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実録・長崎原爆「核廃絶にむけて」㊤   長崎市・井上幸雄

自身の被爆体験を描いた絵を説明する井上幸雄氏(2017年6月)

 長崎市在住の井上幸雄氏(85歳)から被爆体験記が寄せられた。被爆から72年を経て被爆者が減少するなかで、被爆の実相を若い世代、世界に伝える使命感にかられて綴った体験記には、原子雲の下にいた被爆市民の戦争反対と核廃絶に向けた渾身の思いが込められている。元中学校国語教師であり、美術家でもある同氏の記録を、体験を描いた絵とともに3回に分けて掲載する。

 

————–◇————–◇————–◇————–

 

 1945年8月9日、私たちは町内(長崎市東上町)の防空壕で家族身を寄せ合って眠っていた。深夜に何度も鳴り響くサイレンの音に意識を覚まされながら、それでも何とかトロトロと仮眠を貪り続け、はっきり目覚めたのは、すでに午前7時を過ぎていた。折しも殷々と警戒警報が鳴っていた。多分この音に起こされたのだろう。


 この警報はその後すぐ空襲警報の緊迫した断続音に変わり、あわや、と緊張する間もなく、8時過ぎには警報は解除となった。


 やれやれという思いで、家族一同母に従って壕を出る。壕の外は明るい日射しが眩しい程だった。このあたりは諏訪の森に近く、遠く近くに蝉の声が響いていた。


 私たちの町内のこの壕について紹介すると、壕は東上町に住む私の家から程遠い警察学校(現在の歴史博物館)の裏にあった。そこは丘陵地であり、その丘陵の上に県立図書館があり、その一帯は諏訪の森と呼ばれる諏訪神社の境内となっていた。


 壕はこの県立図書館下の土手の部分を掘り込んでつくってあるが、私共の町内の壕に向かって右手に一つ、左手にもいくつかの壕が並んでいて、その一番奥には県庁特設の大きな壕があった。


 これら一並びの壕の前面に立ちふさがるように警察学校の校舎が軒を並べて建っており、その中の一つは、昨年来県庁の仮設庁舎となっていた。


 我が町内の壕は、当時(中学2年生時代)の私の記憶によると、入口の高さは1㍍70㌢程度、幅は2㍍弱だったように思う。入口から5㍍程掘り進んだ所で、左に奥行き4㍍、右に2㍍程の横穴式洞窟を掘り、両方で8家族、入口からの分を含めると全部で14、5家族を収容できる広さになっていた。壕はそこから幅1㍍程の狭い坑道となって正面奥に進み、2㍍程で右折して右隣の町内の壕と繋がっていた。


 そもそもこの防空壕掘りは、町内の男手が動員されて始まったものだが、父親不在の我が家は中学4年だった兄と、中学2年の私が鍬とスコップを持って参加した。ただし、学生のため連日の参加ができず、平日の日没時及び日曜・祭日に参加させてもらうという事で、穴掘りの最初から手伝ったのを記憶している。従って壕掘りの進行も断片的な記憶しかないし、一体いつ始まって、いつ終了したかという事実も定かではない。朧気な記憶ながら、とにかく2、3カ月の突貫工事でやり上げ、この年の5、6月頃には出来上がっていたように記憶している。

 

原爆投下前の長崎空襲

 

被爆前の長崎市街地

 長崎市の各町内がなぜ壕作りに必死に取り組んだのか。市の防空対策本部からの指示があったのかどうかは知らぬが、既に1、2年程前から町内単位での壕作りは過熱化してきていた。当初は町内毎に近くの道路のアスファルトを剥ぎ取って、下の土を掘り起こし、棺桶を埋める形に大きく掘った穴の上に板をかぶせ、盛り土をしただけの簡単な壕が市内の道路の随所に作られた。ところが、この年に入ると、丘陵地の土手に本格的な横穴式の防空壕を作ることが多くなったようだ。


 それは、この年に入って米軍機の来襲が頻繁になって来た事と無関係ではない。長崎市の戦災史によると、米軍来襲による警報の頻度は鰻上りの状態にあった。ちなみに昭和18年、19年、20年の3カ年の年毎の空襲警報と警戒警報の合計回数を見ると次の様になる。18年(4回)、19年(25回)、20年(226回)。


 18年、19年の数値は、それぞれ1年間の回数であるのに対して、20年分は終戦となった8月までの回数なのである。昭和20年の長崎は、空襲に関して足もとに火が付いたような緊急時にあったと言える。


