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GHQがかき消した東京大空襲 首都圏占領のための皆殺し 原爆に匹敵する残虐さ

米軍による東京大空襲で道路に横たわる焼死体(浅草花川戸)

 原爆展全国キャラバン隊(後援/長周新聞社)が東京都内で街頭「原爆と戦争展」をおこなうなかで、東京都民からは、太平洋戦争の終結を目前にして10万人を超える犠牲者を生んだ東京大空襲の経験が口口に語られている。戦争の真実を語り伝え、「二度とくり返してはならぬ」との激しい思いが脈打っており、それはかつての戦争体験と切り離すことはできない。東京大空襲の真実は、現在、安倍政府の進める安保法制が、日本の「独立」や「防衛」とは縁もゆかりもなく、あの大殺戮から続くアメリカの植民地政策の帰結に他ならないことを如実に物語っている。
 
 戦後は「碑を建てるな」と通達

 太平洋戦争中、アメリカ軍が首都・東京に加えた空襲は130回以上におよんだ。最初の空襲は日米開戦からわずか5カ月後の1942年4月、茨城県沖の空母ホーネットから飛び立った艦載機B25による奇襲攻撃であった。その2カ月後、日本軍は空母ホーネットの基地であるミッドウェー島の攻略作戦で大敗。そして1944年7月以降、米軍はマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアン3島を奪取し、ここを基地にB29による本格的な日本本土空襲を始めた。終戦前の2年間、「東京は毎日のように赤く燃えていた」と語られる。


 そして、1945年の3月9日夜、サイパン・テニアン基地を出撃した352機ものB29は、房総半島から低高度で東京に侵入し、都民が寝静まった10日午前〇時7分から約2時間40分の間に下町地域に油脂焼夷弾を約38万発(1800㌧)投下した。この焼夷弾は水では消えない特殊な油脂を周囲にまき散らして爆発的な火災を起こすもので、木造の日本家屋を効率よく焼き払うために特別に開発されたものだった。


 米軍はこの地域全体を焼き尽くすため、春先の強風が吹く3月を攻撃時期に選び、隅田川を中心にして浅草、本所、日本橋区全域を含む下町地域に照準点を設け、周囲から炎で囲い込んで住民が逃げられないように空爆を開始。まともな反撃もないなかで空爆精度を上げるために平均2000㍍の低高度からレーダーを用いて投下するなど、まさにやりたい放題の民族絶滅作戦を実行した。わずか2時間足らずで10万人超が犠牲になるような空爆は後にも先にもない。下町を中心に東京都の六割の面積が焦土と化し、約29万戸の家屋が焼失し、墨田区では人口が空襲前の4分の1にまで激減した。


 8月まで続いた東京への空襲では、判明しているだけで死傷者・行方不明者は25万670人(東京都調査資料による)、罹災者は304万4197人に及んだ。


 墨田区菊川町に住む80代の男性は、「当時小学6年で集団疎開していたが、卒業式のために2月末に菊川に戻ってきた。あの日はいつもの空襲と違う胸騒ぎがしていたが、警戒警報が鳴る前に家の周りはすでに火の手が上がっていた。父は地元の消防団だったのですぐに避難するわけにもいかず長姉と一緒に残った。私は母と祖母、姉と妹と一緒に逃げたが、途中で忘れ物を取りに戻った祖母は帰ってこなかった。その後、父と姉、祖母の3人を菊川橋付近で見たという人がいたが、菊川橋は身動きもできないほど避難者が押し寄せて3000人が亡くなった場所。おそらくそこで亡くなったのだと思っている。米軍機は低空飛行で、日本に高射砲などで撃ち返す気力も戦力もないことを知りながら、これでもかというほどの爆弾を落とした。逃げるときに雨が降ってきたかと思ったらガソリンだった。操縦者が下を見てあざ笑うように爆撃しているようだった」と怒りを込めた。


 その後、「菊川国民学校へ避難して一夜を過ごしたが、朝になると講堂の外には真っ黒焦げの遺体が無数に転がって言葉にできない光景だった。家の方面に向かうと、貯水槽に顔を突っ込んだまま死んでいる人、黒焦げになった馬もいた。菊川橋がかかる大横川も川の水面が見えないほどに遺体がびっしりと浮かんでいた。東京大空襲は戦争ではなく大量殺人だ。周りから焼いて中心に人を集めてそこに大量の焼夷弾を落とした。こんな残酷なことが許されていいわけがない」と強調した。


 空襲で兄を失った江東区深川在住の男性(86歳)は、「3月9日の夜に空襲警報が鳴ったが何事もなく解除になって一安心したとき、まもなくB29の飛行音が聞こえ、急いで防空壕に逃げ込んだと同時に辺りがパッーと明るくなった。照明弾だった。火勢に押されて家のあった三ツ目通りは避難者であふれ返ったが、黒煙が立ちこめるなかでB29は低空で狙いを定めて焼夷弾を落としてきた。総武線亀沢町のガード下の防空壕はどこも満員。炎は近くまで迫り、手足を必死に動かして火を防ぐのを少しでも休めると衣服に引火する。息も苦しい状況だった。近くにいた小学生くらいの男児が突然2、3㍍先へ転がり、防空頭巾に火が燃え移り目の前で火だるまになった」と語った。


