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『その日はいつか』 峠三吉 ――77年目の原爆記念日によせて

峠三吉

 広島(8月6日)、長崎(同9日)に人類史上最も残虐な兵器である原子爆弾が投下されてから77年目を迎える。敗戦間際に米軍が投下した二発の原爆によって、広島で33万人、長崎では19万人もの老若男女が無残に焼き殺され、あるいは被爆による後遺障害で命を奪われ、生き残った人々も幾世代にわたる心身の苦しみを背負わされている。現在、核兵器禁止条約の発効など核兵器廃絶に向けた国際的なとりくみが進んでいるものの、被爆国であるはずの日本政府は不参加を決め込み、依然として核使用を正当化する原爆投下者におもねる恥知らずな態度に終始している。またウクライナ戦争の長期化や台湾危機が煽られ、日本やアジアを再び戦争に巻き込む不気味な足音が近づくなか、この凄惨な体験に立ち返り、世界に強く発信することが求められている。広島の詩人・峠三吉(1917~1953年)は、米占領下の広島で、被爆による後遺症に苦しみながらも死の間際までペンを握り、あの日原子雲の下にいた幾十万被爆市民の経験や心底の願いを詩にあらわし、原水爆禁止の世界的世論をつくる端緒を開いた。峠三吉の『原爆詩集』(1952年度版)より、「その日はいつか」を紹介する。

 

広島 1945年8月6日午前11時すぎ。爆心地から2.3㌔の御幸橋西詰。両側の人道は死体や負傷者で埋め尽くされていた(松重美人氏撮影)

 

その日はいつか   峠三吉

 

 1

 

熱い瓦礫(がれき)と、崩れたビルに
埋められた道が三方から集り
銅線のもつれる黒焦(くろこげ)の電車をころがして交叉(こうさ)する
広島の中心、ここ紙屋町広場の一(かた)隅に
かたづけ残されころがった 君よ、

 

音といっては一かけらの瓦にまでひび入るような暑さの気配
動くものといっては眼のくらむ八月空に
かすれてあがる煙
あとは脳裏を灼いてすべて死滅したような虚しさのなか
君は 少女らしく腰をくの字にまげ
小鳥のように両手で大地にしがみつき
半ば伏(ふ)さって死んでいる、

 

裸になった赤むけの屍体ばかりだったのに
どうしたわけか君だけは衣服をつけ
靴も片方はいている、
少し煤(すす)けた片頬に髪もふさふさして
爛(ただ)れたあとも血のいろも見えぬが
スカート風のもんぺのうしろだけが
すっぽり焼けぬけ
尻がまるく現れ
死のくるしみが押し出した少しの便が
ひからびてついていて
影一つないまひるの日ざしが照し出している、

 

 

君のうちは宇品町
日清、日露の戦争以来
いつも日本の青年が、銃をもたされ
引き裂かれた愛の涙を酒と一緒に枕にこぼし
船倉に積みこまれ死ににいった広島の港町、

 

どぶのにおいのたちこめる
ごみごみ露地の奥の方で
母のないあと鋳物職人の父さんと、幼い弟妹たちの母がわり
ひねこびた植物のようにほっそり育ち
やっと娘になってきたが
戦争が負けに近づいて
まい晩日本の町々が藁束(わらたば)のように焼き払われるそのなかで
なぜか広島だけ焼かれない
不安と噂の日々の生活、

 

住みなれた家は強制疎開の綱でひき倒され
東の町に小屋借りをして一家四人、
穴に埋めた大豆を噛(かじ)り、
鉄道草を粥(かゆ)に炊き、
水攻めの噂におびえる大人に混って
竹筒の救命具を家族の数だけ争ったり
空襲の夜に手をつないで逃げ出し
橋をかためる自警団に突き倒されたり
右往左往のくらしの日々、
狂いまわる戦争の力から
必死になって神経痛もちの父を助け、幼い弟妹を守ろうとした
少女のその手、そのからだ、

 

 

そして近づく八月六日、
君は知ってはいなかった、
日本の軍隊は武器もなく南の島や密林に
飢えて病気でちりじりとなり
石油を失った艦船は島陰にかくれて動けず
国民全部は炎の雨を浴びほうだい
ファシストたちは戦争をやめる術(すべ)さえ知らぬ、

 

君は知ってはいなかった、
ナチを破ったソヴェートの力が
不可侵条約不延期の知らせをもって
帝国日本の前に立ち塞(ふさ)がったとき
もう日本の降伏は時間の問題にすぎないと
世界のまなこに映っていたのを、

 

君は知ってはいなかった、
ハーケンクロイツの旗が折れ
ベルリンに赤旗が早くもあがったため
三カ月後ときめられたソヴェートの参戦日が
歴史の空に大きくはためきかけたのを

 

 〈原爆投下は急がれる
 その日までに自分の手で日本を叩きつぶす必要を感じる
 暗くみにくい意志のもと
 その投下は急がれる
 七月十六日、ニューメキシコでの実験より
 ソヴェートの参戦日までに
 時間はあまりに僅(わず)かしかない!〉

 

 

あのまえの晩 五日の深夜、広島を焼き払うと
空より撒かれた確かな噂で
周囲の山や西瓜畑にのがれ夜明しをした市民は
吠えつづけるサイレンに脅かされながらも
無事な明け方にほっとして家にひき返し
のぞみのない今日の仕事へ出かけようと町に道路に溢れはじめた
その朝 八月六日、その時間

 