 ただし、長崎市が実際に米軍機の空襲を受けたのは、原爆を除くと、僅かに5回程度に過ぎなかった。
 私はその長崎市空襲のいくつかを直接この身を通した強烈な体験として記憶している。忘れもしない。第2次長崎空襲の時の事である。


 私が中学2年になった新学期早々、物理の授業中の事だ。


 黒板に板書しながら、化学記号の解読をしておられたI先生(シャカナというあだ名)が、突然、板書を止め、訝しげな、険しい顔をして我々生徒の方をふり向いた。我々は、我々の誰かが咎められるようなへまな事をしたのだろうかと、思わず緊張して先生に注目する。途端に教室内はしーんと張りつめた空気に包まれたが、その瞬間、我々の緊張感を圧殺するような飛行機の急降下音、つづいてシュルシュルという爆弾投下音が我々の耳に響きわたった。その音で先生の表情の意味を納得したものの、間髪を入れず、ドドドッという大きな爆発音…。弾かれたように皆動いた。生徒達は日頃の訓練通り、すぐ自分の机の下に潜り、姿勢を低くして周囲の様子に目を配った。


 ところが、一方のシャカナ先生の方は全く周章狼狽の体で、只オロオロと教壇の上を右に行ったり、左に行ったりしていた。が、やがて意を決した如く教室の入口に走り寄り、青ざめた顔で我々の方をふり向いて言った。


 「静かに! 慌てるな! よしよし、よーし! そのまま、そのままっ、そのまま待っておれ! 私は職員室に行って情報を聞いてくる」


 と言うなり、教室を出て職員室の方へ駆けて行った。


 残された我々生徒達は、遠のく先生の足音を聞きながら、それぞれの机の下でしばらく様子を見ていたが、そのうち誰かがプッと吹き出す声につられて、あちこちで同様の失笑の声が広がった。その失笑は、先程のシャカナ先生のうろたえぶりを嘲笑するものだったが、又先刻までの驚愕と動揺から解放された安堵感から出たものである。


 その後、何事もなく過ぎ、先程の空襲が音こそ物凄かったが、教室内の窓ガラスが割れたわけでもなく、学校内や学校近辺が被害を受けたわけでもなさそうだと察しがつくと、それぞれ机の下から這い出て、周囲の者と勝手な無駄口を交換し合った。


 「警報も鳴らんとに、いきなり爆撃ばよ! 驚いたね」「今んとは艦載機じゃなかとな?」「どこのやられたっじゃろか?」「あんまり近くじゃなかごたるばい」「そいにしてん、シャカナのうろたえ方は面白かったね」…等々、無駄口は果てしなく続いた。


 かなりの時間が経って、シャカナ先生が戻ってこられ、先程の空襲によって長崎駅に甚大な被害があった事を知らされた。


 我々はあの物凄い爆発音が、実はここから約1・5㌔も離れた長崎駅に落とされた爆弾によるものと知って、その炸裂音の凄さに改めて驚嘆させられたものだった。


 それから長い年月が経った今日、私自身も教師となってあの時の事を思い起こし、今更のようにあの日のシャカナ先生の反応を嘲笑すべきではなかったと反省している。


 危機に際して、生徒は自分一人の身の安全を考えれば済むが、教師というものは、己一人の安全以上に全生徒の安全に心を配る必要があるのだ。


 シャカナ先生が最初板書の途中で我々生徒の方を振り向いて、訝しげで険しい表情をなさったのも、ひょっとして先生はあの時既に頭上遙かに聞こえる爆音が日本機のものでない事に気づき、次に起こるべき変事を慮(おもんぱか)っての表情だったのかもしれない。今にして、あの日の先生の行動の一つ一つにどのような心の動きがあったのか、何となく分かる気がして、あの日の我々の嘲笑がしみじみ申し訳なく思われてくるのだ。


 ところで、長崎原爆戦災誌によると、あの第2次長崎空襲の記録は「昭和20年4月26日午前11時、ただ1機のB29が無警報下の市内に4㌧爆弾を投下し、長崎駅の2番ホームで炸裂した」とある。


 つまり、この日の空襲は警報も発令されていなかっただけに、駅には平常時同様、待合室に大勢の人々が集まっていたらしい。


 戦災誌によると、「死者90人、傷者170人」とある。


 実は偶然だが、この日、鎮西中学四年生だった私の兄が、学校を早退して電車で帰宅する途中、長崎駅前で突然憲兵から停車を命ぜられ、兄を含む男性乗客全員が下車させられて、駅空襲で爆死した人々の死体の撤収作業をさせられたそうだ。