 そして、「母と妹が入っていたガード下の防空壕は焼け落ち、煙が立ち込めているだけだったが、その後、髪は焼け乱れ、顔は真っ黒、もんぺが焼けてぼろぼろになった母に呼び止められた。母は、妹を含め中にいた11人が全員亡くなったことを声にならない声で泣きながら話していた。菊川周辺では遺体が1㍍もの高さに無造作に積まれていた。白骨化した遺体の群や、若い母親が子どもを背中に背負ったまま材木で火をおこし、夫とみられる遺体を顔中涙に咽(むせ)びながら火葬している姿など、まさにこの世の地獄だった。真っ黒焦げになった遺体が転がり、その熱でアスファルトが溶けて人の形をしたまま沈んだ箇所がいくつも残っていた。壁にも人の形が焼け移された場所が残っていた」と話した。


 台東区花川戸で履物屋を営む八七歳の男性は、「広島、長崎の原爆と同じ大虐殺だ。あれが戦争犯罪でなくてなんなのか。配給制度に移行する過程で浅草近辺の店は強制的に廃業させられたため神田の中学校に通っていたが、大空襲の数日後、同級生の安否を尋ねて深川方面へ向かった。道に散乱する炭化した死体をまたぎながら歩いているとき、門前仲町の三菱銀行の前で母親が赤ん坊を抱いたまま死んでいた姿が忘れられない。火にあぶられてピンク色をしていた。当時、東京では軍の指導で防空壕をつくったが、家の畳の下に穴を掘ったり、上に人が乗ったら屋根が落ちるような粗末なもので逃げ込んだ人はみんな蒸し焼きになって死んだ。自分の手で火葬場を掘ったようなものだ。一夜にして下町は焼け野原にされたが、その後も米軍の艦載機は生き残った人をめがけて機銃掃射をしかけ、おもしろ半分で笑いながら撃っている米兵の顔がくっきり見えた。戦後、この絨毯(じゅうたん)爆撃を指揮したルメイ将軍に天皇は勲章をやったが、腹が立って仕方がない。私の知り合いにインパール作戦の体験者がいるが、白骨街道になったビルマではみんな餓死と病死だったという。今安倍首相が“後方支援は安全だ”といっているが、それならなぜアメリカは無抵抗の市民が住む東京を取り囲むように焼き尽くし10万人もの人人を殺したのか。むしろ後方こそ標的にされるのだ」と話した。


 隅田川の両岸から人人が炎に追われて逃げ込んだ言問橋や吾妻橋などでは、戦後も橋の欄干に抱きついたまま焼死した人の油が人型のまま黒く残っていたこと、折り重なるように避難した亀戸のガード下でも壁面に山積みになって焼け死んだ人たちの油が跡になり、何度ペンキを塗っても浮き出てくることなど、体験した人人の凄惨な記憶とともに忘れてはならない傷跡として語られている。

 米占領軍の指導方針 日本人は戦争を忘れろ

 同時に語られるのは、2時間余りで10万人もの犠牲者を出す史上類を見ない大虐殺がおこなわれたにも関わらず、東京都内には70年たった今でも公的な慰霊碑や資料館がないという異常さである。この70年、「東京都史上初の革新都政」といわれた美濃部都政、「ノーといえる日本」といった石原都政でも、東京大空襲を継承する公的施設が建設されたことはない。


 墨田区に住む年配男性は、「戦後すぐに、多くの人が亡くなった菊川橋のたもとに慰霊碑を建てようとしたが、区役所は拒否し建設が許されなかった。戦後、川のほとりを改装するたびに白骨がたくさん出てきたが、それでも区役所は許可をおろさず、東京都も一切関わろうとしなかったので、地元住民で“これ以上放っておくわけにはいかない”と無許可で地蔵を建立して毎年地元で法要をおこなっている」と話した。


 大空襲で壊滅した江東区森下5丁目(旧深川区高橋5丁目)町内会では今年3月、大空襲70周年を記念して町内の空襲犠牲者789人の名前を刻んだ墓誌を建立した。当時の体験者が減少するなかで、「この経験を後世に語り継ぐ」という地元の強い意志から発案され、これまであった慰霊碑の隣に建立された。


 建立に関わった町内会役員の男性によれば、「大空襲で焼き尽くされたこの町では、当時の町会長が戦後すぐに空襲による町内の犠牲者を調べ、焼失を免れた戦時国債購入者名簿を頼りに“戦災死没者過去帳”という約10㍍にもおよぶ巻物がつくられていた。70年にあたり、遺族からも“一家全滅した家族も含め亡くなった人人がこの地域に住んでいた証しと、供養の場所がほしい”という話も出ていたので、その過去帳をもとに昨年1月から準備してきた」という。


