いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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実録・長崎原爆「核廃絶にむけて」㊦   長崎市・井上幸雄

炎上する長崎市街を寺町から望む(筆者・画)

 伊良林小学校の石段を左に見て、その先のカーブを左に曲がり、少し歩けばいよいよ目指す寺町通りだ。しかし、ここに到ってふと困ったのは、母から寺町の何処で会うかを言われていなかった事だ。寺町の何処で母は待っているのか、第一、母がここに来ている保証もない。もしかすると……先程来の不吉な予想がよみがえり、暗然となる。悪くすれば、これから東上町に引き返し、母の安否を確認しに行かねばならぬかもしれない。


 人波に押し流されるまま寺町通りに入る。道路の左手に続く石垣群のすべては各寺院の墓地である。その中に石垣の上が瓦屋根付白壁の塀もある。その屋根付白壁の屋根の上から大勢の人達が顔を覗かせ前方の火災を眺めている。人数の多さから、その墓地の人々だけでなく、避難して来た人々も一緒になって火災の成り行きを見守っているのに違いない。火災で顔を火照らせ、指差しながらけたたましく声を上げて騒いでいる一群もある。その顔が並ぶ石垣群がこの寺町通りに遠々と続いている。


 それらの顔のどこかに母がいてほしいと祈る思いで、歩きながら左上の顔の陳列を物色して行くが、これだけ多くの顔から母の顔をみつけ出すのは並大抵ではない。


 「あっ! 駄目か!」と気を落としかけた時、人々が立ち騒ぐ騒音にまじって、一際甲高い「幸雄! 幸雄!」の声、まぎれもなく母の声だ! ドキッとして反射的に見上げた。塀の上に群がる多くの顔の中に、懸命に手を振っている母の顔をみつけたこの時の嬉しさと安堵感は何に例えようもない程の感動であった。


 飛び立つ思いで、母がいた寺とその隣の寺との境界の細い坂道を駆け登った。幾つもに区切られた墓所のあちらこちらを巡るうち、母はすぐみつかった。母は誰とも知れぬ他人様の墓所を占拠していて、そこに持って来た手荷物を置き、そばに美和子を座らせ、下の寺町通りに私達がいつ来るかを見張っていたのだという。そしてこの墓所には縁者らしい人が誰もいなかったので使わせてもらっていると、母が誰に言うとなく弁解がましい事を言っていた。


 ともあれ、我々兄弟はここでやっと食事にありつけた。母が鍋と共に持って来ていた生煮えの空豆を、空腹にまかせむさぼり食った。
 空腹もややおさまったところで、母に火事の様子を見てくると断って、この墓所から八㍍程下にある例の屋根付白壁の塀まで駆け下りた。そこで火事を眺めている人々の間に割り込んで濛々と黒煙を噴き上げている火災の方向に目を向けた。


 火災の現場は思いの外近い所にあった。


 私が立っているこの位置とほぼ同じ高さの所に、市の中央部、県庁や市役所が建ち並ぶ高台が見える。この寺町から大して離れていない。今しもその高台の全体が黒煙に覆われつつあった。ところで、この高台の最も左に位置するのが県庁、次が県警本部、裁判所、新興善小、消防署、市役所、商工会議所、勝山小と並んで見える。これらの建物は皆、私が最初見た時は未だ燃えていなかった。但し、これらの建物の向こう側、つまりこの高台の裏側が、浦上及び長崎駅からの火災の延焼で、五島町及び大波止に到る大火災の黒煙に覆われているのだ。この黒煙をバックにして、先述の建物群のシルエットがくっきりと望見できる。


 火災は今や浦上全域を席巻してこの市中央部に移り、大波止界隈を含む大火災となっているのだ。現在既に市全域の空を黒煙が覆っているが、西の方の空、仰角50度の所の黒煙の中に白い太陽が認められる。日蝕観測の折よく使う黒塗りガラスを通して見るようなものだ。但し、この太陽はもっと黒ずんでいた。この太陽の位置からすると、午後3時か4時ぐらいであろう。


