いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

文字サイズ
文字を通常サイズにする文字を大きいサイズにする

核禁止条約の国際赤十字声明に関連して 消し去れぬ投下後の犯罪

被爆者への薬品提供を拒んだアメリカ

 核兵器禁止条約をめぐって、宗教・医療・学術などさまざまな分野の国際団体がこれを歓迎し、原水爆の製造・貯蔵・使用を禁止する運動に寄与する声明を発表している。「核兵器禁止条約採択についての赤十字国際委員会と国際赤十字・赤新月社連盟の共同声明」もその一つである。


 声明は、「核兵器廃絶を初めて呼びかけてから72年が経った今、何より被爆者と核実験の被害者の苦しみを思えばこそ、この、実に歴史的である条約を熱く歓迎します」とのべた後、次のように続けている。


 「私たち赤十字運動は、1945年に自分たちが目の当たりにした原子爆弾の恐ろしい影響について、独自に直接証言することでこうした取り組みに尽力してきました。また、自分たちの経験と知見に基づき、核兵器の使用が人体にもたらす長期的な影響や、使用された際に有効な人道支援対応ができないことについての証拠も提示してきました」


 このくだりは、広島・長崎では日本赤十字病院の医師が被爆直後から、日夜献身的に被爆者の救護・看護にあたったこと、またそこで目撃・体験したことを後世に、世界に発信してきたことを想起させる。同時に、この声明ではふれていないが、そこには当時、赤十字国際委員会の駐日代表が、世界に向けて広島・長崎への救護・救援を呼びかけたとき、アメリカがこれを妨害し、被爆者の治療を放置しつづけたという埋もれた事実がある。この点について、今日もっと強調されて良いだろう。


 広島市内の救護組織は1発の原子爆弾によって壊滅した。医師や看護婦のほとんどが市内の中心部で罹災し、その死亡率も高かった。このため、郡部から駆けつけた救護班は、広島市周辺の学校、役場、警察、寺院などに急きょもうけられた仮救護所で治療にあたった。


 広島赤十字病院には、8月6日の日没までに1万人を超える負傷者が押しかけた。病院横の空き地にも門前の芝生にも、外来室の前にも、院外の街並み数百㍍にわたる両側にも、半裸体の患者が床や地面にごろごろ横になって、医師の手当の順番を待つ状況だった。


 数少ない医師や看護婦が、ひどい生傷を抱えて次から次に運び込まれる1人1人をまともに治療できるものではなかった。消毒液や軟膏、赤チン(マーキュロクロム)、油薬などの薬品もすぐ底を突いたため、食用油や機械油までも使い、水を与えるために歩き回る状況であった。しかし、夜もローソクをともして様子を見回り必死に励まし続けた。それは長崎でも同じであった。


 被爆者は、手当らしい手当も受けないまま、その夜のうちから激しい嘔吐と下痢を発症し、次第に顔も腹もふくれあがり男女の区別もわからない姿となり、苦悶のうちに息絶えていった。峠三吉が「仮繃帯所にて」「倉庫の記録」で描いた事情は、その後も放射能特有の症状を広げて、被爆者とその家族を苦境に追いやっていた。


 当時、赤十字国際委員会駐日首席代表であったマルセル・ジュノー博士が8月下旬に広島に派遣した医師から受けた電報には、被災した市民が「不可解な症状」(原爆症)で回復したかに見えても「突如、致命的な再発を来たし相当数が死亡」していると伝えていた。


 そこでは、「およそ10万以上の負傷者がいまだ仮設病院にいて、器材、繃帯、医薬品も完全な欠乏状態にある」ことを訴え、「連合軍上層部(GHQ)の特命を厳重に要求し、直ちに街の中心部に救援の落下傘を投下するよう要請されたし」と要求していた。ジュノーはこれを受けて、早速GHQのPHW(公衆衛生福祉局)に広島に食料と医薬品を投入するよう要請した。


 アメリカは広島・長崎には薬品が欠乏しており、とくに化膿止め、感染予防としてのペニシリン(抗生物質)が求められていることを熟知していた。しかし、赤十字国際委員会の要請にこたえる形で広島に送った一二㌧の医薬品の中には、ペニシリンを入れなかった。さらにそれ以後、被爆地には医薬品の投入をいっさいおこなわなかった。


 GHQのファーレル准将は形だけの医薬品を広島に届けることを決めた9月6日の時点で、赤十字国際委員会の救援活動への対抗を露わにしていた。それはこの日、連合国の海外特派員に向けて発表した「原爆放射能の後障害はありえない。すでに、広島・長崎では原爆症で死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ」という声明にはっきりと示された。広島と長崎の救護所では、何万という被爆者が原爆症にあえぎ、毎日100人を超す被爆者が息絶えているというのに。


 医薬品を届けるために、広島を訪れたジュノーは被爆から1カ月経った広島の惨状について、医師の目で次のようにレポートしていた。「負傷者たちの多くは傷の手当てをされずにいて、何匹ものハエが傷口にたかったり、そのまわりを飛んだりして、信じられない程、非衛生的である。多くの患者は、今頃になって出始めた放射能による影響と、その出血のために苦しんでいる。彼らには、少量ずつ断続して、輸血しなければならないのだが、輸血の提供者も、血液型を調べる医師もなく、したがって手当てもされないでいる」


 ジュノーは赤十字を通して募金と復興資材を広島に送り込む運動を組織するよう要請する電報を打とうとした。だが、これを察知したGHQは電報局を押さえて打電を阻止することまでやったのである。


 ファーレル准将は、マンハッタン計画(アメリカの原爆開発計画)の副責任者であった。彼は広島・長崎で被爆者の人体をモルモットのように調査するABCC(原爆傷害調査委員会)の設立にあたってもその先陣を担った。被爆者を長期にわたって系統的に調査するが、被爆者が求める治療は拒否するというABCCの非人道的な機能には、アメリカの核兵器の製造と貯蔵の独占、新たな使用の必要のために、被爆者を利用するという原爆投下者の残虐な思想が貫いている。
 それは今日、全世界を圧倒する核兵器禁止の世論に、広島・長崎への原爆投下は正しかったといいくるめ戦術的に使える核兵器の開発に拍車をかけるアメリカが対抗し、日本政府がそれに付き従うという恥ずべき姿につながっている。


 こうしたことは、原水爆の全面的な禁止を達成するためには、抽象的な「核廃絶」では無力であり、アメリカが原爆を投げつけた広島・長崎で、なんの罪もない老幼男女がどのような悲惨を強いられたのかを全国、全世界に発信することが、その牽引力となることを教えている。それは、アメリカに謝罪を求め、新たな核戦争のたくらみに反対する全国民的な運動を力強く発展させることと一体のものである。

関連する記事

Share on FacebookShare on Google+Tweet about this on TwitterEmail this to someone

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。なお、コメントは承認制です。