄ってつくった」「子どもたちに朝鮮語を学ばせ、民族の心を継いでほしい一念で同胞一人一人がツルハシを手に校舎を建てた」と誇らしげに語り継いできた。

 

 朝連下関小学校は大坪の昭和館(戦前、朝鮮人の密航者などを収容していた社会事業施設)を買いとり建設、開校した。協和会(在日朝鮮人の統制機関)の事務所があった東和館を宿舎に当てた。

 

 山口県下では、1947年10月までに33校の初等学校が設立され、2836人の子どもたちが通っていた。朝鮮語(国語)、歴史、公民、地理、算数、理科、音楽、体育、日本語などが授業科目であった。

 

校舎の昭和館前で朝連下関小学校の児童と教師(1946年3月)

県庁前で1万人が集会 米軍の弾圧に抗し

 

 しかし、ようやく植民地支配から解放された朝鮮人は、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)の新たな抑圧に直面した。朝連下関小学校が開校した翌年の1947(昭和22)年10月、GHQは「朝鮮語以外は日本の学校制度・授業カリキュラムに従わなければ認めない」として、朝鮮人の民族教育を日本政府の規制下に置くよう日本政府に指示した。

 

 山口県当局はこれを受けて、1948年3月末までに県下すべての朝鮮人学校を閉鎖するよう命令した。これは、在日朝鮮人が自国の地理や歴史、文化を教えるという民族として当然の教育を有無をいわさず踏みにじるものであった。

 

 これに憤激した県下全域の朝鮮人父母たちは3月31日夜、「教育への不当な干渉に反対し、民族教育を守ろう」と1万人が県庁前に集まり、子どもたちとともに座り込んで交渉を見守った(当時の県下在住の朝鮮人は約3万人)。下関周辺の朝鮮人は汽車を貸し切り、家族ぐるみで山口まで向かった。

 

 赤ん坊を胸に抱いた母親たちが寒風のなか、毛布1枚もなく夜を徹したこのたたかいは県当局や米占領軍を圧倒した。解散を迫る米軍兵士が集会の責任者であった姜海洙(当時、朝連山口県本部組織部長)にピストルを突きつけ解散を命じ、寒空のなか消防の放水車で散水したが効果なかった。こうして、県庁前の統率された熱気あふれる行動によって、逮捕者やけが人を出すことなく、県側が条件付きで学校の存続を容認することになった。

 

県庁前1万人集会に参加した朝鮮人の家族たち(1948年3月)

 全国的には山口県のたたかいを起点に岡山、兵庫、大阪、東京などで朝鮮人学校の閉鎖令に反対するたたかいが起こったが、強制的な閉鎖によって日本の学校への就学を促す措置がとられていった。

 

 下関の在日朝鮮人の間では、山口県のたたかいがその後の阪神教育斗争など、全国的な朝鮮人の民族教育擁護のたたかいの模範となったことが語り継がれている。

 

 だがそれも束の間、朝鮮戦争前夜の1949(昭和24)年10月、GHQは全国の朝鮮人学校への第二次閉鎖命令を出した。朝連下関小学校はそれによって、県下の他の28の朝鮮人学校とともに閉鎖させられた。占領軍は日本の警察を動員して、父母たちが誠心誠意、全身全霊を傾けて建設した学校の校舎、持ち寄った机や黒板、教材設備など全財産を没収した。

 

 下関の在日朝鮮人一世は当時のことを次のように証言している。
 「子どもが“警察が来た”といって泣きながら帰ってきたので、学校へ行ってみると、トラックに4~5台も警官が来ていて、先生を連れ出そうとしていました。警察と集まってきた人々との間でもみ合いになり、警官は“死んでしまえ”というばかりに、棒で殴りました。学校からものを持ち出そうとしたので車の前に横たわり、泣きながら止めさせようとしました。警官は大人でも子どもでも棒で殴りつけ、頭から血が流れました」

 

 ある二世の女性は次のように話している。
 「父が強制連行で炭鉱で働いていたが体を壊し、母が仕事をするので、家族のことは長女の私が家族の面倒を見ていた。だから私は学校には行けませんでした。戦後、妹や弟たちが行っていた学校が没収されて、途中から日本の学校に行ったりしていました。親たちが学校を取り戻すためにがんばって、警察に叩かれたりもしました。そのような学校の運動があって、安心して子どもたちが学校に行けるようになりました」

 

 いかなる弾圧によっても、民族の誇りを持った朝鮮の子どもに育てる熱意を押しつぶすことはできなかった。山口県の朝鮮人みずからの教育活動は各地で分散して継続された。

 

 朝連下関小学校の児童は、閉鎖された校舎(昭和館)に開校した下関市立向山小学校の大坪分校に通うことになった。しかし、これも1953年3月には閉鎖され、5、6年生約120人が市立小学校に編入し、日本人の学童とともに日本の授業を受けることになった。

 

 学校では、朝鮮人の子どもに対する差別から来るトラブルがひんぱんに起こり、途中で退学したり、いつのまにか学校に行かなくなった子どもが少なくなかった。さらに、家が貧しく高校に進学できない、高校に進学できる成績であっても高校の側が受け入れない、働きたくても朝鮮人とわかると門前払いを食らうというなかで、朝鮮人であることを隠しつつ卑屈になり、ぐれて非行に走る状況もあった。

 

 だが、学校行政がこのことを問題にし、対策を立てることもなかった。こうした状況を懸念する朝鮮人の保護者は、朝鮮人の子どもに対して民族性を尊重するような教育的配慮をすること、そのためにも朝鮮人教員を採用することなどを要求したが、とりあげられないままであった。