 再び視線を高台に戻すと、何と、黒煙が今まさに県庁に覆いかぶさる形で噴煙を上げている。見ているうちに、県庁の前面部分に白い煙がもくもくと噴き出し、やがてパッと炸裂したような光を放つと、一度に火を吹き出し燃え上がった。白煙はすぐ黒煙に変わり県庁全体を押し包んでしまった。やがて県庁の隣に白い煙が上がり、パッと炸裂するとドッと赤い炎と黒煙に包まれるという、この類焼現象をくり返しつつ火災は県警本部、裁判所、消防署等を次々に炎と煙に包み込みながら、みるみるうちに広がっていった。風向きもこの類焼を煽っていた。風向きが左から右に黒煙を靡(なび)かせている。大火災が海風まで呼んだのかもしれない。靡く黒煙の切れ目に垣間見る浦上方面の空は、まるで溶鉱炉の底を見るような透明な赤色に見えた。


 火災は風に勢いづけられたように、消防署から市役所、商工会議所のシルエットを一気に炎と黒煙に包み込んでいった。


 私はこの勢いだとやがて商工会議所の右手に見える勝山小を含み、諏訪の森に到る一帯が火に包まれるのは、既に焦眉の間に迫っていると思われた。又、市中央部の高台の下の地帯、浜の町から中通りに到る区域も、風向き次第で火の海になるであろう事も時間の問題と感じられた。そして、この大火災によって長崎市全体が壊滅するかもしれぬという事を予想して、何とも言えぬ悪寒が身内を走り、ぞーっとなった。そして思わず呻(うめ)いた。


 「これでも戦争か? こんなの戦争じゃない!」


 私の呻きを聞いた周囲の人が怪訝そうな顔で私の方を振り向いた。


 この時の私には戸惑いがあった。私も来年になれば海軍兵学校か予科練を経て華々しく戦場に赴くつもりであった。しかし、軍国少年としてこれまで培って来た戦争というものの概念が、今根底から崩れていくのを感じていたのだ。


 戦争が綺麗事でないのは中学生の身にも百も承知だ。元来軍人同士の戦闘でけりをつけるべきところ、一般市民が巻き込まれるのは実に悲惨な事で、あって欲しくない事だが、それはこれまでの長い戦争の歴史の中でも常に見られた事だった。だから、市民が被害を受けることをどうこう言うのではない。


 しかし、僅か2機の編隊でやって来て、たった1発の爆弾で一つの都市が、そしてそこに生活を営んでいた万余の人々や家庭が一瞬に抹殺される……そんな事はこれまでの常識を遙かに超えて、想像を絶する事だったのである。もし、この爆弾に遠隔操作可能なV2号等との技術提携ができるなら、地球上のあらゆる都市を自在に抹殺できるのだ。これでは一億一心火の玉になろうが、撃ちてし止まんの覚悟をしようが、早晩日本人は戦う前に皆殺しにあうに違いない。言い知れぬ恐怖が私の心を凍らせ、ぞっと身震いさせられたのであった。


 ともかく今夜も又町内の防空壕で寝ようという事になり、家族打揃って防空壕に向かった。防空壕には既に町内の何家族かが避難していた。


 5時半頃、兄が帰って来た。兄は動員で三菱電機に行ったものの、まもなく警戒警報が鳴り、決められた通り西中町天主堂にあった消防署分隊の補助員として西中町に移動した。そして、そこで被爆したが、幸い怪我もなく、その後消防自動車と共に駅前に移動、そこで消火活動をする。やがて、自動車の故障と、火災の大きさに対抗できず後退する事になり、消防署補助員を免除、医療補助員に切り換えられ新興善小学校に送られる。そこでは傷の洗浄、消毒等に必要だからとの事で、海水を港まで汲みにやらされたとの事だった。


 6時近く、従姉の木下佳江姉さんが来た。彼女は県立高女4年生で、学徒動員の為三菱兵器工場で事務をとらされていたとの事、被爆で事務所が全壊、その下敷になっていたところを、通りかかった工員さんに助け出された。工員と一緒に立山越えで自宅の新町に向かったが、自宅は全焼しており、母親の消息を尋ねる為に叔母(私の母)の所に来たとの事だった。


