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首都圏で号外に衝撃的な反響 「語れなかった東京大空襲の真実」号外 25万人殺傷の全貌浮き彫り

 本紙が東京で配布を開始した号外『語れなかった東京大空襲の真実―首都圏制圧の為25万人殺傷』について、配布された号外を読んだ東京下町地域の人人から強烈な反響が寄せられている。一夜にして10万人、総数にして約25万人がむごたらしく殺されながら、戦後70年にわたって陰に押し込められ、国による慰霊碑すら建立されず、語る場がなかった東京空襲体験者の胸の中に渦巻いていた思いが、いかに深刻なものであるかを感じさせている。本紙は、13日から号外を配布した墨田区や江東区で、号外を読んだ人人から感想や思いを取材した。

 


 「空襲体験を70年どこにも語ることができなかった」「慰霊碑がつくられてない」という事実は、幅広い人人の歴史的な体験を通じた強い問題意識となっている。


 終戦2年目の1947(昭和22)年に占領軍が示した「国民に戦争を忘れさせるため、戦争を思い出させるような戦災者慰霊塔の建立は許可しない」という方針に従うことが東京都の公式見解として通達されたことに始まり、東京都内で空襲の傷痕を残す遺構などはことごとく解体・撤去され、遺族や住民たちが自力で建立した慰霊碑は人目に付きにくい場所に追いやられ、知る人ぞ知るものとして片付けられていく。東京空襲の体験は個個人の記憶のなかに残るだけで、学校の平和教育でもおこなわれず、若い世代に継承されず風化していくことに強い憤りと危機感が広範な人人のなかで鬱積している。


 号外を目にした体験者からは、自らの体験と思いが口口に語られている。

ほとばしる空襲体験 慰霊碑ない現実に憤り

 墨田区東駒形で空襲にあった80代の婦人は、先に号外を受け取った商店主からの紹介で号外を読み、当時11歳で、母親と祖父、兄とともに炎の中を逃げ回った経験を堰を切ったように語った。


 「3月10日の大空襲では、木造の家が焼夷弾でメラメラと燃えたが、油が撒かれていたことを後から知った。横川小学校の近くにあった10㍍から15㍍の大きな防空壕が避難場所になっていたので、最初はそこに逃げたが、叔父のすすめで防空壕を出たのが幸いした。当時横川小学校の講堂には入りきれないほどの人が避難していて、防空壕の中もすし詰め状態で身動きが取れず、その後の火災でほとんどが焼け死んだり窒息死した。叔父が関東大震災の経験から、炎を追って逃げれば助かると教えてくれたが、それでも地面は炭が燃えており、すぐに履いていた下駄が黒焦げになるほどだった。風に乗って飛ぶ火の粉を払いのけながら逃げていった」という。


 「一晩中かかってたどり着いた横川橋では、リヤカーに布団や家財道具を満載にした人人が橋の上に連なっていた。一瞬、その場が真空状態になり、そこにこぶし大ほどの火の粉が飛んできた瞬間、その布団や家財道具に燃え移り一面が火の海になった。兄や祖父はリヤカーを川の中に家財道具ごと投げ込んで助かった。隅田川の向こう岸(現在のスカイツリー側)へ渡ろうにも、対岸からも火の手が迫っていて橋の上を行ったり来たりになり、川の中に飛び込んで亡くなった人も大勢いた。当時は頑丈といわれた浅草の松屋百貨店の窓からもチョロチョロと火が出ていて内部は全焼していたのが忘れられない。上野近辺は稲荷町を残して焼け、浅草から緑町の辺りもすべて焼けた」と話した。


 また、墨田区緑町の親戚が父親だけ残して一家全滅したこと、東駒形町会でも一家全滅になった家が無数にあることを語り、「隅田公園には横川小学校などから死体が集められて埋められ、当時そこにはたくさんの墓標が建つ墓場になっていた。横川も隅田川も死体が水面が見えないほど浮かび、防火用水になっていた横川小学校のプールも熱湯になった水の中に飛び込んでみな亡くなっている。でも、遺体が埋められた公園や横川小学校に慰霊碑はない。なにもないのが実情だ。私たちは毎年3月10日になれば慰霊堂に行くし、“日常のなかで忘れてはいけない”と思っているが、若い世代はまったく知らないのでなかなか伝わらない。体験した者同士でも話す機会がない」と痛切な思いを語った。


 「日本はアジアの最前線として、アメリカ、イギリスを守るための防波堤になろうとしている。若い人たちが今から生きていくにあたって、戦争の体験、空襲の体験を語り継がなければならない。まだまだ埋もれている体験がたくさんある。ぜひ伝えてもらいたい」と期待をのべた。


 知人から号外を受け取った墨田区に住む82歳の婦人は、「このような号外を山口県からきて配ってくれることに体験者の一人として頭が下がる」と強い感謝の思いを本紙に電話で伝えた。訪ねて話を聞くと、「これまで取り上げられなかった東京空襲の体験をここまで取材して書いてくれたことがうれしい。自分たちでも知らないことがたくさん書いてあって驚いた」と強い驚きとともに、自らの体験を重ねて語った。


