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語り尽くせぬ下関空襲の記憶――2日間で焼き払われた市街地 あれから81年 市民が伝えた生々しい体験を後世へ

(2026年7月1日付掲載)

米軍の下関空襲で焼き払われた下関市街。田中町・西之端を望む。右の大きな建物は電話局(1945年、上垣内茂夫氏撮影)

 下関市は1945年6月29日、7月2日の2度にわたって米軍による空襲を受け、中心市街地は焼け野原となり、多数の市民が死傷、家族や家を失った。2度の空襲でB29が投下した焼夷弾は420㌧(7月2日は360㌧)にのぼり、市街地108万9000平方㍍が焼失、都市機能が停止する壊滅的な被害を受けた。それは1944(昭和19)年のサイパン、グアム、テニアンの陥落によって太平洋の制空権・制海権を掌握した米軍が、東京大空襲を皮切りに、大阪・名古屋などの大都市から全土の中小都市合わせて67の市街地を焼き払った無差別殺戮・焦土作戦の一環であった。下関空襲は、中国地方では原爆を投下された広島に次ぐ甚大な被害となり、官庁の公式資料では、2度の空襲で市民324人が死亡、1100人が重軽傷を負い、焼け出された市民は4万6000人をこえたと記録されている。しかし被災者は「その程度のものではなかった」と共通して語っており、「戦災直前の人口21万2000人は、その直後15万5000人に激減してしまった」(野村忠司編『カンナ炎える夏』)ともいわれている。当時の惨禍を知る市民が数少なくなるなかで、その体験と「二度と戦争をしてはならない」という切実な思いを受け継いでいくことはますます重要になっている。81年目の下関空襲の日を迎え、本紙が戦後60年目にあたる2005年に市民から聞きとった生々しい体験を改めて紹介したい。

 

・三井や三菱は狙われず市街地が焼け野原に


           三好 寿和子

 

 昭和20年6月と7月の下関空襲のときは28歳だった。新町3丁目、今の山口銀行新町支店の田中川を挟んだ斜め前あたりで、菓子の製造販売をしていた。大通りに面して店があり、裏側が工場になっていた。2回目の7月2日の焼夷弾爆撃で新町3丁目は、時計や宝石、蓄音機などを売っていた新田宝寿堂のところまで焼け野原となった。

 

 焼夷弾の炎が木造の壁にぺたっと付くと、あっという間に家が燃え上がる。うちは菓子の材料の砂糖や蜜があったのでよく燃えた。

 

 私は幼児だった長女を連れて必死に逃げた。子どもの夏布団を濡らし、火の粉をよけるためにかぶって走るのだが、これが乾くほどのすさまじい火力だった。うちの町内では、私が一番あとに逃げることになった。みんな下関重砲連隊(今の済生会病院跡、公共職業安定所、県総合庁舎のところ)の東駅側から椋野に逃げた。

 

 夜が明けて戻ってみると新町3丁目から田中町、西之端、唐戸にかけて焼け野原で、遠く離れた宇部が米軍の空襲で燃えるのが見えた。新町にあった記念病院(今のひろしげ眼科医院)は、火傷をはじめ負傷者が次々に運び込まれ、病院に入りきれずにあふれる惨状だった。

 

 ところが、下関重砲連隊も、今の図書館(05年当時)のところにあった憲兵本部も燃えなかった。強制疎開させられていた田中川を挟んだ貴船側は燃えなかった。「下関は要塞があるから、やられた」といわれたが、不可解だった。あとでわかったが彦島の三井や三菱の工場も燃えなかった。アメリカはみんなわかっていた。

 

