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韓国の歴史的変遷と民衆運動の現在  広島大学非常勤講師・李容哲

昨年11月にソウルでおこなわれたローソク集会

 朝鮮半島をめぐる緊張が高まる一方で、韓国では昨年秋から民衆による政治運動が高まり、朴槿恵大統領を弾劾する動きにまで発展した。本紙は、日本ではあまり知られていない韓国社会に起きている変化と国民世論の特徴について、広島大学の非常勤講師である李容哲氏に話を聞いた。以下、その内容を紹介する。

 

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 最初に、私は社会学の専門家ではなく、日本に暮らして9年になる韓国語講師であり、ここで記述することは、あくまで韓国の一市民としての意見であることを断っておきたい。韓国では昨年、朴槿恵大統領が弾劾され、市民の政治的要求と社会運動が歴史的に見ても画期的な規模と内容をもって発展している。大学で近代史を専攻し、若いときから社会問題に関心をもってきた者として、現在の韓国社会で起きている民衆運動の高まりについて考えていることをのべたい。

 

 日本には日本の歴史があるように、韓国には韓国の歴史がある。日本ではあまり知られていないと思うので、まず韓国が歩んできた歴史について触れておきたい。

 

 韓半島(朝鮮半島)は、植民地時代が終わってから南北に分断された。1950年に勃発した韓国戦争(朝鮮戦争)も経験したが、正しくはその前の1945年から現在まで、72年間分断されている。国民にとって、資本主義、共産主義という対立するイデオロギーの実体についてなにもわからない状態のもとで、アメリカやソ連という列強国の影響下に置かれ、その列強国が勝手に決めた約束によって半島全体が無理矢理分断された。そのために72年たったいまも離れ離れになっている家族は両国あわせて数千万人もいる。

 

李承晩とマッカーサー

 現代につづく問題の起源は、やはり35年間の植民地時代からと思うが、韓国戦争の影響も強かったと思う。当時はすべてのことをイデオロギーで判断した。韓国でいえば、権力者(自分)と考えの違うものを「アカ」(共産主義者)と決めつけ、「北朝鮮(韓国では北韓と呼ぶ)を利する考え方」として徹底的に弾圧した。韓国の初代大統領・李承晩(イ・スンマン)も、その手法で1948年から60年まで独裁政治をおこなった。自分に対抗する人は、とにかく「アカ」と決めつけて弾圧・処罰するため言論の自由はなかった。例えば、曺奉岩(チョ・ボンアム)という人は、1956年に李承晩に問題を提起し、革新政党の進歩党を立ち上げたことで睨まれ、1959年に国家保安法(戦前の治安維持法)の違反と間諜罪で濡れ衣を着せられて裁判によって処刑された。李承晩政府で最初に農林部長官を務めていた人物だ。そのように以前は側近だった人物さえも戦争が終わった後、いろんな党に分裂していくなかで弾圧された。

 

 韓国で独裁を敷いていた保守政党は歴代、自由党、共和党、民正党、新韓国党、ハンナラ党、セヌリ党などの党名で執権した。名前は変わったがずっと戦後政治の主導権を握ってきたのはこれらの保守党だ。だから今回の大統領選の敗北は1998年から10年間の民主党に政権を奪われた時期のように彼らに大きなショックを与えている。

 

 例えば、フランス革命や他国の独立運動の場合、戦前に独立運動をした人たちが、独立後は主役になるのが普通だ。だが韓国の場合、戦前・戦中に命がけで独立運動をした人たちは、戦後アメリカが入ってきたことによって排除され、上海にいた亡命政府についても「個人的に帰国しなさい」となった。そして、アメリカに亡命していた李承晩が、アメリカにとって都合がよいと見なされ、1948年に初代大統領に選ばれた。戦前、亡命政府である上海臨時政府の初代大統領にも選ばれた李承晩は弾劾され免職となったこともある。

 

 正式に韓国政府を立ち上げたのは1948年だが、その初代大統領も李承晩だった。そして、彼の脇を固めた政府要人は、すべて植民地時代の朝鮮総督府の附日協力者(いわば植民地統治に協力した「親日派」)たちだった。その「親日派」たちは日本の敗北直後には、身の安全の確保のために逃げていたが、米軍が入ってきて職場に復帰させた。アメリカとしては、総督府出身者であっても実務経験のある公務員や政治家を使った方が統治するうえで便利だったからだ。そのため韓国の事情などは無視された。彼らは、昨日までは日本軍とともに「鬼畜米英」と声高に叫んでいたが、今日になって180度立場を転換し、民族主義者や独立運動の活動家を「アカ」呼ばわりして弾圧する一方で、「アメリカ万歳」を唱えはじめた。今日にいたる韓国の戦後政治は、それらの勢力が主導してきた歴史だ。