 「私たちは疎開先の千葉から3月4日に東京に帰り、3月10日の空襲にあった。空襲が始まり母と祖母と3人で亀戸へ逃げようとしたが、天神橋を渡ろうとしたところで火の手に阻まれたので錦糸公園に引き返し、敷地が広いため火の手を免れることができたが、途中の道にはすでに死体があった。墨田区で焼け残ったのは精工舎(現在のSEIKO)と日本たばこ(現在のJT)の工場だけ。逃げているとき、精工舎の職員から“安全だから工場の中に逃げろ”といわれたが、今思うと攻撃を受けないことを知っていたのかと思う」と語った。


 また、「翌朝、足立区方面に避難するためには何本もの川を渡らなければいけなかった。大横川に架かる法恩寺橋を渡ろうとしたが死体の山で通ることができず、その先の紅葉橋も橋の上は死体の山だったが、仕方なく黒焦げの死体の上にトタンをかぶせて橋を渡った。さらに隅田川も、言問橋が死体が山積みで通れず、その北側の白鬚橋を渡った。その間、隅田川にも大量の死体が浮いており、足立区でも上流にある尾竹橋まで死体が上がっていた」と壊滅した下町地域の壮絶な光景を話した。


 「終戦のときには上野に移り住んでいたが、終戦直前に、米軍機から“日本は戦争に負ける”という宣伝のチラシが毎日のように撒かれた。その米軍機に対して日本軍が高射砲などを撃っていた覚えはないし、警報も鳴らなかった。東京空襲も広島、長崎と変わらない。だが、近所の同年代の間で空襲の話になると“しゃべりたくない”という声も多い。それだけに、下関から来て私たち体験者も知らない当時のことを報道してくれることが本当に嬉しいしありがたい。当時を知っていて話ができる者もどんどん少なくなっている。今年はじめて語り部の依頼も来ており、私も何とか語り継いでいきたい」と意気込みをのべた。

爆撃されぬ軍や財閥 米と繋がっていたのか

 母親が大空襲を経験した鉄鋼業の男性(60代)は、「どれだけの体験がまだ埋もれているのかということを感じた。今でもそうだが、大手新聞などメディアが意図的に隠してきた事実も多いし、そのような事実をよく調べて書いてある。最近、上野にある三菱財閥の岩崎邸を見学してきた。洋風の建物が昔のまま残っており、かなり贅沢な環境であったことがよく分かったが、その後に長周新聞の号外を読み、あの大空襲の中で三菱が攻撃を受けなかったこと、軍中枢部や財界は戦中からアメリカとつながっていて、戦後も保護下にあったことなども知り、“なるほど”と思った」と話した。


 「今回の安保法制反対に若い人人が立ち上がった。私たちの学生時代には学生運動があったが、今頃の若者は目先の楽しい方向へ流れて、関心がないのではと思っていたが、今回の動きはとても嬉しかった。日本は政治や経済においてもこのままではだめだ。同業者の中でも中小業者は廃業し、技術を後継者に引き継ぐことができないまま消えていっている。真実を伝えていかなければいけない」と共感をのべた。


 墨田区で文具店を営む80代の婦人も、「娘は、数百人が避難してそのまま焼死した二葉小学校を卒業しているが、被災校舎は40年前に取り壊されている。焼け残った校舎には、炎に焼かれて亡くなった人の脂が染みついていたが、取り壊され、校内に慰霊碑もないからそれ以降の子どもたちはなにも知らないし、知らされてもいない。慰霊碑といえば関東大震災と同じ慰霊堂だけで、他には聞いたこともない。二葉小学校にも今ではなにも残っておらず、知る人がほとんどいないのが現状だ」と話した。


 国も行政も東京大空襲に対する「黙殺」ともいえる風化政策を続けてきたことで、空襲体験者と戦後世代の間に歴史を断絶させる溝ができていること、安保法制をきっかけに戦争問題が現実味を帯びるなか、「若い世代にも関心をもってもらいたい」と切実に訴えてくる人が後を絶たない。
 また、原爆投下によって数十万人が殺された広島では、占領下で市民による原爆反対のたたかいがおこなわれ、街中に慰霊碑がつくられていることも「初めて知った」「なぜ東京大空襲とそれほど違いがあるのか」と強い関心を集めている。

空襲体験の継承 東京都挙げた大運動に

 江東区(旧深川区)は、米軍の爆撃照準点にされ、3月10日の大空襲によって見る影もなく壊滅した地域として知られる。


 その中心に位置する町として今年、800余名の町内犠牲者の名前が刻まれた墓誌を建立した森下5丁目町会の元町会役員の男性は、大空襲で母、兄、姉、妹を失ったことを明かし、「東京大空襲はそれまでの空襲とはやり方も、規模も、悲惨さもまったく違い、当時の想像を超えたものだった。焼夷弾の猛火の中で、なんの罪もない善良な人人が逃げ場を失い、川の中や道路、橋の上、防空壕で苦しみもがき、炭のように真っ黒になって死んだ。だが、東京と同じように広島も長崎も事前に空襲警報が解除されていたことは知らなかった。軍は事前に知っていながら示し合わせたように解除したのか」と衝撃を語った。