 主人に赤紙(召集令状)がきて、台湾に派遣されることとなり、部隊は鹿児島に行ったが、米軍の攻撃で鹿児島から出港できず、引き返してきて門司港から出港した。私は壇之浦にあった神社に何回も行って、台湾に無事に着くことを祈った。11隻の船が台湾に着いたことを聞き安心した。このように、もう日本の敗戦は決まっていた。なのに、なぜ民家の密集地にこれほどの焼夷弾爆撃をしなければならないのか。心の中で引っかかっていた。下関には重砲連隊があり、要塞もあったが、あっただけで役に立たなかった。アメリカは日本を占領しやすくするために、日本の民衆を徹底してたたき、殺した。

 

 主人は敗戦後すぐに引き揚げてきた。まだ焼け野原だった唐戸に店をつくった。戦争ほど人の命を犠牲にするものはない。命は、本当に必死で守らなければならない。またきな臭い世の中になってきているが、戦争は二度と起こしてはならない。

 

赤間町・唐戸町を望む。左端がか亀山八幡宮。中央に見えるのがかつてあった太鼓橋(撮影・上垣内茂夫氏)

・避難する住民の列に焼夷弾を浴びせた米軍


             奥藤久馬

 

 私の勤務していた下関消防署が、下関警察署の指揮下に開設されたのが昭和18年1月15日。空襲が近づいてきたので防備をしないといけないということだった。当時、焼夷弾対策といって、竹の棒の先に縄をくくりつけた火消しの道具の作り方を、隣組に出向いて指導していたが、今から考えるとなんの用もなさないものだった。

 

 下関は昭和20年の6月29日と7月2日の2回、空襲にあった。あの夜は、B29が超低空で飛んできて、焼夷弾をバラバラバラバラと落とし、上空で火がついて、それはまるで長い提灯行列のように見えた。見るとB29は、街中に焼夷弾を落とすばかりでなく、関門海峡の上空をグルグルと旋回して、関門海峡に機雷を落としていった。またB29は焼夷弾とともに50㌔爆弾も落とした(金比羅にあった自宅のそばの大きな農家の屋根を突き抜けて落ちたのでわかった)から、消火作業といっても命がけだった。当時下関消防署には消防車が3台と、うちトヨタのポンプ車と、あとはフォードとダッチの車で、消防士も20~30人しかいなかった。

 

 私は昭和19年から彦島出張所に勤務していた。軍需工場である三菱重工を重点的に守れということだった。7月2日の空襲のときも三菱を守るために待機していたが、そこには焼夷弾はまったく落ちてこなかった。数十分待機するうち、見ると対岸の豊前田の盛り場あたりから火の手が上がり大火事になっている。「豊前田の谷を消火してくれ」と連絡が入り、本村から旧橋を渡った。

 

 しかし焼夷弾がどんどん落ちてくるし炎がものすごい。そのままでは前へ進めないので、上条から長崎町を通って回り込み、貯水槽にポンプ車をつけて消火作業を始めた。遊郭のイロハ楼から上は絶対に燃やすなということで必死だった。細江から豊前田はみな焼けたが、茶山の方への類焼はわれわれの力で止めた。しかし逃げ遅れた女郎さんたちが焼夷弾の直撃を受けて、道路上に死骸がゴロゴロと転がり、それはひどいものだった。

 

 また、南部町の倉庫地帯の道路の下に防空壕が掘ってあり、そこに逃げようとして、南部の住民が列をなして何十人とおりていたところを焼夷弾が直撃し、バタバタと亡くなったが、それをまのあたりにしてもどうしようもなかった。当時救急車はなく、ひどい火傷の人は多かったが、それを消防車で運んでいた。

 

 一番ひどかったのは幸町の清和園で、70人以上の人が亡くなった。紅石山に避難していて、火が上がってきて焼け死んだ人もいた。私は空襲のあとも1週間ぐらいは不眠不休で働いた。なかなか火が消えなかったからだ。

 

 思うに米軍の目的は、兵站や食糧輸送の重要拠点である関門海峡に機雷を落として船舶運航を阻止することが第一で、それと同時に民間に焼夷弾を落として焼き払うということではなかったか。金比羅や火の山にあった高射砲台や、砲兵隊のいた六連島にはまったく焼夷弾は落ちていない。高射砲が発射する弾(実際にはあたらなかったが)の流れはキャッチできるはずなのに、それを狙えばいいのにそうしなかった。米軍は事前にそうとうな偵察をして、用意周到に攻撃したのだと思う。