 

4・19革命で李承晩の退陣を喜ぶ学生たち(1960年)

 それに対抗して革新的な考え方を持っていた人たちが民主主義を求めて何度も声を上げてきた。その多くは失敗の連続であったが、それが最高潮に達したのが1960年の「4・19革命」だった。第4代大統領選挙で李承晩(当時すでに90歳近かった)は、政権延長のため大規模な不正選挙を起こした。大学生や教員、高校生たちを中心に「民主主義を死守しろ」と怒りを爆発させて数万人規模のデモをやって大統領を引きずり下ろした。李承晩は下野して、ふたたびアメリカに亡命した。上海臨時政府で弾劾された一番最初の大統領である李承晩は、12年間の独裁でまた下ろされてしまった。

 

分断と軍事独裁の歴史

 

 はじめて民主党への政権交代になったわけだが、たった1年で朴正煕(パク・チョンヒ)による軍事クーデターが起こり、1961年の5月16日にふたたび軍事独裁政権に戻った。彼もまた植民地時代に日本軍に参加した「親日派」の軍人だった。だが、国内ではクーデターに期待した人も多かった。民主党に政権交代しても1年やってみたら同じだったからだ。おそらく日本で以前、民主党に政権交代したときと同じ気持ちではないかと思う。市民は1年でうんざりしていた。クーデターを起こした40代の若い将軍が「国が安定した後に辞める」と宣言し、悪いことをした人たちを積極的に処分した。だから当初は、気分的には彼を応援したいという人が多かった。

 

1961年にクーデターを起こした朴正煕(左)

 実際には専門家によって論争があると思うが、私の親も含めて70、80代の話を聞くと「朴正煕は貧しい国を助けた人」という人は今でも多い。それは、経済復興のシンボル的な政策の多くを彼の時代に実行したからだ。「漢江の奇跡」もその一つだ。それは列強国による第3国(後進国)についての経済プログラムだった。アメリカを含めて自国がお金を出すよりも、第3国自身に計画を立案させ、それを監督・指導する方が得策だとみなしたからだ。それは李承晩時代からあったものだが、朴正煕が「経済開発5カ年計画」などの経済政策を実施し、市民の目に見えるものとして実行した。田舎の貧困家庭でも家をセメントできれいに建てたり、道路を拡張し、社会インフラが整備された。

 

 そのころは韓国には工場も少なく、工場群や主要な施設は戦前から北(朝鮮)側に集中していた。発電所も北に多かったので、分断後には南側は停電を起こしたこともある。重工業も北が中心で、南北の経済規模が逆転する1980年ごろまでは北の方が経済規模が大きかった。

 

 彼がはじめて国民から強い反発を受けたのが、日本との間で交わした国交正常化協約だった。韓国では日本との過去の問題を解決しないまま簡単に関係を回復してはならないという世論が強かったからだ。大学生たちが反対したが、朴正煕は「経済復興のためにはお金が必要であり、そのためには日本との正常化も必要だ」という立場で無理矢理押し通した。軍事政権だったので、自分や政権が立てた政策に反対する人たちについては問答無用に弾圧した。彼がクーデターの直後に最初につくったのが、アメリカのCIAの韓国版であるKCIA(韓国中央情報部)だ。1960年、70年代には権力の序列でも大統領の次は中央情報部長であり、政府批判する人たちを弾圧する最大の道具にした。情報部長でも失脚すれば、命を狙われ、行方不明になるなど権力抗争をめぐる重要ポストでもあった。

 

 韓国では1960年代に入って統一の声が徐徐に高まり、分断された南北を統一しようという声が強くなる。統一の課題は李承晩の時代からあったが、南側が主体になった統一であり、建前では「平和統一」というが、本音は「南が北を喰う」という考え方だった。これは北も同じだったと思う。平和的な統一運動で活躍した人たちを逮捕して拷問したり、間諜団事件(学生をスパイ容疑で逮捕)をねつ造し、国家保安法の罪を被せて裁判で司法殺人したこともある。とくに大学生とか革新運動をやった人たちの逮捕や獄死が非常に多い。1975年の「第2次人民革命党事件」「民青学連事件」というのも、情報部が反政府的な主張をする人たちを「北の回し者」と決め付け、罪をねつ造して処刑した。裁判の18時間後に死刑を執行するという異常さだった。

