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被爆治療阻むGHQと京大研究者たちの抵抗 1951年の京都大学総合原爆展の背景

倒壊する前の大野陸軍病院

 1945年9月、枕崎台風が原爆の惨禍に苦しむ広島を襲い2400人もの人命が奪われた。原爆が幾十万もの市民を焼き殺しただけでなく、広島はその後も甚大な自然災害に見舞われたのだった。枕崎台風によって、佐伯郡大野町(現・廿日市市)にあった大野陸軍病院が土石流によって倒壊し、原爆症患者100人をはじめ156人が犠牲となった。そのなかに、当時病院で診療と調査をおこなっていた京都大学医学部の教授ら11人が含まれていた。

 

 この京都大学医師たちによる献身的な治療と研究によって、被爆者の症状が原子爆弾によるものであることが明確となり、適切な治療とそれに対応した薬品などの救援が求められた。だが、GHQはそれを無慈悲に拒絶したばかりか、京大をはじめ全国の医師たちが広島の患者たちから得た医学的資料を根こそぎ奪い、アメリカへ持ち帰った。さらに、日本の医師たちが原爆症についての研究を学会などで発表することを禁止した。広島・長崎の原爆症治療発展が阻まれたことは、今日まで尾を引いている。

 

 京大「綜合原爆展」のとりくみは、そのような医療・学問研究への弾圧と大衆的にたたかう内実をともなっていた。この原爆展はアメリカ占領下、被爆5年にして広島で初めて被爆被害の実態と原爆投下の犯罪をあばいてたたかわれた50年8・6斗争の翌年、京大学生自治会(同学会)が主催して7月14日から24日まで京都駅前の百貨店において開催され、3万人の市民が参観し大きな反響を呼び起こした。それは、その後原爆展が全国各地で活発に展開され、日本の原水爆禁止運動を全国、世界に広げるうえで歴史的な契機となった。

 

 当時、医学部学生として「綜合原爆展」にとりくんだ川合一良氏(医師)は『京都南病院医学雑誌』(2001年3月)で、これが「京都大学原子爆弾災害総合研究調査班と大野浦の悲劇」と関連していったことを強調している。

 

 京都大学原子爆弾災害綜合研究調査班は原爆被害の実態を科学的に正確に把握することを目的に組まれたプロジェクトで、物理学部物理学教室の荒勝文策教授と医学部病理学教室の杉山繁輝教授のチームで構成されていた。医学部班は、被爆直後の遺体の解剖もおこなった。

 

 「綜合原爆展」開催のきっかけは、その年の春季文化祭で医学部と理学部の学生が専門的な立場から原爆の実態を模造紙に書いて展示したことにあった。医学部の学生は原爆症について調べてパネルを作成した。医学部の原爆講演会では、当時から血液学の国際的な権威であった天野重安・助教授が講師となり、大野浦で遭難した教授たちが採取した人体標本などの資料も紹介した。

 

 天野助教授は敗戦直後、京大調査班の第2陣として9月17日に広島へ向けて汽車で出発したが、枕崎台風で不通となったため京都へ引き返し、難を免れていた。調査班遭難者の葬儀が10月11日、京都大学の本部大講堂で大学葬としておこなわれ、殉難者の業績をむだにしないことを誓い合った。天野助教授は杉山教授の仕事を引き継ぎ、広島から持ち帰った25体の被爆者剖検標本を分析し、1945年秋には、原子爆弾症について先駆的な概念を確立していた。

 

 そして、50年からは占領政策違反を覚悟して、担当の病理組織学実習の一コマを使って、原爆症の特別講義をおこなった。講義は評判を呼び、講堂は満員となった。春の文化祭での講演はこうしたなかで学生たちが要請したもので、聴衆に大きな感銘を与えた。川合氏は、「綜合原爆展」パネルのうち医学部学生によるシナリオの主要な部分は、この講義にもとづくものであったと証言している。また、天野助教授が、「綜合原爆展」の作業のさなかでも助言と指導をおこなったことにもふれ、これは「京大調査班同僚の遭難死への天野の思いと、朝鮮戦争という厳しい情勢が天野を動かしたためではないだろうか」と訴えている。

 