 また、「建立の過程では、町内には1晩で1家12人が亡くなった家があることもわかった。東京大空襲は10万人以上もの犠牲者を出したにも関わらず、これまで国は何の慰霊もせず公に供養塔を建てることをしなかった。都内各所にある小さな碑はすべて町内会単位で自主的に建てられたもので、毎年の法要、清掃なども地域住民でおこなわれている。慰霊碑は広島などに比べて本当に少ない」と話し、その根拠として1947(昭和22)年に東京都長官官房渉外部長から通達された行政文書のコピーを示した。


 官房各課長、支所長や局長、区長など都の行政担当者に宛てられた通達文書には、当時、遺族によって計画された隅田公園への戦災慰霊塔の建設に対して、「一、日本国民に戦争を忘れさせたいのである。二、戦災慰霊塔を見て再び戦争を思い出させることがあってはならない。だから慰霊塔の建立は許可しない」と米占領軍の指導方針を挙げ、これに「協力するよう求められた」ため、「今後はこの方針を徹底的に守るようにしなさい」と明記されている。


 あれから70年を経た今回の慰霊碑建立にも、区役所からは「区への申請は受け付けていない」と対応されたと語られており、「行政から助成を受けることもできないので、発起人を中心に町内外へ寄付を募ると“地元の者ではないが、私の家族も空襲で犠牲になった”“平和を伝えるために碑を建てて後世に残すことはよいことだ”とあちこちから寄付金が集まった。この町は戦災死没者名簿がつくられていたから墓誌が建立できたが、ほとんどの町では資料が残っておらず公的機関が動かなければ難しい。なぜいまだに占領下と同じなのか。こんな形であの残酷な東京大空襲の記憶が薄れて忘れられてはならない。学校でも、東京大空襲の経験を語る平和学習などはいっさいないので、今のうちにやらなければいけない」と切実な思いが語られた。


 空襲被災地一帯では、11万人ともいわれる犠牲者の亡骸を公園や校庭などで山積みにして火葬し、錦糸公園に1万3951体、猿江公園1万3242体、隅田公園は7530体、菊川公園には4515体など公園や寺などに万から数千単位で埋葬された。これら引き取り手のない個別埋葬者、氏名不詳の合葬者、合計約11万人の遺骨は、1951年に関東大震災の慰霊施設であった震災記念堂を東京都慰霊堂(墨田区横網)と改称して納骨されているが、その仮埋葬地には公的な説明板も慰霊碑も建てられていない場所も多く、公の手による慰霊碑の設置を求める声は強い。

 焼けなかった皇居 一方孤児たちは檻の中

 また、10万人以上の都民が焼き殺される大空襲のなかでも、皇居、国会議事堂、議員官舎のある永田町をはじめ、丸の内の金融街などは攻撃目標から外され、涼しげにたたずんでいたといわれる。


 その一方で、上野や浅草には、空襲で親を失った戦災孤児や浮浪者があふれかえり、餓死寸前の子どもたちが生きるために窃盗や売春をおこなっていたこと、GHQが「治安対策」を名目にして犯罪の有無に関わらず浮浪児を見つけ次第摘発していったことも、戦争が生み出した悲劇として伝えられている。この「狩り込み」を受けた孤児たちは、米軍の要請によって、脱走ができない水上の台場につくられた収容施設に強制的に送致され、檻(おり)に入れられて監視・収容されたという。


 浅草で商売を営む80代の男性は、「皇居と東京駅に挟まれた丸の内近辺は攻撃されず、その中心にあった第一生命ビルには戦後GHQの本部が置かれた。国会議事堂や議員官舎も戦後処理に必要だから残された。マッカーサーが厚木に到着する前に武装解除をさせたが、その後も米兵は常に拳銃や小銃を携行し、自分たちが大空襲をやった相手の都民を相当に恐れていた。だが、都民にとって戦後最大の苦しみは食料がないことだった。米は供出させられ、お金があっても買う物がないし、物々交換するものすらない。田舎につてがなければ乞食同然で、今日、明日の食べるものがなく生きていくことがたたかいだった。配給の大豆を食べて水を飲んで生活し、占領軍のことや空襲犠牲者の慰霊など考えられる状態ではなかった。そのなかで米軍はララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとった。“ギブミー・チョコレート”という言葉が流行ったのもこのころだ。だが、あれほどの人が殺された大空襲の経験を私たちは忘れることはない」と話した。


 別の婦人は、「戦後、マッカーサー司令部と日本の軍司令部がうちあわせして戦犯の検挙が吹き荒れたが、その際、マッカーサーが国民の内乱を押さえ込むために天皇を戦犯にはしなかったといわれている。私の知人は下級兵士だったにもかかわらず戦犯で捕らえられて獄死した。その人は“天皇の責任を背負って死ぬんだ”と怒りを込めて遺書を書き残していた」とのべた。そして「今もすべてアメリカとの取引で、国民無視の政治は変わっていない。今でも中谷防衛大臣がまったく同じ答弁をしていた。安保法制で自衛隊が戦闘に巻き込まれても、また“現場の自主的な判断だ”といって切り捨てるのは目に見えている」と強調した。

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