 

 これらの事件については、最近になって再審がおこなわれ、無罪の罪で殺されたことが明らかになっている。国の過ちを認め、家族について慰謝料を払うことなども決まった。民主党政権の時、国家人権委員会や過去史整理委員会がつくられ、近現代史のなかで恣意的に弾圧された歴史を明らかにし、将来くり返さないための活動がはじまっている。

 

IMF管理で貧困増大

 

 朴正煕政権の「経済復興」は、国民の収入よりも、財閥への投資を優先した。GDPのグラフだけをみて「競争力の向上」といい、現代、サムスン、大宇、ロッテのような財閥だけが急成長した。それは国ぐるみで応援したからであり、当時は財閥の会長が政府の官僚に呼び集められ、政府の要望や政策の指示を受けるほどの関係だった。だが、財閥が成長する一方で、労働者の賃金や労働条件は悪化し、国民の苦しみは増すばかりだった。政府は「農業は終わった」と見なして工業中心に切り替えたため、田舎での仕事がなくなり、小・中学校を卒業すると「問わず上京」といって無条件で首都ソウルに出て行かなければならない。とくに平野で農業世帯が多い西部地域の疲弊が深刻化した。ソウル駅で汽車から降りたところから貧しい生活がはじまる。だから最近までソウル首都圏では政府に批判的な人たちが多く、選挙では野党の票田になった。

 

 当時は、「生産第一」「国力増強が第一」であり、労働者を低賃金で、劣悪な環境で働かせていた。ソウルの東大門に集中していた縫製工場では、若い女工たちが腰を伸ばすことすらできない工場で1日14時間以上働き、そのために肺炎などの病にかかっていた。1970年、ソウルの縫製工場で働いていた全泰壱(チョン・テイル)という22歳の青年が、自分の周りには自分の妹のような女性たちが劣悪な状態で働いているが、社長は肥え太り、長時間働いている労働者には生活できないほどの賃金しか支払われないことに疑問を感じて行動をはじめた。調べてみると労働法で禁止されていることばかりが横行している。抗議してもなんの改善もされないことに怒った彼は、自分の体にシンナーをかけて、自分が買った労働基準法の法典を抱えたまま焼身自殺を図ってしまう。

 

 病院に運ばれた彼は、母親に「私にたった1人でも大学生の友人がいたら…」といい残して死んだ。中学校を中退して上京する若い労働者にとって、漢字で難しいことばかり書いてある労働法の法典を理解することは難しい。「これをわかりやすく教えてくれる大学生がいれば解決の道が開けたはずだ」という悔しさが込められていた。これが韓国の労働運動史では、記念碑的な事件となった。ここから朴正煕政権とたたかう民主化運動には、平和運動とともに労働運動が加わっていくことになる。この事件が火を付けて、学生たちが工場に入って労働組合を作っていった。

 

光州事件(1980年)

 そのうち独裁者だった朴正煕大統領は、自分が任命した情報部長に暗殺される(10・26事件)。彼の死によって韓国にようやく「春」がくるかと思われたが、今度は全斗煥(チョン・ドゥファン)によるクーデター(1979年12月12日)が起こり、ふたたび軍事独裁政権を敷く。それに反発する1980年5月の光州民主抗争(5・18)が起こった後、民主化運動のリーダーだった学生たちの運動が高まり、1987年6月にソウル大学の学生の拷問死をきっかけにして、労働者、学生、市民の怒りが爆発し、全斗煥政府を退陣に追い込む市民革命を起こす(6月抗争)。6月抗争は、政府に「民主化宣言」をさせ、直接選挙の実が結ばれた。だが野党の金泳三(キム・ヨンサム)、金大中(キム・デジュン)の同時出馬により、全斗煥の友人の盧泰愚(ノ・テウ)が大統領になった。その後、金泳三は盧泰愚の民正党と協力して新韓国党を立ち上げて保守政権を続けた。

 