 不戦を誓いあった5年後に朝鮮戦争が引き起こされ、警察予備隊が組織されるなど再軍備へと向かい、「11月30日にはトルーマンが“朝鮮戦線で原爆使用を考慮している”と発表した」。こうしたことが原爆展をとりくむ学生たちをつき動かしていたからでもある。

 

覚悟決めた医学者の行動 屈辱を甘受せず

 

 天野は後に、このように書いている。

 

 「原爆展に私は多くの資料を提供した。……この資料提供には相当な覚悟が必要だった。占領下だから被爆の実態はアメリカ軍の機密だったのだ。私のところへも、占領軍当局から資料の公開はお前の責任でやれといってきた。その意味は、軍の秘密にふれて問題になったときはお前をとらえるぞということだ」(「平和は求めて追うべし」1960年)

 

 天野の覚悟を決めた行動をつき動かした背景には、大野浦の殉難者の業績を受け継ぐうえで最初から、アメリカ側からのさまざまな妨害と屈辱を受けたことがある。

 

 早くも1945年12月、京都大学で病理学会が開かれたとき、アメリカ人医師・エール大学のリーボウ博士が天野に対して、京大にある被爆者研究資料を提供するよう求めた。それはこの年9月、「原子爆弾の影響に関する日米合同調査団」が東京大学を中心に組織され、「日本側記録、病理解剖資料、患者病歴の再検討」「調査資料や病理解剖資料の収集」「写真・フィルム等の入手」などを定めたことを受けたものであった。

 

 その直前の11月30日、学術研究会原子爆弾災害調査研究特別委員会が第1回の報告会を開いたとき、占領軍総司令部経済科学局のケリー博士が発言を求め、「日本人による原子爆弾災害研究は、総司令部の許可を必要とする。またその結果については公表を禁止する」といい放ち、都築正男・東大教授が「広島と長崎では、今……多数の人が原爆症のために次々と死亡しつつある。原爆症はまだ解明されていない新しい疾患であり、その本態を解明しないことには、治療をおこなう方法がない。たとい進駐軍の命令であっても、医学上の問題について研究発表を禁止することは、人道上許しがたい」と抗議するできごとがあった。

 

 「科学の進歩には、データと実験の積み重ねと発表を受けた人々による追試が何よりも不可欠である。特に医学においては、臨床例の積み重ねが効果的な治療法究明の最大の決め手である。その発表を禁止されては、被爆者の治療をあきらめろというのと同じであった」「京大の研究者は、一旦資料を渡してしまえば自分たちの手元には決して返らないのではないか、と誰もが危惧していた」(『医師たちのヒロシマ』1991年)

 

 さらに、翌年1月に血液学会春期大会が京大医学部会議室でおこなわれたとき、京大の報告「原子爆弾被爆者の末梢血液変化について」に対して、アメリカ占領軍の許可なく勝手に発表したと横やりが入ったため、この資料をすべて隠すということもあった。

 

 リーボウの求めに対して、天野は「資料の大半は水害で流れてしまった」として、杉山教授が似島で採取した3個の血液学的スライドを渡すことで、ことを収めようとした。だがリーボウは医学部の他の研究室を歩き回り、研究者が所持するスライドや資料を調べあげ、水害を免れた牛田での標本を多数持ち去った。天野はアメリカ側に対して、この資料は殉難者が調査した資料であり、京大側の了解なしに研究発表しないことを約束させた。

 

 こうしたアメリカによる被爆資料の収奪は各地でおこなわれた。アメリカはその結果、調査事例1万3500例、病理解剖資料217例、写真等1500枚という膨大な資料をわずか2カ月あまりの間に持ち去った。こうして、日本研究者による研究の根拠を奪い去ったうえに、アメリカ陸軍病院病理学研究所などに保管した。そして、それらにもとづくアメリカの医学研究者の発表が日本の研究者との約束を笑うかのように相次いでおこなわれた。

 

 ちなみに、京都大学は60年9月、大野町現地に殉難者の慰霊碑を建立し、毎年“慰霊の集い”をおこなってきた。主催は芝蘭会(京都大学医学部同窓会)広島支部に委託してきた。89年度からは「平和を追求する学問を目指すものの象徴として大学全体で継承する」として、京都大学主催事業となっている。

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