 爆破されたトラックの荷台に載せる仕事だったそうだが、電車から降ろされた男性や付近を歩行中に連れてこられた男性達が、命ぜられるままに2、3人ずつ組になって、死体をトラックに運び上げたそうで、まるで木材かゴミ袋を放り投げるようにポイポイと投げ上げ、積み上げていたという。


 広場に集められた死体は、生前と変わらぬ姿の死体もあったが、中には胴と手足がバラバラになったもの、内臓がはみ出したもの等、見るも無惨な死体が多く、そのほとんどが血と泥で真っ黒に汚れ煤(すす)けていた。


 兄は、これ等の死体をトラックに放り投げながら、こういうやり方は、つい数時間前まで同じ人間として生活していた人達への扱いとして許しがたいやり方だと、自らを責める気持ちにたじろぎながら、憲兵の「急げ!急げ!」という叱責の声に追い立てられ、命ぜられるまま懸命に働いたという。


 兄は更にこんな事も話しながら声をつまらせた。


 「中には未だ息ばしよる人もおったっぞ! ばってん、そぎゃん人も一緒くたにトラックに載せるごと言われたとばい」。兄は日頃明るく勇ましい事が好きな少年だったが、この日の出来事によほど大きな衝撃を受けたらしく、それ以後、就寝時間まで深刻な表情でふさぎ込んでいた。


 又、これは後日談になるが、私も多くの級友達と同じように、あの日聞いた一連の急降下音、爆弾投下音、そして物凄い爆発音から推測して、あの空襲は艦載機によるものだという印象を長い間払拭できずにいたが、齢60を過ぎ、戦災誌を見る機会に恵まれた折、「B29一機が落とした4㌧爆弾」であったことを知った。

 

 私が実際に空襲を目撃したのは、第3次空襲だったのか、第4次空襲だったのか、どちらとも定かでないのだが、長崎原爆戦災誌にある該当記述と照合してみると、どうも第3次空襲の方が、私の記憶と符合する点が多いように思われる。


 第3次空襲は7月29日、第2次空襲の3カ月後である。3校時目の授業の最中、10時半頃空襲警報が発令され、我々は学校の裏山に避難を始めた。そこには先月からクラス毎の防空壕が掘らされていた(但し、未だどのクラスも未完成であった)。壕のあるその丘に登って行く途中、校舎の方をふり返ってみると、眼下に奉安殿とその周辺の植込みのあちこちに、上級生が銃を持って警護している姿が望見できた。私は銃を執り、御真影の守護にあたる上級生の姿を勇ましくも思い、羨ましくも思った(この頃の私は高々度の上空から来襲し爆撃する敵に対しては、小銃ごとき小火器なんぞ何の役にも立たぬ事など考えもしなかった)。


 2年生の避難場所として指定された裏山に集結した後、我々はそこここに身を寄せ合って雑談にふけっていた。警報下の緊張より窮屈な授業がつぶれる解放感で多少浮き浮きしていたのを記憶している。


 このあたりは周囲に雑木が茂る丘陵地で、市内が一望できる見晴らしのよい広場もあった。その広場の奥の山際に2年生用の防空壕を掘っていた。但し、まだどのクラスもほんの二㍍程掘り込んだだけで、クラス員全員の避難の用をなさぬものだった。広場のそれぞれの壕の前のあちらこちらに掘り出した赤土が積み上げてあった。


 やがて我々は雑談に飽きると、それぞれ三々五々、見晴らしのよい広場に集まって、広場の土手の上に長い帯状となって、そこから市街地を眺めていた。ここは長崎市を東部方面から眺める位置にあるが、金比羅山の山裾に隠れて、右側の浦上方面は見る事が出来ないが、市の中央部は眼下に見渡され、正面の稲佐山の山並みを左に見ていくと、長崎港の入口が、左手から続く大浦地区の丘陵に挟まれる形で眺められた。


 警報下の長崎の町はひっそりと静まり返っていた。


 しばらくして、突然、「敵機だ!」という声があがり、指さす方に目を向けると、いつ現れたか、長崎港の入口方面の上空(たいして高々度をとっていなかった)をB29の編隊が整然と翼を連ねて飛んで来るのが遙かにかすかに見えた。しかも、よく見るとその編隊の後方にも別の編隊がまるで空の中からにじみ出るように姿を現し、しかもだんだんとその2つの編隊の機影を大きくしていく。


 爆音は市街地の静寂を押し退けるようにかすかに、やがて確かな響きを伴って町全体を包み込んだ。


 編隊の先頭が丁度川南造船か戸町付近と思われる上空に達した時、まるで胡麻粒のような無数の黒点が編隊から吐き出され、その胡麻粒がゆっくりと地表に落下していくのが見えた。


 「あっ! 爆弾ば落としよるっ!」
 と誰かが叫んだ。

 