 1997年のアジア通貨危機により、韓国経済は危機を迎えた。財閥の一角だった韓宝グループ(鉄鋼)が破産し、食品、衣料にいたる名だたる大企業が倒産状態になった。これらの大企業を救済するために国は大規模な財政出動をした。そして、アメリカが主導するIMF(国際通貨基金)の管理下に入り、新自由主義的な政策を推進して、企業が労働者を自由に首にできるようにしたり、不安定な労働者派遣制度を導入した。サムスンなどの財閥系企業の多くを米国外資が握り、そのため国内の中小企業が倒産し、失業者や非正規雇用が増大して貧困化が格段に進んだ。その年の12月、経済金融危機の国難のうちに実質的に初めての政権交代となる金大中政府が誕生する。そのような流れで軍事政権から民主政権へと移っていった。

 

南北対話の社会的効果

 

 本格的な民主主義がはじまったのは金大中政府からだ。彼は「北韓(北朝鮮)との緊張関係を止めるためには、圧力ではなく対話をしなければならない」と主張した。それまでは対話や交流をすることさえ「アカ(北)の考え方」と見なされて弾圧の対象になってきた。だが、1997年12月の選挙で彼が大統領になり、軍事力ではなく、人道援助や文化交流をしながら、経済レベルや相互理解が深まってきてから統一するという政策(太陽政策、金大中の三段階統一論)がはじめて実行されるようになった。それまでの韓国は、アメリカの情報と影響が強かったが、統一の主役は北と南の当事者であり、離散している家族たちのはずであるが、彼らはもう高齢化している。政府は人道的な見地から、1000万人ともいわれる離散家族の交流事業を本格的に開始した。

 

 経済協力分野で最も貢献したのは「現代」の鄭周永会長だった。北の農村出身の彼は、植民地時代に貧しい故郷から逃げるときに父親が売った牛のお金を盗んでソウルで起業をし、いまや韓国で最大の企業になった。その父親についての恩返しに行くということで、500頭の牛を現代の自動車に乗せて板門店(軍事境界線)に持っていって北朝鮮に贈呈する事業をした。それを契機にして、現代が北朝鮮の金剛山を観光開発することや、南北が共同運営する開城(ケソン)工業団地の建設に携わることになり、南北双方の経済によい効果をもたらした。

 

 開城は休戦後に北の領土になっているがソウルに近いので軍事的にも重要な地域だ。北にとっても非常に難しい決断だったと思われるが、工団を造ることによって、軍事力が後退する効果もあった。韓国から中小企業がたくさん入植し、そこでは北の労働者が働く。彼らは板門店を通過して出勤する。これは以前では考えられなかったことで、それだけでも南北の緊張を解き、南北対話の象徴的な事業となった。

 

怒りを集めた逆流政治

 

 金大中と盧武鉉(ノ・ムヒョン)の登場によって国民ははじめて民主主義的な社会を経験したが、わずか10年足らずで、経済政策への期待から、保守ハンナラ党の李明博(イ・ミョンバク)が大統領になった。だが、彼は大企業重心の土木建設と外資導入の道を選び、政治はふたたび1980年代へ逆戻りした。そして、朴槿恵(パク・クネ)政府の登場後は、1970年代へと逆戻りしたと感じるほどの政治の後退を経験した。彼女は父親の朴正煕を崇拝し、政治システムの当時への回帰を願望した。

 

弾劾された朴槿恵

 そのためにやったのが歴史教科書の改訂だった。韓国の独立記念日は、植民地支配が終わった1945年8月15日だ。「8・15」は韓国では、独立を回復した「光復節」として非常に重要な日とされている。当時、上海には亡命政府が存在していたし、韓国憲法にも「亡命政府の理念を継承する」とある。だが、右翼歴史家を含む朴槿恵政府は、1948年8月15日の南韓の政府樹立を「建国の日」として指定した。いままでの記念式典では「独立何年」としたのに、これからは1948年から「建国何年」と数えるという。

 

 韓国では5000年の歴史といわれるが、建国を1948年にすれば、それまで国の歴史は存在しなかったことになる。彼らの狙いは、1948年から韓国の政治を主導してきた「親日派」(朴正煕を含む植民地支配の朝鮮総督府に協力した人たち)を独立・建国の主役に仕立て上げることだった。

 

 韓国の歴史を、植民地時代の独立運動を牽引した上海亡命政府(1919年樹立)からとみなすならば、彼らは民族を裏切った人たちだ。だが、1948年からとみなせば、逆転して建国の主人公となる。そのために歴史教科書を改訂し、全国的に教育しようとした。歴史専門家のほとんどが反対したが朴槿恵政府は強行した。来年度が朴正煕生誕100周年にあたることも関係していたのだろう。しかし、彼女の弾劾によって、できあがっていた改訂教科書はすべて廃棄処分された。