 幸い母が連絡先を知っていたので、そこへ向かわせる。この従姉はその後体に刺さったガラス片が、何年も後になって体のあちこちからニョキニョキ顔を出し、その度に治療していた。兵器工場事務所倒壊の折、飛散したガラス片が体中に刺さっていたのだ。その他彼女は各種の病気に苦しめられた人である。


 兄も又髪の毛が抜け、歯茎から出血し、血便・下痢による脱水症状でやせ細り、いわゆる原爆症といわれる一連の症状を体験している。しかし全くの僥倖により回復した。


 8月10日、原爆大災害の翌日である。兄や私にとっては、動員も学校も屁ったくれもない。今日は2人で荒れ果てた我が家の修理、片付けに精を出さなければならない。ところがその懸命な作業の途中に、ふとラッパの音を聞いた。不審に思って外に出る。原爆被害の復興作業の為、軍隊でも出動して来たのかと思い、ラッパの音にひかれるまま行ってみると、丁度勝山小学校の前の通りを馬町から市役所方面へ行進中の100名程の一隊がある。よく見ると、先頭で引率しているのは我が校の清水先生だ。四列縦隊で三八歩兵銃を肩に歩武堂々の行進をしているのは、皆我が校の4、5年生の人達だ。数名のラッパ手を先頭に、「歩調とれ!」の号令と共に股を高く上げ、力強く足踏みしめ行進して行く。予想もしなかった観物だけにびっくりしたが、多分これは原爆で打ちのめされ意気消沈している市民の気持ちを奮い立たせるべく、我が校の先生方が起死回生の一助にでもなればと発案した事ではないかと思った。


 「原爆で厳しい状態にはなったが、くじけるな! 我々には未だこのような戦う力が残っている!」とばかり市民の士気を鼓舞すべく、4、5年生を招集し、歩兵銃で武装させ、市民の眼に触れるよう市中の行進をさせているのではないかと考えた。


 しかし、と思った。行進する先輩達の中にも、頭や腕に包帯をしている者もあり、この傷ついた集団を見た人に、痛々しい感じを与えはしても、果たして戦意高揚の助けになるかどうかは疑問だと私には思われた。

 

変わり果てた友や肉親の姿

 

焼け跡の瓦礫と燃えさしのなかで肉親を捜す人々(8月10日 長崎市大橋付近 山端庸介氏撮影)


 さて、この8月10日を含め、以後、終戦の日等をはさんだ約一週間の間に、私の眼に触れたもの、そして考えさせられた事などが数多くあった。


 先ず原爆炸裂の瞬間からの事を振り返ってみたい。
 私は被爆した最初の時から既に誤解があった。それは、眼をつむり半覚半睡でいた私のそのつむった眼の上に100個以上のフラッシュを焚きつけられたような物凄い光を感じ、私の家に爆弾が落ち、今の瞬間、私の目の前で炸裂したのだと思った事だ。

 それ程強烈な光を感じたのだが、実は私の家から2・3㌔㍍も離れた地点で炸裂したものだったのだ。しかし、私以外の人でも自分の身近に爆弾が落ちたと思った人は、私の母や大石さんも含め多かったのである。


 原爆戦災誌の資料によると、この日、浦上松山のテニスコート上空500㍍で炸裂、その炸裂は中心温度が100万度の高熱を持つ直径200㍍の火の玉を象(かたど)ったとある。


 火の玉の直下1㌔㍍以内は3000度から5000度の高熱で焼かれたが、鉄の溶解度が1530度というから、浦上の被爆中心部1㌔㍍以内が如何なる高熱で焼き払われたか想像に余る。


