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今こそ原爆と戦争の真実伝えよう 広島大学で「原爆と戦争展」

 広島大学図書館で26日まで開催中の第12回「原爆と戦争展」には連日、学生や大学職員、図書館を訪れた一般市民などの参観があいついでいる。

 22日には、夕方6時から被爆体験を聞く会をおこない、原爆展を成功させる広島の会の日高敦子氏が被爆体験を語った。広島県内はもとより、山口、茨城、愛知、東京、大阪、京都など全国各地から広島大学に入学した大学生や職員など約20人が参加した。「原爆について学びたいと思ってこの大学を選んだ」「広島に来たからには」という参加者が多く、真剣に体験を聞いた後も、自身の問題意識を被爆者にぶつけて論議したり、会が終わっても学生同士で話しあうなど熱い交流をおこなっていた。

 地に足つけて戦争反対の世論激励 
 
 日高氏は次のように被爆体験を語った。


 当時9歳で被爆した。千田町の電鉄の車庫近くの学園地域だった。昭和20年3月になり強制学童疎開で、千田町の実家から三次にある祖母の妹の家を頼って疎開した。八丁堀にいた4歳のよしえちゃんと6カ月になる赤ん坊の従兄弟がおり、よしえちゃんも三次へやってきた。


 8月4日に広島へ帰り、5日の夜八丁堀のよしえちゃんのところで「敵の攻撃にあう前に私たちも早く三次へ帰ろうね」と話した。彼女と話をしたのはそれが最後だった。


 6日の朝、空襲警報、警戒警報が解除になった8時15分。勤め人は出勤し、家屋疎開の学生は働きに出た時間帯だった。私は家の中におり、窓から太陽を見た瞬間、ぴかっと光って家がぐらぐらと揺れ、家財は崩れ、梁も落ちてきた。外へ出て高台から広島の街を見ると辺りは真っ暗で、その中に立ち上る原子雲と、蛇が舌を出したような真っ赤な火柱が見えた。


 しばらくして、目がぐちゃぐちゃになり、火傷で両方の手から皮が剥がれて爪の所からその皮をぶら下げた女性が市内の方からよろよろと歩いていた。別の男の人は被った帽子の下から顔の皮が火傷でドロドロになっていた。祖母は家の前にかちわり(氷)を置いて逃げてくる人たちへ配った。火傷と傷を負った人たちが氷を手にし、逃げるように歩いて行った。


 広島市内は真っ赤に燃え続けた。その上空をB29が飛び続け、炎の中にぴかぴかと閃光が走っていた。それは、情報を得るために米軍が照明弾を落として様子を確認していたためだった。広島の街は原子爆弾の実験材料となり、ものの10秒で壊滅した。燃えさかる火の中で家の下敷きになって動けないまま焼け死んだ人が何人もいる。


 私の叔母は、8日に八丁堀の家の前に立ち尽くしているところを発見された。「ここによしえちゃんがおるんよ」といって動こうとしなかったそうだ。6日の朝、叔母が洗濯物を干している最中に原爆が炸裂した。叔母は吹き飛ばされ、気がつくと家がぺしゃんこで家の中にいた2人の子どもは下敷きになっていた。「よしえちゃん」と呼んでも返事はなく、赤ん坊の泣き声が二声聞こえただけだった。声を頼りにがれきの下に手を突っ込むと、赤ん坊の柔らかい太ももが手に触れた。赤ん坊の位置を変え、頭から引っ張り出した。よしえちゃんの返事はないまま火の手が家へ迫り、赤ん坊を抱いて逃げるしかなかった。後日、燃え尽きた家のがれきをどかすと、よしえちゃんが白骨で寝たままの姿で出て来た。みなで骨を拾って袋に入れて持ち帰った。


 赤ん坊は頭の骨が見え、口は3㌢ほど裂け、おしりの肉がえぐれていた。防空壕へ避難してきたときには真っ白い顔をしていた。息をしているかも分からず、半死状態で数日間泣きもせずお乳も飲まず、ただ寝かしているだけだった。


 9日になり、みなで三次の親戚を頼って避難した。中心地に近い住吉橋を渡るとき、川の水が見えなくなるほど裸の死体が浮いていた。道路には焼いた死体の骨が道端に一体ずつ頭蓋骨まできれいに並べてあった。そんな光景を見ても当時は「恐い」とかは何も思わなかった。今振り返ってもあのとき自分が何を感じ、何を考えていたか、まったく思い出せない。ただ一生懸命とり残されないように大人について歩いていたような気がする。


 三次へ避難した。叔母は17、18日目までは割と元気だったが、その後「体がだるい」といい、体中に斑点ができ高熱で寝込んでしまった。赤ん坊はお乳を求めて泣くがとても乳をやるような状況ではなかった。叔母は高熱を出しうわごとをいうが、赤ん坊の泣き声を聞くと自分の手を胸元へやり、乳をやるような動きをする。それは残酷な光景だった。少し元気になり白いご飯を炊いて山盛りによそって枕元に置くと、手でそのコメをわしづかみにして口元へ持っていくが、すでに急性白血病で体中ガンの巣となりのどを通らない。今思うと少しでも赤ん坊に乳をやろうという母親の執念のようなものだった。しかし叔母は9月8日、「この子を自分の手で育てたかったけど、私の運命だから仕方がないね」といい残して亡くなった。