 

 それにしても民間があれほど焼き払われるとは夢にも思わなかった。当時は情報が入り乱れ、警察は警察で、軍は軍でそれぞれの持ち場で必死で、一元的な統率はとれていなかった。死者数など正確な数字はわからないのではないか。私が消防に勤め始めたのは、世のため人のためになにかすることはないかと考えたからだ。しかし、あれから60年たった日本を見ると、まるで植民地のようになり、道義は地に落ち、教師が体罰をしたといって親が学校を訴えるような時代になった。日本の将来のためにも、歴史を語り継ぐために頑張ってほしい。

 

唐戸町・南部町を望む。左側奥に秋田商会の丸い屋根が見える(撮影・上垣内茂夫氏)

・誰にも語れずにきた清和園の惨状


           白川カツエ

 

 私は女学校4年生だった。警戒警報が解除されたが、また空襲が始まり、下の家が焼かれるので母と一緒に上の方に荷物を持って逃げた。

 

 一番上の畑の中に逃げたが、その場所はまわりが全部、2階屋根の家だった。それが燃え始め、火の粉が落ちてくるので布団をかぶって防いだがどうしようもない。荷物も焼けてくる。逃げる場もないし、煙で動けない。タオルを口に当てようとしても水がないので、つばをつけて口に当てていた。まわりの家が2階まで全部焼け尽きるまで我慢するしかなかった。

 

 そのあいだ立っていることもできない。息ができなかった。火を避けるために地面をはいつくばりながら、あちこちを逃げるのに精一杯だった。何回も死ぬなと思った。まわりの状況は覚えていない。

 

 翌朝になって火が消えたとき、当時下関にいた暁部隊の人が「ケガをした人は日和山に行くといい」といわれたが、私はへとへとで、1㍍歩いては休み、休みしながら下におり、焼けた相沢歯科の土べたで横になった。そのあと長府に姉がいるので歩いて行った。しばらくは喉をやられ、声を出すことができなかった。

 

 このとき一緒に逃げた母が亡くなった。近所の人が60人も亡くなったのだ。一家全員亡くなった家もある。兵隊から帰ってきたご主人だけが残り、かわいそうだった。私は若いから助かったのだと思う。父は赤岸の方に逃げていて、家族を心配して戻ろうとしたが、家の方は火の海で入れなかったそうだ。

 

 姉が現場に行っても母がわからないというので、2、3日たって私も行き、トタンの上に置かれた母の遺体を見つけた。母は口から血を流し、着物が焼けてお腹のあたりは裸だった。ほかにも裸同然で赤ちゃんをおんぶしたまま亡くなっている女の人もいた。みんな葬式を出せなかった。焼き場もいっぱいだったので土葬されている。

 

 私はこれまでこのことをだれにも話してこなかった。本当につらい、思い出したくないことだ。でも絶対に戦争はいけない。どんなことがあってもやってはならないことだ。このことだけは体で感じている。

 

・まわりを火で囲まれ逃げ場もなく殺された


        生野町 女性(80代)

 

 私は清和園のすぐ下に住んでいた。7月2日、東大坪の方に焼夷弾が落ち始め、あっという間に市内が燃え出した。上から見ると全部火の海でどっちに逃げたらいいのか見当がつかず、清和園を通って宮田町の方に抜けようと思い、清和園に上がった。だが、通り道の角の家が燃えていて引き返した。まわりから火が来て、近所の人はみんな空き地の畑に集まった。逃げるときに持ってきたこうりの中の衣類に火がつき、すぐそばが燃え始めた。逃げる場所もなく、この世の見納めと思って法福寺が燃え上がるのを見ていた。突風が起こり、竜巻のようになって炎がなめるように回ってきた。髪の毛もなにもカラカラだった。だんだんぼーっとなって、わけがわからなくなった。