 

 南北関係では、過去の民主党政府の時代に六者協議(アメリカ、韓国、北朝鮮、中国、ロシア、日本)をやったが、それを否定する方向へ逆戻りした。歴史的に見て、南北の交渉はアメリカが前面に立ち、当事者であるはずの韓国は後ろに引き下がっていた。韓国戦争の休戦協定も、調印したのは北朝鮮と韓国ではない。北朝鮮とアメリカの代表者だ。だが本来、南北の統一は、韓国と北朝鮮の直接当事者が顔を合わせてやるべきことだ。六者協議のころからは、韓国が北との関係で主体的な役割を担うようになった。以前は北朝鮮の情報を収集するのが難しかったが、対話をすることで得られる情報もあったと思う。そして、アメリカに情報を依存することも多かったが、いまでは逆にアメリカや日本が、韓国に情報を共有することを要請する関係へと変化している。

 

 国家財政の面からみても、軍事力の維持・拡大のために毎年莫大な予算を浪費するよりも、国民の福祉のための予算拡充が必要になっている。北との緊張緩和は国民経済にとっても非常に重要な効果をもたらす。開城工団の成功はさらに一歩進んで北朝鮮の経済向上にも繋がり、北の食料問題が解決してくれば、凶暴な政策をやめさせる効果にもなる。当然、韓国でもそれに反対する声もあるが、韓半島の平和のためにはそのような道を歩いた方がよいというのが国民の世論だった。

 

 だが、李明博、朴槿恵らの保守政権は、「北に経済援助すれば、軍事力に使われるだけではないか」と主張し、それまでの北との交流を遮断し、開城工団も閉鎖し、人道的支援も打ち切った。だが、その政策が成功していないことは明らかで、最近のミサイル騒動をみるだけでも状況は逆に厳しくなった。冷静に見れば、平和政策に戻った方がよいという世論が増えていると思う。平和政策を掲げる文在寅大統領の就任後は、北に抗議すべきは抗議するが、対話は再開しようと呼びかけている。

 

 李・朴政権時期の南北の冷戦は、北との対話がはじまった時期に設置していた南北政府間の直通電話の線すら切ってしまった。1、2カ月前の新聞は、北からの漂流者を北に送り返そうとしても連絡の手段がないので、軍事境界線付近まで行って、北の軍人がいる方向に向かって「いつ、どこで引き渡すから出てきてください」と大声で叫んでいる様子を報じていた。この時代にそんな方法でしか意志疎通ができない状態にあることがおかしい。ただの一例にすぎないが、それくらい北と南の関係が切り離されている。

 

 いま北とアメリカとの軍事衝突が話題になっているが、今日(19日)の韓国のニュースは、月末に予定している米韓共同軍事演習の規模が縮小されたと報じている。もし本当に軍事衝突の危機が高まっているのであれば、アメリカは韓国の要求は聞き入れない。アメリカが軍事訓練の規模縮小に応じたということは、「明日にでも戦争が起こるのではないか」というような一触即発の状態ではないとみていいだろう。

 

政治動かす新しい運動

 

 北朝鮮の好戦的な動きに対して、なぜ韓国人が冷静でいられるのかといえば、70年以上の経験があるからだ。この60余年間で「戦争の危機」といわれる時期は何度もあった。「危機」は、決まっていつも国政選挙がおこなわれる前に起こる。民主党とハンナラ党が接戦をくり広げた大統領選のときには、当時の与党の関係者が北朝鮮側に銃撃を要請した事件すらある。信じられないことかもしれないが、そのような政治的な駆け引きに「北の脅威」が使われることを国民はもう知っている。今回も大統領選の前にミサイル問題が起きたが、選挙にはあまり影響はなかった。効果が出ることもあるが、国防は軍がやり、政権は政権なりに平和のための会合をすべきであり、市民にとってみれば、自分たちが大騒ぎしてもはじまらない。慌ててラーメンを買って避難しようと騒いだところで、それでもうかる人がいるくらいのものだと捉えられている。

 