 直下で焼けた姿をそのまま壁に影として残した兵士の写真を資料館で見たが、あれと同じ運命をたどり瞬時に焼け尽きた人も多かった筈だ。


 中心から距離が2㌔㍍、3㌔㍍と離れるにつれて熱線の温度は急激に下がってはいくものの、2㌔㍍で光を浴びた人であっても、皮膚は焼けただれ或いは皮膚がはがれて、皮膚の下の肉がむき出しの姿になった人は無数にいた。それはそのままケロイドとなって、終戦後も市内で多く見られたものだ。

 

被爆した友の顔の変化。火傷で水ぶくれができ、それが破裂し、ケロイドとなる(筆者・画)

 私の家の近くにいた三菱職工学校に通っていた友人は、港内で三菱の飽之浦工場に通う折、航送船上で被爆した。中心地から3㌔㍍近くの距離だったと言うが、満員の船からふり落とされまいと熱線の熱さをこらえながら、必死で入口の手すりにすがりついていたらしい。ふり落とされる事はなかったものの、顔から肩にかけて火傷を負い、皮膚が真っ赤にただれたという。その友と9日の夕方顔を合わせる事があったが、顔と肩全面に水ぶくれができていた。顔には直径5㌢と、その他大小数多くの水疱ができていて、とても痛そうだった。同情心から「つぶして水を出してやろうか?」と言ったが、「痛いからよせ!」と断られ、やめにした。


 翌日会ったら、その皮が破れ、顎の下にたれさがり、皮膚の下の肉がむき出しの状態になっていて酷たらしく思った事を記憶している。


 元来彼は端正な顔立ちの美少年だった。その彼を原爆は一瞬にして似ても似つかぬ醜悪な面相にして放り出して行ったのだ。その後まもなく彼は郷里に帰ったと聞いたが、以来二度と会う事もなく、消息も絶えたままになっている。


 さらにもう一つ、私には強烈な記憶がある。


 終戦の8月15日以後2カ月も過ぎた頃だったが、私が勝山小学校から馬町へ向かう途上で、前方に松葉杖をついた人と、それを介護する付き添いらしい人の2人が歩いて行くのを見た。この時期の町中では、よく介添えつきの被爆者の姿を見る事が多かったので、これもその2人組であろうと思い、追い越しがてら、ひょいと振り向き松葉杖の人の顔を見て、ぎょっとなった。のっぺらぼうの顔なのだ。話には聞いた事があっても、現実にこんな顔があるなんて思いもしなかった。多分原爆の熱線で焼かれたに違いない。目、鼻、口の顔の造作がすべて一つに溶けあって流れ下っているようなケロイド状の皮膚の中央に、只鼻の穴、口の穴がぽっかりあいているだけの顔になっているのだ。


 傍で付き添っている人は、その体つきから同じ年輩の友人か、又は身内の兄弟と見受けられたが、彼は懸命にその松葉杖の人を支え、歩行の手助けをしていた。恐らく治療の為、通院の補助をしておられるのだろう。


 原爆の直下で瞬時に跡形もなく焼き尽くされた人も悲惨だが、鉄をも溶かす熱線であれば、顔も溶けるような無残な被害を受けた人も少なからずあったに違いない。私は偶然にもその中の1人と会ったわけで、生涯忘れ難い強烈な記憶となっている。その後、その人がどうなったものか、二度とその姿を見る事はなかった。

 被爆中心地上空に出現した直径200㍍はあろうという火の玉から熱せられた直下の大地の直径約1㌔㍍の範囲は3000度から5000度の熱で焼かれたわけで、この一帯の大気の急激な膨張、収縮の作用で、ここを中心に想像を絶する物凄い爆風が吹き荒れた。爆風は天を冲(ちゅう)して駆け昇り、高度5000㍍に達する雲の柱を形作った。又、地表を四方に広がる爆風は、大型台風以上の威力で地表の建造物総てをなぎ倒しながら吹き広がって行った。


 ちなみに、資料によると、原爆中心地域で秒速六五〇㍍の爆風が吹き荒れ、1㌔㍍以内は秒速250㍍の爆風であったという。


 私が東上町の我が家で、熱光線の後体験した爆風は家全体を揺り動かす勢いで、横になっていた私は畳ごと吹き上げられそうな力を感じた程だった。爆心地を向いた方角の我が家の瓦は、宙に浮いて上に押し上げられ重ねられた形になり、天井に大穴があいていた。全壊には至らなかったが、半壊に近い被害であった。あと一ゆすりされたら我が家も倒壊を免れ得なかったかもしれない。