 

 しばらくして火がおさまり、ぼーっとしたまま、助かったんだと思った。まわりの人がどうなったのか考える余裕もなかった。隣の家の人と2人でガス会社の前まで下りたが、煙にまかれたので目が見えなくなってきた。裁判所まで歩いて、「もう機銃掃射でもなんでもしてくれ」と思い芝生の上に寝ていた。そのときだれかが口移しで水を飲ませてくれたのをかすかに覚えている。

 

 清和園で同じ7組の6人が死んだ。主人と甥っ子も死んだ。私は戦争で殺されるなら生まれてこない方がいいと思って戦後1人で生きてきた。米国についていかないといけないような今のでたらめな社会を見ると、ああ、これが戦争に負けたということなんだなとつくづく思う。

 

撮影場所不明。写真のなかに母子の姿がある(撮影・上垣内茂夫氏)

・防空壕ごと押しつぶされ生き埋めになった家族


            女性(71歳)

 

 屋根すれすれをかすめるように焼夷弾が落ちてきたりした。アメリカ兵が飛行機の上から油の缶でまいているような音がしてから、焼夷弾がきらきら光りながら落ちてきた。清和園の上に兵隊さんがいて、気が狂ったように日本刀を持って火の中に飛び込んでいく姿を見た。

 

 当時はみな家の天井を外すようになっていた。焼夷弾が天井に引っかかったらいけないということだった。金子さんという家族は自分の家の畳の下に掘っている防空壕に入っていて家もろともつぶれ、2人は生き埋めのようになって出てこなかった。穴もろともつぶれたんじゃないかと思う。だから、下関の街は表面的にはきれいになっているが、掘ったら穴から骨がたくさん出てくるんじゃないかと思う。

 

・待ち構えていたように爆弾が落ちてきた


          女性(79歳)

 

 下関空襲の日、弟と妹は小さいので早く避難しておけというので、稲荷山の防空壕に逃げていた。私と母は家を守って待機していた。父は町内のお世話をしていたので、皆さんを避難させたり仕事をしていた。あの日、警戒警報と空襲警報が解除されたので、ずっとはきっぱなしのもんぺを脱ごうとしていると、ざーっと雨が降るような音がした。油をまいたのだ。逃げようと動き出すと、まるで待ち構えていたように家の裏に爆弾が落ちた。隣の家も、やはり避難しようとしていたときだった。焼夷弾は逃げる道々、前に落ちたかと思えばすぐ後ろに落ちる。よく逃げられたと思うほど恐ろしかった。新町の方から陸軍病院まで逃げたが、病院にも爆弾が落ちていたので、入院していた体の不自由な兵隊さんが2人の兵隊さんに抱えられ、泣きながら逃げていくのに出くわした。

 

 妹たちは、向かい側に清和園があって、翌朝、蒸し焼きになった無残な姿を直接見たという。それを今でも何かにつけて話している。翌朝、父も助かっていて、家族が無事であったのを喜んだ。

 

 私は当時タイプの養成所を出て働いていたが、そこに江戸金の娘さんが一緒に働いていた。娘さんは6月28日に結婚式をあげたばかりだったが、主人が7月2日の空襲で、王江小学校のグラウンドに避難したとき焼夷弾の直撃を受けて即死してしまった。結婚生活はわずか数日。本当に気の毒だった。

 

・全身大やけどを負って死んだ父


      丸山町  女性(78歳)

 

 今の南部町郵便局のあたりに東局といって電報局があった。私はそこに仕事に出ていた。アメリカは油脂をまいてから焼夷弾を落とした。油をまくときには音がすると聞いていたからすぐわかった。まわりがどんどん燃えていった。あそこが焼けたと思ったら、その火がパッと少し離れたところに飛んでいくように火が出てまた燃え上がる。だんだん局に迫ってくるので、バケツで水を汲んで1人2つずつ持って建物にかけた。そのせいか焼けずにすんだ。その付近の秋田商会も英国領事館も残った。