 昔は市民の情報源は、テレビのニュースと朝鮮日報、東亜日報などのメジャー新聞だけだった。それを読んで「北は何をするかわからない」と不安に駆られ、「ラーメンを買って早く逃げる準備をしよう」と思うしかなかった。だが、いまはそうではない。スマホの普及で、インターネットを通じていろんな情報が得られる。市民が自分たちでメディアを作るようになった。「1人メディア」というものが拡大した。たとえば、十数年前にできたインターネット新聞「OH MY NEWS」は、「すべての市民が記者だ」をスローガンにして、市民が社会情勢から身近な問題までの記事を投稿する。それを編集部が選んで掲載する。地域の新聞もネット新聞をつくり、個人もツイッターやフェイスブックなどのSNSによって自分の考えを発信する。だから北朝鮮についても、既存メディアが報じるもの以上に豊富な情報が得られるようになった。

 

 韓国では、それくらい既存メディアに対する不信がある。テレビも1987年の民主抗争以来、一時は放送局が中立なニュースを作り出したが、李・朴槿恵政府になってからは、露骨な政権の広報機関になり、批判的な論評をしていた多くの記者たちを「再教育」したり、報道と関係ない仕事に配置したり、首にした。だから国民は権力に縛られたメディアを見放して、自分たちで作るようになった。追放された記者たちがはじめたインターネット番組やポッドキャスト(スマホのネット番組)の中には、視聴者が500万人をこえている番組もある。それは韓国の人口の10分の1以上で、テレビの視聴率よりもはるかに多い人たちが見ていることになる。

 

 去年秋に韓国全土で巻き起こった数千万人規模のローソク集会も、それらを媒体にして呼びかけられ、個人の自発的な参加によってはじまった動きだ。以前は、学生団体や労働組合が大きな旗を立てて集会をやっていたが、そのような政治団体が主導するものではなく、市民1人1人の要求として朴政府の退陣を要求した。政治団体は旗を降ろし、政治家についても「あなたたちは国会議員として役割を果たせなかったではないか。ここに来るときは一市民としてきなさい」といって特別扱いはしなかった。政治家たちは恥ずかしそうに市民と一緒に地べたに座るしかなかった。

 

 壇上に上がって発言するのは、無名の一般市民ばかりだ。子どもから年寄りまでの幅広い世代の、職業もさまざまな市民が自由に発言する。「金をもらってやっているのでは」と揶揄する人もいるが、お金を払ってやれることではない。学生たちは、雇用や就職の問題、同世代の子どもたちが犠牲になったセウォル号事件を身近な問題として語り、現役世代は経済問題など、いろんな視点から発言していたが、「韓国社会をこれ以上破壊する政治はやめさせるべきだ」という共通の要求で一致していた。

 

 昨年の秋まで、韓国人の誰もが朴大統領が辞めるなどとは思っていなかった。それほど弾圧体制を作っていた。警察も以前は民主警察といわれていたが「権力の犬」に戻った。検察も同じだった。だが、市民100万人がソウルの1カ所に集まり、全国的にのべ1000万人以上の人人が同じ時間に地域ごとに集まって集会を開いて声を上げた。これをみて警察が動揺した。「これは弾圧できない」と。その動揺ぶりをみて市民は「これは変わる可能性がある」と確信し、運動はさらに膨れあがっていった。朴槿恵自身もまさか自分が辞めるはめになるとは思っていなかっただろう。市民1人1人の声が結びついていくことによってそれは実現した。

 

経済問題の解決望む若者

 

文在寅

 だから、その世論に押されて登場した文在寅政府が、簡単に失敗したり、政策を曲げるとは考えにくい。以前の民主化運動では、1960年の「4・19」のときも李承晩が辞めたことで「勝った」といって終わり、1987年6月の民主化抗争でも全斗煥が降伏し、直接選挙がはじまったことで「民主化された」と安心して終わっていた。あれからちょうど30年を迎える今年、単に政権交代しただけで安心したらダメだということを市民は学んだ。文政府がちゃんと政策を実行するかを厳しい目でチェックしなければならないという自覚が生まれている。ここで民衆の側が手綱を緩めたら、もっと悪い未来がやってくるということもこれまで経験していることだ。

 