 赤ん坊はお米をすりこぎですり潰してその汁をこして炊いた煮汁を飲ませた。おばあさんの乳房を吸わせてその端から飲ませて育てた。虫の息だったが、母親が亡くなった直後、それまでいくらやってもひっつかなかったおしりの肉がピタッとくっついた。神がかり的だった。今では72歳になり病気もなく元気にしている。本当に家族を大切にする人で、かけがえのないものだと知っている。彼が元気でいてくれていることが私たちのせめてもの救いでもある。


 自分は甲状腺がんを4回手術した。そのたびに「もう声はだめですよ」「もう声帯をとってしまうしかない」といわれたが、それでは生きている甲斐がないと思った。声をなくして生きながらえるか、余命も分からないまま声を残して生きていくかと悩んだ。やっぱり先生に頼み込んで紹介状を書いてもらい、神戸の病院で手術を受け、放射線治療もとても厳しかったが、こうして何とか命が繋がっている。声と命が続く限りは、皆さんにお話していきたいし、こうして続けられることはありがたいことだと思って語っている。


 70年前、進駐軍が呉へ来たとき、通訳をしている女性が「アメリカは100年かけて日本をだめにする計画を持っている。だからあなたたちがしっかりしないといけない」と話しかけてきた。今になって「その通りかもしれない」と感じている。戦後、日本は二度と戦争はしないと聞いてすごく嬉しかった。それが今では自衛隊が駆けつけ警護をするといい、戦地へ行って武器もつくって軍備も拡大している。戦争はしないという憲法九条はどうなったのか。このままでは死んでも死にきれない。

 真剣な学生たち 被爆者の感情汲み取る

 体験の証言が終わると、質疑応答をおこない、学生たちは一人一人感想をのべた。被爆者が高齢となり体験を語れる人が少なくなるなかで、学生たちのなかで体験継承の意欲が高まっており、とくに体験者の感情に触れ、それを汲みとる意識が強まっている。


 ある女子学生は「オバマ大統領が来たとき、被爆者はどう思ったのか」と質問した。


 日高氏は「広島を初めてアメリカの大統領が訪れること自体は勇気のいることだったと思う。しかし私たち被爆者にとってあのスピーチはずいぶんこたえた。“71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました…”という冒頭のスピーチは、原爆投下がまるで他人事で運命的な出来事であるかのようないいぐさで、本当に腹が立った。もう少し人間的な優しい自分の言葉でのべてほしかった。かちんときた。気分が悪かった。オバマ氏が広島に来たことで、それにつられてたくさんの外国人が広島を訪れ、被爆の事実を知り、自国に帰ってそのことを伝えてくれていると思うとよい効果があったのではないかと思う。広島の本当のことを伝えていく人が一人でも増えてほしい」と話した。


 平和公園でピースボランティアをしている女性は「今、広島に来る外国人は増えている。あるとき、外国人男性から“広島の人たちは原爆投下に対してどう思っているのか。憎しみを持っているのか”と聞かれた。“現代に生きるあなたたちが国に帰ったらたくさん伝えてください”とそのときは答えたが、本音のところでは、アメリカは原爆を投下して実験台にした。憎しみというか、煮え切らない思いを私自身も持っている。あのときどう答えたらよかったのか、被爆者の方の思いはどうなのか、どうしたら良い方向にいくのかと思いながらボランティアをしている」と葛藤を吐露した。


 日高氏は「過ぎ去ったことはとり返しはつかないが、人道に反したことは全世界でおこなってはいけない。核と人類は絶対に共存できない。全ての思いを込めて今いいたいのは、核廃絶、これにつきる。日本政府は“アメリカの核の傘の下にある以上、核に反対できない”といっているが、全人類のために、核を体験した日本こそが声を大にして全世界に核廃絶を訴えるべきだと思う。何があってもいい続けないといけない」と訴えた。

 アンケートより

 ▼私自身は被爆4世なのですが、世界的に見ても貴重な存在だと思うので、絶対に忘れ去られることがないように伝え続けていきたいと思います。近近外国に留学を予定しており、その地できちんと説明や証言者のお話を伝えられることができるように頑張りたい。日本の政治にかんしても、私たちの一票が将来、あるいは現在を左右するのだということを念頭に置き、平和を維持するためにも教育を受けられることに感謝して学問にいそしみたいと思う。(20歳女子・文学部)


 ▼被爆体験を直接聞くことができる機会は貴重であるので、一人でも多くの人が聞き、戦争の事実を知って伝えていくべきだと思う。また、原爆、戦争で亡くなった人の死を無駄にしないためにも私たちは平和を訴え、争いをなくすべきだと思う。私は将来教師になり、一人でも多くの生徒に戦争があってはならないことを伝えていきたい。私にはその義務があると思う。うまく言葉でいえないが多くの感情が私の中で溢れた。お話をきけて本当によかった。(19歳女子・教育学部)

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