君は工場へ父を送り出し
中学に入ったばかりの弟に弁当をつめてやり
それから小さい妹を
いつものように離れた街の親戚へ遊びにやって
がたつく家の戸に鍵をかけ
動員の自分の職場へ
今日も慣れぬ仕事に叱しかられに出た、

 

君は黙って途中まで足早に来た、
何かの気配でうつ伏せたとき
閃光は真うしろから君を搏(う)ち
埃煙(あいえん)がおさまり意識が返ると
それでも工場へ辿(たど)りつこうと
逃げてくる人々の波を潜り此処まで来て仆(たお)れた
この出来事の判断も自分の中に畳みこみ
そのまま素直に眼を閉じた、
少女の思いのそのなかで
そのとき何がたしかめられよう
その懸命な頭の中で、どうして原子爆弾が計られよう
その手は未来にあこがれながら地に落ちた小鳥のように
手首をまげて地上にひろげられ
その膝は
こんなところにころがるのが、さも恥しいというように
きちんと合せてちぢめられ
おさげに編んだ髪だけが
アスファルトの上に乱れて、

 

もの心ついてから戦争の間で育ち
つつましくおさえられて来たのぞみの虹も焼けはて
生き、働いていることが殊(こと)さら人に気づかれぬほどの
やさしい存在が
地上いちばんむごたらしい方法で
いまここに 殺される、

 

 〈ああそれは偶然ではない、天災ではない
 世界最初の原子爆弾は正確無比な計画と
 あくない野望の意志によって
 日本列島の上、広島、長崎をえらんで投下され
 のたうち消えた四十万のきょうだいの一人として君は死ぬる、〉

 

きみはそのとき思ったろうか
幼いころのどぶぞいのひまわりの花を
母さんの年に一度の半襟の香を
戦争がひどくなってからの妹のおねだりを
倉庫のかげで友達とつけては拭いた口紅を
はきたかった花模様のスカートを、
そして思いもしたろうか
此のなつかしい広島の、広場につづく道がやがてひろげられ
マッカーサー道路と名づけられ
並木の柳に外国兵に体を売る日本女のネッカチーフが
ひらひらからんで通るときがくるのを、
そしてまた思い嘆きもしたろうか
原子爆弾を落さずとも
戦争はどうせ終っただろうにと、

 

いいえどうしてそのように考えることが出来よう
生き残っている人々でさえ
まだまだ知らぬ意味がある、
原爆二号が長崎に落されたのは
ソヴェート軍が満州の国境を南にむけて
越えつつあった朝だったこと
数年あとで原爆三号が使われようとした時も
ねらわれたのはやはり
顔の黄色い人種の上だったということも、

 

 

ああそれは偶然ではない、天災ではない
人類最初の原爆は
緻密な計画とあくない野望の意志によって
東洋の列島、日本民族の上に
閃光一閃投下され
のたうち消えた四十万の犠牲者の一人として
君は殺された、

 

殺された君のからだを
抱き起そうとするものはない
焼きぬけたもんぺの羞恥を蔽ってやるものもない
そこについた苦悶のしるしを拭ぐってやるものは勿論ない
つつましい生活の中の闘いに
せい一ぱいに努めながら
つねに気弱な微笑ばかりに生きて来て
次第にふくれる優しい思いを胸におさえた
いちばん恥じらいやすい年頃の君の
柔らかい尻が天日にさらされ
ひからびた便のよごれを
ときおり通る屍体さがしの人影が
呆けた表情で見てゆくだけ、

 

それは惨酷
それは苦悩
それは悲痛
いいえそれより
この屈辱をどうしよう!
すでに君は羞恥を感ずることもないが
見たものの眼に灼きついて時と共に鮮やかに
心に沁しみる屈辱、
それはもう君をはなれて
日本人ぜんたいに刻みこまれた屈辱だ!

 

 

われわれはこの屈辱に耐えねばならぬ、
いついつまでも耐えねばならぬ、
ジープに轢かれた子供の上に吹雪がかかる夕べも耐え
外国製の鉄甲とピストルに
日本の青春の血潮が噴きあがる五月にも耐え
自由が鎖につながれ
この国が無期限にれい属の縄目をうける日にも耐え

 

しかし君よ、耐えきれなくなる日が来たらどうしよう
たとえ君が小鳥のようにひろげた手で
死のかなたからなだめようとしても
恥じらいやすいその胸でいかに優しくおさえようとしても
われわれの心に灼きついた君の屍体の屈辱が
地熱のように積み重なり
野望にみちたみにくい意志の威嚇により
また戦争へ追いこまれようとする民衆の
その母その子その妹のもう耐えきれぬ力が
平和をのぞむ民族の怒りとなって
爆発する日が来る。

 

その日こそ
君の体は恥なく蔽われ
この屈辱は国民の涙で洗われ
地上に溜った原爆の呪(のろい)は
はじめてうすれてゆくだろうに
ああその日
その日はいつか。

 

8月10日の長崎。爆心地から110㍍の長崎電鉄軌道付近(山端庸介氏撮影)

広島赤十字病院で治療を受ける女性(10月6日、菊地俊吉氏撮影)

爆心地から1.2㌔の広島第二陸軍病院の収容テント内。医薬品はなく、火傷した顔にはチンク油を塗り、ガーゼをのせるのが精一杯だった(8月7日、川原四儀氏撮影)

長崎・道ノ尾付近 線路脇で救護を待つ原爆被災者たち(山端庸介氏撮影)

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