 

 丸山町の自宅に帰る道、建物がみんな焼けて、何もかもなくなっていたのを見た。しかし自宅は焼けないで残っていた。家の中に焼夷弾が飛び込んできて敷居にめり込んだが、隣組の人が家に残っていてすぐに来てくれ、まだ爆発していない焼夷弾を引き抜いて外に投げてくれた。壊れたところも応急的に直してくださった。本当ならとっくに燃えていた。家の中は水浸しだったが、畳をはずしてとりあえず眠れるように、近所の人が物を持ち寄って助けてくれた。私たちの集落は30軒ほどだったが、そういうことで全部残った。貧乏人が力を合わせたからできたと母親がいっていた。

 

 空襲のときに丸山町の防空壕の表に立って監視していた父は炎で顔から足まで全身大火傷し、10日後に死んでしまった。自分が大火傷して苦しいのに、看病している母に「かずのところに行け」と電報局にいる私のことを気にして何度もいっていたという。薬も少ししかなく、顔に塗るともうない。「桐の木と卵が効くらしい」と話になり、桐の木の箱を蒸してすり、それに卵をまぜた。卵もなかったので、どこからか一つ、また別の人が一つと下さったが、結局死んでしまった。遺体は火葬場では間に合わず自分で焼いた。母と私と妹だけではどうすることもできず、組合の人が薪を持ち寄って焼いてくれた。団結していたからできたと思う。

 

 私の兄は徴兵でフィリピンに行き、何とか生きて帰ったものの、病気を持って帰り、1年後に亡くなった。戦地が薬も食べ物もなく、どんなに悲惨だったか、近所の人に話していたが、その表情は苦しいような顔だった。兄が戦地に行っていたので私と妹が父の里の大分まで買い出しに行った。汽車から一里の道を重たい荷物を持って一緒に歩いた。こんなことが二度とあってはならない。

 

・炎に囲まれ多くの犠牲者が出た清和園


         女性(77歳)

 

下関空襲の犠牲者を弔うために建立された「幸せ地蔵」(下関市幸町)

 私は清和園の惨状のなかで生き残ったうちの一人だ。みんな火に囲まれて高い方へと逃げていくなかで、父だけは私たちを崖から下ろすための逃げ道を探し、私を背中に負ぶって崖を下りたから助かった。今の命は父からもらったものと今でも思っている。

 

 あのときの清和園は、まるで火のついたフライパンの上のようだった。火がまわりを囲み、逃げ道を失った人たちは、みんな上に逃げろと上がって行った。ところが上ではまったく逃げるところがなく、防火水槽などの中に頭を突っ込むようにして亡くなった人が多かった。私は機転を利かせた父に背負われて火が回っていない崖から下り、かろうじて助かった。あとで清和園に上がってみたら、たくさんあった家はみな全焼してなくなっていた。近くに住んでいた若いお母さんが6カ月の赤ちゃんを助けようと地面に穴を掘って赤ちゃんを入れ、自分はその上に被さって死んでいた。穴の中の赤ちゃんも助からなかった。

 

 私と同年代の男の子もそこで焼け死んでいた。防空壕の入口に近いところだった。なにしろ焼夷弾で家はみな燃え尽きていたから、亡くなった男の子を火葬することもできず、いっときそのままにしていた。私の家も全焼したので、仮設の小屋をつくるまでは防空壕の中で生活していたが、夜トイレに行くとき入口の近くにその男の子の遺体があるため、怖くて親についてきてもらったことを覚えている。

 

 あのときのことを思い出すととてもつらい。いくら戦争とはいえ、市民が逃げ場を失うようなやり方で焼夷弾を落とし皆殺しにするアメリカのやり方はとても残酷なものだった。こういう戦争は二度としてはならない。

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