 

学校認可を実現 民族をこえた運動に発展

 

 現在の山口朝鮮初中級学校に至るもう一つの節目として、1956(昭和31)年4月に旧朝連下関小学校が下関朝鮮初級学校として再建されたことがあげられる。昭和館の横手の山を削り土地をならして運動場も設置し、鉄筋コンクリートの新校舎のもとでの再出発であった。翌年には中級部が設立され下関朝鮮初中級学校となった。

 

 日本の学校で朝鮮人であることを恥ずかしく思い、小さくなっていた子どもたちが朝鮮学校に転校して、民族の言葉と文化・歴史を学ぶことで精神が解放され、朝鮮人として誇りを持って人間性豊かな子どもに成長していく。こうした様子が、朝鮮人学校の父母、教師、在日朝鮮人の間で感動的に語られるようになった。

 

 しかし、山口県当局は朝鮮学校を私立学校として認めず、教育費補助も一切出さず、民族教育はひき続き抑圧された。子どもたちは日本の学校のように通学用の定期が使えず、遠足などでも団体割引がなく、学校での健康診断も有料であった。父母にすべての負担が被さるなかで、貧困な家庭は子どもたちを通わせたくてもできなかった。また、教師たちも健康保険すらない状況で、学校運営には二重三重の困難が押し付けられる状況にあった(これは今に続いている)。

 

 1960年当時、下関朝鮮初中級学校で学ぶ子どもは約500人まで増えた。だが、他の1500人の朝鮮人の子どもは日本の学校に通っていた。1959(昭和34)年7月から長周新聞社が主催して、下関の朝鮮人学校と日本の学校の教師との懇談会、交流会を積み重ね、紙面で紹介していった。そこでは、日本の学校でも教師が、朝鮮人の子どもたちに対して「民族的な差別をしない」ということにとどまるのではなく、一歩進んで「民族の子どもとして明確な自覚を持つ」よう育てることの大切さを確認しあうものとなった。

 

 このことはひるがえって、日本の子どもをどのように育てるかという課題を提起するものとなった。下関市民、山口県民にとっても、35年に及ぶ朝鮮植民地統治と戦後も続く朝鮮敵視政策のもとで深刻に残る民族的偏見と蔑視をとり除くことは、アメリカに憧れて日本の国土と文化を卑下するのではなく、父母・祖父母の思いや郷土の歴史・伝統を受け継ぐ子どもを育てるうえで欠かすことができない問題であることが強調された。

 

 こうした認識のもと、日本の独立、平和、民主主義と繁栄のために、在日朝鮮人との関係を正して子どもたちを次代の担い手に成長させる方向が、学校関係者、市民の間で共有されていった。それは、朝鮮人の子弟に対する当然の教育事業に対して、自動車学校並みの「各種学校」としてすら認めないことへの批判となり、山口県当局に朝鮮人学校を学校として認可するよう求める大きな運動に発展していった。

 

授業参観後、朝鮮と日本の教師たちによる懇親会(1966年6月)

 1963(昭和38)年6月、日朝協会下関支部(頴原俊一支部長=朝鮮学校校医)が再建され、在日朝鮮人山口県教育会(金鎣相会長)と協力し、朝鮮初中級学校の認可を求める運動が始まった。これは市内の教育関係者、医師、青年など日本人、朝鮮人の各界各層による「民族をこえた子どもに対する愛情と教育社会の基本理念に立った熱意」を結集した運動として推進されていった。

 

 1964(昭和39)年3月、日朝協会下関支部は下関市議会に「下関朝鮮初中級学校の認可に関する請願書」を提出した。請願は、朝鮮初中級学校を各種学校として認可し、学校を運営する在日朝鮮人山口県教育会を学校法人として認可するよう、市議会が山口県関係当局に意見書を提出するよう求めるものであった。

 

 この請願は翌年4月、市議会ですべての政党・政派の賛同のもと、満場一致で採択された。さらに、この請願をもとにした意見書が、市長の副申書とともに県当局へ送られた。そして、日本と朝鮮の教師による交流が続くなか1966年2月7日、山口県私学審議会が満場一致で認可を採択した。

 

 これを機に、山口県下の教師や教育関係者、学生たちの間で朝鮮学校の教育への関心と期待がさらに高まり、66年6月の公開授業参観には100人が参加し、朝鮮学校教師との交流を深めた。山口県は、67年4月に正式に認可した。

 

 朝鮮初中級学校の各種学校の認可は、下関市民はもとより子どもたちの教育に心を砕く多くの人々の心を揺さぶった。

 

 小西高一・下関市議会議長は当時、「市議会として喜びに堪えない。民族をこえた子どもに対する平等な愛情という教育社会の理念にたった議決が人々に認められたわけだ。こと教育については壁もなにもない。公平にやられるべきだ。市議会としても気持ちのよいことをした」と語っている。

 

 また、松原勤治・下関市教育長は「私どもとしては、県の認可が遅すぎたと思っている。子どもたちに対しても、法的なさまざまな保護が平等に与えられるという意義がある。今後は安心して教育ができる。朝鮮学校の生徒さんもこれを契機に、旧倍の朝鮮人として誇りをもって勉強にいそしんでほしい」と語った。

 

 こうした歴史の事実は、今日の日本政府の朝鮮学校に対する高校無償化制度からの排除とともに、山口県や下関の教育行政が朝鮮学校への補助金カットを続けるという異様な実態をあぶり出し、民族を越えた子どもへの愛情をとりもどす意義を浮き彫りにするものとなっている。

 

山口県の朝鮮初級学校の授業風景(宇部市、1940年代後半)

関連する記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。