 そのことは政治構造にも大きな影響を与えており、かつて強大だったセヌリ党は小さくなっている。かれらはいまだに何十年前と同じ主張をくり返している。例えば北との関係については、平和政策を批判して軍事圧力を唱え、福祉よりも財閥へ投資することを「経済復興のためには仕方がない」と主張するが、もう市民には通じない。どんどん支持者が離れている。かといって民主党といえども、少し進歩的な主張をするから相対的に革新といわれているだけで実体は保守と変わらないのだが、極右の主張はしばらく韓国政治からは姿を消すことになるだろうと感じている。これは非常に歴史的な変化だと思っている。

 

 国民は文在寅を無条件で支持しているわけではない。だから、彼がおこなっている一つは、国の過ちを謝罪することだ。3日前には、初めてセウォル号事故犠牲者の遺族たちを青瓦台(大統領官邸)に招いた。多くの子どもたちを乗せたまま沈んでいるセウォル号を目の前にしながら、朴槿恵政府は「安心してください」というばかりでなにもしなかった。家族たちは3年以上も青瓦台前の路上で抗議活動をしていたが、朴槿恵政府は青瓦台の中に入れることすらしなかった。文在寅はその遺族を招いて頭を下げて謝罪した。調査委員会も形ばかりでなにも進んでいなかったが、第2期の調査委員会がはじまろうとしている。民衆の運動の高まりは、大統領を遠く高い場所から、市民と同じ目線にまで近づけた。

 

 韓国社会では雇用問題は深刻だ。昔から学歴社会で、4年制大学に入ればなんとか安定した職に就けるといわれてきたが、いまは大学を出ても就職できないので、そこから就職のための勉強が必要になる。とくに97年の経済危機からIMFの管理に入って後、不安定雇用が増大し、私が通った大学でも図書館の本棚には公務員試験の問題集ばかりが増えていった。卒業後にほとんどの人が公務員試験を考えるというくらい夢がない。就活しようとしても正社員になれず、非正規雇用は6割をこえた。企業は、最初は試用期間としてインターンシップで働き手を集めるが、そのなかから非正規雇用として数人雇い、2年たったら正社員になるか首になるかの選択肢が待っている。日本でも就職難といわれるが、韓国は比べものにならない。

 

 賃金も安く、7、8年前ごろからは、1カ月の収入が8万円前後の「8万円世代」の増大が社会問題になった。恋愛、結婚、就職を諦める「3放棄世代」という言葉もある。仕事を早くやめた親世代も再就職先がなく、警備や清掃などに就いても、1カ月十数万円をちょっと出るくらいの収入しかない。

 

 若者は就職に有利な資格を取るために英語の勉強をしたり、海外に語学研修にいったりするので、社会に出るのが日本と比べてもすごく遅い。男子の場合は兵役まで行ったら社会に出るのは26、27歳だ。選択肢がないから大学院に入る人もいるが、大学院を出てもなおさら就職先がない。だから、親の懐に入ったままの「カンガルー族」という若者層もいる。そのような不満も高いため、経済の専門家だと思ってビジネス界出身の李明博を選んだが、彼は川を掘って運河を作ったりしたが、焼け石に水だった。逆にさらなる新自由主義政策をやり、工業的な改革はやらず、企業も直接雇用をしない。そのようなことが若者世代の希望を奪っている。一時、『痛いから青春だ』という啓発本が人気だったこともあるがこの流れの単純な慰労は何も解決できない。根本的に経済システムとしての問題があるとみんな感じている。雇用の問題以外にも財閥の特恵と横暴、中小企業の淘汰、外国系資本の弊害、公共部門の民営化、不公正な取引など李・朴政府につながる保守政府によってさらに深刻化した問題についての批判と、不平等経済を是正して、経済民主化の政策実現を求める世論が非常に強まっている。

 

 近年、世界的に新自由主義に反対する革命的な動きが広がってきた。ニューヨークのウォール街占拠運動やギリシャ、スペイン、フランスでも、不平等な経済格差を批判して、正常な社会運営と社会構造の変革を求める民衆運動が高まっている。まだ世界的に注目されているかはわからないが、韓国社会の動きもそれらと同様のものと評価できると思う。この民衆の動きは、今後、韓国社会を立て直し、より豊かなものにするために継続してたたかわれるであろうし、市民が主権者として意識を高め、文在寅政府を監督し、平和で平等な政治をおこなわせる力になることを期待している。

 

 東アジアでの緊張感を解き、平和で安定した未来を築くために、南北が平和的統一にむけて前進すること、そして、日韓の両国民による相互理解と平和的な連帯が深まることを心から願っている。

 

 

ソウルでのローソク集会(2016年11月)

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