 私の家は爆心地から2300㍍の距離にあったから、あの時は秒速71㍍の大型台風並みの爆風が吹き荒れていたわけだ。道理で窓ガラスが横になっていた私を飛び越え、真横に吹き飛んだ筈である。お陰で助かった。


 私の亡き友、渡辺司君(一人芝居『命ありて』主演)は浦上地区銭座町で被爆した。爆心地から1500㍍の距離だから、秒速90㍍の爆風が襲い、彼の家は全壊し、彼は家の下敷きとなった。しかし運よく這い出す事ができ、一緒にいた友や母達を救い出し、一緒に金比羅山の芋畑に避難、一夜を過ごしたそうだ。


 翌日、全壊そして全焼した自宅の様子を見に、山を下ったという。その折、彼は稲佐橋の上で、電線に髪がからんだ形でぶら下がっている女性の死骸を見たそうだ。多分吹き荒れる爆風に飛ばされ、稲佐橋の上に架け渡してあった電線に引っかかってぶら下がったらしい。そしてそのまま、その後の火災の煙にいぶされ、まるで魚の燻製よろしく、全裸のまま真っ黒く煤けてしまい、地面すれすれにゆらゆら揺れていたという。

 

被爆後の稲佐橋。両脇に黒焦げの死体、欄干には女性の遺体がぶら下がってた(筆者・画)


 同じく友人に聞いた話だが、この近くの浦上川沿いの道を歩いていた人が、7、800㍍離れた鎮西中学校の校庭まで飛ばされ死んでいたという話もあった。この一帯は爆心地から1500㍍以内だから、90㍍以上の爆風が吹き荒れ、人間など塵埃に等しく宙を舞い飛んだと思われる。


 8月16日は私は中学校に招集され、生徒全員に対する被害調査があった。この日、亡き南玄武という友人に母親の遺骨探しを手伝ってくれと頼まれ、午後、初めて浦上の地に入った。


 予想はしていたが、浦上一帯は視界の限り、焼け瓦と焼けた木材や石材を敷きつめたような廃墟となっていた。どこが家屋跡で、どこが道路やら見分けがつかない有様だった。肝心の南君も、焼け跡の自宅を訪ねたのは初めてらしく、探し当てるのに苦労していた。それでも瓦礫の中からやっとコンクリート製の自宅の流し場やかまどのある台所の一部が出ている所を見つけ、「あっ、ここだ。ここばい!」とつぶやいている。そして、


 「ここが俺の家の台所たい。この辺の瓦の下に母ちゃんがいる筈やけん、井上、すまんばってん、一緒にみつけてくれろ!」


 と言う。そこで、やっとみつけたこの流し場を中心に掘り進んでみようという事で、南君がかまど周辺から、私が流し場周辺から取りかかった。それぞれ2㍍近く掘り進んだところで、南君が掘る手をやめて、ふっと立ち上がり、足先で何やら蹴り転がしながらつぶやいていた。「あっ、こいが母ちゃんばよ、こいが母ちゃんばよ」。見ると、足で蹴り転がしているのは紛れもなく白い骨片だ。彼のことばからすると、目指すお母さんらしい。しかし驚いた。変わり果てた自分の母親の遺体を見て動転したとはいえ、母親の骨を足蹴にするとは何事だ! いささか義憤に駆られ、彼の肩をつかんで咎めようとしたが、すぐその手を引っ込めた。彼の肩がぶるぶる震えている。よく見直すと、彼は嗚咽しつつ、「これが母ちゃんばよ。これが母ちゃんばよ!」と言いながら泣いているのだ。


 それまでの私の記憶にある南君は、どちらかといえば腕白坊主の方で、人に涙など見せた事のない男だったのだ。その彼がむせび泣いている。彼の心を思いやって、私もついもらい泣きしてしまった。