 また、遺骨すら帰ってこなかった遺族にとって慰霊碑の建立は悲願だったが、行政から許可が出ず、占領期が終わると、遺族によって下町地域各所に空襲犠牲者を弔う小さな碑や地蔵などが自主的に建てられたが、70年経ち、体験者や遺族が高齢化するなかで行政によって知らない間に撤去されていることを明かし、「親たちが戦後の物のない時代に私財を投じてお堂を建立したが、その土地はほとんどが区有地なので、世話をする人がいなくなれば区に撤去されるはめになる。そのためにも地域を挙げて掃除や行事を欠かさずやっている。占領軍のプレスコードがいまだに続いているということだ。広島のように機運を盛り上げて、東京都を挙げた運動にしなければいけない」と話した。


 また、号外に掲載された戦災地図を見て、「江東区では、浜町公園の高射砲陣地があるから狙われたといわれてきたが、東京全体でも本来標的になるべき軍施設が狙われていないのは納得できない。同愛病院も米軍に接収され、めぼしい場所はすべてアメリカの物になった。ぜひ町内の人にも読ませたい」と号外を束で預かった。


 空襲遺族の70代の男性は、「ユネスコが南京大虐殺を世界記憶遺産に登録したことが物議を醸しているが、それならなぜ広島、長崎、そして東京大空襲を登録しないのか! なぜ日本政府は申請もしないのか! これほどの非戦闘員の大量殺戮が、人類史上他にあるのかと思う。私も叔父や叔母など七人が空襲で亡くなっているが、アメリカの手先になって戦争をやろうとする日本政府には腹が立って仕方がない」と話し、号外を預かった。


 墓誌の除幕式には、町会長が安倍首相や宮内庁に案内の手紙を書いたが、安倍首相からは音沙汰一つなかったこと、隣の千葉県では今年、千葉空襲の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が建立されたことなども語られ、「“邦人の生命財産を守る”といいながら、10万人殺された東京大空襲を黙殺するのが今の政治家」「今やらなければこの経験は闇に葬られてしまう。大大的に宣伝して欲しい」と切実に語っていた。


 当時、陸軍の迫撃砲手として埼玉県にいた89歳の男性は、「軍に鉄砲一つなく、夜行軍で座間の陸軍士官学校まで射撃訓練に行っていた。皇室や軍中枢が開戦当時すでにアメリカと繋がっていたというのは、私たちにはわかる。忘れもしないが、終戦から1週間後の8月23日、あれほど本土を死守するといって兵隊を殴っていた上官の命令で、武装解除のため迫撃砲を返還するよう命じられた。自分たちは“そんなバカなことがあるか! 返したくない”と抵抗したのでしこたま殴られた。30日に除隊になったとたん、上官が一足先に逃げていた」と話した。


 また天皇直属の近衛師団にいた親族が生前、「この戦争が負けるのは早くから知っていた。だが、それを口にすれば家族や親戚一同まで処罰されるので口が裂けてもいえなかった」と痛恨の思いを語っていたことを明かし、「戦後は、東京大空襲のことは誰も語らなかったし、語れなかった。そうやってまた安倍は外遊先のアメリカで鉄砲玉になることを約束している。私は遺族会役員としてバス15台仕立てて靖国神社にも毎年参拝してきたし、明治神宮崇敬会の役員でもあるが、今回の安保法制には絶対に反対だし沖縄に米軍基地をつくることにも反対だ。江東区は何万人も殺されたのに慰霊碑が少なすぎる。この号外はぜひ仲間内にも広げたい」とのべて、号外を受け取った。


 また、体験者からは、「政党がすべてアメリカ万歳で、自分たちの宣伝のために利用するから語れなくなった。“共産党”も、すぐに“自分たちの手柄”のようにして利用する。どこにも頼るところがなく、どれだけ国会議員を通じて国に申し入れても慰霊碑一つつくれなかった」(江東区・70代・男性)、「戦争反対というと、“お前は左翼か”といわれるような雰囲気もある。政党やカネのためにやるような運動にはみんな辟易していて、近所の人でさえ体験を聞く機会はほとんどない。下関からわざわざ来てもらい、東京大空襲の体験を地道に掘り起こすような活動は今までになかった。もうあと10年すれば体験者がほとんどいなくなってしまう。非常にありがたい」(墨田区・80代・婦人)など、全ての政党が本部を置く東京で、まともに東京空襲体験者の願いを取り上げる勢力がいないことへの憤りが共通して語られている。


 都民の経験と切実な思いをつなげていく活動に強い期待が集まっている。

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