日本全土に爆弾を投下したB29爆撃機

 黒い粒は次々にゆっくりと地表に吸い込まれ、やがてその消えたところから勢いよく黒煙が立ち昇る。地表とはいえ、この場合、人家の密集地帯なのである。戸町、浪の平、小菅地区と思われるそれらの地帯に次々に吸い込まれる胡麻粒、そして次々に噴き上がる黒煙、まるで農地が横一列毎に整然と掘り起こされ耕されているような錯覚を覚えた。


 数秒おいて猛烈な爆撃音と地響き、それまで音のない写真の世界を見ているような思いだったのが、とたんにそれら全ての音が現実的な危機感を伴って、それまで高みの見物と洒落込んでいた我々を包み込んだ。


 爆撃音は波状的に続き、威圧感と共に視界に映じる状況と相俟ってその被害の大きさを見ている我々に実感させた。


 「畜生!」
 と近くにいた友が呻くように叫んだ。それはその場にいたみんなの共感でもあった。沸々と敵愾心が沸き立つのを覚えた。


 爆撃は一頻(しき)り港口一帯の地表を耕した後、思いの外あっさりと終わった。爆撃された一帯は濛々と黒煙を噴き上げ、ところどころメラメラと火の手が上がっているのが見えた。


 ところで、その爆撃を終えた第一波の編隊が、何と、何と、我々の方に機首を向け真っすぐに飛んで来るではないか!


 横長に爆撃体勢を組んだまま、進路をこちらに向けて、やがて市街中心部上空にかかり、その市街地を越え、あたかも我々のいるこの広場こそが彼らの真の目標、獲物であるかの如く、真っ直ぐに迫ってくる。機影がますます大きくなってくる。殺風景な赤土の土手に立ち並んで、見物気分だった皆の心に動揺が走った。怯えと恐怖に戦(おのの)いた。


 みんなの頭には、先程の寸刻みに大地とその上の建造物の総てを粉砕していく爆撃の凄まじさが焼き付いている。今度又、我々の頭上にあの胡麻粒のような無数の爆弾を落とされちゃたまったものではない。


 轟々たる爆音を響かせて、その第一波の編隊が、正に我々の頭上に達したと見えた途端、誰かが「危ない、伏せろ!」と叫んだ。否やはない。皆その声を待ちかねた如く、一斉に四方に散った。そしてそこここの凹地に飛び込んで目と耳を押さえ、「伏せ!」の姿勢を取った。


 不覚にも私は一歩遅れを取った。私が飛び込もうとした凹地には既に数名の友人が突っ伏していた。私はおろおろと他の場所を探した。どこも既に先客があった。先程来の爆撃を見た後は、平地に伏せるだけでは何となく心もとなく、地面より少しでも低い場所を見つける必要があった。溝でも、どぶ池でもよいと思っていた。その点みんなよい場所を選んでいるように見えた。もし、今ここに爆弾が落ちたら死ぬのは俺だけだ、そう思った途端、ぞーっとしてとても恐くなった。


 爆音は今正に我々の真上から威圧する如く轟いていた。


 私は万やむなしとばかりに、壕から掘り出した赤い盛り土の一つを懸命に手で掘って、頭大のくぼみを作り、その中に我が頭を突っ込み目と耳をしっかり押さえ、体を固くして伏せの姿勢を取った。


 「頭隠して尻隠さずとはこの事だな」…とふと自らの格好の不様さを自ら嘲笑しつつも、ともかく頭だけでも守らねばと懸命の思いだった。ともあれ、先程の敵愾心など微塵に飛び散って、唯々助かりたい一心で赤土に顔を押しあてていた。


 しかし、我々の頭上を覆って絶対の恐怖に戦かせていた爆音は、あたかも緞帳の幕を引く如く徐々に東の方に移動して行った。


 やがて何事もなく敵機が去って、ほっとしながら、次々に窪みから顔を上げるみんなのその顔が傑作だった。恥じらうように照れ笑いを浮かべながら、お互いに顔を見合わせ、そしてたちまちお互いに吹き出したものだった。誰もが、泥や赤土で無惨に顔を汚していたのである。

 

 2次及び3次以外の空襲については、はっきりした記憶はないが、友人との会話の中で、戸町・大浦空襲で友人の身寄りや知人に爆死した人があったという情報やら、土井の首・岩川町・愛宕町等の被弾による損害のひどさ等について聞かされ、これ程市内のあちこちが頻繁に被害を受けるとすれば、遠からずきっと自分の家にも被害の順番が回ってくるに違いないと予想していたものだった。    (つづく)

 

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