 白い骨は他にも瓦の下の積み重なった真っ黒な焼け土の下に埋もれていた。私はそれらを掘り出すのかと思っていたら、彼は一旦掘り出した骨を元のように埋め直し始めた。そして彼は言った。「井上、ありがとう! 今日はこれでよか! 明日、家の者ば連れて掘りに来っけん!」


 彼は元のように瓦等も元に戻し、手で押し固め直すと、両手を合わせしばし拝んでいたが、「井上、今日は本当にありがとう。帰ろうで!」と、今までの愁嘆場がまるで嘘のように、さっぱりした顔をしていた。


 帰る道々考えた事だが、彼のお母さんの遺骨がまだかまどの近くにあった事からすると、多分、彼のお母さんも昼食の準備をしておられたのだろう。そういえば、あの原爆炸裂の時間はどこの家庭も昼食の準備をしている時間なのだ。


 11時2分、薄暗い台所の隅々まで真っ白に照らし出す閃光にハッとする間もなく、ドドドッと家屋が倒壊しその下敷きになる。多くの母親達がその状態で身動きならず、その後の火災によって生きながら焼かれていったのではないかと思われる。


 そういえば、私の母も空豆を煮ていたし、私の家の筋向かいの家でもトントントントンとリズミカルなまな板の音が聞こえていた。どの家庭でも炊事の火を燃やしていたとすれば、あの日の火災が市内の倒壊した家屋の随所から出火していた事もうなずける。


 ともあれ、市街地の3分の1を焼き、数万の人命が失われたが、焼死した人の多くは、家屋の下敷きで身動きできず生きたまま焼かれて死んでいった主婦ではなかったかと思われる。


 死者7万3000余人、負傷者7万4000人、当時の長崎市の人口が28万人、市外から働きに来る人を加えた昼間人口が30万人だったから、ほぼ2人に1人の死傷率であった。


 しかし、原爆の悲劇はそれにとどまらなかった。原爆の魔の手をくぐって辛うじて生き延びた人も、市外・県外から死体処理を含む救援活動に来た人も、肉親探しで焼け跡をうろついた人も、その後正体不明の病気でバタバタ死んでいったのである。髪の毛は抜け落ち、歯茎から出血し、血便・脱水症状、腹だけが異常にふくれてやせ細り、ちょうど地獄絵図の餓鬼のような姿で死んでいくのだ。放射能による原爆症である。


 原爆は高熱によって長崎の大地を焼き尽くしただけでなく、放射能という厄介な代物を大地に残していったのである。


 東北地方の津波で起こった原子力発電所事故における放射能漏れへの異常な程の警戒ぶりは、総て広島・長崎を教訓としているものであろう。


 思えば原爆は人々に対し一撃で四重の殺傷力を発揮したことになる。即ち熱光線で殺し、爆風で殺し、火災で殺し、そして仕上げとして放射能で殺すのである。


 原爆を作った人々の大量殺人に対する異常な執念を感ぜずにはおれない。


 現代の核兵器は、長崎に落とされた原爆の1000倍の威力を持つといわれている。具体的に例を挙げてみると、かつては一発で広島や長崎等の一都市を壊滅する程度の力だったが、今の核兵器は一発で関東地方全域を壊滅させる力があるのだ。しかも、そういう物騒なものをボタン一つで世界中どこにでも飛ばす事ができるのだ。とすれば、いつの日かそういう核兵器が群れ飛ぶ地球にならぬとも限らない。


 長崎原爆の1000倍もの威力のある核兵器が応酬されるとすれば、地球上は焦熱地獄と化し、放射能汚染にまみれた所となって、もう人類の住める所ではなくなる。


 現在の国際情勢を見るにその可能性なしとはいえない。核保有をひけらかし、周囲の国にあからさまな脅しをかける国さえ存在するのだ。核を使えば、核を使い返される。


 結果は人類滅亡以外にない。


 核の惨禍を体験した長崎人として声を大にして強く訴えたい!


 「核廃絶すべし!」と……。    (おわり)

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